「ゆらぎが望む永遠」

戻る
「孝之君……私、不安なの。ねえ……手を握っててくれる?」

 深夜の病室。
 遙の弱々しい声。空調の音にすら掻き消されそうな、か細い声。

「ああ」

 孝之は小さく頷いて、その手を握りしめた。
 乾いて骨ばった指の感触に改めて心の中で驚く。
 それを表情に出すまいと、強く奥歯を噛み締めて笑顔を作る。
 少しでも力を入れたらそのまま折れてしまいそうだ。
 あの頃のふくよかな掌の柔らかさはどこにも無い。
 ……これが現実。三年の長すぎる眠りは遙から何もかも奪ってしまった。

「私……私……」
 
 遙は目を泳がせながら何か必死に言おうとしている。
 握った手に僅かながら力が込められるのを孝之は感じた。
 まるで溺れた子供が激流に飲まれまいと、必死に何かにしがみつこうとする
かのように。

「何か、おかしいの……でもね……それが何なのか解らないの……」

 記憶の混乱はまだ続いていた。今をあの事故の数日後と認識している遙。
 しかし、少しずつ現実との乖離に気が付き始めているのは確かだ……

「大丈夫……大丈夫だから、今はゆっくりおやすみ」

「でも……」

「大丈夫」

 孝之は何度も"大丈夫"と繰り返しながら、身を乗り出してきた遙を再び横に
寝かせた。
 掛け布団を肩までかけて、ゆっくりとその長く伸びた髪を撫でさする。
  ……大丈夫なんかじゃない。
 こんな見え透いた嘘をどれだけ積み上げていけばいいのだろうか。 
 暗闇を灯火もつけずに疾走する一台の車。
 いつか崖から落ちる時が来る。そしてそれは遠い未来の話ではない。
 その日の事を考えると孝之の心は曇る。

 心の中に様々な光景が浮かんでは消えていく。
 傷心の日々を一緒に過ごしてくれた水月の顔。
 事故の前の、明るかった茜ちゃんの笑顔。
 自分を気遣ってくれた遙の両親の背中。

 あまりにも重い決断の時が迫っていた。
"今はあれから三年が過ぎている。そして俺は今、水月と付き合っている。"

 どうしても言えないその台詞。
 言えば何もかもが楽になるのだろうか……

「ねえ……あのおまじない覚えてる?」

「え?」

 知らぬ間に目をつぶって考え込んでいた孝之は遙の声に驚く。

「おまじない……忘れちゃった?」

「え、も、勿論……覚えてるよ」

「……嬉しい」

 遙の顔に笑みが浮かんだ。
 懐かしい笑顔。あの頃はこんな笑顔を毎日、それが当然の事であるかの
ように見ていたのに……
 そう考えながらも、孝之はじっと見つめてくる遙から目を逸らしてしまう。
 今の自分はあの頃とは違う。
 二人の変わらぬ愛を誓うおまじないなんて……
 甘い思い出の一つ一つが、今では自分を縛り付ける重い鎖となっている。

 どうしてこうなってしまったのか。
 遙への想いも、水月への想いも嘘ではないのに。 
 どちらかは明日にでも、醜い嘘となって汚れてしまうのだ。

 どうして。
 どうして俺がこんな。
 ギ……
 どうして……

 ギ……
 
 孝之はその時、不思議な音を聴いた。
 錆びた歯車が無理やり回転を始めたような音を。
 心の中の淀んだ部分に水滴が落ちたようにその音は波紋となり広がっていく。
 自分の一部が勝手に叫び声を上げているように……耳ではなく、頭の中に
直接響いている。
 孝之にはその音が何故か心地の良く聞こえた。
  ギ……

「どうしたの?」

 虚空を見つめたまま固まっている孝之に、遙が声をかける。

「いや……なんでもないよ」

 まるで他人事のように孝之は生返事をした。
 音が頭の中で段々と大きくなっていた。
 今では割れ鐘のように激しく頭蓋の中で響いている。

 ……何だ? 何なんだ?
 
