ゆき×モテ 〜スノーグッドバイ〜

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 確率と確率の狭間。
 存在と認識の揺らぎ。
 捩れた時空の螺旋で──彼女は泡のように消えようとしていた。
 収束しない指先が紐のようにほどけていく。
 ほどけて──弾ける。
 消えていく。
 なくなる。
 誰からも忘れられる。
 元からなかったことに──なる。
(構いません。あの人にはもう……)
 必要とされることはないのだから。
 あの人には他に、必要とするヒトがいるのだから。
 光が強く、視界は白くぼんやりとしている。自分の身体すら曖昧で、よく見えない。
 いまだになくならない意識を持て余し、彼女は考え続ける。
(役目を終えたのだから、消えるのは当り前ですよ──)
 嘯くような思考とは裏腹に、まだそこにあるのかさえ不確かな胸を、震えが襲った。
 痛み。
 痛み。
 痛み──
 それはどんな感覚だったろうか。
 わからない。
 だが。
(あの人──)
 一つの影を思い浮かべるたびに走る、微弱な刺激が──痛みというものだろうか。
 惜別。
 愛慕。
 愁嘆。
 意味を伴わない言葉が通り過ぎ、一瞬だけ膨れ上がって、そして──

「ちょっと待つでちゅの」
 不意に声がかかった。
 急速に感覚が戻ってくる。
 編み直されるように手が、足が、腹が、すべてが元通りになっていく。
 なぜ──これはいったい。
「珍しいとこで珍しいものを見まちたでちゅの」
 幼い声は、感心したように言った。
 背後から聞こえてくる。
 振り向くと、そこにはてのひらサイズの少女がいた。
「まあ、いいでちゅの。まずは自己紹介からちまちょう」
 くるり、とその場──空中──で一回転してから、少女はにぱっと笑った。
「わたしはモモといいまちゅの。体はスモールでも心はビッグな美しい花の妖精でちゅ」
 よく見ると、背中に羽が生えているのがわかった。
「妖精さん、ですか?」
 妖精──確かにそういった雰囲気だ。
「でちゅの♪」
 嬉しそうに答える。
 妖精──そういえば、『ピーターパン』に出てくるあの妖精はなんといったか。
「それで妖精さんが、何か御用なのでしょうか?」
「そう、契約を持ちかけようと思ったんでちゅの」
「契約──?」
「よーく聞くんでちゅのよ、いいでちゅか──」
 ダラララララララララララ
 鳴り響くドラムロール音。
「………」
「………」
 ドラララララララララララ
「………」
「………」
 ヅラララララララララララ

 ──長い。
 思った矢先、音が止み──
「あなたの願い事をなんでもひとちゅだけ叶えまちゅの!」
 パッパパーン
 ファンファーレが鳴った。
「願い事を──?」
「限度はありまちゅが、基本的になんでもOKでちゅの。まずは要相談でちゅの」
「願い──」
「もちろん、『契約』なんでちゅから、お代はただなんて虫の良い話はないでちゅの。
ちゃんと代償があるから、よく考えたうえでしてほしいでちゅの」
 願い──そんなのは一つだけに決まっている。
 ためらう余地はどこにもなかった。
「雪を──もう一度、あの世界に帰してください」
(あの人が──透矢さんが雪を必要としなくても。
 雪は、透矢さんを必要として──)
「了解でちゅの。それでは魔法をかけまちゅの」
 モモは両手を掲げ、「えーい!」と叫んだ。
「はあ、はあ──終了でちゅの」
「随分あっさりしていますね。でも、お疲れさまです」
「ねぎらいどうもでちゅの。あ、早速返還が始まりまちたね」

 何かが壊れていくような轟音に、思わず少女から視線を外した。
 世界が──自分を包むマヨイガが、端から崩れていっている。
 ビル爆破工事のように滑らかな崩壊が、高速で進行する。
 壊れた場所から、深い闇が覗き込む。
 雪は呆然とそれを眺めた。
「雪は、本当に──本当に帰れるのですか」
「イエスでちゅの」
 透矢さんのもとに──
 夢見ることすら叶わなかった願いが、叶おうとしている。
「では行ってらっちゃいでちゅの!」
 トン
 少女が背中を押し、雪は前に進み出て──闇の中へと落ちていった。
 不思議と温もりに満ちた、その闇の中へ。

 チュンチュン、チュンチュン。
 雀の声。
 カーテンの隙間から漏れるあたたかい陽射し。
 掛け布団のかすかな重み──
 ゆっくりと、瞼を開けた。
 見慣れた天井。
 上体を起こす。
 視線を巡らせば、そこはやはり見慣れた部屋。
 瀬能家の、自分の部屋だ。
 うさぎがにこやかに微笑んでいる。
「──帰ってきたのですね」
 そっと、両手を胸に当てた。パジャマの生地の向こうから、血の通う温もりが届いてくる。
「雪はもう一度この家に──透矢さんに、お仕えすることができるのですね」
 懐かしさと嬉しさが同時に込み上げ、涙ぐみそうになる。
 だめだ──
 涙を堪え、頭を強く振った。
 しっかりと前を向き、自らに言い聞かせた。
「メイドたるもの、常にしゃんとしていなければなりません」
 ベッドから抜け出ると、早速着替えて、部屋を出た。
 時計を見る──いつもなら、いや、自分がいた頃にはまだ透矢が眠っている時刻だ。
「起こしてさしあげなくては──」
 雪は透矢の部屋に急いだ。

