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短編「笑顔でさよなら」

 ああ、嗚呼。もう嘆く事すら出来ない。もう涙も流れない。
 代わりに出来たのは殺すことだ。代わりに流れたものは血だ。
 ざぁざぁ、ざぁざぁ。
 豪雨。降りしきる雨の中で、彼らは、彼女らは戦っていた。
 ざぁざぁ、ざぁざぁ。
 雨音を切り裂くように嗤い声が響く。男の笑い声。雨のせいで垂れてしまっているが、普段はつんつんとした髪型の男の、嗤い声。
 彼の名は武部 涼一だった。そして如月 双七だった。今はただの妖。名もなきあやかしが笑っていた。

 それに相対するは四人の男女だった。
 一人は教師。眼鏡をかけたどこか人のよさそうな男だ。草臥れたスーツはところどころ切れており、身体は満身創痍に近い。
 一人は師匠。隻眼で白髪の大男。わき腹を何かで抉られたのかどろどろと血を流している。傘を支えに、彼は立っている。
 一人は老人。だが既にその身は戦える状態ではなく。血にまみれ雨にまみれ泥にまみれ、大地に臥している。
 一人は恋人。かつて如月双七であったものを愛し、今も彼を愛し、それでも、それでも――決意した、女性。

 その四人――正確には三人だが――を見据え、名もなき妖は疾った。その手に持つは螺旋双剣。狙うは、隻眼の男、九鬼 耀鋼。
「魔刃――」
「させんっ!」
 凶刃が九鬼を穿つ寸前、まるで疾風の如くその真横に教師――加藤 虎太郎が現れ、人妖の能力にて鉄板すら貫く拳をまっすぐに振りぬいた。
 軽く舌打ちしてそれを避ける妖。その動きは人にあらず。止まれる筈のない速度だったのだが、その足から奇怪に生える刀の刃が大地を抉り、止まった。
 それを見て九鬼が傘、カンフェールと呼ばれるそれを突き出した。先端はチタンで作られ、そして鋭く磨き上げられている。鋭い刺突は妖の顔面を抉ったかに見えた。
 だがまるで閃光のように迫るそれを妖はその口――歯でガチリと掴んで見せた。甲高い音と不可解な状況。そのまま妖は身体を動かしカンフェールごと九鬼を投げ捨てた。


「チィッ」
 宙を舞いながらも九鬼は体勢を整え、不恰好ながら着地する。抉られた腹部から血が溢れ、九鬼は片膝をついた。
「おいおいその程度かよ九鬼 耀鋼。如月 双七の知る…いや、武部 涼一か。あれが知っていた九鬼はもっと強かったぞ」
「――ほざけ。その顔、口であいつの名を出すな」
 静かに。九鬼 耀鋼は憤っていた。同時に加藤 虎太郎も拳を握り締める。
 そんな様子を彼の恋人は――一乃谷 刀子は、ただただ苦悶の表情で見つめていた。その表情が晴れることは、ない。
 ぐりん、と首を動かし妖は刀子をなめるように睨み付ける。
「刀子さんも、だよ。いい加減割り切ってくれないかな。如月 双七はもう死んだんだ。君を守るために死力を尽くして――まさに死力、だね。
 そしてもうあれが残ってないのを知ってるのに刀子さんは俺を斬れないんだよね? はは、嬉しいな。嬉しいよ刀子さん」
「お黙りなさい…っ!」
 その言葉に激昂し、激情のままに刀子は駆けた。文壱を振るい、妖を両断せんと斬りかかる。
 刹那に浮かぶは双七の笑顔。双七の泣き顔。双七の――愛おしい愛おしい如月 双七の顔が。
「……っ!」
 振り払う。彼はもう帰ってこない。逢難の魂は完全に双七と結合した。彼の知識は、記憶はあるが、あれは既に”彼”ではない。
 文壱を振るう。螺旋双剣がそれを受ける。通常の刀の数倍重い文壱にあわせ、怪力の能力を持つ刀子の一撃を妖は受けて見せた。受けきって見せた。
 そこに隙ありと虎太郎が走りよった。拳を放つ。鍔迫り合いをしているのならば、そこに隙が存在する――!
 硬く、固く拳を握り締め虎太郎はかつて如月 双七だった妖の顔面を狙う。その顔は、かつての彼からは考えられないほどに酷く歪んで――嗤っていた。
 瞬間、視界に入ったのは巫女装束の後ろ姿だった。
「しま…!?」
 った。と思った瞬間に螺旋を描く刃が虎太郎の足を貫いていた。
 鍔迫り合いをしていた妖はその螺旋に文壱を引っ掛け、突撃してくる虎太郎の眼前に放り投げたのだ。閃光の如く速い、それ故に一瞬の判断の遅れがあった。
 それが致命傷。深く足を抉られ――加藤 虎太郎は倒れた。足の腱を抉られたのか、動かない。
 九鬼 耀鋼も動けない。血は止め処なく溢れ、既に身体は死に体だ。


