ツインフロウ・ラプソディ

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 意識が眠りから解放され、僕はゆっくりと上体を起こした。
 大抵は、実質上この家を管理する雪さんが起こしにきてくれるが、たまにこうして
ひとりで朝を迎えることもある。あの夏ならばいざ知らず、雪さんの手応えを確かな
ものとして受け止められる今となっては、この状況にはもう何の不安も感じない。
 キッチンでゆっくりと雪さんを待つか、現れないようなら部屋まで起こしに行って
あげればいい。戸惑う要素は何ひとつない。
 いつもの朝。変わらない目覚め。

 キッチンの自席に陣取り、自分で淹れた茶を飲んでいると、軽快な足音が
近づいてきた。
 雪さんにしてはいやに遠慮がなく、花梨にしては足取りが軽い、僕には、この
足音の持ち主がすぐに判った。
 真っ直ぐに僕に向かい、笑顔とともに跳びこんでくるその小柄な人影を想像し、
僕は両腕を広げてそれを待った。
「おはよ〜、透矢ちゃ〜ん☆」
 弾んだ声を乗せて僕の足元にやってくる人影に僕は応えた。
「やあ、鈴蘭ちゃん。おは…」
 顔を向けた瞬間、僕の言葉は途絶えた。まったく予想だにしなかった光景が、
僕を凍りつかせた。
 かぼちゃのプリントがあしらわれた袖の長いシャツと、黒のスパッツに身を包んだ
小柄な体格まではいつもの鈴蘭ちゃんである。しかし、僕に屈託のない笑顔を向ける
その頭は、色素の存在をまったく感じさせない髪と瞳を持っていた。
「ゆ、雪…さん?」
 頭の中を疑問符が跳ね回る。何が起きたのか…?
「えへー♪透矢ちゃん、もうご飯食べた?」
「い…いや、そんなことより、雪さん、その格好は…?」
「何?どうしたの?ボク、いつもこういう服だよ」
 今度は鈴蘭ちゃん、いや、雪さんが首を傾げる。
「透矢ちゃんこそ、なんか変。ほら、今日は出かける約束だったよね?早く早く〜」
 ジャケットの裾を何度となく引っ張られ、起立を促されても、僕には何も出来ず…

「……さん……矢さん」
 どうしたものかと途方にくれる僕に別の誰かが呼びかけてくる。
「透矢さんっ」
 耳に馴染んだ声。これで僕は、自分の置かれている状況を理解した。
「ん……?…あ。おはよう、雪さん」
 心配そうな顔で僕を覗き込んでいたのは、モノトーンのメイド服とヘッドドレスに
身を包んだ、いつもの雪さんだった。
「おはようございます、透矢さん。…それにしても、いったいどんな夢を見てらした
 のですか?そんな目で雪を見ていただけるなんて…」
困惑と微かな愉悦の混じった瞳が僕を捉える。しばらくじっと雪さんを見つめて、僕は
「うん。ちょっと…ね」
 と、それだけ言った。

「…それはまた、楽しそうな夢でしたね♪起こしてしまうのが勿体無いくらい」
 空の食器を持ち、柔らかい笑顔を僕に向けながら、雪さんが言う。朝食の終わり際、
僕が今朝まで見ていた夢の内容を聞かせての反応である。
「雪さんはそうかもしれないけど、こっちは本当にびっくりしたんだから」
「ふふっ…もしかすると、透矢さん…」
「?」
 悪戯っぽい表情。そして、少し頬を染めて、雪さんはさらにこう続けた。
「…昨晩の疲れが残ってしまったのかも知れませんね」
「もう、雪さんっ」
 混ぜっ返すも、それ以上言葉を続けられない。確かに、いやに日を置いての営みという
こともあり、妙に気分が昂ぶってしまったことは否定できなかった。
「…さて、そろそろ鈴蘭さんがやってくるころですね」
 うん、と僕が応えると同時に、玄関のチャイムが鳴り、
「お〜っはよ〜っ☆」
 という声が聞こえてきた。
「あ、雪が出てきます」
 そう言って、雪さんはキッチンを離れ、玄関に向かってゆく。

