無聊の夜

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 寛永の暦。
 暮れも暮れ、長月に墨雲がかかる宵の頃。
 静と凪ぐ池の水面に、落ちる人影がひとつ。
 影は女であった。
 細く白く、冷涼なその面。けれども表情には蔭が落ち、着物の衿は真っ黒で、
顔につけた白粉はところどころが剥げ落ち、雪の消え残りのように見える。
 その女が唇をきりと咬む。逡巡はわずか。二つの吐息の後、女は池の淵から

 かさりと草が鳴り、女は山猫のように身を弾ませた。
 転じた視線の先。老いた大樹の根に身を預ける男がいた。
 なぜ今まで気づかなかったのか不思議なほど、存在感のある男だった。
 目深な編み笠、寝かせられた錫杖、山伏の浄衣。顔はよく見えない。
 視線を返し、どこか乾いた声で男は問う。

 ――身投げか?

 情のない問いに、女ははいと頷いた。理由はと問われ、女は口を噤んだ。
 男が編み笠を上げる。
 赤い瞳で視線を返し、どこか乾いた声で男は問う。理由、は?
 振袖新造から座敷持となったばかりのその遊女は、ぽつりぽつりと言葉を
つなぐ。情夫が出来たこと。足抜けを図ったこと。情夫に自分だけ逃がされた
こと。あの人が、あの人だけが苦界に取り残されたこと。

 途端、男は興味を失い、編み笠を下げる。さほど珍しくもない話だった。
もはや目を向けることもなく、再び大木に身を預ける。が、

 ……、…………、

 本当にささやか。呼吸と判別もつきさえしない、解けた言葉。暗い言葉。
 我が身と恋人に対する悲哀よりもはるかに深い、憎悪の紛れた音の韻。
 わずかだけ覗いたそれに、再び興味を持ったのか、男が再度、口を開く。

「一つの選択を、お前にやろう。その憎しみが真のものならば、私がお前に
変わり恨みを晴らそう」

 女は眼を見開き、続く、代価として命をもらうが、との言葉に息を呑む。
 けれども逡巡はわずか。二つの吐息の後、女は頷く。

 八徳を残らず忘れた無頼の徒。その彼らが、残らず板間に倒れている。
 惨劇は一瞬、気づけばすでに、浄衣の男の両手は血で濡れていた。
 だが女の恐怖もまた一瞬。常軌を逸した殺戮よりも、柱に縛り付けられて
いる情夫に意識を奪わた。
 休みなく打擲を受けていたのか、頬は切れ唇に血は滲み、まぶたは腫れ
塞がっている。
 よほど暴れたのだろう。硬くなっていた縄の結び目をようよう解き、
彼らは比翼の鳥の如く身を重ねる。

 その、背後。赤い瞳の男が静かに立つ。

「約定は、覚えているな?」

 はいと女は頷き、亡人の穏やかさで死を迎える。
 健気にも目を閉じず、最後を見届ける眼差しの中。
 ひるがえる繊手はこの上もなく正確に、

 ――男の首を断った。

 見惚れるほど綺麗な弧を描いて、首が落ちる。
 重く湿った音が一度だけ。

 女の目が移ろう。
 自失から理解。理解から激情へと。
 切れ目などない。だがはっきりと判ずるほどの心の流れ。
 それは何よりも、この無聊に犯された身を慰める甘露であった。
 いまだに飽いることのない、私に許された唯一の娯楽。

 初めて、男は表情と呼べる程度に頬を緩め、女の憎哀を受け止めた。

「憎いか?」

 女は首ではなく、瞳の陰火で頷いた。

「私を殺したいか?」

 女は言葉ではなく、躯を抱く指で答えた。

「ではその手段をやろう」

 男の掌にのる、一匹の蜘蛛。小さな銀の子蜘蛛。

「人の子よ。お前に理由をやろう。手段をやろう。この妖を討ち果たす
力をやろう」

 壇、壇。あるかなしかの足音が、ゆるゆると女に近づく。
 男の背から影が伸びる。色紙で囲われた蝋燭に追われ、伸びる影は
八足の異形。

 編み笠の男。錫杖の男。浄衣の男。そして八足の影を持つ男は、
はっきりと女に微笑み、

 ――お前に、一つの選択をやろう

 長月に墨雲がかかる夜。錫杖を弄びながら男は歩いていた。

「ふむ。同族を作る。悪くない思い付きであったのだが」

 結局、あの遊女は人の身のまま、情夫の亡骸を置いて独りで逃げた。
 身投げする前の決心が偽りであったとは思えないが、さて、女心を
秋空に喩えたのは人であったか。

 恋を交わした相手であれ他人は他人。契機となるのはやはり他者では
なく、自己であるべきかもしれない。次に機会があれば、心得ておくと
しよう。

 次の機会。蜘蛛神たるこの身、待つ時間だけはいくらでもある。


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