 ギギ……
 その疑問に答えるかのように一段と大きな音が鳴った。
 孝之の周りの空気が大きく歪む。
 まるで世界が一枚のシーツになったように、周囲の光景がたわむ。
 その歪んだ皺の部分から、細い透明な糸のような物が溢れ出して孝之に絡み
付いてくる。後から後から無数の糸が垂れ落ちてくる。
 まるで蚯蚓のようにブルブル震える糸。
 体を這いまわりながら孝之の頭の中にどんどんと入っていく。
 あまりに非現実的な光景。
しかし孝之はぼんやりとその一部始終をじっと見つめていた。
 
 ――声が出なかった。出せなかった。

 音が鳴る度、頭の中に絡みついた糸が弦楽器の奏でるトレモロのように細かく
震える。
 そして共振した糸から発せられるのは、抑揚の無い無数の言葉だった。
 
 オマエ
 イゴコチ。イイ

 クラエ
 クライツクセ

 オマエ タダシイ
 スベテ クイツクセ
 オカシツクセ
 スナオニ

 単語の一つ一つが孝之の心を溶かしていく。

 ――弱い自分を肯定してくれる甘い言葉。
 ――自分の欲求を満たしくれる気持の良い言葉。

 そうだ。水月も遙も……茜も皆……
 ソウダ
 俺のものにしてシマエバ
 いいんじゃないカ?
 クライツクセバ

「……孝之君?」

「そうだ。オマじないをしようよ。ねえハルカ」

「……うん」
 その時、既に孝之の心は無数の糸に絡め取られていた。
 孝之を乗っ取った糸――"ゆらぎ"は目の前の少女に次の目標を定める。
 ゆっくりと"ゆらぎ"は遙の手を握った。
 遙は安心したように目を閉じて。おまじないの最初の一節を切り出した。

「夜空に星が輝くように」

「ヨゾラにホシが輝くようニ」

「溶けた心は離れない」

「トケ……トケタ」

「え?……どうしたの孝之君」

 呂律の回らない孝之の言葉を聴いて、遙は目を開けた。
 握った孝之の手を見る。
 孝之の手には縦に無数の裂け目が出来ていた。手はあっという間に形を崩し
ながら無数の触手に分かれ、遙の指の股に絡みついてきた。

「――!!」

 遙は声にならない悲鳴をあげる。朦朧としたままの意識ではとっさの回避行
動をとる事が出来なかった。
一呼吸あってから慌てて"孝之の手"だったものから自分の指を離そうとする
が、その時すでに触手は遙の肘にまで達していた。

「なにこれっ……嫌っ……孝之君!!!」

 遙は泣きながら"手"の向こうの孝之に助けを求めた。
 椅子に座ったままぐったりとうな垂れた孝之は全く反応しない。
 しかしその頭部。その髪の毛だけが意思を持ったように無秩序に蠢いていた。

「なんなの……これ……た、助けて……」
 
 遙はベッドから逃げようと腰を動かした。しかし萎えた足は全く言う事を
聞いてくれない。

「いやああ……」

 呆然としながら、パジャマの右手の袖から中に入り込もうとしているその触手
を振り払おうとする。
 数え切れないほどの細かい間節に分かれた触手は今も"指"の形と色を残して
いる。その先には赤黒い爪が生えている。尖った先端は粘着質の液を出しなが
ら遙の肌を探っている。

「あっ」

 バランスを崩した遙がベッドから転がり落ちる。
 それと同時に、バンッ――という鈍い破裂音が室内に響いた。
  完全に孝之の体の輪郭が崩れた音だった。引き千切れた孝之の服から溢れ出
した数千本の髪の毛と指が、助けを求めようと開けた遙の口に一斉に絡みつき、
入り込んでいく……



 孝之は夢を見ていた。あの日の夢を。
 遙と結ばれようとした、あの日の夢を。
 「ゆっくり育てていこう」
 そう誓った二人の恋は、その数日後に無残な終わりを告げた。
 やり直したい。
 あの日がいつまでも続けば……そう思って顔をあげる。
 目の前には裸の遙がいた。
 「遙……」
 ゆっくりと遙に近づくにつれ、周囲の光景が白くぼやけていく。
 「遙……」
 孝之は……ゆらぎの見せる偽りの夢の中でまどろみ続けていた。
 

