朧月夜

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 空になったグラスをすすぎ終えて戻った雪の耳に、微かな衣擦れの音が届く。
傍らのベッドに目を向けると、恥ずかしがって背を向けていた透矢がその隣
―先程まで雪が横たわっていたあたり―と向かい合って寝息を立てていた。
薄雲にやわらげられた月明かりは茫として室内を蒼く染め、規則的な呼吸が却って
静謐を際立たせる。
 ドアを閉める音が小さく響く。雪は静けさを乱すことなくベッドに近づくと、
めくれてしまった掛け蒲団を慈しむように直して、暫く透矢の寝顔を見つめた。
年の割に幼さを残した優しげな顔立ちが子供の頃の面影と重なって、雪の表情を
柔らかにさせる。

 ――あの頃と、何も変わらない――

 知らず微笑む雪の視界の中で、空っぽの空間が揺らぐ。雲間から差し込む
月明かりに照らされた、人一人分の空間。少し前まで自分がいた場所がゆっくりと
熱を失ってゆく。何故か悲しくて、雪は隙間を埋めるようにそこに潜り込んだ。
掛け蒲団に口元をうずめて横を向くと、すぐ目の前に透矢の顔がある。より
近づいた無防備な寝顔を見つめながら、雪はここしばらくの透矢との日々を
思い起こしていた。

 ――こんな毎日がずっと続けばいい――

 それは雪の偽らざる心。確かに何も思い出せずに苦しむ透矢を見るのは
辛いし、それで全てが解決するのなら記憶を取り戻して欲しい。
 だがそれは、この幸せな日々が雪の手から滑り落ちることを意味していた。
透矢の記憶が戻れば、以前のようなどこか距離をおいた生活が再び繰り返される。
 そう思うと、いっそこのまま、という気持ちが記憶の回復を望むその裏側で
渦を巻く。自分の身勝手さに罪悪感を覚えながらも、認められるはずの無い我儘を
どうしても消し切ることができない。たとえかりそめの幸せであったとしても、
雪の目にはこの日々が途方も無く眩しいものに映ってしまった。

 ――だから、辛い――

 そして同時にその眩しさが、透矢の優しさが『家族』に対するそれでしかない、
という翳りを雪の心に落としていた。
 結局透矢の記憶がどうあろうと雪の心は揺れつづけ、満たされることがない。
その痛みは誰に吐露することもできず、自分自身でなだめ、誤魔化すことしか
できなかった。

 ――雪は、透矢さんが思っているようなメイドじゃないんです――

 いつの頃からか、体が女性らしさを帯びるにつれ、雪は透矢に対して
抑えがたい欲情を覚えだした。自分の名を呼ぶ少し低めの声が、すれ違う
ときに漂う体臭が、前触れもなしに雪の体に熾火を点す。一度点された火は、
そんな自分への困惑をねじ伏せ、じりじりと焦がしながら全身を焼いていく。
火勢は時を経、回を増すごとに強くなり、いつしか透矢のベッドで嬌声を
上げさせるまでになっていた。
 それ以来、透矢は雪の愛液が染み込んだ夜具に包まれて眠っている。
 その姿を想像しただけでも息が上がり、体が熱くなっていくのに、目の前の
透矢は雪の匂いを吸い込みながら眠っているのだ。その自分のものが混じった
吐息が頬にかかるたび、悦びのあまり達してしまいそうになる。

 ――嬉しい、はずなのに――

 なのに、雪の瞳は愁いを帯びたまま。夜具に落とした残り香も、かすれて
響いた嬌声も、想いの残滓を無人の部屋に留めるだけで、何一つ透矢に伝えは
しない。その距離を思うと、白桃のように柔らかな頬を涙が数滴伝う。
 あまりにも、遠い。
 それでも雪はその距離を踏み越える勇気を持てなかった。拒絶されれば
今手の中にある幸せさえこぼれていってしまう。そう思うと足が恐怖に竦む。
そんな雪にできたのは、偶然を装って自分の想いを透矢に気づかせること。
あの日、見られていると知りながら、いつものように透矢の夜具にしるしをつけた。
縋るように願いを込めて。屈折していると知りながら祈るように。
 それでも、届かない。

