雪さんの誕生日
僕は、記憶を失ったけれど、そのかわり時々妙に鮮明な夢を見る。
そして、その度に少しずつ、断片的だけど過去を取り戻していく。
「雪ちゃん、お誕生日のプレゼント、何がいい?」
「お誕生日?」
「そう」
――ああ、これはずいぶん昔のことだ。僕が、雪さんのことを雪ちゃんと呼んでいる。
あの頃は、雪さんも僕のことを透矢ちゃんと呼んでいたっけ――
「雪は、お誕生日わからない…」
「だったら、雪ちゃんがうちに来た日が、雪ちゃんの誕生日」
「うちに来た日?」
「うん、だって、雪ちゃんがうちの家族になった日だから、
その日が瀬能家の雪ちゃんの誕生日」
「ぁ……」
俯いてしまう雪ちゃん。うれしくないのかな?
「透矢ちゃんはいいの?」
「何が?」
「雪なんかがここにいて、透矢ちゃんはいいの?」
恐る恐る、といった感じで聞いてくる雪ちゃん。
「いいに決まってる。雪ちゃんがいてくれなきゃやだ」
「本当? 雪、透矢ちゃんのそばにいてもいいの?」
「うん、ずっと一緒にいて。雪ちゃんは大事な家族なんだから」
「ぁ…、あ、あ…」
「?」
「と、透矢ちゃーん」
雪ちゃんは、僕に抱きつくと、わんわん泣き始めてしまった。
滅多に泣いたりしないのに。
「ゆ…雪、ずっと透矢ちゃんに嫌われてると思ってた」
「…雪ちゃん」
「うれしい…うれしいよぉ」
――「雪ちゃんなんか、いなくなっちゃえばいいのに」幼い頃の心無い一言が、
どれだけ彼女を傷つけたことだろう。あの時、すぐに謝りはしたけど、幼い心の傷は
そう簡単に治るものではない。あれ以来、どこか一歩退いた感じで僕に接してきた――
「僕、雪ちゃんのこと嫌ったりしないよ」
「くすん…」
僕は、あやすように雪ちゃんの背中をぽんぽんと叩いてあげた。
「こないだはひどいこと言ってごめんね」
「……」
「馬鹿みたいだけど、雪ちゃんのせいで、
ママがいなくなったみたいに思っちゃったんだ。雪ちゃんはちっとも悪く無いのに」
涙に濡れた目で僕を見上げる雪ちゃん。
「でも、あれからママの言ったことを考えてみたんだ」
「ママの?」
「うん、僕、馬鹿だからママが言ったこと、よくわかってなかったんだ」
「?」
僕は、ママが残してくれた言葉を告げた。
「……だから、もしかしたら雪ちゃんは、ママの生まれ変わりなのかもしれないね」
「雪が?」
「うん、きっと僕がだらしがないから、天国で見てられなくなって……」
「じゃあ雪、透矢ちゃんのお世話する!」
「えっ?」
「雪が、透矢ちゃんのママの生まれ変わりなら、雪が透矢ちゃんのお世話する!」
「あ……」
「駄目?」
雪ちゃんは、潤んだ目で僕を見つめてそう言った。
不安そうな顔をする、雪ちゃんのお願いを断れるほど僕はひどいやつじゃない。
「…うん、わかった、お願いするね。でも、あんまり無理しないでね。
雪ちゃんは、ママの生まれ変わりかもしれないけど、
でも、僕にとっては大事な妹で、家族で、女の子なんだから」
「うん!」
さっきまでわんわん泣いてたのが、今度はこっちまでうれしくなるような
笑顔になった。
――思い出した! 雪さん、僕の世話を焼いてくれるメイドさん。
僕のために何かできるのを無上の喜びとするかわいい人。この時からだった。
幼い、だけどそれゆえの心からの想い――
「あ、話しがずれちゃったね、お誕生日のことだった。何か欲しいものある?」
「いいの、もう素敵な宝物をもらったから」
「?」
「雪のこと、大事だって言ってもらった。家族だって言ってもらった」
「そんなことでよかったら、いくらでも言ってあげる」
「そんなことなんかじゃないもん。…雪、うれしかったもん」
涙のあとを拭いながらそう言う雪ちゃん。本当にうれしそうだ。
「それに、透矢ちゃんのお世話してもいいって……」
「でも、それは僕のほうが得したみたいだから」
「ううん、雪にとっては大事なことなの」
「? そう? 雪ちゃんがそれでいいなら、僕はかまわないけど」
「うん」
にこにこ、こんなに大喜びする雪ちゃんは初めて見た気がする。
「あー、でも、やっぱり僕が得するだけみたいに見えるし、
雪ちゃんも何か言ってみて。僕も雪ちゃんに何かしてあげたいから」
「うーん」
考え込む雪ちゃん。やがて何か思いついたのか、顔を上げる。
