曜子ちゃん寝る

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 黒須太一にさよならを告げられる夢を見た。
 黒須太一を探したが、見つからなかった。
 支倉曜子の始まりと終わりだった。
 
 部屋は暗かった。
 窓を閉めている上にキッチリと施錠しているせいか、空気は凪ぎ、どんよりと
澱んだ空気が辺りに満ち満ちて、外からの来訪者なら思わず顔を顰めてしまいそ
うなほどであったが、この空間唯一の存在者である支倉曜子は、特に気にした様
子もなく、部屋の奥に備え付けられたベッドに凭れかかって意識をなくしていた。
 空虚で、虚無で、ガランドウな時間。その中にあって、支倉曜子は死んだよう
に動かなかった。指先を微動だにすることもなく、僅かに喉と胸の辺りを時々思
い出したように動かすことで生きていることを証明していた。
 午前零時過ぎ。当然のように外に明かりはない。
 支倉曜子は手折れたように固まっている。無論、死んでいるわけではない。意識
なく、座っているところからドアまで乱雑に散らされた無数の写真の一枚へと視線
を投げつけているだけの話である。もう二日ほど同じ姿勢でいる。この状態が続い
たら死ぬことは明白であるが、それはそれでいいと思う。生きたいと思わずに生き
ている人間など死んでいるも同然だ。そう思いながら、自分で死を下さないはその
気力が残っていないからであって、恐れているわけではない。ただ、最期ぐらいは
この部屋で迎えたい、と執着をみせたのは事実だ。だから、黒須太一の部屋で、
今まで撮り貯めてきた黒須太一の写真をばら撒いて、それを眺めている。ただ
ぼーっと眺める段になって何やら小さな幸せを手に入れたような気がしてきて、
少し笑った。時間が経ち、茫洋とし、そう思考したのはいつのことであったか
良く分からなくなっていった。
 
 ドアが開いた。
 ギィ、と軋んだ音を立てて、ゆっくりと。
 部屋に広がる濃密な闇の気配が外へと漏れ出す。空をたゆたう月も角度の
関係からか部屋には射し込まず、侵入者が何者であるのか特定できない。
侵入者は暗がりを纏って軽い足取りでベッドまで歩を進めようとして、フロー
リング一杯に散らばる写真を踏みつけた。くしゃ、という音がした。
 侵入者が立ち止まり、足元を凝視する。ポケットから何かを取り出そうとして、
「あっ、あっ」
 支倉曜子の口から切り取ったように声が漏れた。悲痛さを訴えようとしている
ようにも聞こえるし、ただの喘ぎ声のようにも聞こえる。声を機械的に漏らし
続けるその口元にすっと手が添えられ、上下した。頬を撫でられている、と
支倉曜子が理解するまでに数秒を要し、相手を認識するのにさらなる時間を要した。
幾つかの鏖戦をかいくぐり生き残ってきた彼女の本質を知る者にとって、
その鈍感さは想像を絶することだと言っていい。
 相手の貌を捉えて、――太一、と彼女は口を動かした。しかし、喉が掠れて声に
ならない。
 黒須太一は支倉曜子の頬にやっていた手をそのまま首筋に移行させて、
「曜子ちゃん、何でオレの部屋に?」
 沈黙。
 黒須太一は手持ちのマグライトで支倉曜子を照らす。 
 ひどい有様だった。服はヨレヨレ、肌はかさつき、髪は油にまみれていた。
ゴミ置き場に捨てられた壊れた人形みたいだった。
 黒須太一は特に何も言わずに支倉曜子の髪を梳いた。
 途端に支倉曜子が震えた。変な声を上げた。開ききっていた瞳孔が明反応を
起こしたみたいに小さくなった。目の縁が大きく揺らいだ。闇の奥から手が
黒須太一の首に伸びて、その後ろで交差した。

