沙耶の唄・耕司その後

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「――――!」
それは悲鳴ならぬ悲鳴だったのだろうか。
いつもの悪夢から覚醒すると、耕司は大きく息を吐き出しゆっくりとベッドから身を起こす。

時計を見る。午前4時。
決まって悪夢から醒めるのは午前4時だ。
(そういえばあの狂気の夜も午前4時だったっけ…)
買い置きの煙草を咥えながら
今更そんな事に気づいて苦笑する。
どうでもいいことだ。

「おや、今日は随分とご機嫌じゃないか。」
不意に声をかけられ振り返ると
肩口から切り下ろされた死体が、デスクトップチェアに腰掛けてコーヒーを啜っていた。
これもまた、いつものことだ。
「そういうんじゃありませんよ、先生。」
曖昧に答えながら煙草に火をつけた。
そういえば最近客人は自室にも現れる。症状が進行しているのだろうか?
「ふぅん…でもね、戸尾君。私は少し安心したよ。」
「安心―――?」
「そう。ああして自然に笑みがこぼれるということは、
 君はまだ狂気に覆い尽くされていないって事だからね。」
「それは医者としての見解ですか?それとも経験者としての感想?」
「おやおや、言うようになったねえ、君も。」
涼子は口元を歪めた含み笑いで耕司の問いに答える。
「俺は先生という前例を見ていたから、まだここで踏み止まれているというだけですよ。
 精神安定剤も洗面所にありますしね。―――先生、煙草もう一本吸ってもいいですか?」
「私の許可はいらないだろう。君の部屋なんだ。」
「そうでしたね。」
新しい煙草に火をつけて顔を上げると、もう幻影は消えていた。
居間へ出て腰を落ち着ける。
耕司も先ほどの客人との会話が欺瞞に過ぎないことは分かっていた。
まだ最後の一線を越えていない安堵と、いつか越えてしまうだろう確信とが
綯い交ぜになった、逃避。

―――それでも。
と耕司は思う。耕司や涼子は狂気に侵食されながらも、
上辺を取り繕って生きるくらいの余裕はあった。
―――ならば。
上辺すら取り繕えなかった郁紀は―――郁紀には一体何があったのだろうか。
そこまで考えた所で、郁紀に寄り添うように事切れた沙耶を思い出す。
次の思考に及ぶより先に、言い知れぬ悪寒に襲われて耕司は洗面所に駆け出した。

鏡の裏に隠してあった奥涯の拳銃を手に取る。
目を瞑ってしばらくすると、大分落ち着いた。
この無骨な銃だけが、耕司の理性を保障してくれている。
あの晩涼子は言っていた。
「銃は良いよ。相手にぶっ放すも良し。自分の口に突っ込んで撃つという選択肢もある。」
今ならあの時の涼子の気持ちが分かる。
幸いにして、たった1発しか買わなかった弾丸は、まだ自分に向けて発射されていない。
―――これもまた、逃避なのだ。
居間に戻ると夜が明けようとしていた。
火をつけた3本目の煙草を燻らせ耕司は肩を落とす。
思い出されるのは、透明な表情のまま斧に頭を打ちつけた郁紀、
前進を止めなかった沙耶と呼ばれたモノ、
肉塊に成り果てた津久葉、冷蔵庫のタッパに保管されていた青海。
―――そして悪夢の中での自分の姿。
襲い掛かるのは、真実が告げる絶望と狂気の片鱗。
朝陽の中、耕司は少しだけ、泣いた。

夜が明ける。
耕司は空虚な日常へ向かうべく、そっと立ち上がった。

「じゃあな、戸尾君。元気出せよ。」

事件直後、猟奇殺人犯の親友だった耕司に対する周りの反応は冷たかった。
―――陰湿な嫌がらせや中傷もあったのだろう。
だが、当時の耕司は精神的に不安定な状態だったため、その時の事は殆ど覚えていない。
余裕が無かったのだ。