 ヘッドドレスを付け忘れ、ナイトキャップをしたままだったのを思い出して部屋に戻り、
ついでに朝食の用意をしている間に、透矢は自分で起き出してきてしまった。
「おはよう、雪さん」
 いつも通りの、何げない挨拶が、雪にはひどく新鮮で──乱れそうになる心を押さえるのが難しかった。
 はい、おはようございます──透矢さん。
「いいえ、おはようございません」
 口をついて出た言葉は、まったく正反対のものだった。
「えっ?」
 驚いて透矢の動きが止まる。
 なんで、あんな言葉が──慌てて雪は訂正しようとした。
 違います、『おはようございます』と申そうと──
「違いません、『おはようございません』と申したのです」
「あ、ああ、ごめん──そうだね、いつも雪さんよりずっと遅くに起きてきちゃって。
確かにお早くはないよね」
 ぎこちなく笑い、その場を取り繕おうとする透矢。
 雪はひどくショックを受けて、言葉を失った。

 なんとなく重い沈黙を引きずったまま、雪と透矢は食卓についた。
「雪さんのご飯はいつ食べても美味しいね」
 久しぶりに──主観的にはだいぶの間を置いて透矢に食事を振舞った雪はその言葉を
嬉しく思ったが、さっきのことがあって、返事もできなかった。
(雪は、透矢さんに向かってなんという口を利いてしまったのでしょう)
 穴があったら、落ちてそのまま埋まりたい気分だった。
「ん? 雪さんは食べないの?」
 さっきから朝食に少しも口をつけていない雪に向かって、透矢が尋ねた。
 心配そうな響きのこもった声に、何げない雰囲気を装って箸を取り、雪は答えた。
「はい、雪は透矢さんのメイドではありますが、もっと心配してもらいたいです。
と言いますより、普段からもっと労わってもらいたいものですよ」
 耳を疑うような、自分の言葉。箸が止まった。
「え──ああ、うん」
 戸惑った色を顔に浮かべながら、透矢は素直に頷いた。
 違います、雪は透矢さんのメイドなのですから、労わりなんて不要──
「透矢さんは雪を『人間ではない』なんて勘違いしているのではないですか?
雪は『透矢さん専用のメイド』である以前に人間なのですよ。人権だって認められているんです。
透矢さんの所有物とは違うのですから、あまり都合の良いモノとして見ないでくださいな」
「そんな、僕は雪さんをそういう風には思って──」
「思ってはいないなどと、断言できるのですか? 本当に? そういう見方を一度もしたことがないと、
天地神明に誓って言い放つことができるのですか?」

「………」
 透矢は黙り込んだ。
 雪は死にたくなった。
 これほどの暴言は、口にするどころか心に浮かべたことさえない。
 なのに、さっきから口をついて出る言葉はいったいなんなのだろう。
「さ、早くお食べくださいませ。つくったものを残されるのは不快ですが、
いつまでもゆっくり食べていたのでは遅刻してしまいますよ。透矢さんが先生方に叱られるのは
一向に構いませんが、そんなことが成績や評価に響いてしまっては瀬能家の恥となりますからね」
「雪さん……今日はまた、なんで」
「透矢さん、今日という今日は言わせてもらいますが」
 ピンポーン
 チャイムの音が、ふたりの会話を遮った。
 ガタッ
 雪は立ち上がると、逃げるように玄関に向かった。
 なぜ、あんな言葉が止まらないのか──皆目見当がつかない。
 ただダムが決壊したように、思ってもいない言葉が口をつく。

 玄関には、花梨がいた。
 つっ、と雪の胸に疼痛が走る。
 花梨は宮代神社の娘で、透矢の幼馴染みでもあり──雪がこの世界を去る前に、
透矢と付き合うことが決まった少女だった。
 雪は何を言えばよいのか分からず、一瞬息を詰めたが、意を決して口を開いた。
「花梨さん──今日はまた一段と綺麗ですね」
「はっ!?」
 花梨は驚きのあまり目を見開き、絶句した。
 絶句したいのはこっちの方だ、と雪は思ったが、口の動きは止まらなかった。
「癖っ毛がキュートで──この跳ね返り具合が、雪のハートを鷲掴みしてしまいますよ」
 手が勝手に動き、花梨の髪を──ちょうど犬の耳のようになったところをサラリと撫でた。
 花梨は顔を赤くした。
「ゆ、雪みたいな子に言われると嫌味としか思えないわ。というか、これっていやがらせ?」
 必死に動揺を隠し、なるべく平静を保ったつもりの花梨に──雪の制御が利かない言動はなおも続いた。
「雪みたいな、とは──どんなことを指しているのですか?」
「ど、どんなって──だから、ほらその」
「ですから、どんな?」
「──ああ、もう、だから美人ってことよ!」
 ふわっ
 真っ赤になって叫んだ花梨を、雪が柔らかく抱き締めた。
「嬉しい──」
「え──ええっ!?」
「花梨さんは雪をそのように思っていてくれたのですね」
「う、うん、まあそうだけど、でも」
「何も言わないでくださいな」