 温度と不快指数が一気に上がった部屋。酸のような刺激臭が立ち込めている。
 ぬめるような音。触手が這い回る音だけが終わり無く響いている。
 遙は数多の触手にその細い四肢を絡め取られ、ベッドの上に浮かび上がった
状態で足を大の字に開かれて、肌の上を縦横無尽に嬲られている。
 いまや孝之だったモノは完全に人の形を崩し、巨大な磯巾着のような形状に
変化していた。
 かろうじて床と接触する胴体部分は人の名残を残しているものの、上半分は
完全に巨大で歪な二重丸の形状になっていた。内側の円を構成するのは髪の毛
が変化した黒く細い触手。外側には指が分裂した触手。
 髪はドクドクと波打たせながら遙を宙空に貼り付け、指触手が遙の服を溶か
し、粘液を塗りつけ、その白い肌を蹂躙していた。

 ……いや……どうして……
 ……助けて……誰か……茜……お父さんお母さん……

 遙は悲鳴をあげようと精一杯喉を震わせる。しかし口の中には既に収まりき
らない程沢山の指触手が殺到しており、その悲痛な想いが外に漏れるのを阻ん
でいた。声はくぐもった音となるだけで消えていく。それを嘲笑うかのように
指は遙の舌を弄び、生暖かい液体をどんどん流し込んでいく。
 吐き出したくても吐き出せない。
 激しい頭痛。息苦しさ。恐怖。現実感の喪失。遙の意識はますます遠くなる。

 ギ……

 両の耳の穴にひときわ細い指が入り込むと、ゆらぎの無機質な声が遙にも聞
こえ始めた。

 オマエモ
 ヨクボウ
 ナレ
 
 ……何?
 ……これは何?

 嚥下されている液体に少しずつ甘味のようなものが混じり始めていた。
 胃の中がほんのりと暖かくなる。やがてその暖かさは少しずつ下へ、外へと
広がって彼女の体に火をつけていく。

……え?

 タノシメ
 タノシメ
 オマエモ

 触手の蹂躙に対する嫌悪感が薄れていくような不思議な波動を遙は感じていた。
 液体から広がった体のぬくもりは、体の末端に達するにつれむず痒いような、
もどかしいような衝動に変化していく。それが快感なのか恐怖なのか、それとも
痛みなのか遙には解らなかった。

 やだ……
 いや……

 でも……これ……
 いや……い、いい……

 少しずつ、少しずつ。彼女の心は落とされていく。
 瞬時にして入り込める事ができた孝之の心とは違い、その芯の強固さに手を
焼いたゆらぎは、遙の心をこじ開けるため快楽で篭絡させる手段に切り替える
事にした。


 忘れていた感覚を遙は思い出しつつあった。
 事故の数日前、孝之と結ばれる寸前までいった日の記憶が心の底から泡と
なって次々と湧き上がってくる。
 それは幸せな記憶。甘美な記憶。
 あの日孝之の愛撫で感じた感覚がはっきり蘇り、遙の心に霧をかけていく。
 
 ……そうだ。
 ……これは孝之君の指なんだ。
 ……あの日できなかったから孝之君、怒ってるのかな……
 ……あの日の続きを今、しようとしてるのかな……

 夢をみるかのように溶けていく遙の意識と反比例して、その体は次第に熱を
帯びていく。
 必死に閉じようとしていた足はだらしなく広がり始め、ゆっくりとだが腰も
触手の蠢きに合わせて波打っていた。
 半ば解けたパジャマの繊維と粘液の混合物。その下で汚された肌はほの赤く
色づいていた。

 孝之君……
 孝之君……

 遙の体の変化を見て取ったゆらぎは故意に遙の口を開放した。

「んっ……はぅ……」

 遙の小さな喘ぎ声が漏れる。
 声を出す事で体の反応は飛躍的に高まった。
 三年間抑えていた女性としての衝動が禍々しい手段で一気に開放されていく。

「んっ……はぁっ……あんっ……」

「らめぇ……たかゆきく……ふぁっ」

 声はどんどん大きく、はしたなくなっていく。
 頬を赤らめた遙の顔。焦点を失った目。もはや触手への嫌悪は消えていた。
あの日の記憶と快感が渾然一体となって遙を遅い、甘い嬌声を搾り出していた。