 思わぬ展開に驚いた黒須太一は、身をよじり仰け反った。しかし、実際は、
ただ抱きつかれただけの話だった。
 とは言うものの、その力は尋常ではなく、巨大な万力で締めつけられる
ような圧力が掛かり、躰が嫌な音を立てたこの上は是非もなく、
「曜子ちゃん、ギブギブ、痛ひ痛ひ、やさ、や、優しくしてえぇぇぇ」
 と情けない声を上げた。
 震えが、返ってきた。
「曜子、ちゃん?」
 涙。
「たいちがっ、わたしっのこときらいってっ」
 支倉曜子の左手の指が黒須太一の肋骨に食い込む。
「うらぎりものって」
 支倉曜子の熱気の篭った呼気と涙が黒須太一の鎖骨に降りかかる。
「さよならってっ」
 支倉曜子の両の腕が黒須太一の胴体と首に絡みつく。
「わたしのことっ、いらっないって」
 この上ない密着。
「っ、たいちっ、た、たいちっ、ったい、ち」 
 泣き声。
「ほんとっに、たいちっ、がぁ、いな、いっなかったっ、いなく、
どこっにも、さっ、さがっ、した、のにっ」
 止まらない震え。
「、さよっ、ならって、さっ、よならってっ」
 赤子のように泣き続ける支倉曜子の背中。
「大丈夫」
 黒須太一は無意識のうちに、撫でさすっていた。
「[この]オレは、曜子ちゃんの傍にいるから」


 どれくらいそうしていただろう。泣き声がいつのまにかしなくなって、
気がつくと、兎みたいに赤い目をした支倉曜子の顔が目の前にあった。
互いの躰はぴったりと密着していて、要するに抱き合ったままだった。
 熱い。部屋の熱気に触れ合う部分から伝わる相手の体温。ぷにぷに。
二つのふくらみに代表される女の子特有の柔らかさ。
「曜子ちゃん……」
 支倉曜子は小さく頷き、おもむろに目を閉じ、唇をついと突き出す。
そして――――、
「じゃなくって」
 ていっ、という掛け声とともにおでこにチョップを見舞う。
「……太一、痛い」
「痛い、じゃないよ。何でいきなりそうなるかな」
 ぷにぷにとしたほっぺをうにょんと引っ張る。涎がだーと垂れてくる。
「ひゃいひ、へっひなほーはほはふんはほん」
「分からん」
 手を離す。
「太一、えっちなオーラを出すんだもん」
「ばっ、そんなわけないでしょ。だって、曜子ちゃん、くさいんだもん」
 ――――だもんだもんだもんだもんだもんだもんだもんだもんだもん
だもんだもん。
 支倉曜子は後ろを向き、体育座りをし、顎を膝の上に乗せた。
「太一が虐める」
 のの字。
「言いがかりだよ、それ。ただ、現実を口にしただけだって。ほんとだって。
つーか、自分じゃ分からないかもしれないけどね、マジでくさいよ? 
掛け値なしに。今の今まで良く我慢したなあって自分で自分を、」
「太一、陰湿」

「くっ」
「嫌い、裏切り者、さよなら、いらない。それの次はくさい。
ねちねちと言葉責め。私のぴゅあはーとが壊れそう」
 ピュアハートなどと、ありもしないくせに、しかし、こうしていても
埒が開かぬ、ここは一歩引いて、
「ヘイ、そこのプリティガール! 臭いってのは取り消しマース、だから、
とっととバスルームへ行きやガーレ!」「でも、好きな相手ほど虐めたくなる。
太一は私のことが好き、と」
 二人の声が重なる。支倉曜子が振り返ると、黒須太一は出来損ないの
般若面みたいな貌をして、
「とりあえず風呂に入れ。水風呂に」
 と言った。

 黒須太一は封を開けていない2Lのペットボトルを五本差し出した。
そしてバスルームを指す。
 支倉曜子は受け取って、ナトリウムやらカルシウムやらの含有量が
記されたラベルをしげしげと眺めて、
「硬水より軟水の方が、」
「うおっほーん、曜子ちゃん、それってさー、断腸の思いで差し出した
飲み水なんだけど。足りないってのも言いっこなしね」
「太一、亭主関白」
 嬉しそうに言う。
「そういうのは結婚してから言って下さい」
「け、」
「断っておくけど、プロポーズじゃないからね。そこのとこ宜しく」
 その言葉に支倉曜子はむぅー、という表情をつくる。それも一瞬の
ことで、すぐに真顔に戻って、
「太一、一緒に、お風呂」
「やだ」
「襲わないから」
「……曜子ちゃん、それ、女の子の言う科白じゃないよ……」

