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伝えたかった言葉

 まるで先日の雨が嘘のように空は青く晴れ渡る。酷い。私が望んだのは曇天だ。
 私の奥底にあるどろどろとした感情のような曇天がほしかった。それがあれば、心を映して気がまぎれるのに。
 体中から力という力が抜けている。髪はボサボサだし肌も荒れてるのかもしれない。
 口元が少し乾いている。おなかも、空いた。だけど何かを食べる気には、どうしてもなれなかった。
 涙なんてもう枯れた。一滴も流れはしない。
 青い空が憎い。曇天の空が見たかった。冷たい雨を浴びたかった。
 雨を浴びれば涙を流せるのに。

 頭に響くのはどこか大人びた、少年の声。
 何度も何度も繰り返される。どこか間違ってないか? 誤りはないのか? 何度も繰り返すが、その言葉は変わらない。

『逢難を確保した……そして同時に――如月 双七は死亡した』

 涙なんて枯れ果てた。なら、今頬を伝う熱いものは何なのだろう。
「双七君」
 答える声は、ない。


 季節は秋も終わるところ。秋が終われば来るのは当然冬である。
 神沢の冬は厳しい方だ。雪は積もり、積もり、最初は喜びこそするものの後になれば「まだ降るか」と驚愕せざる得ない。
 四季の変化は森の色と大気の熱。時たま降る雨と雪で予測されていた島とは全く違う冬。
 如月 すずはぼたぼたと降る白い粉を目で何度も追っていた。
 落ちる、下を向く。新しいのを探す、上を向く。落ちる、下を向く。以下同文……
「何をやってるのですかあなたは」
「あ、タヌキ」
 ため息混じりにかけられた声にいつも通り返す。振り向いた先にいたのは薄く青い髪をポニーテールにした美少女だった。
 だがその端正な顔には血管が浮かび、鬼も泣いて帰らんとばかりの形相でこめかみがぴくぴくしている。
「誰がタヌキですか、誰が。ついには娘すらなくなりましたか」
「じゃあ陶器女」
「……もういいです。で、何をしてるんですか。ズベ狐」
「見てわかんないのトーニャ・タヌキ・ポンポコポン。雪を見てるのよ」
 そんな具合に二人はよくわからない話題で喧嘩を始めた。いつも通りだ。いつもと同じ、平穏な、日常。
 その世界で如月 すずは笑う、泣く、怒る、悲しむ――日常を、歩んでいく。
 一人ぼっちで。
「って聞いてるんですか、すず」
「へ? え、あ、ごめんごめん。聞いてなかった」
「…最近考え事が多いみたいですね。元々そんな処理能力が高くない小さい野生的脳味噌なんですから物事を深く考えると破裂しますよ」
 トーニャのズケズケとした本音と皮肉と悪意と、ほんの少しの心配する思いが篭った言葉にすずは大いにむかついた。
 だからといって何かを返すわけでもない。話を聞いてなかったのは自分だ。非はある。だがちょっと言い過ぎではないだろうか。
「うっさいわね。で、何なのよ」

 そこら辺をとことん突き詰めていくと話は永久に平行線である。すずは自制心を働かせて話を進めることを優先した。
 だがそんなすずの様子を見てトーニャはしばし黙ってから、「やっぱりいいです」といって踵を返した。
「ちょ、ちょっとぉ! 気になるじゃない、なんなのよ」
「別に大した事ではありませんよ。単なる世間話です」
「…世間話を聞いてないだけであそこまで言うわけねあんた」
 結構むかついてる。
 しかしそんな様子をちらりとも見ずトーニャは鞄を持って教室から出て行った。出て行く寸前に「浸るのも程々に」と告げてから。
 時刻は既に放課後。教室にはすず以外の誰の人間もいなくなっていた。
「あ…もうこんな時間だったんだ」
 帰りのホームルームが終わったから未だ数分しかたってないと思っていたのだが、雪を見ている間に随分と時間が過ぎたようである。
 気づけばホームルーム時はまだ大して積もってなかった雪も、随分と積もっている。帰るのに難儀しそうで、少々げんなりとした表情を浮かべた。