 それから間もなくのことだった。短い、大きなふたつの悲鳴に続き、ごちっ、という
なにか硬いもの同士がぶつかるような音が聞こえてきたのは。
 異様に長い沈黙が、不吉な想像をかき立てる。居ても立ってもいられず、僕は玄関に
向けて駆け出した。
「雪さん!鈴蘭ちゃんっ!」
 玄関の上がり口と床の上に、ふたりが向かい合ってしりもちをついている。床の上に
雪さんの、そして、上がり口には鈴蘭ちゃんの身体があった。
「ふたりとも、しっかりして!」
 さっきの"ごちっ"はひょっとしたら頭同士がぶつかった音ではないか。そう考えると、
うかつに身体を揺さぶることもできない。なるべく頭に刺激を与えないよう、控えめに
雪さんの頬に数度掌をあててみると、すぐに瞼がゆっくりと開いた。
「いたたた…」
「雪さんっ……よかった、気がついた」
 予想していたような最悪の事態には至っていないことが判り、僕は胸を撫で下ろした。
「ん…ううん…」
 そのすぐ側で、鈴蘭ちゃんが身を起こす気配がした。ふたりとも想像していたより
ダメージは少ないようだ。
「あ…鈴蘭ちゃん、大丈夫だった?」
 雪さんの肩を両手で捕えたまま、僕は鈴蘭ちゃんに向き直る。しかし…
「えっ?…ボクはこっちだよ、透矢ちゃん」
 声は雪さんの身体から返ってきた。
「えっ!?ゆ…雪さん…?」
何が起きたのかを、視覚と聴覚による情報だけでは判別できない状況が続く。
「あ、あの…鈴蘭さん、大丈夫でしたか…?」
 今度は鈴蘭ちゃんの身体から気遣わしげな言葉が出てきた。
 和風住居の玄関に3人。誰もが自分の目の前で起きた事象を理解できず、その場を
ただ、澱のような沈黙が包んだ。


「わひゃ〜〜〜〜っ!?」
 最初に疑問符の呪縛から解放されたのは雪さんだった。…いや、中身は本当に
雪さんなのだろうか?ある可能性が頭に浮かび、僕は別の名前で呼びかけた。
「ど…どこもケガはないよね……鈴蘭ちゃん?」
「うんっ。ボクは大丈夫だよ、透矢ちゃん」
 声は雪さんだが、口調は鈴蘭ちゃんのものである。これってやっぱり…
「あの、ひょっとして、雪と鈴蘭さんが躓いて頭同士をぶつけたときに…?」
 鈴蘭ちゃんの小柄な身体から、いつもの印象とはかけ離れた言葉が聞こえてくる。
…もう間違いない。
「…たぶん、すず…雪さんの推測で合ってると思うよ。まさか本当に起こるとは
思わなかったけど」
 頭同士がぶつかったショックで人格が入れ替わる。漫画では割とメジャーな展開だが、
自分の身近でこんな状況が発生するとは…
「とにかく、解決方法を探る必要がありますね」
 鈴蘭ちゃん…の中の雪さん(以下『雪さん』)が首を傾げ、思案する。
「え〜?そんなに急がなくてもいいじゃんっ☆」
 と、雪さん…の中の鈴蘭ちゃん(以下『鈴蘭ちゃん』)。
「ゆき…鈴蘭ちゃん。普通じゃまず無いようなことがお互いの身に起きているんだ。
すぐにでも正常な状態に戻そうとするのは当たり前の考えじゃないか」
「ふぐ〜…」
 口を『へ』の字に歪め、俯く『鈴蘭ちゃん』。外見はメイド服姿の雪さんのために、強い
違和感を漂わせている。
「入れ替わったときは、雪と鈴蘭さん、お互いが同時に強い衝撃を受けたのですよね?
漫画などでは、やはり同じ程度の衝撃でもとに戻っていますが…」
 推測を言葉にして僕と『鈴蘭ちゃん』に伝える『雪さん』。心なしか、その顔つきに
普段の鈴蘭ちゃんからは見られないような深い知性が覗える。
「…もとに戻る可能性を追う場合としては、最も有力な選択肢だと雪は思うんです」
「うん」
「問題は、雪と鈴蘭さんの精神をどうやってもとの身体に戻すか、なのですが…」
 そこで一度、『雪さん』は言葉を途絶えさせた。