 更に抱き締める強さが増した。
 花梨の体温が、ダイレクトに全身へ伝わる。
「でも──それだけなのですか?」
「え?」
「花梨さんは雪を『美人』だと思うだけなのですか?」
 瞳が悲しげな色を浮かべる。
 無論、雪本人が意識してのことではない。
「え、え?」
 雪の動作ひとつひとつに戸惑う一方の花梨。
「そう──花梨さんは、見た目だけで雪に近寄ったのですね」
(近寄ったも何も、雪と花梨さんの接点は透矢さんでは──)
 本心の訴えは、表面に出ることがない。
「ゆ、雪、今日はいったいどうしちゃったの?」
「目当てはこの顔ですか? それとも──からだ?」
「なあっ!?」
「そう、からだなんですね。花梨さんは雪のからだが欲しくて欲しくてたまらないのですね」
「いや、まあ、ある意味では欲しいというか何というか、その」
「いやらしい」
「はあ──?」
「そんな目で、雪を見ていたなんて──」
「あのー、雪、さっきから何を勘違いして」
 花梨の言葉を無視し、なおも一方的に雪は言い募る。
「花梨さんはそんないやらしい方だったんですね」
「だから雪、あたしの話を──」
「透矢さんが雪を縄で縛って、鞭で叩いて、三角木馬で責めて、外から丸見えの居間で放置プレイを
したまま登校しているだなんて、そんな淫らな妄想に耽って雪を慰み物にしていたのですね」

「いや、さすがにそんな具体的な想像はしてないし、慰み物にもしてないけど。
──ふたりが怪しいな、とは、その」
 抱き締められたまま、もごもごと抗弁する。
「よろしいんですよ──すべて事実ですから」
 本当のことなど、何ひとつもなかった。
「ええっ!? と、透矢の奴、本気でそんなことを──!」
 瀬能家に三角木馬などあるはずがない、という理性的な思考は、
花梨の頭の中において行われることはなかった。
「で──花梨さんもですか?」
「へ?」
「花梨さんも、透矢さんみたいに──雪のからだ、それだけが目的なんですか?」
「いや、そんな──だってあたし、雪と同じ女だし──」
「性別は関係ありません。ただ、雪がどういった人間かも関係なしに外見的な事柄だけで
良し悪しを決めているのかを訊いているのです」
「うん、まあ、雪は性格の方もいいと思うよ──優しいし、こまめだし、控え目なところも
あるし──ちょっと透矢の世話を焼きすぎるとこが、アレだけど」
「では、花梨さんの世話を焼くべきだとでも?」
「そういう意味じゃ──」
「どういう意味です? 世話を焼かれるよりも──可愛がって欲しいと?」
 だんだん脈絡がなくなっていく自分の言葉を、雪はぼんやりと聞いていた。
「花梨さんは、尽くされるよりも尽くす方が好きですか?」
「雪、いい加減に──!」
 ぎゅっ
 言葉を封じるように、強く、更に強く花梨を抱き締める雪。
「痛っ」
「ご無理をなさらないでください──」

 じっ
 密着した状態で、雪は花梨の目を凝視する。
 ぶつかり合う視線と視線──
 花梨は雪の瞳に、真剣の色を見て取った。
 とくん、とくん。
(あ、れ──?)
 知らずのうちに鼓動が早まっていた。
 頬が上気し、強く抱き締められた苦しさもあって、たまらず息が漏れる。
「はぁ……」
 それは、花梨自身がびっくりするぐらいに、切なげだった。
「やだ──あたし、なんかドキドキして──」
「怯えてなくてもいいのですよ、花梨さん。素直になってください」
「素直に──?」
「そう、素直に──自分に対して」
「自分に対して……」
 キュンキュンと胸が高鳴る。
「あたし、あたし──雪!」
 がばっ
 ただ抱き締められるがままだった花梨が、抱き返しにかかった。
 ふたりは一層密着し、ますます息苦しくなる。
 けれど──花梨にはその息苦しさが心地良かった。
 雪の方はというと、ちょっと辛かった。
 花梨は弓道を嗜んでいるせいか、なかなか力が強い。
「雪……!」
「はい、花梨さん」
「ダメ、ダメよ。あたしには透矢がいるのに──」
「怖がらなくても大丈夫です。落ち着いて──時間をかけて、
気持ちを整理していけばいいんです」

「雪……」
「花梨さん……」
 見つめ合うふたり。
 やがてその唇が近づき──
 ガタッ
 物音に、思わずふたりの動きが止まった。
 抱き締め合う腕を離し、同時に音のした場所へと顔を向ける。
 そこには、やや青ざめた表情の透矢が、身体を震わせていた。足元には、鞄が転がっている。
「なんだか、やけに遅いと思ったけど──ふたりに、そんな趣味があったなんて」
「透矢──!」
 花梨の叫びは悲鳴に似ていた。
「こ、これは、そのっ──!」
「透矢さん」
 雪は花梨を庇うように、前へ出た。
「雪さん──いったい何の冗談なの?」
 無理に笑ってみせようとするが、その顔は強張っていた。
「別に、何の冗談でもございません。すべて見ての通りのことです」
 とりあえず、花梨の方に関してはそう言えるかもしれなかった。
 雪はいい加減、何もかもやめたくなっていた。
「雪、さん」
「透矢さん──花梨さんはあなたには渡しませんよ」
 雪の赤い瞳から鋭い光が放たれ、透矢の足を竦ませた。
「そんな──」
「──と。その前に、おふたりはそろそろ登校しなければなりませんね」
 ついっ、と時計の方に目をやった雪は、それまでの険しい雰囲気を消して平然と言った。
「へ──」
「は──」
 気の抜けた透矢と花梨の声。
 雪はにっこり笑った。
「では、いってらっしゃいませ」

