なんとなく、アモルファス

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「あ……そ、その、拓巳くん?」
 おずおずとした少女の声。
 日は高く南に昇り、燦々と陽光の降り注ぐ正午。
 場所は校舎の屋上。温い風が吹き渡る、無意味に広い空間。
 俺たちは給水タンクの影に入って熱をやりすごしていた。
「なあ、ほのか」
 ぴくっ
 小さく首を傾げていた少女が、はっきりと分かるくらいに肩を震わせる。
 一瞬だけ、つぶらな瞳が見開かれた。
 おまけに口元まで若干緩く開いた。
 まったく──大した反応もあったもんだ。
 溜め息をつきたくなる。
 下の名前を呼ぶくらい、もうお互い慣れっこになったはずというのに。
 それでもこいつは不意打ちに弱いらしい。
 日陰に入っておきながら、頬を紅潮させている。相変らず熱効率の悪そうな女だ。
「は、はい──な、なに……かな?」
 しどろもどろの返事。今更照れ合う仲でもないだろうに。
 内心呆れながら、手元の箱を引き寄せた。
「以前言っていたよな」
「え? えっと……?」
 ひとしきりまばたきをした後、考え込むほのか。
 思い当たる節がないからか、うんうん唸って頭を抱え出した。
 いや、さすがに俺もこれだけで通じるとは思ってないから。
 ただでさえ打っても響かない鈍度100%のおまえに当意即妙を期待しちゃいない。
「ほら、マス・バーガーに連れて行ってやったとき──」
 箱を開けるタイミングを見計らいつつ、記憶を刺激してやる。
「チーズが好きって、言っていたよな?」
「あ……は、はい、なの……」
 こくこくと頷いた。
 ややぎこちない動作。
 こいつと会話しているとなんだか、人形とか、子供の玩具をいじっているような感覚を味わう。
 たぶん、首のあたりがブリキで出来ているんだろう。
「そうか──良好だ。
 もしそこで『ち、違います……なの』とか言って否定された日には俺かお前が死ぬハメになっていた」
「し、ししししし死ぬって!?」
 絶叫が四方に拡散する。
 ほのかはマジでビビっていた。
 がたがたと大袈裟に身体を震わせ、こぼれんばかりに目を見開く。
 俺なら時限爆弾でも発見しない限りここまで動揺はしない。
「屋上に残された変死体──最後に接触したはずのクラスメイトは行方をくらまし、
 白昼堂々の怪事は真相不明のまま闇に葬られていく。そんな筋書きが頭に浮かぶようだ」
「へへ、へんし、たい……!」
 ほのかの脳内辞書に「変死体」が如何なる項目として登録されているのか興味はあったが、
いやぶっちゃけないんだが、とにかく面倒なので訊かないことにする。
 そろそろ箱も開けないとな。あんまり勿体つけていると昼休憩が終わる。
「まあ、大丈夫だ。今やその可能性はなくなった。だから安心してこの箱を開けろ」
 言いつつ、持っていた箱を差し出す。
 ざっと30×30×30の白い紙製の箱。
「………?」
 怪訝な表情を浮かべていたが、条件反射のように手が伸びて受け取った。
「……わ、わわっ」
 予想していたよりも重かったらしい。
 手渡した途端、落としそうになりやがった。
「おっと」
 すかさず支える。程好いタイミングで押さえて落下を防いだ。
 箱の中でガシャガシャと金属のぶつかり合う音が鳴った。
「あ、ありがとう……なの」
 申し訳なさそうな顔つきで礼を言う。ちぐはぐだ。
「はぁ、なんだかな──」
 こいつと一緒にいると、日頃の反射速度に磨きがかかってしまう。
 もはや、宿命。
 ヘマを打つほのかと助ける俺。
 どうやら俺とこいつは補完関係を免れないようだ。
「ん……んしょ」
 バランスを取り戻したほのかが片腕でしっかり箱を抱えつつ、その蓋を開けた。
 のさのさ、のさのさ……
 実にもっさりしたモーション。
 要するに、トロい。
「おい」
「ふぁ?」
 間の抜けた顔と返事。
「箱開ける前に昼休憩終わっちまうぞ、アホ」
「は、はい……! い、いそ、急いで開けます、なの!」
 慌てて箱を地面に下ろし、両手で開けにかかった。
(最初からそうしていれば良かっただろう)
 思ったが、わざわざ言うこともない。腕を組んで見守った。
 そうこうするうちに、蓋は開いて、ようやく中身が晒されたわけだが。
 ……で、昼休憩終了まであと何分だ?