「一人だけになっちゃったね刀子さん」
「くっ…!」
 自分を目隠しに使われたのに気づいて刀子は下唇を噛んだ。

 ――強い。
 この妖は、強い。神沢市を出た名もなき妖は、日本各地にある幻咬の尾を殺して回り始めた。同時に、大量の人と鴉天狗を殺しながら。
 尾との戦いも凄まじく周囲には何百、何千という被害者が出た。故に、彼を殺さねばならないと――彼らは本格的に動き始めたのだ。
 そんな中虎太郎、九鬼、鴉、刀子の四人がこの妖に遭遇できたのは運がよかった――いや、悪かったというべきか、兎も角そうとしかいえなかった。
 既に滅ぼした尾の封印された場所に、何故か戻ってきたのだ。
 手がかりはないかと探していた四人の前に現れた妖は、まず驚き、そして愉悦に塗れた表情を浮かべ――戦いが、始まった。
 結果は見るも無残なものだ。鴉は切り刻まれ倒れ臥し、九鬼は脇を抉られ、虎太郎は足を潰された。

 そして刀子は――刀子は、その妖と正面から切り結んでいた。

 一合、一合。切り結ぶ度に刀子の記憶の中から如月 双七との思い出が傷つけられ、泥に塗れ、腐っていった。
 あぁ、彼はこんな顔では嗤わない。こんな風に戦わない。優しい、優しい人だったのだ。
 悲しくて、辛い人だった。優しくて、切ない人だった。故に好きになったのだ。情けないと、自分を嘆く姿を見て一乃谷 刀子は――
 だがその双七は残ってはいない。いるのは妖。ただの化け物。鬼神の如き強さを誇る、九尾の尾が一つ、逢難。
 切り結ぶ。切り結ぶ。切り結ぶ。切り結ぶ――!
 穢れて行くのは如月 双七の笑顔。あぁ、もう堪えられない。ざぁざぁと降る雨の中。彼女はただ刀を振るった。
 手加減をしてるのだろう。一瞬で切り殺せるはずなのに――ガンガンと刀のぶつかる音は、続いた。


 もう幾度と切り結んだだろうか。妖がトンっと軽く後ろに飛んで距離をとる。その表情には怠惰が浮かんでいる。
「楽しかったけどもう終わりだよ刀子さん。九鬼先生は倒れたし加藤教諭も動けない。鴉さんも――あぁ、もしかしたら死んでしまったかもしれないね」
「だから、どうしたいというのです」
「面倒くさくなったし逃げようかとも思ったんだけどね刀子さん……あぁ、そう。あぁそうだよ」
 一瞬にして怠惰は愉悦にする変わった。恍惚の笑みを浮かべ、続ける。

「貴女を殺したいんだ刀子さん」

 だからゲームをしようと妖は嗤った。

「ゲーム…?」
「そう、ゲームだよ刀子さん。今から、君を殺す気で剣を放つ」
 語る目には嘯く色はない。
「だから刀子さんも殺す気で来てくれ。一回、一撃だけの勝負だ」
 純粋でわかりやすいだろう? と妖はまた嗤う、哂う。
 挑発だ。一乃谷 刀子をなめきった挑発なのだ。受けなければ死ぬ。だが、受けても死ぬ確立のほうが、高い。
 だが彼女はそんな事を考えていなかった。確立など関係ない。ただ哂う妖を見ていた。
 ――なんて、醜悪な。
 彼の笑顔が穢れていく。堪えられないのはそれだけだ、彼の思いが崩れていくのを見るのは、辛い。
 だから、彼女はゲームに受けて立つことを決めた。振り払う、ために。


「じゃあ合図を決めよう…この百円玉が地面についたらゲームスタートだ」
 一体何処で手に入れたのか。使いもしないであろう百円玉を取り出して妖は笑顔を浮かべる。一瞬、それが双七に重なったのを感じて刀子は吐き気を覚えた。
 行くよ、という言葉と共に澄んだ音をたてて百円玉が宙をくるくると飛ぶ。
 文壱を握り締める。勝負は一瞬、故に一撃。その一刀で、首を絶つ。
 ゆらゆらとコインが落ちていく。その様は、まるで殺し合いをしているときの自分の心境のようだと刀子は思った。
 ただ、なんとなくそう思った。だから少しだけ、悲しげな表情を浮かべたのだ。

 コインが、地面に落ちた。

 疾風。刀子は身を風にせんとばかりに走り、文壱を鋭く一閃させる。
 鞘から刀身が抜け切った瞬間、世界が遅く見えた。走馬灯のようなものだろうかとぼんやり彼女は考える。
 未だ刀は走っていない。だというのに、捻じるように放たれた妖の螺旋双剣のほうが速いというのがわかってしまった。
 死んだ。この一撃に頭蓋を抉られ死ぬのだ。
 死ねば双七に、あの双七に会えるだろうか。彼の精神は死んだに等しい、故にまだ現世にあるのかも知れない。だから、あえないかもしれない。
 それが少しだけ残念で――刀子は、それでも安堵した。
 これで、終われる。



