5月30日。土曜日。
St.エルシア学園も、土曜日は平時より早く、授業が終わる。
(家に帰りたくないな・・・)
一晩眠って、身体の痛みは殆ど無くなったものの、今日もまた、昨日と同じことをされるのかと思うと、気持ちがどんどんと沈んでいく。
しかし、今日は正午から堂島が来ているのだ。
両親には、何度も念を押されるように、寄り道せずに早く帰って来いと言われている。
子供の頃は、変なことをされないように寄り道せずに帰れと言われていたのに、今はそれをされるために、寄り道せずに帰れと言われている。
(助けて・・・お兄ちゃん)
声にならない救いを求める叫びが、心の中だけで渦巻いている。
「よう。どうしたんだ。乃絵美」
背後で、乃絵美を呼ぶ声があった。
「お、お兄ちゃんっ」
びっくりして、振り返る。
(今の・・・聞こえたのかな)
乃絵美の心臓は、激しく波打っている。
「ぼーっとして廊下に立ってたら、危ないぞ」
そういって、快活に笑う。
乃絵美の胸の奥が、きゅっと締め付けられるように痛んだ。
「あのね、お兄ちゃん」
とまで口にして、次の言葉が出なくなる。
(もし、私がされたことを知ったら・・・)
兄は、きっと堂島のしたことを怒るだろう。
でも、その後・・・自分のことを汚れてると思うに違いない。
そして、汚れてしまった自分のことを見てはくれないに違いない。
そう思うと、言葉が出ない。
「ううん。何でもないよ。ちょっと、ぼーっとしてたかな」
必死に笑顔を貼り付けて、いつもの自分を演じる。
「してたしてた。寝てるかと思ったよ」
「そんなことないよー」
ちょっぴり怒ったような仕草。
大丈夫。兄は何も気づいていない。
いつもの優しいお兄ちゃんだ。
「はは。ところで、乃絵美」
「うん」
「真奈美ちゃんって・・・覚えてるか?成瀬真奈美」
「えっ・・・」
「昔、菜織たちと一緒にいただろ」
「う、うん・・・覚えてるよ」
「その、真奈美ちゃんが、帰ってきたんだ」
「そうなんだ」
「昨日の夕方、転入手続きに来た真奈美ちゃんにばったり会って・・・それで遅くなったんだよ」
「へえ」
「昨日のうちに、乃絵美にも話したかったんだけど、お前、風呂に入るなりすぐ寝ちゃったから」
「ごめんね・・・昨日は疲れてて」
でも、それは、アルバイトの疲れではない。
ちくりと胸が痛んだ。
それは、真実を隠す罪悪感?
それとも再び現れた兄の幼なじみへの嫉妬?
どれも、昨日までの乃絵美には無縁のものの筈だったのに・・・乃絵美は自分の低俗な考えに自己嫌悪した。
「それで、今日は練習が終わったら、真奈美ちゃんの引っ越しの片づけ手伝うから遅くなるって、言っといてくれよ」
「えっ・・・」
「あ、それとも、乃絵美も一緒に手伝うか?」
「う、ううん。私は・・・ロムレットに行かなくちゃ」
「そうだよな。じゃ、オヤジに言っておいてくれよな」
「うん」
機嫌良く走っていく兄の後ろ姿を見ながら、乃絵美は笑顔を曇らせる。
「お兄ちゃん・・・助けて」
届かない言葉。
乃絵美は、ようやく諦めるかのようにうなだれて、家路へとついた。