 その後も、バスルームに押し込んで一服しようとした黒須太一を、
太一がどこかいっちゃう とか、私、また捨てられるの? と良心の
呵責に訴えるような言葉でバスルーム前に引き留め、私は太一の
姉的存在さん〜、婚約者さん〜、一心同体さん〜、でも〜、アニメで
妹がいっぱい出てくると、指を咥えてむうむう唸る太一の為に妹さん〜、
と思わず耳を塞ぎたくなるような言葉に節を付けて歌い出したり、
最近、太一が抱いてくれない、倦怠期、と言い出したり、太一に
お姉さまって呼ばれたい、とロザリオを投げつけてきたり、太一が
気持ち良くイけるように(検閲削除)を(検閲削除)する方法を、
研究しているのだけど、太一は(検閲削除)と(検閲削除)だったら
どちらの方が? と直球で訊いてきたり、とセクハラ大魔王として
フラワーズを中心として恐れられている黒須太一の根幹を揺るがし
かねない発言を連発してきた。
 あれを放置して、もし皆の前で口にされたら、今まで積み重ねてきた
威信は新宮党が裏切った月山富田城と同様にあっさり陥落するのは
間違いない。
 恥じらい。支倉曜子に足りないものは紛れもなく、これである。
普段はそんなこともないのだけれど、今はどうやら完全に箍が外れて
しまっているようで、看過できる状態ではなかった。しかし、
支倉曜子に恥じらいを求めるというのは、過去を思い出してみると、
契約、一心同体、ゴニョリータ、根本的に無理な話だ。
 
 かくなる上は、改めてそういう科白を口にできないように恥じらいと
いうものを植えつけるしかない。その為にはどうすれば良いのか。
考えろ、考える、考えた……。

「ん」
 いつのまにか周囲が住宅街に変わっていた。ついでに言うと
空の色も違っていて、太陽が燦々と輝く真昼間だった。
 暑いなあ、と思っていると目の前を眼鏡を掛けた年増もとい
女の子が歩いていたので、何気なく話を聞くと、RPGのNPCよろしく
唐突に××商店が怪しいという言い出した。さらに、
「え、出番これだけですか? 投票数が少なかったからって
何ですかっ! これでも私は部長さんなのですよ! あ、ちょっと
どこいくんですか、あっあっ」
 訳の分からないこと喚いていたが、あれもプログラムの一種だろう、
と勝手に解釈して、先へと進む。
 ××商店ではみらくる☆■■■■と名乗る小娘がラムネをんぐんぐ
飲んでいた。喉がこくこく動く。蠕動ってやつっすか! 何かエロいぞ! 
凝視する! 穴が開くほどに! 開いた!
「開きませんよっ」
「何だ、つまないのー」
「せんぱいも何かジュースを飲みに? え、コレですか、見ての通り
カラですよ、渡してくれ? だからカラです、って何か危険な香りが
するんですけどー。気のせいだって? いや違う? もー、何ですか、
結局。え、ビー玉を取り出そうと思っただけ? なーんだ早く言って
下さいよう。渡しますよう。渡しますから、そのビー玉、私に下さいねー」
 ビンの口をじーっと眺めて、おもむろに、
 舐める。しゃぶる。貪る。
「あ――――――――――――――――――――――――――――っ」
「うむ。処女の味」
「やられたようー、犯されたようー」
 うむ、余は満足じゃという表情で、
「で、」
 と紙の在り処を訊ねると、学校へ行くといいことがあるかも、
とぐずぐず言いながら教えてくれた。いい後輩だと思った。先へと進む。