 雪を踏むとさくさくと氷の粒が割れる音がする。それが少しだけ楽しくて、妙にリズムをつけながら歩いた。
 向かう先はマンションだ。彼女は今一人暮らしである。未だちらちらと降ってくる雪に顔を顰めながら、彼女はマンションへと歩いていく。
 うっすらと白く染まったマンションに辿り着く。エレベーターに乗っていつもの階に行き、いつもの扉にいつもの鍵を入れて入っていく。
「ただいま」
 家に入ってから靴を脱いで玄関に上がる。そうしてから振り向いて――誰もいない、誰も開かない扉を見つめて、泣きそうな表情を浮かべる。
 おかえりなさい、とは言わない。否、いえない。言うべき相手は、既に死んでしまっているのだから。
 それでも呟かずにはいられない。

「おかえり、双七君」

 答える声は無論ない。だがこの無意味な問答は、如月 双七が死んでからのすずの日課になっていた。
 その度に彼女は身を切り裂かれる悲しみに襲われる。思い出すのは妙に晴れた朝の事だ。
 血まみれの刀子が、血まみれの双七を抱えて泣いていた。
 それはどこか幻想的で、悲しい程に鮮明で、イラつく程に悲劇的だった。
 故に忘れることなど出来ない。脳裏にこびりつくのは――最後に見た、全てに裏切られたという表情を浮かべる双七の泣きそうな顔だけだ。
 どうすればいいのだろう。許されないのはわかってる。わかってるのに――全て自分の責任のようで、吐き気がする。
 痛いな、と思った。誰が、とか、何が、とか、何処が、とかではなく、ただ痛かった。
「―――」
 呟いた声はかすれていた。無意識だったので、自分でも何を呟いたのかわからなかった。

『尾は死なない。故にどうするか――意識を取り戻しても、意味のないような場所に送ってしまえばいい』
 無責任だけどね。といって少年は苦笑いを浮かべた。曰く、宇宙の彼方にすっとばしてしまうらしい。なんとも豪快な話だ。
 何でも文壱による一撃で逢難は一時的な眠りについていたという。その時点で無茶を利かせ、既に人ではなくなっていた双七は、死んだという。
 意識はとうに食いつぶされ、記憶と、抜け殻だけが残った。彼の魂が何処にいってしまったのかは、わからないが。

 双七が死んだことにより、直接手を下した刀子は常に茫然自失とし、自分を見失っていた。見ているこちらが痛々しくなるほどで、本当に、辛かった。
 自分を取り戻したのは身篭った事を知ったときだ。
 彼女の中には双七の残した意思があった。彼女の兄である一乃谷 愁厳の願いがあった。
 嫉んでないというのは嘘だ。それを酷くうらやましいと思い、次に、自分には何も残ってないことに気づいた。
 驚いて、呆然として――何もかも、それを妖が壊したのだと思い出したとき、泣いた。
 生きる支柱がいなくなった。崩れるだけ崩れて、後はどうにでもなってしまいそうで――それでも、支えようと頑張ってくれた人がいた。
 故に如月 すずは立っていて、今も平穏を歩んでいる。
 心の闇は、晴れそうになかったが。

 ――そして、少し、時間が流れた。


 墓がある。如月 双七と書かれた、墓がある。
 そこに一人の男がいた。酷く草臥れた、白髪の男だ。年は四十代であろう、だがその体はしっかりと作りこまれ、隻眼という風貌も合わさって多少若く見える。
 名を九鬼 耀鋼。武部 涼一の師匠であり、そして妖に挑んだ男でもある。
 一輪、そこら辺で適当に拾った、それでも多少は綺麗な花を添えて九鬼は黙祷した。
「来てたのね、九鬼」
 そこに女性の声が響いた。九鬼は面倒くさそうにそちらを振り向く。
 振り向いた先には可憐な少女――否、女性がいた。幾分か大人びて体も成長したようだが、根本は変わってはいない。
「如月 すずか」

