世界で、ひとつ

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 あの日あの時、二人の愛は成就した。
 沙耶。僕のいとおしい人は、その小さな身体を莢にして、世界でたった一つだけの花を
咲かせてくれた。
 本当に、美しい花だった。
 あの薄汚い世界の中で、たった一つの優しい光。災厄の箱の中、最後に残った、ちいさ
なちいさな希望。花のようにその身体を開き、虚空に向かって光を振り撒く彼女は、この
世のものとは思えないほど神々しく、美しかった。
 寂しくはない。世界は、沙耶で満ちているから。
 大気の匂いに沙耶を感じられた。
 風がそよぐたびに沙耶の囁きが聞こえた。
 空を覆う幻想的な色彩は、花開いた沙耶の色だ。
 悪臭を放っていた大地も、街も、生き物すらが、美しく生まれ変わっていった。
 すべてが終わり、そして始まったあの廃屋。そこから僕は見つめ続けていた。世界が、
沙耶の世界に変わる様子を。
 醜悪な町並みを、汚れた大気を、うごめく肉の塊どもを、それらすべてが浄化されゆく
その様を。
 一人、で。


  『世界で、ひとつ』


 寂しいと思った事は無い。
 ただ、ひとりで有り続けるには時間は永すぎた。
 世界がかつての面影をすべて失って、僕たちが住んでいた廃屋も倒壊し、記憶の中の沙
耶の顔すらぼやけるほどに時間が過ぎて、それでも僕には時間が残っていた。
 寂しいと思った事は無い。
 ただ、ふと足が街の方に向いただけだった。


 街への道はまさに驚嘆すべき光景だった。
 清流が流れ、緑輝く森の木々。大気には神秘的な靄がかかり、時折差し込む優しい日差
しに浮かび上がるような光を発する。
 林間から響く妙なる音楽はどんな鳥の鳴き声か。地から沸き上がる虫の音色を従えるよ
うに朗々と響き渡る。
 すぅ、と空気を吸い込むと、優しく愛しい匂いが肺を満たした。沙耶の匂いだった。
 僕の記憶に有るどんな光景よりも美しい景色。人間には作りえない風景だった。
『地球が泣いている』
 世界が人間のものだった時、そんな傲慢な言葉が使われたことがある。地球と言う天体
が人類のものでは無いのだから、少しばかり人類にとって不都合な環境に変わったところ
で地球は痛痒ともしない。それを敢えて擬人化し、歪曲し、矮小化して『泣いている』と
表現した事に、当時は吐き気すら覚えたものだ。
 だけれども、この世界の美しさを見るとはっきりとわかる。あの時代、きっと地球は泣
いていた、と。
 丘を下る足取りは軽い。
 自動車で数時間かかる道程を、二本の足がしっかりしっかり進んで行く。かかる靄のせ
いか、不思議と喉は渇かない。空腹を感じれば木々になる果実に手を伸ばせばよかった。
クッションがきいた感触の良い道はどれほど歩いても疲れを感じないほどだった。
 三日か四日は過ぎたと思う。
 輝くような靄に包まれた世界では、時間の間隔ははっきりしないが、おそらくそんなも
のだと思う。ともかく、三、四日ほどで特に大した苦労も無く麓にまでたどり着いた。大
した苦労も無かったから、大した感慨も沸かなかった。
 そうであっても、壮麗な町並みは大いに驚嘆するに値するものだった。天を衝くほどに
聳える建造物は、ビルディングなぞとは比較しようも無い美的感覚によって造られている。
かくて、記憶にあった雑然とし、調和を失ったコンクリの墓石たちは、美しく区画し、
調和された巨石建造物へと姿を変えた。
 調和といえばそうだ。大気に流れるこの匂いだ。大気に満ちたこの匂いは、間違いなく
森で感じたそれと変わらない。むしろ、より多くの生命を感じさせる生気に満ちてすらいた。
 かつての街といえば、胸がむかつく有毒なガスの臭いで満ちていた。自然と言えば、囲
いに作られた人工的な緑が精々だった。だけれども、この街はどうだろう。紛うことなき
文明社会だというのに、そこに自然が息づいている。自然と人工の絶妙な調和――いや、
もともとそれは対立概念ですらなかったのかもしれない。単に、人類が愚かでありすぎた
だけで。
 驚くべき街の風景の中、僕はふと疑問を覚えた。 
 街の中を散策してしばし、いまだに人間に出くわさない事だ。これだけ壮大な町並みな
らば、文明が存在しない訳は無い。それでも誰にも出くわさないのは、どんな理由がある
のだろうか?
 首を捻りながら見上げると、霧深い大気に紅みがかかっていた。森に比べて靄の少ない
街の中では、朝晩の区別があるようだった。
 鮮血のような色を帯びた空は、見る間に闇色に塗り変わり、夜の帳が全てを覆う。ねぐ
らを探さなくてはいけないなと、そんな事を考えながら、夜の街を一人歩いていた。
 かたん、と何かの音がした。
 振り向くとそこには、僕が初めて見るこの街の住人がいた。
 少女だった。白い肌に翠の髪、愛らしいつくりの顔が驚いたように僕を見ていた。
 似ている特徴は一つも無かったけれど、その顔には沙耶の面影があった。それに、ああ。
 鼻梁の作りは僕に似ている。間違いなく、彼女は僕と、沙耶の娘だった。この世界に生
きるすべてのものが、僕と、沙耶の子供たちなのだと、その時初めて確信できた。
「こんばんわ。いい夜だね、お嬢さん」
 僕たちの娘に、僕はそう言って微笑んだ。
 長いこと使っていなかった喉が、ちゃんと声を発してくれるか心配だったけれど、なん
とか上手く喋ることができた。
「――ぁ」
 少女は、一瞬だけ僕と視線を合わせ、それからすぐに引っ込んでしまった。
 ひどく奇妙な話だった。夜半にはまだまだ時間はある。にもかかわらず、これほど大き
な街に人間の姿が見られない。やっと発見した少女は追い立てられるように逃げ去ってし
まう。まるで、街全体が、息を潜めているようだった。
「なんなんだろうか。いったい」
 言葉を思い出す意味も込め、思うことを口に出す。がらんとした街並みに響く言葉は、
幾度も反響してまるで聞き覚えの無い声に聞こえた。
「誰かいないのか? おぉい」
 問いには、静寂ばかりが返ってくる。
「仕方ないな。こちらから探すか」
 そう決意して、手初めに近くの建造物に足を踏み入れた。
 部屋という部屋を虱潰しに当たって、そこに人が居ない事を確認し、そして次の建物に
入る。そんな事を何度か繰り返した後だった。
 かたん、と何かの物音がした。
「ははぁ、探しても見つからないわけだ」
 それは、地下への入り口だった。簡単な仕掛けだが、あらかじめ知っていないと普通の
床と区別がつかないようにできていた。先程の音は恐らく、中にいる人々が上の様子を伺
ったのだろう。
「それにしても、どうして隠れたりしなくてはならないんだ?」
 入り口を下ると、すぐにかぐわしい匂いがした。草原に吹く風のような爽やかな匂いだ。
久しく忘れていた、沙耶の匂いに似ている。
 人の声が聞こえたのはそのすぐ後だ。心休まる懐かしさがそこにはあった。思わず、走
りだしていた。階段を降りきると明かりの差し込むドアが待っていた。扉を通してすら、
その先の人の気配を感じる事ができた。
 そっと、透き間から中を覗き込む。ずっと探していたものがそこにいた。人間だ。清潔
な衣服をまとい、心温まる表情で談笑を交わす。その、一つ一つの顔に僕は見覚えがあった。
 遠い記憶の向こう側。僕の事を好きだと言ってくれた女性によく似た女性がいた。辛い
時には叱咤してくれた人の面影を持つ初老の人物がいた。ああ、あの腕白小僧は僕の親友
だった。僕がどれほど変わろうとも、最後まで僕のことを考えていてくれたあいつに――。
 彼らはすべて、遥か過去の隣人たちの子孫なのだろうと直感できた。何より、彼らはす
べて僕と、沙耶の特徴を兼ね備えていた。彼らは皆、隣人たちの子孫であり、僕と、沙耶
の子供たちでもあるのだ。
「おぉい。君達――」
 ドアノブを捻ったのは中ば無意識だった。暗闇の中から、明かりの下へと足を踏み入れ
る。その瞬間だった。

