愛なんていらねえよ、秋

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             【  10月6日(日) 】

 
 目覚めは雀の囀りと共に。
 ゆっくりと上体を起こして、頭の中にある靄のような眠気を追い出す。
 今日は日曜日。官公庁・学校および一般企業がこぞって休日と指定している日だ。
「……ん〜」
 日曜。それはロマネコンティの芳醇で上品な味わいにも似た甘美な響き。
 ……いや、飲んだ事無いけど。
 そもそも1リットルあるかどうかの葡萄酒に数十万、数百万という馬鹿げた金額を
 喜び勇んで払うような神経などわかりたくも無い。
 どうせ買うなら近所のスーパーで売ってるグレープ味の
 炭酸飲料水1.5リットル(¥330→¥198)の方が絶対いい。量も多いし。
 歴史だって負けてないはずだ……多分。
「ふぁ〜………………………………っと」
 生欠伸を噛み締めながら、壁時計の指している時間を確認する。
 短い方の針が6と7の中間にあった。
 うーむ。日曜だというのに早起きし過ぎだぞ俺。
 これじゃまるで早朝のゲートボールだけが残された最後の生きがいだと
 公言してはばからない60過ぎた爺さんじゃないか。
 この時間じゃテレビも面白いのはやってないし……さて、どうしたもんか。
 夏休みなら近所の公園か学校かに行ってラジオ体操に混ざってスタンプとか
 押してもらうという有意義な時間を過ごせるんだが、今はもう10月、
 つまり秋真っ只中。そうもいくまい。

 そう、季節は秋! 秋といえば……えーと、何だっけ。
「読書とか芸術とかスポーツとか、いっぱいあると思うけど……一つも思いつかないの?」
「馬鹿をおっしゃい。そのようなありふれたマニュアル通りの答えなどこの
 超個性派レボリューショニアー桜井の頭脳には持ち合わせていないだけなのだよ……って、
 当たり前のように人様の住居と脳内に無断進入するな和人」
 いつの間にやら俺の部屋に出現していた小学生は徹夜3日目の漫画家のような目をしていた。
「何の用だ? 小学生が日曜に起きてるような時間じゃないと思うが」
「僕もそう思うよ……ふぁ〜あ〜」
 俺以上の生欠伸。普段とても小学生と思えない言動をつらつらと並べる和人だが、こういう
 無防備な顔もたまーに見せる。こいつがやけに女受けがいい理由の一つなのかもしれない。
「……で、これ」
 涙目を擦りつつ、和人が一枚の封筒を差し出してくる。
「なんだこりゃ」
「さあ? 僕はお母さんから『これを坊に渡してきなさい』って無理やり叩き起こされて
 布団からも家からも追い出されただけだから」
「……」
 世の中に不幸な人々は沢山いる。しかし……いや、言うまい。
「ご、ご苦労だったな。それじゃここで暫く寝て行ったらどうだ?」
「そうしたいけど、今日は9時から約束が……ふぁ〜、あって、寝る訳にもいかないんだ」
「デートか」
「違うよ。瑛と遊びに出かけるだけ」
 それを世間様はデートと呼ぶ事をこの色ガキが知る日は多分近い。
「それじゃ、確かに渡したよ」
「ああ。ちょっと待て」
 徹夜4日目の小説家のような足取りでここを出ようとする小学生を引き止め、
 冷蔵庫まで直行。CMか何かで『眠気をスッキリさせたい缶コーヒー』という
 キャッチフレーズを謳っていたそれを取り出し、和人に渡す。
「効果があるかどうかは知らんが、眠気覚ましに。ほれ」
「ありがと」
 特に抑揚の無い声でそれを受け取った和人は、出て行く間際に
 ちょっと無理して作った笑顔を見せ、足早に駆けていった。