 ふたりが出て行った瀬能家。ひとりぼっちになった雪は、呆然と立ち尽くしていた。
 と──背後に気配が現れた。
 気配は雪の頭を飛び越え、目の前で滞空した。
「おめでとうございまちゅ! 契約通り、無事戻れまちたね」
 ピンク髪のツインテール。郵便配達夫のようなに鞄の紐を肩に掛けた妖精。
 ティンカーベル──いや、違う。
 マヨイガで逢った──確か、モモとかいったか。
 雪は言葉をなくしたように押し黙っていた。
 それを無視するかのように、モモは続けた。
「で、説明し忘れまちたが、願い事を叶える代償についてでちゅの」
「代償──」
 聞いたような気もする単語。そして、確かに説明は受けていない。
「なんなんですか?」
 不意に、さっきまでの自分の言動が甦る。
 本心とはかけ離れた言葉。
 まったく意志を伴わない行動。
 ──もしかして!
「嘘しかつけなくなる、でちゅの」
「そんな──!」
「辛い条件でちゅが、あなたみたいに『存在しないもの』を世界に結び付ける仕事には
そういった制約を課す決まりがあるんでちゅの。モモだって好きでこんなことを強いて
いるわけではありまちぇん」
 肩を竦め、パタパタと羽を動かす。
「特例で、モモに対しては嘘をつかなくてもいいんでちゅが」
「嘘しか──いえ、待ってください」

 打ちひしがれそうになった雪だったが、一つ疑問に思って尋ねた。
「確かに、思ったこととは逆のことを口にしてしまうことはありましたが──
しかし、意志とは関係なしに身体が動くことまで『嘘』の範疇に入るのですか?」
「ええとでちゅね、あれは……」
 不意に妖精は言葉を濁した。
「──ミス、でちゅの」
「ミス?」
「はいでちゅの」
「──どういうことですか?」
 黙り込んだモモだったが、いつまでも見つめ続ける雪のプレッシャーに負け、
遂には口を開いた。
「実はでちゅね、あなたの前にひとつ契約を交わした人間がいるんでちゅの。
そっちの方はいろいろと難航したんでちゅが、最終的にはうまくいって──でも、その」
 ポリポリ、と小さな手の小さな小さな指で頬を掻く。
「──長いことかかずらってたせいで、ちょっと余韻みたいなものが残っていたんでちゅ。
それが、今回の契約にちょこっ、と混ざってちまいまちて」
「………」
「つまりでちゅね──前の契約が、『女の子にモテモテになりたい!』だったんでちゅ」
「要するに──」
 ひとつ深呼吸をした。
 気を確かに保つ。
「──雪は、嘘しか言えなくなったうえ、女の子に対してモテモテになってしまった、と?」
「掻い摘むとそうでちゅの。ついでに、うっかりしていると自分から口説きに行っちゃうんでちゅの」
「………」
 絶望は、たっぷり六十秒後に襲ってきた。

 ピンポーン
 部屋の中にひきこもってうさぎさんと戯れていた雪の耳に、チャイムの音が届いた。
 無意識的に立ち上がって玄関へ向かおうとしたが、意志の力で思いとどまる。
(いま雪が出て行っても、嘘しかつけぬ身では仕方ありません)
 メイドとしての仕事をこなせないことに歯噛みしつつも、
居留守を決め込み、再びうさぎさんと遊び始めた。
 ピンポーン
 ピンポーン
 ピンポーン
 客は、執拗にチャイムを押し続ける。
 ピンポーン
 ピンポーン
 ガラガラガラッ
 チャイムの音に混じり、戸の開く音が響いた。
 そういえば、戸締りを──
「ああ、もうっ、あいつもう出て行っちゃったの!?」
「おねえちゃん、だからもう少し早くいこうって──」
「うるさいわね、マリア。わかってるわよ、ちょっと寝坊しただけじゃない」
「寝坊って、三十分も──」
「もう、いいから早く忘れ物取って出るわよ。ちゃっちゃっと用事済ませて、
あたしたちもがっこ行かないといけないんだから」
 けたたましい声と、無遠慮な足音。気の引けた声と、控え目な足音。
 ふたつが、雪の部屋を通り過ぎていった。
 今の声は確か、教会の──香坂という、双子の姉妹。

「ん? あれ、あんなとこに部屋あったっけ?」
「さあ──」
 足音が引き返してきた。
「おかしいわね──何度もこの家に上がっているけど、この部屋を意識した覚えがないわ」
 何度も上がっているとは──透矢はこの双子を何度も家に招いていたのか?
(いったい、何のために──もしかして、透矢さん……!)
 雪の思考に「犯罪」「条例違反」の単語を伴った動揺が走り抜けた。
 うさぎさんの耳を持つ手が震える。
(う、うさぎさん、雪は──雪はどうすれば)
「物置か何かじゃないかな? 入ってみる?」
「い、いいわ。早く透矢の部屋に──」
「──? なんでそんなに焦ってるの、おねえちゃん」
「え? だ、だって、時間が──」
「──ああ、怖いんだね」
「………!」
「なかったはずの部屋があるなんて──まるでお部屋の幽霊さんみたいだよね」
「う──」
「おねえちゃん、怖いの苦手だったっけ」
「べ、別に苦手なんかじゃないわよ!」
「そうだっけ?」
「そうよ! なに、こんな部屋──気味悪いけど、入ってやろうじゃないの」
 ノブが回るのを、雪の目が捉えた。
 まずい。
 咄嗟に雪は、自分の身体をドアに押し当て、開けようとする力に全体重をかけて立ち向かった。
「──開かないわ、鍵でも掛かってるのかしら」
「やっぱり物置なんじゃない?」
「たかが物置に鍵なんて掛けるかねぇ」
「よっぽど貴重なものを入れてるんじゃないかな。
ほら、透矢さんのお父さんは学者さんらしいし」
「どうだか──ま、いいわ。余計な時間かけちゃったけど、さっさと用事済ませましょう」
「うん」