 学校に行くと刀を腰に下げた女の子がいて、
「今さら私に何の用があるって言うのよ」
「ニホントウガヒツヨウデ」
「また茶化す気なのっ」
「ヤリタイオンナガイルカラ」
 という訳の分からない会話をした。途端に女の子が青筋を立てつつ、
抜き身を曝したので、何も訊けず終いだったがとにかく逃げた。多分、
先へと進む。
 曜子ちゃん恥じらい大作戦への道が途絶えたにゃー、って作戦だったのか、
としょぼくれて廊下を歩いていると、きがつようそうでちんまくて
つるんぺたんなおにゃのこを発見した。お持ち帰りしてハアハアしたかったが、
このまま襲い掛かると一目散に逃げられるかもしれないので、睡眠薬入りの
ジュースを飲ませられるくらいには信用されようと努力した。その過程で
裏山に祠があるとの情報を得た。そろそろ頃合かとジュースを飲ませようと
したのだが、感づかれ、クロスボウでやっためたらに射られた。命が
惜しかったので逃げ出した。先へと進む。
 裏山を散策すると割合早く祠を発見した。喜び勇んで近づくと、
どこからともなくじゅうせいがきこえる! つうこんのいちげき! 
くろすたいちはあしをうちぬかれた! くろすたいちはうごけなくなった! 
というメッセージが流れ、草葉の陰から、フフフと笑みを浮かべて、
黒くて長い髪をした女の子が鎖を片手に現れた。のっそりと近寄ってくる。
圧倒的なプレッシャーを感じる。考える太一は後ずさり、
きゃーおかされるうぅーと悲鳴を上げた。
「私は太一が傍にいてくれればそれで…」
 鎖がジャラジャラと音を立てる。
 黒須太一は無意識に、
「やだやだ監禁しないでー」
 イヤイヤと首を横に振っていた。
 拒否の言葉も空しく、女の子が地面を這うように駆けて接近してくる。
もうダメかと思ったその時、左右の茂みから男の子が二人現れて、
黒くて長い髪の女の子を抑え込んだ。

 顔は良く見えないが、片方は投票数がぶっちぎりの最下位を獲得して
いそうで、もう片方はホモっぽかった。
 て言うか、
「お、お前ら、質問があります! 一つ、こういうゲームに出演して
いいんですか? 二つ、アフレコ現場はどんな感じですか? 三つ、
給金はあっちとこっちじゃどれくらい違うんですか?」
「何の話だよ、何の」
 最下位が嘆息する。
「ピ――――、ピ――――、ピ――――、という感じだ。分かったか、太一」
 ホモがニヒルに笑った。その下で黒い髪が今にも噴出しそうなマグマの
如く暴れている。
「あー、そろそろヤバイかな」
「そうだな」
「短い友情だった」
 しみじみ言う。 
「本当にソレを任せていいのか」
 試すように、黒須太一。それに心外だ、とばかりに、
「当然だ」
 最下位とホモが言う。親指を立てて、
「友情は見返りを求めない」
 最下位に渡された薬草を使って足の傷を癒し、先へと進む。
 友情に後押しされて、祠へと辿り着く。見ると、開き戸には、
初回特典として支倉曜子の恥らわせ方を記した小さな紙を同梱! 
ちなみに初回限定版はロットアップしました、在庫のみです、
お早めに! と書いた紙が貼ってあった。何のことかさっぱりだが、
取りあえず開ける。中には大学ノートが山ほど積み上げられていた。
これは関係ないんだよな、とノートを全部放り投げる。ひょっこりと、
黒須ちゃん寝るとデカデカとプリントされた大きな箱が出てきた。

中身を開ける。プラスチックケースに二枚のCD、小冊子やら葉書やらが
入っていた。しかし、肝心かなめの支倉曜子の恥らわせ方を記した
小さな紙とやらが、ない。急いで説明書を捲ったり箱を解体したりしたが、
どこにもなかった。くそ、騙されたか、と祠の内部を注視していると、
縦に走る木目が真ん中の辺りでぷつっと途切れていた。さらに目を
凝らすと色も若干だが、周囲と違った。心臓が高鳴る。木目に沿って
指を擦る。何かが動いた。摘み上げると、茶色の紙だった。ふーっと
息を吐く。焦らせやがって、この捻くれモノめー、と祠を殴った。
手が痛かった。
 唾をごくりと飲み込む。この中に恥らわせ方とやらが。茶色い折り紙を
10cm四方に切り取ったような代物で、風に飛ばされないように、
しっかりと握る。さあ、と自らを鼓舞し、開く。
中には、
 青、
 春。
 たった二文字だった。首を捻った。目を細めてみた。太陽に透かしてみた。
二文字だった。ひょっとしたら遠近法かもしれない。目からの距離を
少しずつずらしていく。遠くから近くへ、近くから遠くへ。
二文字だった……。
 
 気がつくと、メガネを借りようと必死に声を上げる奴がいた。
その奥からはネクタイを求める声。目の前の大男が弁当箱を貸して
くださーい、と声を上げる。そうだ、借り物競争中だった。オレの
獲物は、と握り締めていた手、中、茶色い紙を開いて――――。
目の前が真っ暗になった。口にできなかった。俯いてしまった。
逃げたかった。ありがとうございますー、という声が聞こえた。