「孝之君……はぁ……ごめん、ね……うぅん……」
「気持いぃ、の……くふぅ・・…はぁああ」

 喘ぎ声を糧にするかのように触手はますます数を増やしていた。遙に放たれ
た半透明の粘液は飽和状態になり、遙の体の線を浮かび上がらせながら滴り落
ち、シーツを濡らしている。
 ゆらぎは遙の瞳が欲望に濁りつつあるのを確かめると、じわじわと下着を溶
かしていった。水飴をこぼしたように濡れた胸と秘所が露になった。
 数百の触手がより合わさって、遙の秘部に入り込むための一本の巨大な触手
に変化していく。
 それは鎌首をもたげた蛇のように先端を曲げながら両足の間に狙いを定めた。

「はぁ……ふぅ……んっ……ねえ、たかゆ、き、くぅん……して……」

 快楽に耐性が無く、経験も皆無に等しい遙は、肉体の反応よりも頭の中に広
がる孝之との記憶に溺れていた。ゆらぎの中で夢を見る孝之と遙の心が同調し
ていく。

 あの日の記憶……裸でじゃれあう二人。

「ねえ。孝之君。おまじない」

 心の中で遙は甘えた声をあげる。

「おまじないしようよ。」

 そうだ……
 ポツリ――と、ゆらぎに与えられた偽りの幸福に穴が空く。
 どうしてさっき、孝之君はおまじないをしてくれなかったんだろう。
 浮かんだ疑問は雨雲のように広がり、偽りの快楽を拭い消し去っていく。
 遙の心が醒めていく。自分の置かれた状況を思い出し、目を開けた。

 ……いや、
 ……いやあ
 ……誰か、助けて……

 声をあげさせるため自由になっていた口が動く。
 津波のように襲ってくる快楽に反応しそうなるのを懸命に我慢して、遙は
出せる限界の大声をあげた。
「助けてっ!!!! 誰か助けてえええええ」

 その声は途中で途切れた。触手が再び口に殺到したからだ。
 ゆらぎはやや余裕を持たせていた遙への縛迫を再度強めると、両足を大きく
開かせた。表面から快楽で堕ちないようなら……中から犯し尽くすしかないと
本能が命じる。
 蛇触手はさらに太さを増し、先端部分は針のように尖る。
 遙は絶望に目を閉じた。
 顔に大量に浴びせられた粘液の上、一筋の涙が流れる。


 その時、風が吹いた。

 
 耳の後ろを冷たい風が通った。そのひんやりとした感触が遙を覆っていた
混濁した快楽の熱を凍らせていく。
 その風は空間が切り裂かれてできた次元の隙間から流れてきたものだった。
勿論遙はそれを知る由も無い。。
 しかし、ゆらぎはその風にかすかに紛れていた"戦士"の薫りに敏感に反応
した。柔らかい動きで遙を舐めまわしていた触手達が一斉にこわばる。

「な……なんなの?」

 キィ――

 硝子窓を爪で引っ掻いたような音がした。
 なんの前触れもなく遙の目の前の虚空から、"Ω"の字の形に似た鋭い刃先が
飛び出す。

 そこからの、僅か一秒にも満たない時間……
 遙には映画の長い長いスローモーションのように一つ一つの動作がはっきり
と見えた。

 綺麗に半円の弧を描いていく刃。
 次々と切断されていくその軌道上の触手。
 切断面から零れ落ちる焦茶色の体液。
 触手の支えがなくなり、持ち上げられていた空中からドサリとベッドに落ち
る自分。
 恐慌をきたして、全ての触手を引き抜き部屋の隅に縮まるゆらぎ本体。