「じゃあ、ひとつだけお願いしてもいい?」
「うん、僕にできることなら」
「それじゃあ……」
……………………
ゆさゆさ
優しく揺すられる。
「透矢さん、朝ですよ」
本当にこの人の起こし方は心地よい。
「う…ん…」
「おはようございます。透矢さん。今日もいい天気ですよ」
「おはよう、雪さん」
「ふふ、何かいい夢でもご覧になっていましたか?」
「どうして?」
「とても幸せそうなお顔でしたよ。お起こしするのが申し訳無いくらい」
「……もしかして、ずっと見てたとか?」
「だって、とてもかわいかったんですもの」
にこにこ、見ているほうまでうれしくなるような笑顔だ。
でも、言ってることは恥ずかしすぎる。
「今度は僕が早起きして、雪さんの寝顔を拝見させてもらうことにするよ」
「あら、ふふふ、女の子の寝顔を見るなんて、あまり良い趣味ではありませんよ?」
「あ、ずるい!」
「ふふ」
「ははは」
「ふふ、朝食の用意はできてますから、よろしければ食堂の方にいらしてくださいね」
そう言って、部屋を出ようとする。
僕は、雪さんを呼び止めた。
「あ、雪さん」
「はい、なんでしょう?」
僕は一瞬でカレンダーを確かめた。よし、間違い無い。
そばまで戻ってきた雪さんの手を取る。
相変わらずやわらかく、ひんやりして手触りがいい。
「あの、透矢さん?」
僕は雪さんの手を撫でながら
「雪さん」
「はい」
「お誕生日おめでとう!」
「えっ?」
雪さんはきょとんとする。僕はもう一度カレンダーを確かめる。うん、合ってる。
そして、夢で見た通りの言葉を口にする。
「雪ちゃん、お誕生日おめでとう」
「ぁ…あ、あっ」
雪さんは、手で口元を覆うと、力が抜けたように座り込んでしまった。
しだいに僕を見つめる目が潤んでくる。そして、零れ落ちる涙。
喜んでくれると思ったのに、どうした訳か泣かせてしまったみたいだ。
「雪さん、ごめんね。僕、何か間違ってた?」
手で顔を覆ったままふるふると首を振る雪さん。
どうやら、悲しませたのでないことだけは確かなようだ。
と、いうよりも、昨夜の夢に見たまんまが再現されているみたいだ。
よし、それなら……
「泣かないで…」
「ぁ…」
僕は、再び彼女の手を取ると、あふれる涙を拭ってあげた。
「くすん…」
それでも止まらない涙。
僕は、思わず雪さんの顔を胸に押し付けるようにして抱きしめた。
夢では雪さんのほうから抱きついてきたっけ。
「お願いだから、泣かないで」
「だって…涙、止まらないんですもの」
「じゃあ、落ち着くまでこうしていてあげる」
幼い頃のように、抱きしめた手で、子供をあやすみたいに
背中をぽんぽんと軽く叩いてみる。
しばらくは、小さな肩が震えていたが、続けているうちにそれも治まり、
ようやく落ち着いてくれたようだ。
「大丈夫?」
「は、はい、失礼致しました」
ゆっくりと離れると、恥ずかしいのか俯いてしまった。
僕は、そっと雪さんの顎に手をかけ、上を向かせると、涙にぬれた頬に
ちゅっ
キスをした。
「あっ…」
その頬を染める雪さん。僕は三度囁いた。
「雪さん、お誕生日おめでとう」
「あ、ありがとうございます。う…うれしいです」
再び涙があふれてくる。その涙をぬぐうように何度もキスをしてみる。
しばらくすると、ようやく涙は止まってくれた。
「うれしいですけど、ひどいです」
上目使いでちょっと拗ねてるみたいだ。
「ひどいって?」
「雪の誕生日のこと、覚えてらしたのに、内緒にしてらしたんですね」
なるほど、そう思っていたのか。そりゃ確かにひどいだろうな。
「本当にそうだとしても、やっぱり言わなかったかもしれないね」
「どうして言ってくださらないのですか?」
「だって、雪さんの驚いた顔なんて、
滅多に見られないから、なんだか得した気分だし」
「そんなの、雪が良くありません」
僕は、やっぱりひどい奴なのかもしれない。そんな拗ねた雪さんを見て、
かわいいなと思うのだから。
「はは、ごめんね、でも本当に覚えていたわけじゃないんだ」
「あっ、えっ、ええと…雪、ひょっとしてからかわれていました?」
「拗ねた雪さんがかわいくてね、つい」
「もう、意地悪なんですから」
雪さんは、機嫌を直してくれたみたいだ。