「えっと、」
 腕時計を覗き込む。
 そのとき俺の耳に「ふぇ?」と腑抜けた声が飛び込んできた。
 思わず顔を上げた。
 地面にぺったり座り込んだほのかが、呆けた顔つきで箱の中を眺めている。
「……なんなの?」
「何だと思う?」
 逆に訊いてやる。
「え、えっと……」
 ガサゴソと中を漁り、一つ一つ掴み出して行く。
「鍋なの」
「ああ」
 陶器製で、ずんぐりした取っ手が付いている。
「ランプなの」
「そう」
 四足のスタンドに内包されたアルコールランプ。
「トレーなの」
「だな」
 鈍く光る円盤。
「フォークなの」
「ほう」
 黒いグリップが付いた細身のフォーク。
 いざというときはそのまま凶器に使えそうだ。殺傷力は低いだろうが。
「以上四点、なの」
 空であることを示すため、わざわざ箱を逆さにして振るほのか。律儀なやつだ。
 箱からは細かい屑がこぼれるだけだった。
 思う存分「もう中は空っぽ」という事実を表すことができて満足なのか、微笑みながら箱を置く。
「じゃあ、もう言わなくても分かるよな?」
「え……えぇっ?」
 笑みが凍り、即座に反転。
 唐突に理解を要求され、ほのかは焦り出した。
 上向いた顔の全体から救難信号が発信されたが、無視した。
「はう……っ」
 スルーされたショックに言葉をなくしたようだった。
 ここまで分かり易いと逆に観察し甲斐がない。
 瞳の動きだけでもわたわたと惑う様子が見て取れた。
 ごくごくいつも通りの反応。
 物凄くストレートに、ほのかは混乱している。
(こいつ一生、ポーカーフェイスは会得できないだろうな)
 ここまで過剰に反応していちいち動揺を顔に出すようでは、きっと駅前あたりで
複数の男女から「手相の勉強」相手をさせられまくっていることだろう。
「あーっ、生命線切れてますね」
 と言われて「ふぁ、ふぁあああ!?」と驚愕するこいつの顔が目に浮かぶ。
 物凄くクリアーに。
「あ、あうぅ……そんなぁぁ」
 情けない声を出すほのか。心なしか涙目になっている。
 俯くと、考え込むように押し黙った。
「……ええと……ええと……」
 穏やかとも言える時間が風の中へ溶けていく。
 たっぷり数分が経過するなか、俺は遠くの町並みを見遣って思いに耽った。
 これはたぶん、間に合わないだろうな──と。
「あ……っ」

 空気を震わせるベルの音。昼休憩の終わりを告げる響きが、辺りを漂った。
 ほのかはのろのろと、なめくじの歩みにも似た速度で立ち上がる。
「拓巳くん、きょ、教室……行かないと……」
 おずおずと。ひどく遠慮の混じった声で言う。
 注意なのか、提案なのか。それすら判然としない。
 苛立ちを誘う。「自分」というものが喪失しているのか、いないのか、曖昧模糊としたこいつの言葉に。
 噴き出しそうになる暗い気持ちを奥歯で噛み殺しつつ、背を向けた。
 ──校舎への出入口に。
 自然、顔はほのかと向き合う。
「た、拓巳くん……? 行かなくて……いいの……?」
 自分の意見を一切匂わせることなく、怖じの入り混じった、それでいて透明な口調で訊く。
 生温い風が吹いて、片方だけ結んだ彼女の髪房が揺れた。
「言ったろう──」
 立ち上がったほのかとは反対に、腰を下ろしたままの俺。
 威圧的な口調も、顔を見上げながらでは間が抜けていて、普通なら効果なんて期待できない。
 それでも俺は、立ち上がる必要がない。
「否定したら、俺かお前が死ぬハメになるって」
 罅割れた言葉。
「───っ」
 少女が息を呑む。
 言った本人でさえ、不安定とはっきり読み取れる響き。
 視線は依然として彼女を捉えたまま。
 憐れむほどに可愛らしいほのかの貌を、斜め下から見上げたまま。
 俺は彼女の心中に残る僅かな躊躇いを憎んで、目を細める。
 こんな場所で。こんな状況で。まるで冗談みたいなのに。

 俺はどうしようもなく本気で殺意を忍ばせてほのかを見つめている。