「……さて」
 再び独りとなった所で、俺は和人から受け取った封筒をテーブルに乗せながら
 ベッドに転がり、そのままインターバルの長い二度寝に突入すべく双眸に瞼を被せた。
「言い忘れたけど舞人にい、それの中身はお母さん直筆のメッセージ込みだから、
 うっかり二度寝して読み忘れたとか言ったら凄い事になるよ」
「それはそれはご丁寧に」 
 コーヒーを飲みながらわざわざ忠告しに戻ってきた和人に深々と頭を垂れて、テーブルに
 置いた御封筒様を粗相の無いよう丁寧に開ける。
 和人の言う通り、一枚の手紙―――適当に破ったメモ帳が入っていた。
『おはよー坊。早速だけど、今日の朝部屋を掃除してたら……あらはー、こーんな
 面白い物が見つかっちゃったー。って訳で坊に一枚渡しておくわねー。言っとくけど、
 折角の贈り物を捨てたり無くしたり燃やしたりしたらロクでもない事になるからねー』
 和観さんの相変わらずな文章が綴られた手紙に付属されていた物は―――
 1枚の写真だった。
 こ、これは……これわぁぁっ!?
「何てこった……よりにもよってこんな不発弾を日曜の朝っぱらから……」
 こんな朝早くに目が覚めた理由が何となくわかった。おそらくは予兆。
 それも最悪の部類の。
 すっかり眠気が飛んでいったこの瞬間から、受難の日々は幕を下ろした。


              【  10月7日(月) 】


「おいーっす……って、どうした?
 日曜の朝に近所で工事を始められた時の寝起きみたいな面してるぞ」
「おはよーっ……って、どうしたの?
 女装の趣味が部下にばれちゃった何処かの部長みたいな顔してるけど」
 陰鬱な気分で登校した俺を待っていたのは、下々の俺の身を案ずる心配の声……とは
 程遠い、割と的確な指摘だった。
「いや……常日頃笑顔を振りまいて周りの皆をハッピーな気分にしようと心がけてる
 ヒューマニストな俺でもたまにはアンニュイな気分に浸りたい事もあるのさ。
 L&G、心配してくれるのは嬉しいが放っておいてくれないかい?」
 憂いを含んだ男のフェロモン満開な表情を作りつつ、山彦と星崎にそう告げる。
 いや、実際ツッコまれたく無いんだ、今回の件は。何せ……。
「あっそ。あ、そういや二時間目の数学の課題早くやんねーと」
「私の見せてあげよっか? 間違ってるかもしれないけど」
「おー! マジで?」
 ……そりゃ放っておけとは言ったけどさ。淡白過ぎだよあんた達。
「待て貴様ら。この泣く子も笑うラテンの道化師がカリブ海より深く落ち込んでいる
 というのに、大して気にも留めてないような素振りを見せるのはどういう事だ」
「放っておけっつったのはお前じゃんか」
「ばっ、お前な……こういう時の『放っておけ』はイコール『もっと聞いて!
 もっと俺のこの苦悩を内包した渋みある表情の理由を問いただしてくれ!』だろうが。
 気の利かない奴らだな全く」
「さくっち子供ー」
「黙れ女。俺の心はナイーヴを主成分として形成された硝子の少年型ハートなんだよ。
 貴様らの醜く汚れた曇りガラスと一緒にするな」
「わーったわーった。で、何かあったのか?」

「いや何も」
 保身本能による条件反射発動。
「……」「……」
 親の敵でも見るかのような目で睨まれた。
「……はよー」
「あ、八重ちゃんおはよーっ。さ、相楽君。あっち行こ」
「そうだな。あー、さっきの話なんだけど、数学の課題見せてくれる?」
「いーよー勿論。誰かさんと違って素直なのはいい事だよねー」
 取り残される俺と八重樫。秋にしてはやけに冷たい風が窓から吹き付けてきた。
「……秋ってさ、寂しい季節だよな。木の葉が一つまた一つと落ちていく度に
 命の儚さとかを感じずにはいられない」
「……」
「そういや人の夢って書いて儚いって読むんだよな。昔の人は上手い事言うよな、全く」
「……さくっち」
「何だい? このポエマー桜井に詩の一つでも作ってもらいたいとか? 言っとくが
 俺の詩は安くないぞ。無論値段以上の感動を保障するからこその高利経営なんだが……」
「私、今、女の事情で機嫌極悪」
「私が悪うございました。もう話しかけませんのでお許しください」
 女心と秋の空。空がこんなに青いから、君の心も超ブルー……byポエマー桜井