その声を最後に音がしなくなる。顔を上げる。運動場が陽炎の中で
大きく歪む。白い太陽が上空にある。砂が舞う。ふと、視線を感じた。
周囲を見回すと、どいつもこいつもが、視線を無遠慮に投げて
きていた。見られていた。心拍数が跳ね上がる。本気で逃げたかった。
邪魔する奴は指先一つでダウンさせられるくらいの義憤に駆られていた。
 あの、と声がした。体育委員の女の子だった。可愛い。しかも、
ぶるみゃあだった。借り物は何ですか、と訊いてきた。
 青春。君と青春。
 度し難いほどにクサい科白だと自分でも思ったが、咄嗟のことで
科白が口を突いて出たのだ。疑われるといけないと思い、紙も見せた。
微笑みを口元にたたえ、歯を光らせた。
 逃げられた。
 脱兎の如く逃げられた。五十歩も百歩もなかった。女の子は
見えなくなった。
 途端にギャラリーがせーいしゅんと囃し立てた。
 せーいしゅん、せーいしゅん、せーいしゅん。
 キレた。
「オレと青春がしたいかー!」
 声を張り上げる。
「したくねー!」
 無視する。
「そんなにオレと青春がしたいかー!」
 さらに声を張り上げる。
「だからしたくねー!」
 黙殺する。
「青春したい奴は立てー! 立ち上がれー! つーか、誰か立て! 
エロを青春に変えて、立てよ誰か!」
 ギャラリーを見た。立って声を送っていた連中も勘違いされまい
としたのか、軒並み座り始めた。他方を見た。全員が座っていた。
さらに他方を見た。女の子が数人立っていたが、慌てたように座った。
縋るような思いで他方を見た。いた。一人だけだが、確かに立っていた。
小さくガッツポーズ。ヘイ、そこの、プリ、

 逃げたくなった。
 体型が丸いのは、まあ良しとしよう。問題は脂肪の中に目と鼻と
口を陥没させて、顔面強打の上、複雑骨折にて完治に至らず、
な顔をしていることである。ほら、あれだ、腐乱犬だろ、アンタの仇名、
と思った。それが、来る。今はいいのさ。すべてを忘れて一人残った。
傷ついたオレがこの戦場で、あとに戻れば地獄におちる。
ああ、逃亡失敗。
 真ん前に立ちはだかった腐乱犬が恥らいつつ手を差し伸べてきた。
吐きそうだ。勘弁してくれ。これを握るくらいなら画鋲を力一杯
握ったほうがマシ、いや、やめ、
 無駄な抵抗だった。ぶにょぶにょした手に引きずられた。
運動場を一蹴で一周。ははは。泣きそう。
 突然、ギャラリーの中から声が漏れた。せーいしゅん。
その声はすぐさま波紋のように広がった。拍手も巻き起こった。
喝采が黒須太一その人へと向けられた。
 せーいしゅん、せーいしゅん、せーいしゅん。
 ギャラリーの中には泣きながらせーいしゅん、と叫んでいるやつ
まで現れた。何に感動しているのかは分からなかったが、その声
に応えるように、黒須太一は腐肉から免れた右手を高々と突き上げる。
 せーいしゅん、せーいしゅん、せーいしゅん。
 感動の嵐だった。音頭を取る奴まで現れた。そいつがせーいしゅん、
と言えばせーいしゅんと返ってくる。黒須太一は手を掲げ続けた。
ついでに言うと、腐乱犬に引きずられ続けてもいる。
 音頭が一際大きい声を上げた。
 二人の愛よ、永遠にー! 永遠にー!
 黒須太一はぎょっと目を見開いた。好きとか愛とか青春とか、
ごめん絶対に無理。絶対は絶対ないとかどうでも良くて、だから、
おい、腐乱犬。怖いから目を瞑るな、分厚い唇を近づけるな、
うあ、ああ、あああ、やめ、うそ、