 何よりも俺自身が笑いたい気分だった。
 とても愉快だったから。
 ほのかの返答次第で、地面に転がるフォークを掴んでどうにかしてしまいそうな自分が滑稽だったから。
 そんな殺傷力の低い食器で何をしようというんだろう。
 くだらない。
 踏ん切りがつかなくて、なかなか切り出せなかっただけなのに。
 ほのかがもたついて、昼休憩のタイムリミットが来ることは半ば想像していたのに。
 どうしてこう、いざほのかが抵抗の兆しをチラつかせるだけで、暴走しそうになるんだか。
 狂いかけている自分を、笑い飛ばしたい自分。更に外部からそれを冷めた視点で観察している自分。
 入子構造の精神。
 こんな見方をすること自体、俺が壊れていることの証左と言える。
 ほのかという存在を大切にしたいから、わざわざ商店街まで寄って一式を買い揃えたくせして、
いざ本番になると柄にもなく羞恥が湧いて、持ち出すのが遅れた。
 それが原因で昼休憩を浪費し、食事も取らず屋上に佇むって状況に戸惑ったほのか。
 彼女が迷いに迷った末、消え入るような声で訊いてきて初めて切り出すことができた。
 原因は己の羞恥。救ったのは彼女の歩み寄り。
 なのに、なぜ、俺は今こんなにも彼女を壊したがっているのか。
 優しくすることより、優しくしないことがそんなにすきなのか。

 ──もうどうでもいい。
 あらゆる理屈は捨ててしまえばいい。
 早くこの場でほのかを組み伏して、犯せ。

 勃然と込み上げる欲情が、全身の血と肉を支配しそうになる。
 手綱を渡せば元通り、俺は彼女の身体を弄ぶことでしか気持ちを伝えられない低能に成り下がる。
 別にそれは構わない。俺の故障は修復不可能な以上、どう足掻いたってごまかすことはできない。
 今、この欲情を押し殺したところで、いずれ俺がほのかを蹂躙し、征服することを願う衝動に負ける。
 今夜か、明日か。いつとは知れないが、俺は確実に彼女の柔らかな肉を求め、襲う。
 そして彼女もそれを受け容れる。拒否する機能が元よりない。彼女も俺と出会う前から壊れている。
 欲しがる俺と与えるほのか。何の問題もないふたり。
 今すぐに押し倒してしまっても何も損なわれることはない。そういう関係だ。
 俺が気紛れに壊し、ほのかは壊されながらも服従し続ける。
 まったく問題のない俺たち。
 それでも、俺は──
 ──ほのかとの、壊れていない時間がほしい。
 無駄と知りつつ、胸の奥と下腹部に沈んだ劣情を、もっともっと深いところに押し込んで封殺した。
 どうせ間をおかず甦ってくる。また出会うだろう。
 一方で立ち竦んでいたほのかも、ようやく行動に出た。
「……はい」
 ゆっくり、羽根が舞い降りるように。
 スカートを撫で折りながら、しゃがみ込む。
 服従こそ彼女の意義。
 他人の命令に隷従することが楽、と言い切るほのかにとって至極当然の結果だった。
 全身から力を抜いて、構えを解く。
 従うと分かっていても、不安でならない。
 ほのかが俺の道具であることをやめ、自分の足で立って自分の考えに沿ってのみ、
行動するようになる日が来るのではないか。
 根拠のない怯えが密かにある。
 そんなときが来たら、俺にはもう、一つしかコミュニケーション手段が残されていない。
 殺すことしか。
「ほら、組み立ててみろ」
 トレー、鍋、ランプを手渡し、フォークを掻き集める。
「は、はいなの」
 ほのかは真剣な顔をして、三つのパーツを合成する。
 じっ、と鋭い──こともない視線と、慎重な──つーか、とろ臭い手つき。
 傍から見ていると、積木遊びをしている幼児みたいだ。
 さすがにこればかりは手間取ることもなく、十秒足らずで完成させた。
 トレーの上に乗ったスタンド状のランプ、更にその上へ配置された陶器製の鍋。
 理科の実験器具に見えないこともないが……俺の持っているフォーク群を鍋に放り込めば、
一瞬にして調理器具以外の何物にも見えなくなった。
「こ……これって……」