 余談だが、とても値段の付けられそうに無いその詩を文芸部の連中に聞かせて
 みたところ、失笑、嘲笑、冷笑などを頂いた。天才とは孤独なものだ。



 禍々しい空気を身近に感じつつ、今日の授業を受け終える。夏休みを終えて随分経つと
 言うのに脳ミソは未だ学業を受け入れる体制を拒み続けているのか、内容に関しては
 一切の妥協を許さず忘却の彼方へ。ま、別にいいんだけど。
 なんて事を思いながら帰りの身支度をしていると、山彦がにじり寄って来た。
「秋だな」
「何だその唐突な切り出しは。いや、確かに今は秋だ。しかしそれを今更俺に言って
 どうするつもりだ? まさか『ガチンコ! 秋に因んだ物限定しりとり』でも
 始めようという魂胆か。まあお前にしては健全なテーマだし受けてやってもいいぞ。
 先行は俺な。それじゃえ〜と……『秋刀魚』」
「勝手に話を進め過ぎだ……でもま、あながち間違いじゃないな。
 『ま』か……『松茸』なんてどうだ?」
「だろうな。洞察力の鬼という異名をポンギのチーマーから頂いた捜査一課見習いの
 俺としては当然の事だ。じゃ『毛糸』」
「なるほど、冬に手編みのマフラーだかセーターだかをプレゼントする為に
 秋から用意をする乙女心を理解した深いワードだな……うむむ」
「なにしてるのー?」
 山彦が気の利いた言葉を思案している途中、気さくなプリンセスがふわふわと光臨した。
「秋について語り合ってる最中だ」
「食欲の秋とか? そうそう、私の今月のテーマは『クレープ強化月間』なんだよ。
 その為に夏休みは頑張って働いたんだから」
 今まで以上にクレープ尽くしの生活にしてどうするんだ……? クレープ王にでもなる
 つもりなのか。いや、クレープ王女か。プリンセスなんだし。待てよ、
 クレープの女王の方が語呂がいいか? って、どうでもいいな……こんな事。
「強化月間って言うとあれか? 秋なのにクレープシャツを着てクレープペーパーで
 ラッピングされたクレープを食べたりするのか? こう言っちゃなんだがアホっぽいぞ」
「あーっ、誹謗中傷したー」
「忠告だ。あんまり間隔あけずに食べると太るし飽きるし
 無駄に金銭を浪費するし、いい事無いぞ」 
「むー……さくっちにしては的を射た忠告」
 星崎は期待はずれな若手芸人を見る某新喜劇の観客のような冷めた目線を送ってきた。

「と……と……ときょうそう……『徒競走』! そうだ、スポーツの秋にちなんで
 徒競走……って聞いとけよ」
「まだやってたのか? 言っとくけど制限時間は十秒だぞ。つー訳でお前の負けだから
 明日までにテクノカットにしてこい……いや、微妙に似合う可能性があるからやっぱやめ。
 そうだ、大五郎カットにしてこい。ロナウなんとかってサッカー選手もやってただろ」
「勝手にルールを追加していくな。 つーかそこまで覚えてるなら後一文字ぐらい覚えとけよ……」
 そう言われてもサッカーにはそれ程興味ないしなあ。
 牧島辺りならそいつの使ってるシューズの名前とか言えそうだが。
「スポーツの秋かー……さくっちは何かスポーツとかやってるの?」
「愚問だな。この鍛え抜かれた形跡が欠片も無い標準バディを前にしてそんな事を聞くとは」
「確かに……」
 星崎は期待はずれな若手選手を見る某ディービル大会の観客のような冷めた目線を送ってきた。
「俺とて幼少時は糸で吊った五円玉を目の前で左右に揺らされながら『あんたはやれば
 出来る子よ』と毎日のように言われ続けた期待のホープだったんですが、
 神童は大成せずというジンクスに打ち勝つ事が紙一重で叶わず現在に至っているのですよ」
「はいはい。それじゃ元神童現死んどうの桜井舞人君に提案なんだが、
 今月を『秋満喫月間』に指定しないか?」
 山彦はやっとこさ本題を言えたというような充実感を顔に出しながらそんな事を提案してきた。
「あーっ、まねっこー」
「へ? 星崎さんも秋満喫月間中?」
「こいつの場合はただ一点『食欲』にのみ特化した月間なんだと」
「違うよーっ! 『クレープ強化月間』だもん。人をいやしんぼみたく言わないでよ」
 別に大した違いでもない気がするが、大層お怒りの様子のプリンセスに
 油を注いでもしょうがないので沈黙。