 そして――
 裂けた空間の中から飛び出してきた一人の少女の姿。

 一瞬の光景。
 遙の瞳に、それらはまるで無声映画をみるように滑らかに映った。

 ……時間の感覚が戻ってくる。
 遙の目の前、ベッドの上に立つ一人の少女――アイの後姿があった。
 今しがた曇り空を割った満月の光が窓から差込み、彼女の半身を青く冷たく
照らしている。
 短くも無造作に伸びた藍色の髪と切れ上がった赤い瞳。
 全体の顔の作りはあどけない少女そのままだ。しかしゆらぎを冷徹に見つめ
るその表情には歴戦の兵士のような冷酷さと落ち着きが浮かんでいた。
 膝近くまで垂れた真紅の長いリボンは風も無いのに空中になびいていた。
まるで彼女自身から何かオーラが放出されていて、それに流されているかのよ
うに。
 自分の背丈よりも長い杖を斜めに構えている。その先で黒く光るΩ形の刃。
あれだけ大量の触手を一太刀で切り落としたのに、刃には液体の一つすらつい
ていない。
 華奢なシルエットは斜めに月光を受け、部屋の逆側のゆらぎにまで届いてい
た。

「下がってて」

 ボソリとアイが呟く。

「え……」

「下がってて。でないと、死ぬよ」

「……」

「後は、私の仕事だから」

 千切れた触手の先の一本が、シーツの上で今も尚異臭を放ちながらビクビクと
うねっていた。
 それをアイは右足で力任せに踏み潰した。水風船が割れたような音がして、
触手はただの汚濁に帰っていく。

「あさましいね……」

 吐き捨てるような声で少女は嘆いた。

 ゆらぎ本体は未だ何が起こったのかを理解できずに混乱していた。統率を
失った触手は自分の流れる体液を啜り合い、触手同士で共食いのような状態に
なっていた。

「早く逃げて」

「私、でも……足が……」

「足?……動かないの?」

 アイは遙の方を振り向いて訪ねた。

「……」

 遙は無言で小さく頷く。
「じゃあ、じっとしてて……目をつぶっていて」

そういうとアイは槍――牙竜を握り締めた。

「あれは……あの化け物は……孝之君なの……」

 アイは何も答えない。ただ部屋の隅のゆらぎを見詰めている。

「だから……」

 遙のか細い声は、ゆらぎ本体が突然出したゴボゴボという激しい泡音に掻き
消された。
 統率を取り戻したゆらぎは当面の目的を戦士の蹂躙に変更した。混沌として
絡み合っていた触手全てを本体が飲み込み、対戦士用に体の構成を素早く変化
させていく。

「一気に磨り潰してやるっ!!」
 
 アイは片足で軽くベッドを蹴ると、牙竜を上段に構えたままの姿勢でゆらぎ
に飛び掛っていった。

「小細工をする前に倒してやるっ!!!! はァァァァァ!!」

 空中で体を大きく反らせて、丸く固まったゆらぎめがけて一気に牙竜を振り
下ろす。
 その鋭い刃先は何の抵抗も無くゆらぎの体にめりこんでいった。

「え?……」

 まるで泥の中に槍と突っ込んだような手ごたえの無さを感じ、アイは驚く。

 ギギィ……

 嘲笑するかのようなゆらぎの囁きが部屋にこだまする。

 ……硬いのは表面だけで、中は液体になっている……
 
 アイはゆらぎの体の変化を悟り、距離を取ろうと下がった。しかし牙竜の先
端部分が抜けず、柄の長さ以上に離れる事ができない。
 その牙竜の柄部分を伝うようにしながら、液体と固体の中間のような触手が
アイに襲い掛かった。
 アイは渾身の力で牙を引き抜いた。ゴボっていう音と共に先端が顔を出す。
そして近寄る触手を片っ端から切り落としていく。
 しかし切断された触手は雫となって床に落ちたかと思うと、再び本体の元へ
と集まっていく。
 そして切断面からは、さらに数倍の触手が新たに生えてきていた。

「これじゃ切りがない……」
 アイの顔が曇る。
  少しずつ息が上がっていき。ロッド裁きの速度が落ちていく。
 刃先に付着したゆらぎの残骸が切れ味を鈍くしていている事に気づく余裕も
無くなっていた。
 病気、死、怨嗟、不満……
 病院にはゆらぎの栄養となる"負"の因子が多すぎる。ゆらぎの格好の餌場だ。
 たった一晩でこの病院はゆらぎの巣と化してしまった。
 その全てを一人でなぎ倒してきたアイは、ここに来た時点でかなり疲労が蓄
積していた。
 敵は雑魚がほとんどだったものの、ここに来る直前に倒してきた、背の小さ
な看護婦の心臓にからみついていたゆらぎが曲者だった。
 それは一朝一夕に憑いたものでは無く、彼女の心臓そのものの組織すら変化
させるほどの力を持っていた。もし放置しておけばそう遠くない日に彼女の命
すら奪っていただろう凶悪なゆらぎだった。
 そのゆらぎを、彼女本体を傷つけることなく倒すのに大きな手間がかかった。
 アイ自身も少なからぬダメージを負ってしまった。