「いちいちフルネームで呼ばないでよ」
 可愛らしい唇を尖らせてすずは抗議した。軽快な足取りで九鬼の横まで歩き、如月 双七と書かれた墓の隣の墓に、手に持っていた花束を添える。
 如月 双七の墓には既に花がいくつか乗っていた。
「重くてさ。一回じゃ持って来れなかったの」
 だから、愁厳は後。そういって彼女は薄く笑った。少しやつれて見えるのは九鬼の気のせいだろうか。

 彼女は数年前。鴉天狗達と共に残った尾の完全封印の手伝いをするため神沢市を発った。
 数えて幾年たったか。奇しくも彼女は双七の死んだ丁度七回忌の日に帰ってきたのだ。
「九鬼は、今何してるの?」
「教師だ」
 柄じゃないがね、と九鬼は苦笑いを浮かべる。
「馬鹿共に空手を教えてる。性根が腐った連中だから叩きがいがあってな。成る程、こんな道もあるのかと驚いたよ」
 くっくっ、と笑って肩を竦め、九鬼は立ち上がった。失礼、と一声すずにかけてから胸ポケットに入れていた煙草を取り出し、火をつける。
 人以上に鼻が利くすずは顔を顰め、すぐに立ち上がって境内の方へと歩き始めた。
「行くのか?」
「えぇ……刀子には、まだ会ってないから」
 そして、双七と彼女の息子にも。
 息子が生まれたことは知っていた。名前も、知っている。愁厳と名づけたそうだ。さぞかし似ているのだろう…怖いが、その分会うのは楽しみだった。

 九鬼は「そうか」、とだけ呟いて煙草をふかし始めた。白い息を細く吐き、中空を睨みつけている。
 その姿に――どこか、誰かに■っているようで、少しだけうらやましいと思った。


 境内は神聖な匂いに満ちていた。
 逢難は既に有らず。一乃谷の神社は清浄に保たれ、とても綺麗な空気と色をしている。
 気分よく境内を歩いていると、ふと子供の声が聞こえた。
 胸が高鳴る。怖い、その分楽しみ。だが――本当に、怖い。今から会うのは双七の息子だ。刀子の息子だ。さて、自分はその少年にとって何なのだろうか。
 自然と足が止まる。会いたくない、だが、会いたいというよくわからない思いがぐるぐるとし始めた。会って何をしようというのだろう、それとも――

「お客様ですか?」
 そんな風に問答してると、目の前にいつの間にか来ていた少年に声をかけられた。どこか大人びた――でも子供っぽい、そして誰かに似ている少年だ。
 ――あぁ、この子が。
 すぐにわかった。だから声が出なかった。彼は愁厳に似ている。とてもとても似ている――きっと、彼よりも素晴しい人物になるのではないかと、思えるほどに。
「――初めまして。私は…」
 私は? なんと言うのか。如月 すずと名乗るのか。”私が如月を名乗るのか?”
「…―私、は……」
 言葉に詰まってしまう。同時に、何故か泣きそうになってしまった。
 どうしてだろうか。ただ、少年に正体を聞かれているだけだ。だというのに何故こんなにも泣きそうになるのだろうか。
 あぁ、わからない。どうすればいいのかがわからない。何度か思っていた事が、何故かこの時ずん、と胸を突いた。突いてしまった。

 ――脳裏を過ぎるのは裏切られた悲しみに嘆く彼の表情。全てに絶望した、彼の表情。
 違う、あれは双七君じゃなかった!
 ――信じてたのにと、言ってもいない台詞が頭を這う。何故拒絶したと、私の中で何かが訴える。
 大声を上げて叫びたかった。私は、彼を見捨ててなんていないと!


 ――本当に?