「…もう一度、頭と頭をがつん、ってさせるわけにはいかないの?」
 『雪さん』の説明の合間を縫って、『鈴蘭ちゃん』が訊いてきた。
「その手段は最後の最後、本当に行き詰まったときまでとっておこうと思っています。
それに、すぐに動けるようになったとはいえ、お互いの頭にどんなダメージが残って
いるか判りません。今からそういった行動に出るのは大変危険です」
「だめかぁ…うん、わかった」
 鈴蘭ちゃんにしては、珍しく聞き分けのいい反応が返ってきた。相手が雪さんだから
だろうか?
「…でも、ここでこうして3人、ああでもないこうでもないと考えていても仕方がありません
よね?…どうでしょう、ここは気分転換もかねてちょっと外に出てみては。歩いている
うちに何か妙案が浮かぶかもしれませんよ?」
 どうやら雪さんとしても、状況が変わったからといって屋内に閉じこもっている気は
ないようだ。
「わはー♪ボク、さんせ〜い♪透矢ちゃんは?」
「…う、うん。僕も一度表に出てあらためて案を練ってみるよ」
 鈴蘭ちゃんはもちろんだが、雪さんもどうやら積極的に表に出るつもりらしい。このふたり
と意見が分かれると、最終的にどうしても僕が折れずにはいられない。しかもなぜか、
雪さんと鈴蘭ちゃんのふたりは、こういうことになると妙に息が合った。

 かくして、今後の行動予定が定まった。一種奇妙な組み合わせによる、異様に
長い一日の…。

 最初の波は、家にいる間に訪れた。
 自分の部屋で外出の準備を済ませ、ドアを開けた直後に僕を呼ぶ『鈴蘭ちゃん』の
声が聞こえてきた。
「透矢ちゃ〜ん、こっちこっち〜♪」
 声の聞こえる部屋に足を運ぶ。
「鈴蘭ちゃん、もう準備はでき…うわあっ!?」
 部屋の入口にいた僕の目に飛びこんできたのは、ショーツ一枚に白いシャツを
引っ掛けただけの『鈴蘭ちゃん』の姿だった。
「えへ〜、とうっ☆」
 もとの小柄な鈴蘭ちゃんそのままに、両腕を伸ばして僕に抱きついてくる。しかし、
身体は雪さんのものである。白い肌がもたらす柔らかい感触と、開いたシャツから覗く、
ブラに包まれていない上半身のふたつのふくらみが生々しい。
 無遠慮に身体を密着させてくるために、仄かな温もりがシャツを通して伝わってくる。
昨夜の記憶が鮮明によみがえり、僕は思わず腰を引いてしまった。
「ちょっと、鈴蘭ちゃん、まだシャツ1枚しか羽織ってな…う!?」
「ん…っ♪」
 いきなり『鈴蘭ちゃん』の唇が僕の唇を塞いだ。雪さんの長身によって身長差を克服した
ために思い切った手に出たのだろう。僕が油断していたせいもあるが。
 ふたつの身体がさらにくっつき、雪さんの身体の質感が僕の上体を覆う。すぐに
引き剥がさなければならない、と理性は訴えているのに、身体のほう、特に足の間は
次第に熱を帯びてくる。
 まずい、このままでは…。頭を桃色の靄が漂い始めたとき、不意に唇の感触が消えた。
いやに引きつった表情の『鈴蘭ちゃん』。その視線が部屋の出口に向けられている。
 部屋の出口に『雪さん』が直立していた。
「鈴蘭さん、着替えを済ませていただけますか?時間に余裕がありませんので」
 口もとに笑みこそ浮かべていたが、冷たいほどに落ち着いた口ぶりと、瞳の奥に覗える
敵意のこもった光は、『鈴蘭ちゃん』の動きを止め、僕の身体から離れさせるには十分な
力を持っていた。