 ――それは、気のせいだったのかもしれない。
 え、と刀子は情けない声を出した、のだと思う。実際、そうだったのではないだろうか。
 ゆっくり進む世界の中で、見えたのだ。
 螺旋を描き放たれた刺突が、一瞬だけ止まったように見えたのだ。

 刹那世界は色と速度を取り戻す。
 振りぬかれた文壱は妖の胴体を真横に切り裂いた。
 鮮血。その後、吐血。信じられない、といった表情を浮かべたまま、妖はどしゃりとその場に崩れ落ちた。
 カラン、と乾いた音がした。ふと音のしたほうを見ると、手から文壱を落としていた。
 文壱は血に汚れ、肉片がこびりついている。だがそれは降りしきる雨に少しずつ、少しずつ流されていく。

 足元には、仰向けに倒れた妖が。

 どうしてだろう、なんて表情を浮かべている。なんでだろう、なんて表情を浮かべている。
 そして驚愕に満ちた瞳で刀子を見て――口元を歪めた。
 刀子自身も何故斬れたのかわかっていなかった。唐突な事実に驚き、茫然自失としていた。
 それを、どう受け取ったのか。
 妖は笑った。



 ざぁざぁ、ざぁざぁ。
 豪雨が、雨が、雨が雨が雨が――雨が、降っている。
 そんな中に刀子はたっていた。文壱を持って立っていた。見下ろしているのは、未だ息をしている妖だった。
 だが、それは朽ちかけている。理由はわからない。この程度の傷、修復できてもおかしくないのだが――それが始まらない。
 浅くなる息。絶えかける、呼吸。そんな妖を見ながら――見ながら、刀子は、手に残る妖を斬った感触を思い出していた。
「ひ……どい…や……、とう…こ……さん」
「……………」
「こんな……ふ、うに……斬る…なんて…」
「……………」
「……きず……ふさがらない…や…、は、はは……おかしい、おか…おかしい……」
 雨が、降っている。
「は…はは、はは、あはは……は…ははっはは」
「……………」
「君が殺した、貴女が殺した。俺を、如月 双七を、貴女の恋人を、貴女が殺した」
「……………」
「酷いや……――信じて、たのに」
 雨が、降り注ぐ。
「く…は…はは…ははは…が…はぁ…はは…!」
「……………」
「は…ははははは、ははは、あははははははははははははははは―――!!」
「……………何故」
「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――」


「何故泣いているのですか?」


 雨が、まるで、涙のように。妖が、泣いているように、見えた。
 哄笑がぴたりと止まった。


 ざぁざぁと雨が降っている。時間が停止したかのように二人は動かないが、その雨が時が動いてることを証明していた。
 数秒か、数十秒か、数分か――一時間か。どれほど時間が過ぎたか、わからない。

 ただ雨にまぎれて「ごめん」と聞こえた気がした。続けて、何か――

 ――気づけば、妖は死んでいた。


「―――なん…で…――」


 ざぁざぁ、ざぁざぁ。
 豪雨。降りしきる雨の中で、彼女は立ち尽くしていた。
 ざぁざぁ、ざぁざぁ。
 雨音を裂く哄笑は、もう響かない。


     ――Next→ エピローグ

 何年か、時が過ぎた。
 一乃谷 刀子は境内を掃除しながらふと振り向いた。彼女の息子がとてとてと走ってくる。
 その容姿は心の中でいつも会っていた兄にどこか似ている。名前も愁厳と名づけた。その由縁は、いつか話したいと思っている。
「母様!」
「あらあら、どうしたの? そんなに急いで」
「はい、聞きたいことがあるのです」
 なんだろうか、と考える。この子は先ほどまで蔵を漁っていた。何か古いものでも見つけたのだろうか?
 愁厳は屈託のない顔で、続ける。

「父様はどんな方だったのですか?」

 ――気づいたら愁厳を抱きしめていた。
「か、母様!? あの、一体…」
「――――」
「……母様」
 思い出したのは彼の笑顔だ。思い出すのは彼の泣き顔だ。思い出すのは彼の照れた、真摯な表情だ。
 同時に、両手に忌々しい感覚が、人を切った、妖を斬った感覚が蘇る。
 嫌悪感を感じ、振り払おうとして――また一つ、思い出した。
 最期の、笑い顔。雨で泣いてるように見えた、あの、笑顔。

      ごめん――さよなら、刀子さん。

「どうしたの、ですか?」
 悲しいのですか、息子が聞いてくる。物言わぬ母に疑問を持ったのだろう。
 「ううん」と首を振って息を整える。答えよう、答える言葉は、決まってるのだから。
 少しはなれ、息子の頭をそっと撫でる。 自分は今、笑顔を浮かべているだろうか―――?

「貴方のお父さんは、本当に最後まで優しい人だったから」

 ただ、涙がすぅっと頬を伝った。それでも笑顔を浮かべていられればな、なんて――そんな事を、考えた。

        ――End
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