 触手は益々増えていた。その増殖スピードに耐え切れずに、ガクリとアイは
膝をつく。それを見逃さなかったゆらぎが、立てた左足に物凄い勢いで絡みつ
き、殺到する。

「くっ……」

 急いで体勢を戻そうとしたアイの右足の甲を、棘状に変化したゆらぎが突き
刺して床に釘付けにした。

「……っ!!!!」

 悲鳴を出さないのが精一杯のアイの抵抗だった。
 一瞬痛みで目を閉じた瞬間、全ての触手がアイに一斉に絡みついた。

「畜生……」

 無数の細長い「指」がアイに粘液をなすりつけはじめた。液体はアイの毛穴
から血管に入り込み、彼女の神経を素早く侵食していく。

「か、かはぁっ!!??」

 遙になすりつけた液体とはその濃度が違った。常人がこれを浴びたら数秒で
精神が崩壊するようなレベルの催淫作用のあるものだった。それを直接血管か
ら神経に流されてしまったのだ。
 アイの体がブルブルと激しく痙攣した。
 脳の中で大きな爆発があったような衝撃。
そしてその衝撃の後に来たのは突然の絶頂だった。

「はぁぁ……ンっ……駄目……だめぇ……らうぇ……」

 お腹の下で快楽の塊が物凄い勢いで膨れ上がって破裂していく。波紋のよう
に快感が体中に広がる。それが数秒の間に何十回と続いた。
 ダラダラと何かが自分の足から零れ落ちている。愛液なのか失禁なのかはも
う判断する事ができない。それを止める事もできない。

「いいっ……気持イイ……」

 アイの表情があっという間に蕩けた淫靡なものに変わっていく。誰かの唇を
求めるかのように舌が口から飛び出す。そこにも細い無数の触手が群がり、粘
液を塗り込んでいく。

「ああ……こんな……いきなりイッちゃうのぁ……いいの……でも、らめなの」

 壊れた人形のようにガクリと肩を落としたアイの体中を触手が這いずり回る。
 瞬時にして快楽に翻弄されてしまったアイは発情期の猫のように腰を自ら触
手に押し付けながら甘い声をあげる。

「ああっ……おねがい……ちょうだいほしいのォ……もっろしれぇェェ」

 しかし、残った微かな理性……戦士の本能が心の隅で叫んでいた。

 ……あの子は……助け……なきゃ……

 アイはひっきりなしに嬌声をあげながらも、遙を触手の標的にしないように
と彼女がゆらぎから隠れる方に体を向けていった。
 幸いまだゆらぎはアイを貪る事のみに夢中のようだった。
 僅かに自由の利く右手の人差し指をピンと立ててドアを指し、遙に逃げるよ
うメッセージを送る。
 伝わるかどうかは解らない。しかし、それが今のアイに出来る唯一の戦士の
仕事だった。

「ああっ……いい、いいのォォ……。もう我慢できラいの」

 アイの秘部は既にゆらぎの粘液と自分の愛液でびしょびしょに濡れ、足の下
は水溜りのように濡れていた。
 触手はアイの右手に気づくと、それを無理やり秘部に持っていかせた。
 強引に押し付け、滅茶苦茶に動かす。