「と、とにかく。舞人、俺はお前の将来が心配でならないんだ」
「いきなり脈絡無く失礼な事を言わないで貰おうか」
「時間はあるのにバイトはしない。社交性はあるのに友達はいない。運動オンチでも
 知能が低い訳でもないのに部活にも入ってない……このままじゃお前は堕落する一方だ。
 言ってみれば今のお前はダメ人間の幼虫がサナギになろうと固まり始めた段階だ」
 山彦は人の話も聞かんと熱弁を振るう自分に酔っている。
 一応部活には入ってるんだがな、誰かさんの誘惑を受けて……やめとこ。
 それを言ったところでどうなる訳でもないし。
「つー訳で、選べ」
「……何を」
「秋と言えば、幾つかあるだろ? 〜の秋って感じで。その中から一つチョイスして
 今月はそれをやり尽くそうと言ってるんだ。あ、俺個人が推奨するのは『恋愛の秋』な」
 そんな訳のわからん秋は初耳だが……そうだな。面白そうなイベントも文化祭までは
 特にないし、山彦の提案に乗ってやるのも悪くない。
「それじゃ食欲の秋って事で、今からクレープ屋に直行! ってのはどう?」
 クレープの女王が私利私欲にまみれた意見を発した。
「生憎だが今月は色々と物入りなんで貧乏だ。却下」
「えーっ。だったらバイトとかすればいいのに」
「貴様のようにこの世で最も希少価値の高い『時間』というオリハルコンを、食欲のみを
 満たして消えていく物の為に浪費するなんて……俺には考えられない」
「ひっどーい! そんな大切な『時間』を『怠惰』という自堕落タイムとしてじゃんじゃか
 捨てていってる人にそんな事言われたくなーい!」
「なんだとっ! 適当に生きてない男NO.1を10年連続達成してそろそろ殿堂入りが
 検討され始めているこの俺が自堕落なんてしてる訳が無いだろーがっ。おっと、ついでに
 抱かれたい男の方もずっとTOPだって事はここだけの秘密だぜベイベー」

「ありえない」
「なにっ!? このハ行ハンサム流を会得したハンサム侍を捕まえて何という暴言!
 おのれ女、そこになおれっ!」
「だって、ありえない。ありえなさすぎ。某会社の漂白剤がまっくろくろすけになって
 商品名を正反対にするくらいありえない」
「うがーっ!」
「……どうでもいいが、痴話喧嘩は他所でやってくれ」
「「そんなんじゃありません」」
 山彦の見当違いなツッコみに二重奏で反論した。
「「……ふんっ」」
 そして同時にそっぽを向く。
「相変わらず仲いいな、お前ら」
「うるせ。あー、とにかく食欲の秋は却下だ。別のがいい」
「そうか? なら……」
「待て。お前に選ばせるとロクなのにならん。俺が決める」
 さて、どうしたもんか。
 食欲以外の秋っつーと……芸術、読書、スポーツぐらいか。
 芸術……は悪くないが、絵描いたり壺作ったりとかしか思いつかないな。
 何か専門の道具とか要りそうだし、何より面倒だ……無理か。
 読書は……問題外だな。オチまでの経緯がはっきり見える。あそこには近付くまい。
「となると、残りはスポーツだけだな」
「なにが『となると』なのかは知らんがスポーツでいいんだな? そんじゃ何をするか
 決めようぜ。テニスとかどうだ?」
「うむ、この貴族刑事こと桜井舞人に相応しいスポーツだな。
 しかし俺はラケットを持ってないし買う気もないし借りるツテもないので却下だ」
「ンな事言ってたら道具使う種目全滅じゃんか」