 トントントントントン
 二連の足音が階段を上がっていった。
 ほっ、とひと息ついて雪はベッドの上に腰かけた。
 大して体力も使ってないのに、随分と消耗したような感じがする。
 やがて、「忘れ物」とやらを見つけたのだろうか。再び足音が階下に戻ってきた。
 そのまま雪の部屋を通り過ぎ、玄関へ──
 ガチャ
(え──?)
 まったく唐突に、ドアが開いた。
「あれ? 鍵なんてかかってないよ、おねえちゃ──」
 ドアの隙間から、ショートカットの少女──妹のマリアが入ってきた。
「あ──」
 マリアは息を呑んで、雪を見つめた。
「ちょっと、マリア。あんたどうし──」
 続いて、長い髪をツインテールにした少女──姉のアリスが顔を覗かせた。
「──!」
 彼女も妹同様、息を呑んだ。
 ふたりともお揃いの制服姿。夏服仕様から伸びる健康的な手足の肌は、眩しいほどに輝いていた。
 四つの瞳が、雪の赤い瞳の中に映り込む。
 魂を吸われたように、ふらふらと、力ない仕草で双子が雪に近づいていく。
(今度は一瞬みたいですね──)
 両腕をそれぞれ少女の肩に回し、抱き寄せると、ふたりの耳元に口を近づけて囁いた。
「こう見えても雪──野蛮なのですよ」
 ワイルドを強調するように足を組んでみたりした。

 双子といろいろ遊んだ後──変な意味ではない、雪は理性を総動員し、辛うじて
暴走を防いだ──、遅刻間違いなしで慌てて出て行ったふたりを見送ると、
今度はしっかりと玄関の戸に施錠し、誰が来ても決して応対に出ないことを誓ったうえで、
雪は再度部屋にひきこもった。
 昼が過ぎ、夕が近くなった頃、そろそろ夕食の支度をしなければならないことに
気づいた雪は、キッチンへ向かった。
 料理の下ごしらえをしている最中、「ピンポーン」と玄関からチャイム音が鳴り響く。
次いで、戸を開けようとする「ガタガタッ」という音。
 それが何度か執拗に繰り返された後、不意に止んで、静かになった。
 誰かは知らないが、諦めて返ったのだろう。
 包丁でジャガイモの皮を剥いていた雪は、そう思った。
 ガラリ
 数分後、何の前触れもなく外からキッチンの窓が開けられた瞬間、
雪は強制的に考え直す羽目となった。
 思わず滑りそうになった包丁を、なんとか操り続けることができたのは、
偉大なる理性のおかげであろう。
「わはーっ!」
 ジャガイモと包丁をまな板の上に置き、悟りを得たような乾いた表情でその客を迎え入れた。
「──鈴蘭さん」
 大和鈴蘭──透矢の友人・大和庄一の妹。雪にはよく懐いていた。
 明らかに自分の背より高いところにある窓を開けることができたのは、
たぶん、壁を伝うパイプをよじのぼって来たからだろう。
(この子は将来、登攀を生活の糧とした職業に就くのかもしれない)
 両手で窓から抱え降ろしてくれた雪に、鈴蘭が陽気な声で叫んだ。
「雪ちゃん、遊ぼっ!」
「──はい」
「わはー♪」
 ぽすっ。鈴蘭はすかさず抱きついてきた。雪はそっ、と抱き返す。
 この子なら、さすがに邪な思いは湧かないだろう──
 青く澄んだ瞳に浮かぶ妖しげに潤んだ輝きと、やけに早くて熱い呼吸を意識しないようにしつつ、
雪は夕食に並べる料理の下ごしらえを続けた。

「──ただいま」
 透矢が帰ってきた。
「あのさ、透矢──」
「花梨……」
「あたし、頭の中がごちゃごちゃして、その──まだ整理がつかないんだ」
「………」
「あ、あは、これじゃキミのこと『優柔不断』とか、詰る資格ないよね」
「花梨、僕は──」
「じゃあ……透矢、またね」
「──うん」
 微妙な空気を漂わせる花梨との別れの挨拶の後、キッチンに入ってきた。
「ただいま、雪さ──あれ?」
 雪の足にまとわりつく存在を見て、透矢の声に戸惑いが混じった。
「鈴蘭ちゃん? いったいどうして──」
「透矢ちゃん──」
 ぎゅっ、と雪の腰に抱きついて、透矢に悲しげな表情を向ける鈴蘭。
「──ごめんね☆」
「え?」
 トントントン……
 また板を包丁が叩くリズミカルな音が途絶えた。
「透矢さん」
 雪は振り向き、決然たる意志を瞳に湛え、宣言した。
「鈴蘭さんは渡しません」
「………」
「えへー」

 なんだかんだで夕食が終わり、鈴蘭を家まで送った雪は、ひとりとぼとぼと夜の道を歩いていた。
「………」
 限界を感じた。
 透矢から必要とされなくなったにも関わらず、ただ自分が透矢を必要としているから、
妖精の力を借りてまで帰ってきたというのに、透矢に迷惑をかけてばかりいる。
 暴言を吐きかけ──
 花梨との仲にひびを入れ──
 これでは騒動と災厄をもたらすためだけに帰ってきたようなものだ。
 暗澹たる気持ちに、このまま夜の闇の中へ混ざって消えたくなる思いが強くなってくる──。
「──辛いんでちゅか?」
 妖精の声。
 目を動かして、その姿を捉えた。
「モモさん──」
 パタパタ。
 モモは雪の服のどこかに隠れていたらしい。
 沈んだ様子の雪に励ましの言葉も、慰めの言葉もかけず、事実を確認するように訊く。
「もうやめたい、と──思うんでちゅか?」
「………」
「既にあなたをこの世界に繋いでちまいまちたので、契約を破棄して元に戻すことはできまちぇん」
 胸の中の絶望が、更に深さを増した。
「雪は──」
 ポツリ、と思いが漏れた。
「この世界で透矢さんの幸福を願うためには、透矢さんの元から立ち去らなければならなかったのですか」
「………」
「帰ってくれば、帰ってきてしまえば、会わずには──いられないというのに、
会いに行かないことが、本当に取るべき選択だったのですか」
 今さら、何もかも放り捨て、去ったところで──透矢と花梨の仲は、
傷ついたまま、修復しないのかもしれない。
 雪がこの世界を去る要因となったふたりの仲を裂いて、雪をこの世界に留まるというのは──皮肉と
いうものだろうか。