 死、
 無、
 吐、
 棘、
 腐、
 血、
 歪、
 死。
 う、わああああああああああああああああああああああああああん。

「はあ、っはあ、くっはあ、っ」
 悪夢だった。長い悪夢だった。嫌な汗が滴り落ちる。肩で息をする。
危うく、リアルワールドがワイヤードに飲み込まれるところだった。
「くそっ、ナイツめ」
 時計を見ると午前二時四十分過ぎだった。
 黒須太一が震えるような呼気を吐いた瞬間に、バスルームから
支倉曜子が出てくる。
 そして、第一声、
「お腹、空いた」

 固形燃料で沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れた。
淹れたのだからコーヒーがそこにあるのは当たり前だった。しかし、
黒須太一も支倉曜子も、無言で立ち上る湯気を見ていた。周囲に広がる
香りに鼻を動かした。久方ぶりの生活がそこにある気がして、
動けなくなった。辞書で見知っているだけの、馥郁たる香りとは
こういうのを言うのかもしれない、と思った。

「ほい」
 夜空の下を二人で歩き、色んなところから回収してきたパンやら
おにぎりやらインスタント食品やらをビニール袋から取り出す。
無論、日付がヤバいやつなんかは避けてある。二人で食べる食事。
これもまた、とんと思い出せないくらいに久方ぶりだった。
黒須太一はコロッケパンをゆっくりと頬張りながら、もぐもぐ、
ずずずとカレーパンや三色パンやジャムパンやクリームパンや
コーヒーを忙しく口に運ぶ支倉曜子を眺めていた。
 眺めながら、艱難辛苦の末に手に入れたキーワードを思い浮かべる。
今までの黒須太一が積み上げてきた経験に則った解答。黒須太一の
深奥にあった解答。恐らく、対支倉曜子用最終兵器。ただ、
本当に効果があるのだろうか。彼女に恥ずかしい、という感情を
芽生えさせることができるのだろうか。身の内に巣食った怯懦を振り払う。
「曜子ちゃん」
「はひ?」
 もぐもぐ、ごっくん。強靭な顎が上下し、咀嚼されたモノが嚥下される。
「何?」
 目と目が合った。
 沈黙。
「せ、」
 いしゅんしませんか、オレと。どこの言語だ、そりゃ、と思った。
さっき夢の中で口にしたことなど完全に忘却の彼方だ。そんな恥部、
忘れるに限る。とは言うものの、支倉曜子に年相応の恥じらいを
認識させるにはこちらからのアプローチを以って行うしか、
「せ?」
「いしゅん、したいなあ、曜子ちゃんと」
 運動場の陽炎、舞い散る砂、白い太陽、そんなものが頭の中をよぎる。
挙句には、せーいしゅん、と囃し立てる声までもが甦った。

恥ずかしくなって、顔を下げた。手が一人でに胸の前までやってきて、
指と指を引っつけたり、伸びてもいない爪をこすったりした。
支倉曜子の冷ややかな視線に曝されているかと思うと、一段と
恥ずかしさが増して、頬の辺りがやけに火照ってくるのを実感し、
目を強く閉じるものの、胸に開いた穴は一向に小さくならなくて、
ちらっと――――、
 開いた口が塞がらなかった。貌の付近から意思が抜け落ちた。
太腿の内側をつねってみた。痛い。なるほど、そういうことか。
黒須太一は、どこかに偏在していたであろう、しているであろう
自分に感謝した。ポーカーで最後の一枚がジョーカーでロイヤル
ストレートフラッシュに成った瞬間と同等の気分であった。
そして、今度は自信満々に言う。
「青春したいねえ、曜子ちゃん」
「そう、だ、ね。したい、ね」
 下を向いて、真っ赤な顔をして。そわそわと落ち着きをなくして、
髪の毛を指で弄くったりして。およそ、支倉曜子からは遠い
支倉曜子がそこにいた。
 しかし、対した黒須太一も、何だか無性に恥ずかしくなってきた。
言うなれば幼なじみの女の子が、遠い昔以来、久しぶりに、
女の子らしい素振りを見せている。
 脈打つ心臓を押さえつけるかのように、理性を召喚する。
身の内に巣食う獣を抑え込むために、と理性が要求する。
青春とは何か。回答せよ、と。
 回答する。青春とは、此方においては、要するに好きだ、
と告白した瞬間に始まる、例の甘酸っぱいどきどきと胸が早鐘を
打ち腰やら膝やらの力が問答無用に抜けた挙句に脳内がぽわわん
として判断能力を著しく低下させるものの嬉しくて楽しくてやはり
その甘水に身を浸けてこその学校生活であることは間違いないと
一部の生徒は思っていることであろう、

