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今更家族計画SS

 なんとも寝苦しかったので、高屋敷青葉はベッドから抜け出ると階下へと降りて、縁側で月でも眺めることにした。
 そう思ったのはたんなる気まぐれである。
 青葉は芸術家を標榜してはいるが、通人を気取っているつもりはない。だから常ならば月見などという風流を好むような真似はしない。絵画においては写実主義を、人生においては現実主義を――高屋敷青葉とはそんな女である。
 だが、今夜はぼんやりと月を眺めていたい、そんな気分だった。
 だからやはり気まぐれである。
「それにしても――」
 殊更熱帯夜というわけでもないのだが、今宵はどうにも寝付けなかった。日中殆ど躰を動かさなかったので、力が内に篭って眠気を駆逐してしまったものかとも思ったがそれもどうも違うように思える。
 ――末莉。
 己が妹を役づけられた少女の名が唐突に脳裏に浮かび上がる。
 思い出す。
 昼間はあの粗忽な妹の被害を随分と被った。洗いたての服を地面に落とされ泥だらけにされたのに始まり、朝食のみそ汁をひっくり返され、躓いた拍子に床の間の掛け軸を破り捨てられる――というそれはもう怱怱にして散散たるものであった。
 よくもまあ、一日という短な有限の中でこれほどの粗相が出来るものだと、怒り呆れながらも半ば感心したものだ。
 怒りなのか。
 怒気が抜けず気持ちが昂ぶっているのか。それで眠れぬのか。
 違う。
 気持ちはいたって穏やかである。
 では、一体何で――
「――――」
 止めよう。詮無いことだ。
 眠れぬことにいちいち理由などないのかも知れない。
 そんなことをつらつらと思っているうちに、気付けば青葉は目的の場所に到着していた。

 不意にすぅと風が頬を撫でた。硝子戸が開いている。
 縁側には先客が居た。
 件の愚妹――末莉だ。
 座布団を枕に、寝巻き姿ですやすやと寝息を立てていた。
「なにやってるのかしら、この子は――」
 そういえばどうもこの娘、夢遊病の気があるらしく、時折ふらふらと家中を徘徊すると聞いたことがある。
 それにしても、真夏とはいえ夜中である。そのような格好で風に晒され寝ていれば躰も壊しそうなものだ。
「まあ、私には関係のないことだけど」
 末莉が風邪を引こうが蚊に食われるようが知ったことか。他人なのだ。それよりも問題は――。
「邪魔ね」
 先だって場所を奪われた形となって、なんだか出鼻を挫かれたような気分になる。
 つまり、不愉快。
 足元で小さく丸まっている末莉を軽く爪先で小突いてみた。
「う〜ん。そのカップリングはちょっと変ですよ――むにゃ」
「――――#」
 殴ってやろうとも思ったが、流石にそれは止めておいた。
 溜息一つ。
 ――どうしたものか。
 隣りにこんなものが転がっていたのでは月見という気分にもならない。かといって、このままおめおめと部屋に引き返すのも癪である。
 末莉如きに行動を阻まれたとあっては、鬼すら道を譲る(沢村司談)と謳われた高屋敷青葉、末代までの名折れである。
「ふん」
 結局、末莉は無視してその隣りに腰掛けることにした。こうなると最早意地であった。

 月が綺麗だった。
 素直にそう思えた。
 風があるのでとても涼やかだ。心地よい。
 偶には気まぐれをおこすのも悪くない。
 青葉は空っぽになった。
「ああ――おにーさんが攻め! そんな斬新な――あ、でもこれはこれで――むにゃむにゃ――」
「――――#」
 しかし一瞬で現実に引き戻された。
 キッと睨みつけてみれば、だらしなく頬を緩ませ、末莉はなんだか幸せそうな顔をしていた。
 寝ながら笑っている。
 そういえば――末莉の屈託のない笑顔をこうしてまじまじと見たのは随分と久しぶりな気がする。末莉はどうも青葉の前ではぎこちない笑みしか作れない。だから青葉の記憶では、末莉の笑顔は硬く強張ったものか、遠目に眺めた曖昧に霞んだはっきりとしないものかの何れかだ。
 だからだろうか――改めて思う。
 ――なんて笑顔の似合う娘だろう。
 青葉は、いつの間にか月ではなく末莉の寝顔を眺めていた。