 そういって響く声は、酷い事に私の声そっくりだった。

 その場にしゃがみこんでしまう。あぁ、何故、何故今になってそんな事を思い出したのか。
 尾の封印作業中も何度か思い出した。その度に泣きはらし、どうしようもないほどに枕を濡らした。
 それが何故、今。涙が止まらない、どうしても止まらなかった。
 きっと目の前にいる少年はそんな女性を見て気味を悪くするだろう。いきなり目の前で大の女が泣き出したのだ。それほど奇妙な事はない。
 だが泣き止もうと。なんでもないよと。言おうとするのに、口から漏れるのは嗚咽だけだった。
 情けない。それも自分のせいだ。私が、私があの時――

 ぽふっと、暖かい、小さな手が頭の上にのった。

「―――え?」
 驚いて顔を上げると、しゃがみこんだ私の頭を目の前にいる少年が一生懸命に撫でていた。その表情は驚くほど真剣で、そして悲しそうだった。
 私が見ていることに気づいたのか、少年はきっぱりとした口調で言った。
「泣いては、駄目です」
 少し、涙声になりながらも続ける。
「悲しい時は泣いてはいけないのです。涙を見せるのは嬉しい時のみです。父様が、よく仰ってました」
 今はもういませんけど。と少年は付け足す。
 ――あぁ。
「ですので、泣いてはいけません。お願いします、泣き止んでください」
 計算すれば七歳児か。そうとは思えないしっかりとした(それでも少し泣きそうな)声で彼は一生懸命頭を撫でる。
 ――この子は。
 この子は、双七君とは話したことなどないのに。この子が生まれたときには、既に彼は死んでいたのに。それでも――覚えてる。聞かされている。誇りに持ってる。
 あぁ、似てるんだ。だから似てると思ったんだ。
 一生懸命頭を撫でるその子を、私はゆっくり抱きしめた。
 それでも少年は何も言わず頭を撫でる。私の涙は止まらない。嬉しいのと悲しいのがごっちゃになって、よくわからない。
「ごめんね」
 不意に口をついた言葉に自分自身で酷く驚いた。
 ごめんね。そう、ごめん、だ。心の中でぐちゃぐちゃしていたものが一気にすっきりとした。頭の中の不明瞭な部分が唐突に理解できた。
 そうだ、私は――私は、彼に謝りたかったんだ。

 信じられなくてごめん、と。見捨ててしまってごめん、と。
 私の考えはどうであれ、実際に私は彼を拒絶してしまったのだ。だから、酷く悲しかった。
 そう思ってしまった自分が悲しくて、だから…だから彼に会って一言謝りたかったのだ。
 安っぽいのはわかっている。こんなこと、自己満足にしかなりえない。
 それで許される筈がない、許されるわけがない、彼が許してくれるはずがない。でも、それでも、ただ。


「ごめんなさい」


 私は彼に、謝りたかったんだ。

 ごめんなさい、と私が言うと少年の動きが少し止まった。それもそうだ、いきなり謝られたのだ、意味がわからないだろう。
 だから返答なんて期待してなかった。ただ、頭を撫でてくれたのが少しだ嬉しかったから――抱きしめる力に少し力をこめた。
 それでも、少年は――愁厳は、少し考えるそぶりをしてから、笑顔を浮かべた。
 何でそんな笑顔を浮かべたのかすずにはわからなかった。でも笑顔はまるで…そう、まるで。本当によく似ている。愁厳に、刀子に、そして――

「大丈夫です。きっと、許してくれます」

 ――彼に、似ている。
 理由も経緯も知らないのに、許してくれると彼は言った。事情も何も知らないのに、それでもだ。
 そんな所まで、彼に似ている。
 涙がまた流れた。暫くは止まりそうになくて――何故か、少しだけ嬉しかった。
 残ってるものはない。でも、彼が残そうとしてくれたものはある。私がそれを探そうとしてなかった、それだけの話。


 だから私は涙を流す。嬉しいときは涙してもいいんだよ――ね? 双七君。


       END
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