余裕があったとしても―――何も変わらないと耕司は考える。
嫌がらせにしろ、中傷にしろ、今の耕司にとっては恐れるべき対象ではないからだ。
それをするのは、ただのヒトだ。
そこには、面白半分の悪意と捻じ曲がった義憤はあっても、狂気は介在しない。
ならば、あの日の記憶も、耕司の内の狂気も喚起されることはない。
結局―――何も変わらないのだ。
もっとも、新しい「的」が見つかれば勝手に離れていく連中だ。
しばらく経つと耕司の周囲の喧騒は無くなっていた。

「戸尾君?」
「え?」
男は、やれやれとでも言わんばかりに肩を竦める。
上の空でキャンパスを歩いていた所、この男に声を掛けられていたらしい。
「ほら、元気出せって。」
耕司の背中を大仰に叩く。
顔と名前も一致しない学友からの激励。
ゴシップ趣味の連中の代わりに、今、耕司の周りに居るのはこういう連中だ。
それは、やはり好奇であったり
親友に恋人を殺された耕司への同情であったりするようだが、
耕司にとっては瑣末な問題だ。
「ああ、ありがとう。」
笑顔を作って見せる。
「少しずつ慣れていくさ。生活の事も、事件の事も、な。」
心の中では自分に毒づきながらそう答えると、男は安堵の表情を浮かべる。
「そうか。今日はもう帰りか?」
「ああ、またな。」
最後に軽く手を振って別れた。

『上辺だけ取り繕うのは、それほど難しいことじゃない。』
いつかの涼子のセリフを思い出す。
(まったくですね、先生。)
しかし耕司は、このような上辺だけの応答を大切だと思っている。
親友や恋人と同時に、涼子という理解者―――いや、狂気の共有者と言った方が正確だろうか―――
も失った耕司が、危うい均衡の上で何とか踏み留まれているのは
正気の人間との対話に因る所も大きい。
家に一人で居ると、自分はいつ最後の一線を越えてもおかしくない、という幻想に付き纏われる。
フラッシュバックする光景、寝ても呼び覚ます悪夢。
目を背けようとしても、一度照らし出された真実から逃れることは出来ない。
少なくとも他人と相対している間は―――そういう心配からは開放される。
これもやはり―――逃避なのだろうか。

信号待ちで車を止める。
運転も上の空だったが、どうやら帰路の半分くらいまで達しているようだ。
「いつまで…。」
誰に問いかけるでもなく、呟く。
「ああ………。」
直感。
「郁紀は……沙耶に縋ったのか……。」
思考の飛躍。
耕司は郁紀と沙耶がどのように出逢ったのか知らないし、
彼らがどのような生活を送っていたのかも知らない。
しかし、なぜかこの直感は間違いではないと思った。

これから自分はどうなっていくのだろうか。
昏い気持ちで、流れる風景を見つめる。
このまま緩やかに壊れゆく自分を、静かな気持ちで受け入れるのだろうか。
郁紀にとっての沙耶のような、縋り委ねることの出来る存在を待つのだろうか。
それとも、涼子のように偏執狂的とも言える潔癖さで隠れ棲む者を駆逐して精神の安定を保つのだろうか。
「…どれも碌なモンじゃねえな。」
乾ききった自嘲が車内に低く響いた。
どれも同じだ。
奥涯のように自分で自分を排除するか、郁紀や涼子のように他人に排除されるかの差異しかない。
あの事件で涼子は郁紀に殺されたが、
いつかは涼子も、自分自身も排除されるべき異端者であることに気付き自決しただろうと思う。
「今夜会ったら聞いてみようかな…。」
涼子の幻影は耕司の生み出す弱さだ。
聞かずとも答えは分かっていた。
分かっていたが、そう言わずにはいられなかった。

車を車庫に入れ、玄関まで歩いたところで、はたと足を止める。
「買い置きの煙草、切らしてたんだっけ…。」

近くの自販機で煙草を1カートン分だけ買う。
再び家路につこうと踵を返した耕司の眼に、眩いまでの夕陽が突き刺さった。
空を朱く染め上げる夕焼けに、
狂気に侵されていく自分が連想されて一瞬気分が沈みかけたが、
同時に、素直に美しいとも思った。
世界の残酷なまでの美しさに、何故か涙が出た。
しばし我を忘れて呆然としていた耕司だったが、
やがて、煙草を手に歩き出した。
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