 気づけば青葉は闇の中、腐臭漂う塵の山の上に独り立ち尽くしていた。
 其処は小さな小さな孤島の様でもあり、周囲は昏い奈落の如き大海に囲われていた。どうどうと狂った様な波の音だけが脳髄を直接打ち付ける様に響く。 
 足元には、砂利の様に敷き詰められた塵やガラクタの群れ。
 捨てられ、存在を否定されたモノの熟れの果て。此処は――
 此処は愛されなかったモノたちの墓場だ。不必要の烙印を押されたモノ達の吹き溜まりだ。
 何て寂しくて――哀しい場所だろう。
 無性に遣り切れなくて青葉は、全てから目を逸らす様に空を見上げた。
 空には蒼褪めた月が冴え冴えと輝いていた。
 その月を追いかけるようにして、青葉はふらりと塵の山を登って行く。
 踏みしめられ砕かれる塵の音が、そのまま憐れなモノ達の呻き声の様に聞えて厭だった。
 それでも登る。
 何故だかあの月に少しでも近付きたくて、ただ足を動かした。
 漸う登りきった山頂には、孔が一つ穿たれていた。
 古い古い井戸のようだ。
 その苔生し朽ちかけた石井戸に青葉は吸い寄せられたように近付き、覗き込んだ。
 井戸の底に一人の少女が居た。
 冷や水を浴びせられた様にぞっとした。
「――ま――つ――り――」

 少女は孔の底から出ようと必死にもがいていた。その矮躯の何倍もある深みから脱出を試みていた。細い腕を目一杯伸ばして、小さな手を精一杯開いて、まるで、頭上の小さく切り取られた空に浮かぶ月を掴み取ろうとするかの様に飛び跳ねていた。
 少女の爪は割れ、血が滲んでいた。その眼には涙が浮かんでいた。
 しかし、傷つき泥に塗れても口だけは一文字に確りと結び、決して諦めることなく天に手を翳し、飛び続けていた。
 無駄なのだ。駄目なのだ。そんな風に手を伸ばしたとて掴めるはずもない。そんな風に跳ねたとて逃れられるはずもない。
 なのに――。
 なのにこ娘はいつだって――。
 不意に少女の半身を侵す汚水がぶくりと量を増した。それは、みるみる内に溢れて、少女の小さな躰を呑み込まんとする。
 それでも少女は、泣きながら、足掻きながら、もがきながら、それでも月を掴もうと、この暗闇から逃れようと、その手を――

 手を――。

 まるで心臓を叩かれたかのような衝撃を覚えて、青葉は覚醒した。
 鼓動が早い。息が荒い。額からつうと汗が一滴垂れる。
 目の前に広がるのは見慣れた景色。高屋敷の庭。
「夢――」
 あれは――先刻の全ては夢だったのか。
 何時の間にか眠ってしまったのか。
 青葉は、袖で額の汗を拭うと、大きく息を吸い込み呼吸を整えた。
 すぅと湿った夜気が躰に染み渡り、思考が冷えた。
 あれはなんだったんだ――
 あの少女は――
 あの娘は間違いなく――
「――末莉」
 隣りで眠っているであろう末莉に視線を遣る。


 末莉は泣いていた。
 眠りながら泣いていた。
 そして泣きながら、苦しげに空に向かって手を伸ばしていた。
 その細い指が虚しく虚空を掴む。あまりに儚い――。切り取られた小さな小さな夜空に浮かぶ月は、少女がずっとずっと求めて止まなかったものだ。それをずっと少女は暗い暗い闇の底から見上げていたのだ。
 あんなにはっきりと見えるのになんて遠い――。
 何で――どうして届かない!
 それでも――それでも――。
 あの夢は――あれは――
 青葉の目の前で頼りなく震える、細く白く幼い掌。
 それを青葉はそっと握り締めてやった。
 理由は――
 解らない。
 なんとなくそうしたかった。そうすることが良い気がしたのだ。
 気まぐれである。
 末莉は、強く強く青葉の手を握り返す。まるで母を求める幼子だ。
 やがて安堵したのか、末莉の表情に微笑みが戻った。
 それを見て、青葉も自然に微笑んでいた。
 月を見ようなどという気まぐれを起したのだ、その気まぐれついでに憎たらしい妹の手を握ってやることくらい構うまい。


 月が美しいと思った。
 妹には笑顔が似合うのだと知った。
 偶に気まぐれを起すと思いの外良いものを見ることが出来る。
「ふふ――」
 何だか可笑しい。
 天を仰ぐ。
 雲一つない夜空には煌煌と輝く月一つ。
「全部アナタの所為ね――」
 眠れなかったのも。月を見ようと思ったのも。変な夢を視たのも。末莉の手を思わず握ってしまったのも。そして――
 こんな気持ちなのも。
 全部全部この月の所為。
 気まぐれな月の視せた、一夜の気まぐれ。
 そう思うことにしよう。
 末莉の髪をさらりと撫でて――

 青葉は静かに瞳を閉じた。



「――あん、おにーさん、ソコはダメですぅ――――むにゃ」
「――――#」




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