―――きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!

 誰かが引き裂くような悲鳴を上げた。煌々とした光は瞬時にすべて消え去った。ばたば
たと、慌てて走る去る音が、闇の中に響いていた。
 その乱痴気騒ぎの元凶はすぐに知れた。扉を開けた僕の正面に、それはいた。糜爛し、
腐敗し、汚らわしい臭いすら発している汚泥の塊。この、僕と沙耶の世界には存在しては
ならない醜悪なる汚物。何より我慢ならないのは、闇の中んからこちらを伺うその動作が、
明らかに人間を――正面に立つこの僕を――涜神的に真似ている事だ。
 これを、存在させて続けてはいけない。
 沙耶がその小さな体を犠牲にして創り上げたこの世界。その美しさを守るためには、こ
れは存在してはいけない。そう思った時にはもう、僕は弾けるように飛び出していた。
 歯を食いしばり、拳を握り、迎え撃とうと構える化け物目がけて走り出す。たとえこの
命を失おうとも、この化け物を殺せるならばそれでよかった。
 瞬く間に、息が届くほどの距離に達した。息が詰まるほどの悪臭が周囲に漂う。目を向
けるのも憚られるような醜い腕が、僕を捕らえようと振り上げられる。委細構わず、僕は
体ごと拳を叩きつける。確かな手ごたえが手の中に返ってきた。

 ガシャンっ! と、ガラスが砕ける音がした。


 それからすぐ、僕は再びあの丘に帰っていった。
 きっとそれからは、永劫の時を一人で過ごす事になるだろう。
 寂しくはない。世界は、沙耶で満ちているから。
 大気の匂いに沙耶を感じられる。
 風がそよぐたびに沙耶の囁きが聞こえる。
 空を覆う幻想的な色彩は、花開いた沙耶の色だ。
 この世界は沙耶そのもので、全ては僕のものだった。

 ただ、たったひとつ。
 そう、ただひとつ。僕だけが、沙耶のものだった。それだけだ。

 砕けた鏡に映った己の姿が、それを教えてくれた。

                      ――終――
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