 ――苦しい、です――

 言葉が溢れそうになる。吐息を肌で感じるくらい近くにいるのに、その距離が
無限に感じる。透矢の体温が伝わってくるのに、悲しみに凍える心が
温まることはない。

 「透矢さん」

 声に出して呟く。眠りの淵に沈んだ透矢はその声に答えず、雪の心は小さく震える。

 「透矢さんっ」

 啼くように呟く。続く言葉を押しとどめ、唇をきゅっと引き結んだ。
その代わりに右手がおずおずと胸元に近づく。

 ――んっ――

 パジャマの上からゆっくりと起伏を辿ると、布地のざらつきが無防備な乳首に
刺激を伝えてくる。そのまま何度も絞り上げ、尖端をきつくこね回すたびに
重く張った乳房が形を変え、掌を押し返してきた。それを続けていく内に、
硬くしこった乳首が布地の動きにさえ耐えられず、より熱く、硬くなる。

 ――っは、くっ、ぅ――

 パジャマの前をたくし上げて、篭っていた熱を逃がす。夜気に触れた乳房は
月明りを浴びて仄白く、ねぶられ続けた乳首は甘く色づいていた。雪は小さな
吐息をつくと、鼓動に合わせて疼く股間に手を伸ばす。

 ――あ……――

 その先にあったのは透矢の右手。自分のものとは違う熱を持つ大きな手が、
雪の指先に触れた。
 そのまま透矢を確かめるように、指と指を絡めてゆく。そこから伝わる
温もりを、雪は身を硬くしながら受け止めていた。吐息がまた一つ、夜に溶ける。
 居間の古びた時計が2つ鳴り、雪は不意に目を伏せた。握った手がゆっくりと
胸元へ近づき、そのまま左胸に押し当てられる。

 ――っは、あああぁっ、ぁっ、透矢さんっ――

 瞬間、雪の肩が小さく跳ねた。心臓の音がうるさくて、透矢を起こして
しまわないかと心配になる。それも束の間。鼓動の高鳴りに急き立てられて
胸にこすり付けると、思い通りに動かすことのできない硬い手は、それでも
さっきまでの自分の愛撫よりはるかに強い快感を与えてくれた。摩擦とさえ
呼べそうな乱暴な動きに、既に屹立した乳首は痛みを覚えるほど硬くなり、
色素の薄い肌が桜色に染まる。

 ――んっ、ぅあっ、ねっ、透矢さん、雪のおむねっ、やわらかいですかっ、
っき、気持ちいいですかっ? 雪、雪はぁ――

 透矢を捕らえて離さぬ手の代わりに、もう片方の手がなだらかな下腹部を
滑り落ち、ズボンの中に潜り込んだ。そろえた指先が無毛の稜線を這いまわり、
幾度も往復してから太腿の間に吸い込まれた。
 溢れるほどにぬかるんだそこは、雪が驚くほどの熱を帯びていた。絡みつく
愛液さえも、確かな熱を指先に伝えている。雪はそのことに驚きはしたが、
不快ではなかった。透矢を傍に感じることでいつもより敏感になった自分の体が、
透矢への想いの深さを示しているようで今だけは嬉しかった。

 ――雪は、とっ、透矢さんで、こんな、こんなになっ、ってっ――

 わずかに綻んだ花弁に指を添え、触れるか触れないかの強さで焦らしながら
泳がせると、やがてふっくらと花咲き、その奥からとろとろと透明な蜜をこぼす。
柔らかなそこは、力加減が微妙に狂うたび物足りなげにひくついた。

 ――ひゃ、っう、あ、くっ――

 やがて緩やかな刺激では耐え切れなくなり、中指を入り口から侵入させる。
ちゅぷ、と音を立てて飲み込まれていった。ぴっちりと指を包む窮屈なそこに
波を送ってかき回し、くるくると大きな円を描く。そして指先から付け根まで
中を往復させてから、指を折り曲げて幾重にも折り重なった襞を数えるように
そっと抉った。