 ほのかは──絶句した。
 頭の回転が手動レベルのこいつでも、さすがに理解したようだ。
 もはや授業をサボったことさえ念頭にないだろう。
 とてものんびりとした仕草で俺を見上げるほのかの目は、一点の曇りもなく輝き、
見ているこっちが眩しくなるほどだった。
「ち──チーズ、ほ、ほ、ほんでゅ──っ!」
「おい、今『フォンデュ』って言えてなかったんじゃねぇか?」
 俺のツッコミも耳に入らないといった風情で、急激に度を失っていく。
「ち、ちちちちちチーズが、ここ、これって溶け、溶け、溶けっ!?」
「確かにチーズを溶かすのは正解だが、まずは落ち着け」
「で、でも、でも、ち、チーズがなな何人も、何人もっ!
 溶け、溶けて、パンとかに、くるくるって……!」
「だからチーズは人じゃないと何回言えば」
 たぶん、何回言っても無駄なのだろう。
 今まで注意しても直る気配はなかった。
「ほ、ほ、ほんでゅっ!」
「言えてない、言えてない」
 やはり発音が怪しい。ほのかは興奮するので精一杯みたいだった。
 揺れる身体が足元のチーズフォンデュセットを薙ぎ倒さんばかりで、なんとも危なっかしい。
 ひとしきり興奮した後で、ようやく平静を取り戻したほのかが訊ねる。
「拓巳くん、それで──ち、チーズは?」
「あん?」
 首を捻ってみせる。
 ほのかは必死になって両手を広げたり閉じたり、謎のジェスチャーを繰り返す。
「あの、その……ね? な、鍋とかだけあっても、その、つくれないの」
「まあ、当然だな」
 賛同の意を示す。
「そ、そうなの!」
 自信を得たように勢い込み、身を乗り出すほのか。
「ああ、そうだな」
「えへ、えへへ……」
 その顔は明らかに俺がチーズを用意しているものと信じて、微笑みにきらめいていた。
 ふいっ
 俺はほのかの視線を避けて、よそを向いた。
「?」
 にこにこしながら疑問符を浮かべるほのか。
 笑顔がだんだんと、俺の沈黙に合わせて曇っていく。
「え、えっと……」
 戸惑いを孕んだ声色。恐る恐る、怖々と、訊ねてくる。
「もしかして、拓巳くん……?」
「ああ、そっか──」
 遥か遠くをぼんやりと眺めて、呟いた。

「チーズも要るんだったなぁ──」
「え?」
 硬直した。
 物の見事に、固まった。
 生命活動を停止したのではないかと疑うほど、一分の隙もなくほのかの全身がフリーズした。
「えぇ?」
 ──嘘だと言ってください──
 瞳はそう訴えかけてきた。
「ごめんな、ほのか」
 返答は残酷なほど端的で。
 ほのかはぽかん、と口を半開きにした。
 傍らを吹き抜けていく微風が、髪をゆらゆらと揺らす。
 俺は黙って見守り。
 長い、長い──それこそ、口からエクトプラズムが出てきそうなほどの沈黙を経て。
「ふぁ……」
 彼方の水脈からやってきた奔流が。
「ふぁああ……」
 ドップラー効果を演出して。

「ふぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ
 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
 あああああああああああああああああああああああああああああああああああん!」

 全米を震撼させる迫力で炸裂した。
 音響爆弾と化した悲鳴が鼓膜の中で嵐に変じて荒れ狂う。
「ぎっ!?」
 想像を易々と越えた脅威に、背筋が凍りつく。
 慌てて両手を使って耳を塞いでも遅い。音の鈍器は掌のガードを突き破って鼓膜を乱打し、
終いには三半規管まで侵蝕して平衡感覚を錯誤させる。吐き気までしてきた。
「や、やめ……!」
 制止の声も届かない。そもそも俺自身、自分の声が聞き取れない。
 大絶叫の調べが他のありとあらゆる音を殺し、聴覚の隅々までを陵辱する。
 ──パリーン
 どこかでガラスの割れる音がしたのは幻聴か。
 それともこれが鼓膜の破れる音だった……ってオチか?
「ふぁあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
 遠ざかっていく鬼神の咆哮──いや、錯覚だ。
 ほのかはその場に残ったまま、ただ叫びだけが緩やかに収束していく。
 雨が止むように。
 気づけば、心臓を驚かす悲鳴は消えていた。
 なおも鼓膜はじんじんと痛み、鼓動もばくばくと慄いていたが、
両手を離しても無事が保証される瞬間が訪れ、俺はようやく平和を奪還する。
 口から躍り出そうになる何かを飲み下しつつ、バカでかい声で泣き叫んでいた女を見遣った。
 声帯を傷めていてもおかしくないくらいの声量で吼えたほのかは既に
声をなくし、ぐずぐずと泣き崩れている。
「うっ……はうっ……ううっ」
 呼吸音を操り、不器用に泣き続け、湧き上がりこぼれ落ちる涙を拭こうともしない。
 さすがに何も言えなくなった。
 昔、大型台風が過ぎ去っていった後の光景を見て、言葉を失ったものだが──こいつはそれ以上だ。
 今や言葉どころか、思考さえ失いかけている。
 呆然とほのかの泣き顔を見守る自分に意識が戻るまでどれだけの時間を要したのか、まったく分からない。
 完全に自失していた。
「う、ううっ……ひくっ……ひうっ」
 止め処なく涙を流すほのかに手を出しあぐね、どうしたものかと思案する。
「ぐ……ず……」
 泣き声に濁点が混ざってきた。洟が出てきたのだろうか。
「ったく」
 制服のポケットをあちこち掻き回し、見つけたティッシュを二、三枚抜いて手渡す。
 最初はなかなか気づかなかったが、何度も差し出していると、ついに認識したのか素直に受け取った。
 ずびっ、と洟をかむ音が篭もる。
 うん、ハンカチを渡さなくてよかった。
 どうでもいいことを思いながら、立ち上がる。
「た……たく、たくみ、っくん?」
 しゃくり上げるほのか。俺の動きを注視している様子だ。
 てくてく、緩い足取りで地べたに座り込むほのかの横を潜り、奥へ向かって行く。
「………」
 たぶん、あいつは不思議そうな顔で俺の行動を眺めてるんだろうな。
 振り返らなくても分かった。
 分かったから、しゃがみ込んで、給水タンクと地面の隙間──僅かな空間に隠していたものを取り出す。
「こんなこともあろうかと」
「……あ」
 ほのかの目が丸くなった。
 俺の手に握られているものが何なのか──包装されていても、直感で悟ったに違いない。
 なぜなら、俺とこいつはそういう仲だ。
「ほ、ほんとう……?」
 それでも、まだ容易には信じがたいといった顔をする。
「もちろん」
 スライスして牛乳に浸し、水気を拭いたフォンティナチーズ。牛乳や卵黄、
バターまでパックして用意していた。無論、ひと口サイズに切ったパンも。
「ふぇええ……」
 ほのかの返答は言語を成してなかった。
 感心というより、放心の響きが濃い。
「じゃあ、やろうか。このままだと放課後になっても終わらん」
 優しさとも温かさとも程遠い、素っ気ないセリフ。
 ほのかは──
 近づいてくる俺に向かって、涙を拭き拭き、言う。
 笑いながら。
「──ひどいよ、拓巳くん」
 そこにぎこちなさはない。
 天然で無色の、透明な発言。ひどく心地良い。
「それが俺だ」
 嬉しさは噛み潰し、笑わずに、笑わずに。
 ただ静かに言葉を返す。
 材料一式をセットの横に置くと、懐からライターを取り出した。
 親指を滑らせ点火。
 そういえば以前、ほのかにライターを渡したら、
どうやっても火花が出るくらい早く回すことができなかった。
 まったく、芸術的なとろ臭さだ。
「火は俺がつける。ほのかは、あれだ──火遊びをすると、後でおねしょをすることになるからな」
「し、しないのっ。わ……私、こどもじゃないもんっ」
 笑みを引っ込め、半泣きで抗議をしてくるほのかだった。
 確かな形が崩れ去り、不確かな塊となって溶けていく──
「ふぁあああ……」
 いや、むしろこっちの方が激しく溶けてるんじゃないか?