 『鈴蘭ちゃん』が着替えを再開させたのを見届けた『雪さん』の表情がいつもの柔和な
ものに戻ったのを確認した僕は、このとき、『雪さん』の服装が見覚えのあるものである
ことに気付いた。
「あれ?雪さん、その服は…」
「はい、透矢さんのお古です♪」
 嬉しそうな『雪さん』の顔。その下の服は、確かに僕が11の頃に袖を通していたもの
だった。長い時を経ているにもかかわらず、新品同然に仕立ててある。
「雪さんって、本当に物持ちがいいんだね」
「透矢さんが身に付けられていた品を、雪が粗末にできるはずがありません」
 そう言って、半ば袖に顔をうずめる『雪さん』。外見が鈴蘭ちゃんであることも手伝って、
幼さを伴なった可愛らしさが仕種ににじみ出ている。
「透矢ちゃん、雪ちゃん、準備できたよ〜」
 白いシャツとジーンズ、襟にタイを通した『鈴蘭ちゃん』が部屋から出てきた。
「あ、鈴蘭さん、ちょっと…」
 すかさず『鈴蘭ちゃん』の襟もとに手を伸ばし、タイの乱れを直す『雪さん』。
「はい、これで準備完了です。…では、出かけましょう」
 僕たちは春の日差しの中へ足を踏み出した。

 市街地へと続く未舗装の道。その途中ですれ違った最初の人影は、黒い短めの
ワンピースと色違いのジャケットに身を包んだふたりの少女だった。
「こんにちは、アリス。今日はマリアちゃんも一緒なんだね」
 よく知っている顔だったので、僕から挨拶した。
「あら、透矢。ごきげんよう。珍しいわね、3人一緒だなんて」
 マリアちゃんを横に従え、挨拶を返すアリス。
「えへー、アリスちゃんおはよ〜♪」
 いつものようにアリスのほうに向かう『鈴蘭ちゃん』。しかし…
「ちょ…ちょっと、雪!いきなり何をするのっ!?」
 狼狽するのも無理はない。なにせ鈴蘭ちゃんの口調で雪さんの身体が抱きついて
くるのだから。

「あ…あの、鈴蘭さん。知り合いとの応対はとくに気を使ってください」
 見かねた『雪さん』が『鈴蘭ちゃん』を止めようとする。
「えっ?…鈴蘭ちゃん、何だか雰囲気が違う……まるで、雪さんみたい」
 マリアちゃんが『雪さん』を見て、そう言った。
「いや、みたい、じゃなくて本当に雪さんなんだけど」
 そのとき、僕の胸元を小さな手が捕えた。
「説明して。いったいどういうことなの、透矢?」
 アリスが詰め寄ってきていた。少し息が荒い。『雪さん』とふたりがかりでも『鈴蘭
ちゃん』を引き剥がすのは骨だったらしい。
僕はここにいたるまでの経緯をアリスに説明した。
「…なるほど」
 話を聞き終わったアリスが腕を組んで、言った。
「最初見たときは、またあなたが何か妙なことを思いついたのかと思ったわ。何せ
"なんでもありの透矢"のやることだしね。雪にしろ、あなたの言うことならそれこそ
何でも聞いてしまうフシがあるじゃない」
 言葉の出所は、おそらく花梨だろう。おそらく、今の状態はアリスの目にはとくに
信じられない光景に写っているに違いない。
「…けど、今の鈴蘭の様子を見れば、あなたの言ってることが嘘じゃないってことは
解るわ。だって、地の鈴蘭には雪の再現なんて不可能だし」
 次第に狼狽は消え、もとのアリスに戻りつつあるようだ。
「とにかく、これ以上、知り合いには会わないように気をつけることね。特に花梨。
彼女に知れたら、あなた、それこそ大変なことになるわよ?」
 この変態、死ねエロ、といった言葉とともに鉄拳を叩き込まれる光景が脳裏に浮かび、
僕は思わず肩をすくめた。
「解った。今日はできるだけ気をつけるよ」
「そう思って、隣町での行動を予定しています」
 僕の言葉を、『雪さん』が引き継いだ。
「賢明な判断ね。さすがは雪。…それじゃ、私たちはこれで」
 アリス、マリアちゃんと離れ、僕たちはバス停に向かった。



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