「太一」
 声とともに、ランタイムのエラーだとメッセージが出た。ついで、
画面が切り替わらなくなった。またもフリーズ。だからミレニアム窓は
嫌いなんだ。脆弱すぎる。システムを再起動。嘆息する。
これでまた理性について最初から、
「決めたから」
 再起動中なのに電源ごと引っこ抜く声。ぷつん、カラカラ。
「私、太一と青春する」
 支倉曜子はそう言って、両のほっぺに作った横楕円をピンク色に
ぽっと染めた。
 それを見た黒須太一は、紙姉妹の末妹が時折見せるテレテレ
ほっぺをぼんやりと思い出していた。

 具体的にはどうするのか、と説明を求める支倉曜子に対して、
探るように上を見て、つまり、小学生や中学生の女の子が購読
している雑誌やコミックスに描かれるような、夢見る年ごろの
ドリィーミィーでラブなストーリーを体験するのであり、
今回それにあたっては、そのジャンルで恋のバイブルとまで
評された作品の後番として連載されるも不人気で打ち切られたのに、
どういう経路からか国内でアニメ映画と言えばここ、なところで
映画化されたものの、原作と映画とは内容が激しく異なり、
結局同じなのは名前だけかよ、羊頭狗肉じゃねーか、と言われつつも、
映画単体で考えたときにはやはり名作であった、
例のやつを用いようと思う、と黒須太一は説明した。
 曜子は立ち上がって、
「成る程、私だって役に立ちたいんだからぁ、って言えばいいのね」
 無言で頷く太一。
 折り良くその舞台同様に空には夜明けが迫っている。
冬でないのが残念でならないけれど。

「取りあえず、制服に着替えて。オレは自転車探してくるから」
「あれって私服だったけど」
 既に、躰には恥ずかしさではなく爽快感が宿っている。
「いいの。制服の方が青春してるっぽいでしょ」
 青春の、扉が開く。

 黒須太一はどこかへと消えた後、支倉曜子は一旦家へと制服を
取りに行き、その足で黒須太一の部屋へと戻った。ドア口から見る
窓の外は黒から紺から青へと移行する頃合だった。
 入ろうとして、フローリングに散らばった写真を掻き集める。
踏まれて、少し痛んだのもある。輪ゴムで纏めて、机の上に置いた。
 窓を開けると、夏ながらも朝方の空気が涼しい風となって吹き
込んできた。風に薙がれて、黒く豊かな髪が唇へと降りかかる。
払って、服を脱いだ。下着とニーソックスだけになる。ゆっくりと、
制服に身を包んでいく。手鏡でどこかおかしいところがないか、
確認していく。最後に自分の顔を見て、支倉曜子は動きを止めた。
自分の笑顔。見るのは初めてかもしれなかった。

 用意が完了して、支倉曜子は窓辺から朝の風景を眺めていた。
太陽が昇る前の静謐な青。活力がみなぎる前の穏やかな眠り。
遠くに見える送電線の奥、木々がざわめいていた。
 ふと、視線を地面に移す。制服姿の黒須太一が自転車に乗りながら、
手を振っていた。振って、荷台の部分を指差す。
 支倉曜子は、そのまま窓から飛び降りようとして、慌てて制止する
黒須太一の指示に従って、部屋を出て、階段を駆け下りて、
靴を履くのももどかしく転げるように外へと出た。
「太一っ」
 自転車が駆け寄ってくる。目の前で黒須太一がサドルから飛び降りて、
「曜子ちゃん、早く乗って、時間がないんだ」
 力一杯に破顔した。

 黒須太一は自分にひしっと掴まる支倉曜子が自転車から落ちないように
気をつけながら、それでも出せるだけのスピードは出して、つとめての
道をひた走っていた。躰で風を切る。
 林道を抜けて、視界が開けた。田園地帯を自転車が行く。長い直線。
スピードが増す。
 広い直線から一転、直角カーブから小道へと入る。その先に見える、坂。
 急激にスピードが落ちる。きつい。ひたすらきつい。さしもの
黒須太一も立ちこぎに切り替えるが、それでもスピードは上がらない。
「降りようか?」
「大丈夫、曜子ちゃんを乗せて坂道登るって決めたんだ」
「うんっ」
 黒須太一は呆気に取られて思わず振り返る。そこには嬉しそうな支倉曜子。
「曜子ちゃん? 何か違うくない?」
「太一、ふぁいとー」
 萎えそうになった気力を振り絞る。
「こんちくしょー」