「一つだけ──」
 モモが呟いた。
「一つだけ言い忘れたことがありまちた」
 パタ……
 雪の肩に止まり、雪の頬にもたれるように首を傾げた。
「あなたは、モモ以外の人にモモとの契約のことを話ちてはいけまちぇん。モモ以外の誰かに、
この契約のことをバラちてちまったときは、規則に基づいて、
モモはあなたを処罰ちなければなりまちぇん」
 妖精の表情に宿る、物憂げな笑みは、雪には見えなかった。
「この約束は絶対に破ってはいけまちぇん」
 パチッ、パチッ
 ふたりは街灯に群がる羽虫を見るともなく目にした。
「もし、破ったりちたら──すぺぺー、っとしちゃいまちゅよ」
 おどけた響きの裏に、冷たい哀しみを嗅ぎ取った雪は、かすかに笑って訊いた。
「それは──あのマヨイガで消えていくことよりも恐ろしいことでしょうか?」
 誰からも忘れ去られ。
 自分が自分であることも忘れ。
 世界さえも存在を忘れて──「なかったこと」にされてしまう。
 それよりも恐ろしいことが、何かあるのだろうか。
「分かりまちぇん。ただ──」
 声が詰まった。
「──『すぺぺー』されるときに、後悔しなかった契約主はひとりもいなかったでちゅ。
人間でも、人間以外の何かでも、あなたみたいなヒトでも──みんな、自分の過ちを血を吐くほどに悔み、
涙を流し、大切なヒトやモノの名前を叫びながら──執行されていったんでちゅ。モモ、正直に言えば、
もうあんな真似は二度とないんでちゅの」
 きっとそれは、とてもとても恐ろしいことなのだろう──
 自分の味わった悲しみとは別種の、苦しみなのだろう──
 雪は理解した。
 そして、決心した。
「もう、欲しいものは何もありません」

 帰宅した雪を、暗い表情で椅子に収まった透矢が迎えた。
 その背中は拒絶ではなく、強い意志を漲らせていた。
 顔を上げ、入ってきた雪に振り向き、穏やかな──
しかし、退くことを知らないような決然とした言葉を投げ掛けた。
「雪さん。僕は雪さんの気持ちや考えを、責めるつもりはないし、責める資格もない。けれど──」
 椅子から立ち上がり、向き合った。
「僕の、花梨を想う気持ちは確かなものだ──それだけは知って欲しい」
 ええ。
 言われなくても──雪はちゃんと知っておりましたとも。
 しっかりと視線を受け止め、頷いた。
 だからこそ、言わなければ──告白しなければ。
 かすかにわだかまる迷いを置き去りにして、一歩、進み出す。
 これでお別れになるのだとしても。
 後悔するのだとしても。
 前に進まなければ──。
 透矢との距離は、触れられるほどに近く、その息遣いさえも感じ取ることができる。
 胸の高鳴りを抑えるのは難しかった。
 込み上げる愛惜の念。
 溢れ出そうとする涙。
 全部──全部に堤防を張って、食い止めた。
 メイドたるもの、常にしゃんとしていなければなりません。
 背筋をピンと伸ばす。
「透矢さん、雪は──

嘘つきではありません」

「は?」
 驚いたのは、透矢だけではなかった。
(──なんてこと、でしょう)
 雪は頭の中が空白になる思いだった。
 失敗した。
 忘れていた。
 思い出せなかった。
 思い至らなかった。
 ──間の抜けた自分を呪いたくなった。
(嘘しかつけないのでは、真実を伝わることはできません──)
「雪は一度もこの世界から消えていませんし、妖精とも契約していませんし、
透矢さんに迷惑をかけたことを済まなく思ってもいません。透矢さんは何も思い出さなくて構いません」
 意志が空回りし、偽りの言葉ばかりがひとり歩きする。
「雪さん、何を言って──」
「雪は透矢さんを恨んでいます。何も気づかなかった、何もしてくれなかった透矢さんを
憎んでさえいます。寂しがる透矢さんを支え、世話を焼き、尽くし、必要となくなるまで
頑張り続けたのは、決して雪が透矢さんを好きだったからではありません。消えるときになって、
雪を追いかけにきてくれなかった透矢さんを、雪は泣きたくなる気持ちを抑えことができなかった、
なんてことはありません」
「──わけがわからない。ちゃんと説明してくれ」
 頭を抱え、心底戸惑う透矢に、雪の胸は痛んだ。
 どうにかして真実を伝えなければ──でないと。