 その表情を見るにつけ、思わざるをえない。
 とろけるチーズが発する香ばしい匂いに、ほのかの理性は限りなく薄くなっていた。
 ただひたすら食い入るように鍋の中を見つめている。
 あたかも視線だけで食事をしているかのよう。
 料理番組を視聴して飢餓を埋めんとする試みにも似ていた。
 ああ、そういえば──考えてもみれば、俺たちふたりとも昼飯を抜いていたんだ。
 空腹も重ねれば、弥が上にも理性は矮小化する。
 こいつに尻尾が付いていたら、きっとちぎれんばかりに振っているだろう。間違いない。
 かく言う俺も、今はチーズの溶け具合ばかりが気になっているわけだが。
「そろそろ、か?」
 先端にパンのかけらを刺したフォーク──チーズたっぷりの海へ変貌した鍋に突き入れ、潜らせ、充分に絡める。
 横でほのかはじっくりとその動きを観察していた。
 フォークを引き出す。柔らかいチーズが尾を引いて垂れる。
 口元へ運び──素早く食んだ。
「ど、どんな……味?」
 おずおずと。しかし、興味津々といった風に訊ねる。
 軽く咀嚼して飲み込んだ。
「何をしている──おまえも食えよ」
「あ──はい、なの」
 わくわく。こわごわ。
 相反する心情を垣間見せる手つきで、フォークをチーズの沃野に沈ませる。
 丁寧に、繊細に、針に糸を通すような精密さで混ぜ合わせ、絡め合わす。
 動作の目的は俺とまったく一緒なのに、その手法はまるで違っているみたいに見えた。
 俺が真似できない──真似しようとも思わない、ちまちました所作が、
不思議なくらいにほのかが「少女」であることを意識させる。
 その少女性に触れても、性欲は湧き上がってこない。今はまだ眠っている。
 壊れた俺たちが、壊れていない時間を楽しめるように。
 薄気味悪いくらいの穏やかさ。
 そして、「いただきます、なの」と呟きながら食べたほのかは、
「お」
 と一旦区切った後。
「おいひぃ……」
 目を見開きながら泣くという器用な技を見せて感想の代わりとした。
 もうそれだけで、俺たちは語るべき言葉を必要としなくなった。
 ほのかは口を閉じずに「おいしい」を連発。たまに呂律が回らなくて「おいひぃ」に。
 ハンバーガーのときは単に口が塞がっていたからだと思ったが、案外こいつの癖なのかも。
 けど、ツッコミを入れるのも億劫だったので黙っていた。
 歳相応の食い意地を発揮して、交互に貪り食った。
「もちろん、おかわりもありだ」
「───!」
「え、えと、えとね……拓巳くん?」
 食事を終え、片付けの最中。
 南天に掲げられていた日も西に傾き、放課後が近づいた頃。
 ぽつりと、彼女は言葉を漏らした。
「なんだ、ほのか」
「あ……」
 名前で呼んだら、懲りずにまた照れて赤くなった。
 やっぱり不意打ちに弱い。
「いい加減慣れろ」
 小突かれているというのに、「え、えへへ」となおも照れ笑いする。
 なんというか──どうしようもない彼女だな、こいつ。
 本当に。
「……でね。なんで、しようと思ったん……ですか?」
「あん?」
「その、えと、ち、チーズ、ほ、ほ……」
 相変らず言えてない。
「──フォンデュ」
 あ、言えた。珍しいこともあるものだ。
 それはともかく、動機だって?