「はぅあァ……指、擦れちゃうの……いい。気持イイッ……しちゃう……もう
 駄目……なっちゃうのぉっ!!」

 アイの最後の意志も快楽の前に消えようとしていた。


 遙は呆然とアイが触手に陥落していく光景を見ていた。
 恐怖で体がすくんで動けない。

 ……私……私、どうすれば。

 アイの人差し指がドアを指差していた。ガクガクと腰を揺らし甘い声が漏れ
続けるアイの体の中で、そこだけが別の動きを見せていた。

 ……逃げろって、言ってる。
 ……這ってでも、逃げなくちゃ……でも、でも、その前に……
 遙は動かない足に力を込める。深呼吸をするとゆらぎの悪臭が胸に入り、咳
き込んでしまう。
 それでも息を継いで足腰ごと動かしてなんとか下半身をベッドから出した。
 リハビリでの苦労をを思い出しながら、両手を突っ張らせて体を動かす。

 ……動いて……動いてよ……

「――動いてよ!!!!」

 遙はそう思い切り声に出しながらベッドから1m程離れたサイドボードに飛び
ついた。上半身の力だけでなんとか床に崩れ落ちるのを防いぐ。
 そして茜が飾ってくれた薔薇の花が活けられた大きな花瓶を持った。

 ……逃げないと。
 ……でも、でもその前に……
 ……あの子を助けないと!!

「やめて!!!!孝之君!!!!」
 
 遙は力一杯叫びながら、その花瓶をゆらぎに投げつけた。緩やかな放物線を
描いて飛ぶ花瓶。真っ赤な薔薇の花びらと水しぶきが部屋一杯に舞い散る。

 ……逃げきゃ……助けなきゃ……

 力尽きた遙はそのまま床に倒れ込んでしまった。
 花瓶はアイを蹂躙する事で手一杯のゆらぎ本体にあたり、粉々に砕け散った。

 そのショックでほんの一瞬触手の締め付けが緩くなった。
 幾つかの触手が床に倒れる遙に興味を示し、アイの体から離れた。

「今しかない」

 その刹那、堕ちたアイの目に輝きが戻る。
 アイは今にも取り落としそうになっていたロッドを再び握り締めると、自分
の体に向けて思い切り叩きつけた。
 纏わりついた触手とともに自分の肌も何度も何度も切りつけていく。
 ひるんだゆらぎと一緒、あるいはそれ以上ににアイ自身の皮膚が裂け、激痛
が体を駆け巡る。
 しかしその痛覚は確実に淫猥な快楽を打ち消していった。

 アイは血を流しながら数歩下がり、ベッドの側で倒れたままの遙に駆け寄った。

「逃げてっていったのに……」

「……良かった。離れられたんだね」

「そのままじっとしてて……今度はちゃんと、倒すから」

 アイはそう遙に言うとゆらぎの方に顔を向けた。

 触手の濁った黄土色の液体とアイ自身の鮮血が混ざり合いながらア太腿から
膝へ、膝から床へ流れ落ちる。

「殺して、あげるね」

 アイの目が紅玉のように仄かに輝いた。
 ニヤリと唇の端を歪める。脇腹の傷から流れる自分の血を指で掬い取り、舌
で軽く舐めた。
 殺人気のような妖しい微笑みが浮かび上がる。

「……――」

 アイは牙竜の先を見詰めながら、人間の言語では発音しきれない言葉をつぶ
やいた。

 ――ヴーン
 
 機械のような細かい振動音が部屋を包む。
 音は牙竜の刃先から出ていた。Ω形の刃が青白い燐光を放ちながら小刻みに
震えている。

「牙竜の開放された力を見て死ねるなんて、幸せね」

 再び攻撃の態勢を取ろうとしていたゆらぎに向かってアイは言う。

 ゆらぎを倒す魔法戦士にとってこの杖は命より大事な武器である。
 彼女達の住む世界で最凶最悪、制御不可能な生き物――この世界の言葉で表
現すると、"竜"のような生き物――それを数十名がかりの魔法で強引に封じ込
め、何年もかけて武器として慣らしていったもの。
 それが"牙竜"である。