 ――あ、すみませ、ひあっ、ん、ゆ、雪ばっかり、気持ちよくって、でもっ――

 触れなくても判るくらい硬くなった花芯を包皮の上から撫で、挟み、捻りながら
刺激を加える。だが普段なら十分な快感を得られるその動きが今は物足りなく、
ぬるつく包皮をめくり上げて、蜜をまぶした指先を剥き出しの花芯の上で踊らせた。

 ――っん、雪のここ、ほらっ、硬くなって、っっ、ぬるぬる、ってしてぇっ――

 その不規則なリズムに合わせて太腿がびくびくと痙攣し、とめどなく湧き出る
愛液がそのまま下着に吸い込まれる。やがてその下着も用を成さなくなり、
直接パジャマに染みを広げていった。いつだったろう。子供っぽい趣味のこの
パジャマを、似合っているよと誉めてくれた笑顔を見たのは。
最近のことのはずなのに、それはとても遠い日のことのように思えた。

 ――っはぁっ、はっ、ご奉仕、……よろしいですよね?――

 胸を押しつぶしていた透矢の手を持ち上げ、人差し指をそっと含んで快楽に
緩んだ口元を封じた。わずかな寝汗が雪の舌を刺激するが、唾液と混ざり合う
それを余さず掬って喉に流し込んだ。

 ――透矢さんの味、おい、しぃ――

 舌頭で指先をつつき、爪と肉の境目をゆっくりとなぞる。ちろちろとうごめく
その薄い肉塊はするりと指の間に滑り込み、関節のあたりを頬肉に押しつけた。
そのまま全体を飲み込むと歯を立てぬよう唇をすぼめ、肉の輪を形作って上下に
しごく。そうしている内に口の中の熱が全身に伝播し、桜色に染まっていた肌が
薄紅を刷いた。

 ――あ、透矢、さんっ、ゆきぃ、雪は、またぁ――

 指にまとわりつく水音が粘ついたものに変わり、透明だった愛液が濁りを
帯びだすと、秘裂に埋める指の数を増やした。抉り、差し込まれるたびに
隙間からこぼれる泡立ちが、加えている刺激の強さを語っていた。
 止むことなく強さを増す指の動きに翻弄され、腰が浮きそうになる。無理矢理
押さえ込もうと足をきつく閉じたが、ほとんど意味がなかった。指をしゃぶる音と、
指が立てる音が重なり合って雪の耳朶をくすぐり、高みへと追い立てていく。

 ――っつ、透矢さんっ、透矢さぁんっっ――

 潤む雪の瞳には、変わらない透矢の寝顔。それが悲しくて、届かせては
いけない音を殊更に立て、さらに自分を追い詰めてゆく。声にならない叫びが
耳の奥で細く響いた。背中が大きく仰け反る。こぼれる唾液と、愛液と、涙。

 ――ごめん、なさい――

 纏わりついていたけだるさが消え、次第に焦点を結び始めた視界に、唇から
こぼれた透矢の指が浮かび上がる。目の前に突きつけられた指先を見ている内に、
体に残った熱が唐突に引いていった。
 枕元に転がるティッシュの箱に手を伸ばし、数枚を引き出した。もう片方の手を
ついて身を起こすと、透矢の指を詫びるように拭ってゆく。寝乱れた蒲団を直した
母親のような手つきはそこに無く、叱られた幼子が縋りつくのに似た頼り無げな
動きだけがあった。その顔に浮かぶのは色濃い後悔と自己嫌悪。
 拭い終わった手をそっと横たえ、自室に戻って汚れた下着とパジャマを
取り替えた。それを透矢の洗濯物と一緒にするのは躊躇われ、直接洗濯機の
中に入れて蓋を閉めた。
 俯いたまま透矢の部屋に戻り、自分も蒲団に入る。少しだけ冷えたシーツを
背中に感じながら天井を見つめた。おぼろげな月明かりは室内を照らし、けれど
全てを照らすには弱くて。それは何も見えないより却って辛く、思わず
逃れるように顔をそむける。視線の先には何も変わらない穏やかな寝顔。
睫毛に残る雫がすう、と枕に吸い込まれた。
 並んで眠る姿を隠すように、夜風が月に薄雲を纏わせる。

                                  −終−
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