「それで、覚えてらっしゃらなかったというのは?」
「ああ、それはね……」
僕は、さっきまで見ていた夢のことを話した。
「そうだったのですか」
雪さんは、やはりその頃のことを思い出したのか、うっとりしたような顔で僕を見た。
「うれしいです」
「うん、不思議だけど、ちょうどその日に思い出せてよかったよ。
ちゃんとお祝いできそうだ。」
「あ、いえ、そのこともとてもうれしいのですが……」
「?」
「その夢を見て、幸せそうな寝顔をなさってらしたことがうれしいんです」
かーっ、と音を立てるほどの勢いで、僕の顔が赤くなるのがわかった。
は、恥ずかしすぎる。
「ゆ、雪さん」
「透矢さんのお気持ち、しっかりと受け取りましたから」
寝ている時は誤魔化しが効きませんからね、とはしゃぐ雪さんを見ていると、
喜んでくれるのならいいか、という気がしてきた。
泣いたり、笑ったり、拗ねたり、はしゃいでみたり。
僕と結ばれてから雪さんは、前よりも表情豊かになったみたいだ。
いや、これが本来の雪さんなのかもしれないな……
僕は、ふと夢で見た幼い頃の雪さんを思い出してみる。
あれ? そういえば
「ところで雪さん」
「はい、何でしょうか?」
「実はさっきの夢、肝心のところで目を覚ましちゃって、
ひとつだけわからないことがあるんだけど」
「どういったことでしょうか?」
「うん、結局あのとき雪さんは何をお願いしたのかなぁって」
「それでしたら」
雪さんは、にこにこしながら教えてくれた。
「まずあのとき透矢さんは、雪にちゃんと最高のプレゼントをくださったのですよ」
「プレゼント?」
「透矢さんは、雪に誕生日と家族という居場所をくださいました」
「でも、雪さんをうちに連れてきたのは父さんだ」
「はい、もちろんお父様には感謝しています。
でも、雪を家族にしてくださったのは、透矢さんですよ」
「?」
「『雪ちゃんがうちの家族になった日だから』」
「あ……」
「透矢さんに、そう言っていただいたとき初めて、
雪はここにいてもいいんだって思ったんです」
うれしそうな顔で続ける。
「そのとき、雪がどんなにうれしかったかおわかりになりますか?」
あふれんばかりの笑顔。
「形のある、どんなプレゼントよりもすてきな宝物です」
……子供の頃のことだ。
きっとそれほど重い意味で言ったのではなかったのだと思う。
でも雪さんには…あの頃の雪さんにとっては、
それほどの意味があったのだろう。
「それに、透矢さんのお世話をさせていただく喜びもいただけましたし」
そして、どんなささいなことでも僕の世話を焼きたがる、今の雪さんがいるわけだ。
「えっと、そこまではなんとなく夢で見たようなんだけど」
なんだか、くすぐったくなってきた僕は、肝心の話に進めてもらおうと思った。
「それで、あのとき『雪ちゃん』はどんなお願いをしたのかな?」
僕は、照れを誤魔化すように、わざと昔の呼び方にしてみた。
「はい」
しかたがないですね、という笑い顔。もっとあの時のことを喋りたかったのかな?
「それは……」
「それは?」
「もしよろしければ、今日、もう一度同じことをお願いしたいです」
「えっ?」
なかなか言おうとしない雪さん。手ごわいなぁ…って、あの笑顔は何か企んでるな。
でも、いったいどんなお願いだったのだろう。子供の僕にできたことなら、
そんなに難しいことではないのだろうけど。
「えっと、それなら僕の答えはあのときと同じだね」
「はい?」
「僕にできることなら」
「本当ですか!?」
ぱっとはなやいだような笑顔になる。
「ふふ、うれしいです。あとになって、やっぱりだめだなんて許しませんよ?
忘れないでくださいね」
う、はやまったかもしれない。
「大丈夫です、雪、透矢さんの嫌がることなんてしませんから」
「まあそれはわかるけどね。それで、結局どういうお願いなのかな?
もう今日は始まってるわけだから、準備もあるだろうし、
できればはやくかなえてあげたいんだけど」
「あら、ふふふ、準備なんて何も必要ありませんよ」
「?」
「それじゃあ……」
にこやかな笑顔で……
「『透矢ちゃん、今日一日ずっと雪のそばにいてください』」
その瞬間、幼い日の雪ちゃんの笑顔が雪さんに重なったような気がした。
おしまい