「理由なんてあるか、バカ」
「あ……ご、ごめんなさい……なの」
 謝る必要のないところで謝罪をする。それは本来、俺の嫌う行為だが──構わない。
 だって、こいつは俺の──
「わ、私、て、テレビで、料理番組とか……よく見る、けど……」
 言いながら、ほのかはまだ赤い顔をしている。
 夕が近づき、穏やかになった気候。少し冷たさを含んだ風が吹く。
「何度か見たことがあって……一度も食べたことなかったから、う、嬉しかった」
「そうか」
 笑うほのかに背を向けて、西を見遣る。
 沈みゆく陽光は、それでもまだ目に痛かった。手庇をかざして遮光する。
「拓巳くん」
 いつにないシャープな声色が背中を刺した。
「──今度は私が拓巳くんの」
 望みを叶える番だと。
 続けられなくても分かった。
 俺たちの会話は最適化されている。
 呼吸だけで通じる想いすらある。
 言葉は──強いて、要らない。
 彼女がどんな顔をしているのか、脳裏に描きながら振り返り、そのイメージと現実を重ね合わせる。
 ピッタリと。一切の無駄なく、符合した。
 それは、彼女も俺の表情を想像して一致させようとしていることを条件に咥えたうえでのカルキュレート。
 互いが互いに読み合った結果。
 壊れているのに。
 こんなにも精密に、正確に、容赦なく分かり合えるということ。
 たぶん、それが一番の問題なんだろう。
「………」
 ずっと背後で、グラウンドを駆け回る運動部の掛け声が聞こえてきた。
 もうとっくに放課後。
 まったく、俺たちは揃って何をしていたんだか。
 ──いや、「俺は」何をしていたんだろう。
 溜め息が出そうだ。
 こいつとの関係が壊れ切っているなんて、承知の上だったのに、それでもまだ、
壊れていない部分があって、それに適応できる自分がいるんじゃないかと──縋りたかったのか?
 振り切れぬ疑問を抱えたまま、まっすぐほのかに向かい、歩を進める。
 微笑みを湛えているほのか──瞳は、静まり返った湖畔のよう。穏やかに光を反射する。
 抑えつけたはずの欲情が心のどこかで軋んだ。
 俺の欠陥を拠り所にして、大切な人を虐げたいという歪んだ気持ちが根を張る。
 あるがままに愛することできない。
 大切な人を傷つけることが、自分自身を傷つけることだと知っていても。
 俺は、ほのかをいびつな形で求めずにはいられない。
 求めなくなったときは、そのまま俺かこいつが死ぬハメになる。
 そう、死がふたりを別つまで。
 心の奥から昏い悦びが溢れ出してくる。
 詰まる距離。接触寸前まで行って立ち止まる。
 くしゃり、と栗毛色の髪を撫でて、耳元にそっと囁いた。
「とりあえずこの屋上を三遍走り回って『わん』と鳴け」
「……ふぁ?」
「いいから、回れ」
 呆然と見上げてくるほのかを突き放し、命令に従うのを待った。
 ──無駄に広い屋上を三周するのに、ほのかは五回もコケた。
 「へ、へーきっ!」と宣言して立ち上がった途端に目にも止まらぬ早業で転倒したときは、
慣れているはずの俺でもビビってしまった。侮れない女だ。
 割とボロボロになりながらノルマを終え、「わ……わん」と弱々しく鳴いたほのかがあまりにも愛しく、
そんなことを強要した己の愚かさまで愛してしまった。
 そう──愚かな自分さえ愛せるのだと実感しておこう。
 でないと、俺たちはあっさり砕けてしまう。
 弱さを弱さとして、故障を故障として受け止め、見据える必要がある。
 俺たちはもっとアモルファスにならなくては。
 それが束の間の延命措置だとしても、騙し騙しに生き延びて、叶うものなら……
 こいつと、添い遂げたい。

 夜。俺たちは自他の区別がつかなくなるまで無定形に愛し合う。
 見えない傷は一層深くなっていく。
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