 その封印を、たとえ束の間とはいえ解き放つ事は使用者である魔法戦士にと
っても非常に危険な賭けである。下手をすれば自分自身が食われてしまう可能
性があるからだ。

 アイは今にも躍り上がって手元を離れそうな勢いの牙竜に小さな声で話し掛
けた。

「あなたのスピードは、あんな物じゃないでしょう……」

 牙竜の光が一段と強くなる。
 最も恐ろしく、最も硬く、そして最もプライドの高い生き物。
 それが牙竜。

 アイは小さく息をついて……

「いくよ」

 そう言うと僅かに牙竜の握りを緩めた。砲弾のごとくゆらぎに向かっていこ
うとする光る刃。それに対随するようにアイも突っ込んでいった。

 ギギギ……

 ゆらぎは再び触手を広げて応戦する。しかし、先程とは全く勝手が違った。
 比較にならない速さでアイは触手を切り裂いていく。
 ゆらぎの増殖速度はむしろ前よりも速くなっていた。しかしそれを圧倒的
に上回る速さで牙竜が切り裂いていく。熱を帯びたその刃の切断面は焼け爛れ、
新たな触手が生えるのを阻止している。

「ウァアアアアアッッ!!」
 
 アイの叫びにゆらぎは声無き悲鳴をあげた。
 もはやそれは戦いではなく、一方的な殺戮に近かった。 
 気が付けば、ゆらぎの触手のほとんどが焼け落ち、切り削られていた。
 ゆらぎは逃亡しようと体を扁平に変形させていく。
 体の構成分子が液体から固体に変わったその瞬間、触手を束ねる中心を牙竜
が突き刺した。
 それと同時に刃先が赤熱する。

 沸騰したかのようにゆらぎの表面が泡立ち……ゆらぎはその活動を停止した。


 ……静寂が戻った。
 アイは肩で息をしながら窓を開けた。
 まるで何事もなかったように、冷たい夜の空気が入り込んでくる。

 倒れたままの遙をアイは助け起こし、ベッドへ運んだ。
再び眠りにつこうと光を失いかけていた牙竜を軽く振る。部屋の中の汚れが
浄化されていく。アイの体、遙の体、そして部屋中の粘液が音も無く霧となり
消えていく。

「……ありがとう」

 アイは小さく遙に呟いた。見知らぬ人に優しくするのが戦闘よりも苦手な少
女の、精一杯の感謝の気持だった。

「ねえ、孝之君は・……孝之君は?」

 疲労で朦朧としながら遙がアイに質問する。
 アイは何も答えない。

「ねえ……こんなの、こんなの嫌だよお……」

 遙の目から涙がこぼれる。
 ポフ、ポフ、と遙の両の拳が力無くアイの胸を叩く。

 アイは黙ってゆらぎのいた場所を指差した。
 溶け残った最後の大きな液体の塊。その液体が蒸発した後には――
 倒れ込んだままの裸の孝之の姿があった。


150 名前:colors支援? 12/12 投稿日:02/04/04 18:43 ID:mSmrPakr
「孝之君……」

「ごめんね。薔薇の花と彼の洋服は、戻らないみたい」

「孝之君……大丈夫なの?」

「ええ。彼自身は無傷。弱い心にゆらぎが憑依して、肥大しただけの事だから」

「弱い?」

 遙が不思議そうな表情で訪ねる。

「……優しさと裏返しの、弱さ」

「そう……」

 孝之の無事に安堵した遙は、大きく息をつきながらアイの胸に倒れこんできた。
 疲労が一気にでたのだろう……アイは優しく遙を抱きとめた
 
「おやすみなさい……」

 アイは今晩の記憶を消そうと遙のこめかみに手をかざした。
 自分よりもやせ細ったその体から流れ出ている思考と記憶の波がアイに流れ
込んでくる。
 思わず、息を呑んだ。
 その優しさ、その純粋さ、その奥に秘めた強さと……その過酷過ぎる運命に。

「キミは、強いんだね……私なんかよりもずっと強い」

 彼の弱い部分を殺してしまった事……それは必ずしも彼女にとっては幸せを
もたらすとは言えないかもしれない。

「でも、キミは歩いていけるよ。きっと大丈夫……」

 例えこの青年が遙を選ばなかったとしても、彼女は立ち直っていける。
 魔法少女が持つ漠然とした未来予知能力がそれを示していた。

 アイはもう一度遙を抱きしめると、白さを取り戻したベッドに静かに寝かせた。
 
「秋俊……」

 窓の外の夜空を見ながらアイは一言だけそう呟くと、音も無く空間の裂け目
へと姿を消した。
 一陣の風を残して。

END

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