 自転車を止めた。行き止まり。給水塔みたいなものがフェンスと有刺鉄線に
守られて建っていた。その脇、雑草が覆い茂った隘路を通る。一歩足を
踏み違えれば、ブロック塀で固められた斜面に転がって、落ちてしまいそうな
細い道。夜が明けつつあるとは言え、まだ足元は覚束ない。それでも、
黒須太一と支倉曜子はためらうことなく前へと進んだ。双頭の電燈が
薄い光を注いでくる。
「間に合った…」
 フェンスが覆う敷地の先へと出て、黒須太一は呟いた。
身長と変わらない段差を飛び降り、振り返る。
「持とうか?」
 支倉曜子は、ううん、と断りかけて、思いとどまり、
「……うん」
 と頷いた。手を差し出す。その手を、黒須太一がしっかりと掴んで、
飛び降りる。少しバランスを崩した支倉曜子を支えるように、二人は抱き合う。

そのまま手を繋いで、二人は地面が途切れるギリギリのところまで歩く。
 海みたいな朝靄だった。朝靄は遥か遠くで雲と繋がっている。
その横には朝靄に浮き出る島のように高層ビルがいくつも建っていた。
「――――凄い。朝靄でまるで海みたい」
「ここ、オレの秘密の場所なんだ。もうじきだよ」
 その言葉に導かれるように、山のような雲の向こうから、
橙色の光が射し始める。細い線が広がっていく。眩しい。陽がまた昇り、
世界が再生される瞬間。
 青かった朝靄を橙色に染め上げていく。遠く遠くの自分たちがいる、
そこまでも鮮やかに照らし出す朝陽。黒須太一も支倉曜子も言葉もなく、
立ち上り、世界の夜明けを眺めていた。
 風がそよぎ、草の匂いがした。
 空が、始まろうとしている。

――――――――――――。
――――――――。
――――。
――。
 部屋は暗かった。
 チッチッチと針が時を刻む音が耳にうるさい。
 支倉曜子は乱雑に積み上げられた書物を避けるように設置された
ベッドの上で目を覚ました。
 偏頭痛よろしく側頭部に痛みを覚えながらも、現状を認識しようと
辺りを見回す。パソコンに備え付けられた液晶モニタに待機電力を認めて、
躰を横にする。
 鼻の奥がつん、と痛んで、涙がこぼれた。手でぬぐう。止まらなかった。

 ひとしきり泣いた後、シャワーを浴びた。
 長い髪に付着した水分をバスタオルで取り払う。暗闇の中、視線はノイズを
吐き出すことしかしない薄いカード型のラジオに注がれている。
 支倉曜子が深呼吸をした瞬間、
 薄くなったノイズの奥から、小さな息遣いと、黒須太一の声、
「……こちら……群青学院放送部……」
 何度耳にしても、喉が詰まる。
「生きている人、いますか?」
「太一、」
 届かないと分かっていても、返さずにはいられない。
「もしいるのであれば、聞いてください」
 しかし、それに続いた黒須太一の声に支倉曜子の言葉は封じられた。
「昨日、髪の長い女の子の、オレのことを自分の半身だと言ってやまなかった
女の子の、夢を見ました。強くて、弱い女の子でした。
たくさんお喋りをしました。二人でパンを齧りました。二人で自転車に
乗って、坂を登りました。二人で朝陽が昇る景色を見ました。夢の中の
二人は冗談みたいなことばっかり言っていました。オレとその女の子は
生れ落ちた瞬間に青春から遠く離れた場所で生きなければならないことを
決定づけられていましたので、昨日の夢は、そのことの反動、
なのかもしれません」
 そこで声は途切れた。
 五分。
 そして、もう一言だけ、黒須太一の声が聞こえた。

 もうすぐ夜明けだった。
 また朝靄が海みたいになり、橙色の朝陽がそれを照らすことだろう。
 空が始まる、あの場所へ。
 支倉曜子は立ち上がる。
 制服へと着替えて、
 扉を開けた。
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