 妖精──ティンカーベル。
 ピーターパン。
 不意に意識が澄み渡った。
(──これは本当の話です)
「──これはフィクションです」
「は?」
 更に戸惑う透矢。
 構わず続けた。
「あるところにピーターパンがいました。そのピーターパンは女の子でした。
彼女はネバー・ランドではなく、この世界にいました。彼女がこの世界にいたのは、
ひとりの男の子のためでした」
 嘘をつきながら、真実を伝えるには──物語ればいい。
 物語で、嘘によって、騙ることで、真実を伝えてきた人々もいるのだから。
「男の子は幼くして母親を失いました。母親を恋しく思う男の子は山に分け入り、
母の思い出を探し、母そのものを捜しました。そして男の子はいつしか、
この世界を超えて──ネバー・ランドに辿り着いたのです」
「………!」
 惑乱する一方だった透矢の顔に、驚愕と、かすかな理性が灯った。
「ネバー・ランドには『頭をなでてくれるヒト』がいました。男の子はそのヒトを母親だと思い、
その膝で甘え、幸せな時間を過ごしました。けれど、そのヒトは男の子を元の世界に帰すため、
男の子に別れを告げました。男の子は別れを惜しみ、イヤだと言います。そのヒトは優しく頭をなで、
男の子に言い聞かせました。『いつかあなたにも、頭をなでてくれるヒトが現れますよ』と」
「雪さん……」
「男の子はネバー・ランドから去り、元の世界へと帰りましたが、母への焦がれは消えませんでした。
『頭をなでてくれるヒト』を希って、毎日寂しい夜を過ごしました。だから──女の子のピーターパンが
生まれました。ネバー・ランドにいるはずのピーターパンが、男の子の世界で暮らし始めました」
「雪さん!」
 透矢が肩を掴む。

 言葉は止めず、紡ぎ続けた。
「ピーターパンは男の子と同じ時を過ごし、ともに成長し、大きくなりました。
男の子はもう『頭をなでてくれるヒト』をあまり必要としなくなっていましたが、
心の片隅に願いは残ったままでした。ピーターパンはその願いをどうにかして叶えようとします。
しかし──ピーターパンはネバー・ランドへ帰らなければなりませんでした。
歳を取るはずのない彼女が、歳を取らなければならない世界で生きていくのは無理があったのです。
ピーターパンは男の子が心配で、ネバー・ランドには帰りたくありませんでした」
「雪さん、もういい、もういいから!」
 不思議と、肩を掴む透矢の手の感触が遠い。
 身体が熱い──意識が朦朧として、視界がぼやけてきた。
「でも、心配することはありませんでした。ピーターパンの心配は杞憂だったのです。
男の子には、相応しい女の子がいたのです。女の子は男の子の幼馴染みで、やんちゃで、
少し暴力的ではありましたが、その実、傷つきやすく、脆い部分も抱えていました。
男の子も、女の子も、欠けているところは多く、不完全ではありましたが、不完全であるが故に
お互いを補い合い、支え合っていくことができました。完全であるか、まったくの無であるか、
それしか意義のないピーターパンはただ見ているだけしかできません……でし……た」
「雪さん、雪さん!」
 声まで遠くなってきた。
 自分の言葉さえ、はっきりとは聞こえない。
 身体の熱が高まっていく。
「やがて……男の子は、『頭をなでてくれるヒト』を欲さなく……なりました。母を愛する気持ちを抱え、
母の愛を満足に受けられないまま……それでも男の子は……母を卒業したのです。そして、完全であるか
……まったくの無であるか、それしか意義のないピーターパンはただ……ただ……消えるだけしか……」
「……! ……!」
 もう透矢の声も聞き取りづらくなってきた。
 あと少し。そろそろ物語を終わらせることができる。

「ピーターパンは……必要とされなくなった母の幻は、ネバー・ランドでさえ存在することができなく
なりました。歳を取ることのない世界でも、必要とされない者は……生きていけないのです。
ピーターパンは……『元からなかったモノ』としてネバー・ランドからも消えようと……していました。
そこに妖精が現れたのです。妖精はピーター・パンを助けました。助けて、男の子の世界に帰してくれたのです。
……嘘しかつけなくなる、代償とともに……」
 意識がゆっくりと溶けていく。
 世界に拒絶されていく。
 油が水を弾くように──
「嘘をつくことで……男の子のそばに留まることができるようになったピーター・パンは、
嬉しく思う一方で悲しく……思いました。自分がつく嘘で、男の子がどんどん傷ついてしまうことに
気づいたのです。ピーター・パンは……男の子をそれ以上傷つけたくなくて、決心をしました。
妖精との約束を……破ることにしたのです。『絶対に破ってはいけない』と言われた約束を破ることに
しました……そして……ピーター・パンは、遂に」
 この世界からもう一度、消えることができました。
 ありがとう、ティンカーベルさん。
 ──もう何も聞こえない。
 ──何も見えない。
 唇を動かす。
「透矢さん……雪は、あなたをお慕いして……」
 いるのか、いないのかは──彼の解釈に任せることにした。
 さようなら、透矢さん──




 ──気を取り戻したとき、雪はモモと向かい合っていた。
 スノードロップの咲き乱れる、白い平野──雪のマヨイガ。雪が選んだ──選んばれた世界。
 腕組みし、難しい表情をする妖精に向かって、雪は微笑んだ。
「さあ──終わりましたね」
 気分は晴れ晴れとして、後悔はなかった。
「──『すぺぺー』でも何でもしてください」
 言って、目を閉じる。
 一秒、二秒、三秒……
 過ぎしていく時間を数える。
 その最中に、ひょっこりと今までの思い出が甦ってくる。
(おはようございません)
 肝を潰すような、物凄い挨拶。
 あまりに珍妙で、思い出すと苦笑してしまう。
(雪は透矢さんのメイドではありますが、もっと心配してもらいたいです。
と言いますより、普段からもっと労わってもらいたいものですよ)
(透矢さんの所有物とは違うのですから、あまり都合の良いモノとして見ないでくださいな)
 「メイドの鑑」とは程遠い暴言。
(花梨さん、アリスさんとマリアさん、鈴蘭さん……)
 彼女たちとの騒動も、遊戯めいていて、今では微笑ましい。
(雪は透矢さんを恨んでいます。何も気づかなかった、何もしてくれなかった透矢さんを
憎んでさえいます。寂しがる透矢さんを支え、世話を焼き、尽くし、必要となくなるまで頑張り
続けたのは、 決して雪が透矢さんを好きだったからではありません。消えるときになって、
雪を追いかけにきてくれなかった透矢さんを、雪は泣きたくなる気持ちを抑えことができなかった、
なんてことはありません)
 思ってさえいなかった言葉……とんでもない嘘。

(いえ──これは)
 嘘ですら、ない。
 透矢を恨んでいるか/いないか。
 透矢を憎んでいるか/いないか。
 消えるあのとき、泣きたくなるという気持ちがあったか/なかったか。
 そもそも考えたことがなかった。
 ただ、すべてが「仕方のないこと」「受け入れなければならないこと」であって、
それに逆らおうとする気持ちなど、自分自身、あったかどうか、はっきりとは分からない。
 だから、あの言葉の数々は、嘘じゃない。嘘でさえない。
 自分の心の底に沈んでいた、意識すらされなかった気持ちや感情。
 噴き出してきたところで、本当か嘘かも区別することができない。
「あの気持ちは結局──嘘だったのでしょうか、本当だったのでしょうか」
「──ようやく、気づいたようでちゅね」
「え──?」
 目を開けた。
 閉じるときは難しげな顔をしていたモモが、にこにことした笑みを浮かべている。
「はい、契約終了でちゅの! 今回はあなたの深層に吹き溜まっていたモノを掘り起こすことが
終了条件でちたの。ふう、疲れまちた。前回のケースに比べれば短かったでちゅけど、
こっちが消耗する点では負けてまちぇんでちゅね」
「あの……どういうことですか?」
 一方的にすっきりしている様子のモモだったが、雪は釈然としない。
 モモはくるっ、と縦方向に回転し、ビッと人差し指を突きつけた。
「言ったでちょう、これであなたとモモの契約は終了ちたんでちゅ。もうこれであなたは自由でちゅよ」
「でも──約束を破ったら『すぺぺー』なのでは」

「破ってまちぇんよ?」
「──え?」
「途中で高い熱を出してぶっ倒れちゃって、何やらもごもご言っているみたいでちたけど、
モモには全然聞こえまちぇんでちた。たぶんあっちの男にも聞こえなかったはずでちゅ」
「はあ、では──」
 勇気を振り絞った、最後の告白。
 解釈を任せた曖昧な心情吐露。
 あれも為されなかったということか──
 そう思うと、無事だったにも関わらず、がっかりしてしまった。
「さて、これからどうするかはあなたの自由でちゅ。好き勝手にちてくだちゃい。
モモはちゃっちゃっと次の契約を取りに行くでちゅ。ノルマはいつだってキツイでちゅ」
 素っ気ない口ぶりで言い放つ。
「それにしても、『存在しないもの』とのなかなかに難しい契約をたった一日で完遂するとはモモちゃん
すごいでちゅね〜、えらいでちゅね〜、かわいいでちゅね〜」
「──確かに、可愛いことは可愛いですが……」
 この妖精は、自分が思ったよりも強かなモノかもしれない。
 雪は認識を改めた。
 可愛いというだけではないティンカーベル──
「ま、とりあえずは掘り起こした気持ちと向かい合ってみるといいでちゅ。それが本当なのか嘘なのか、
たっぷり考えてみるでちゅ。それからどう行動すればいいかを考えたらいいでちょう」 
 すいすいと空中で泳ぐようなターンを繰り返すモモを見ながら、雪は考えた。

 眠ったままだった気持ち。省みられることのなかった感情。
 それはまるで──
(生まれることすらできなかった、子供のような──)
 それを抱えたまま、自分は消えようとしていた。「なかったこと」になろうとしていた。
 とても──早計なことだったかもしれない。
 もっと自分と向き合い、「必要とそれなくなった」事実を受け止めながらも、
「消えなければならない」運命と立ち向かうべきだったのかもしれない。
 ──だいたい、運命なんていうものはあるんだろうか?
「まあ、モモは胡散臭い『自分探し』は奨励ちまちぇんの。ここでは歳を取らないみたいでちゅし、
やりたいことやって過ごすがいいでちゅ。いちいち感知ちまちぇん。ただでちゅね──」
「なんでしょう?」
「──欲ちいものは何もないなんていう、あなたの一番大きな嘘は、ここでさよならしちゃいなちゃい」
 じゃあ、でちゅの! と叫び置いて、妖精はマヨイガの遙か彼方に飛び去り……見えなくなった。
 身のこなしの軽いティンカーベルへ向かって、軽く手を振る。
「そうですね」
 手を下ろすと、雪はひとり頷いた。
 「欲しいものは何もない」なんて気持ちがあるわけはない。
 欲しているからこそ──本当に欲したものを手に入れられないからこそ、そんな言葉が──。
 仰ぎ見た。
 雲の流れる青い空。どこからか流れてくる風。
「必要とされなくても、自らが欲せば、なんとかなるものかもしれませんね」
 ひとりぼっちの世界。
 何ができて、何ができないかは──まだ分からない。
(形のないものには形を、名前のないものには名前を)
 全身をほのかな温もりが包む。
 このネバー・ランドで──マヨイガで、自分のできることを、したいことを、探して──やってみよう。
 ささやかな誓いを胸に、スノードロップの海を歩み出した。




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