「ふん、どうせ貴様の事だ。星崎や八重樫をついでにとか言いつつ誘って、
 きゃつらのテニスウェア姿、あわよくばスコートを見ようって魂胆なんだろ?
 うわ、なんてエロガッパだおい」
「ててて、てんめー! ふざけた事言うんじゃねーよ!」
「おいどうする星崎? こいつお前の擬似パンチラを見ようと……」
「……」
 姫君は邪眼を携えておいでだった。
 まだ怒ってるのかよ。ま、本気でキレてる訳じゃないみたいだし放っとけばいいか。
「よかったな山彦。貴様のリピドーに侵食された魂の言霊はこいつには届かなかったらしいぞ」
「いつ俺がそんな罰当たりな言霊を発信した……」
 呆れ顔というより少々お疲れ気味な感じで山彦がため息をついた。
「……それじゃ道具を使わないスポーツを考えてみるか。カバディなんかどうだ?」
「もはやマイナーとも言い難いからインパクトに欠ける。却下」
「マラソンは?」
「好き好んでやらなくても体育の授業でいつかやるだろ」
「なら組体操」
「一人扇なら体得済みだ」
「……んじゃ、ボーリング。道具使うけど借りれるし」
 もっとも妥当、というか妥協しまくった意見が出た。それなりに建設的なのがなんか悲しい。
「でも微妙に金かかるしなー。スポーツってイメージじゃないし……そうだ、
 卓球なんかどうだ? 卓球部に一面借りて」
「お、中々いい意見じゃないか。だけど貸してくれるもんなのか?」
「何とかなるだろ。よし、星崎。お前も来い」
「来い……って、え? え?」
 俺はカボチャの馬車となってプリンセスを体育館まで引っ張っていった。



「……と言う訳で、どーーーーしても卓球がやりたいから台を一面、ついでに人数分の
 ラケットとボールも貸してくれ、とウチのプリンセスが仰ってるんだが」
「ノープロブレム。ここは君達のパルティアさ。誰かがエトランゼと宣ったなら遠慮なく
 僕に言いつけてくれ。直ちにニルヴァーナへ左遷してやるともさ」
 俺の差し出した”星崎希望の使用済み割り箸”を卓球部部長の城金やすし(17)は
 両手で受け取った。ちなみにその割り箸は以前星崎と『米粒拾いレース』をやった際に
 星崎が使用した物を拝借したという代物だ。
 そんな事実を知るはずも無い城金君とニッコリ微笑み合いつつ、商談は成立。
 こうして俺達は体よく放課後の遊戯場を手に入れた。
「……いいのかなあ」
「いいんだよ、喜んで使わさせていただきますって部長自ら言ってるんだから」
「そうそう。ところで、出来ればもう一人女の子が欲しいよな。そうすりゃ男女混合
 ダブルスが出来るし」
 軽く素振りをしながら山彦が呟いた意見はもっともだ。三人、しかも女一人じゃ
 何かと都合が悪い。
「八重ちゃん呼ぼっか?」
「いや、あいつはやんごとなき事情で暫くイベントには参加出来ないんだ」
「ふーん……」
 あえて理由を聞いて来ないところに、女の勘の鋭さを知った。

「という事で星崎、八重樫以外の女子を誰か呼べ。一人でいいぞ。女が三人そろうと
 視姦されるからな」
「友達ならいるけど、卓球しようって言って飛んでくる友達はいないよ」
「なんだそりゃ、友情のキャッチボールといっても過言じゃない卓球という
 お手軽スポーツメントに足を運べもしないで何が友達だ。そんな役立たずどもとは縁切れ」
「つまり、『星崎さんの友達は俺だけで十分だ』と言いたいのか?」
「ばっ……お前な山彦、さっきから見当違いの指摘ばっかしてるぞ」
「へー、そうなんだ」
 山彦の言葉を真に受けた星崎が意地の悪そうな微笑を向けてくる。
「さくっちは独占欲旺盛なお年頃〜♪」
「違う」
 何故かご機嫌麗しゅう状態のプリンセスに必要最低限の語数でのツッコミを試みたが、
 当の本人は意にも介せず意味不明な自作の歌を3番ぐらいまで歌っていた。
「……で。山彦、お前女の知り合い多いだろ。一人ぐらい余裕で調達できるんじゃないか?」
「知り合いならいるけど、卓球しようって言って飛んでくる奴はさすがにいないぞ」
 役立たずどもは所詮役立たずか。期待した俺が馬鹿だったようだ。うーむ、
 そうなると……残るは俺か。
「あ、大丈夫だよそんな困った顔しなくても。さくっちには誰も期待してないから」
「そうだぞ。誰も妖怪ダチナシに女の子を連れて来いなんて非道な事は言わないから安心しろ。
 小判とか出さなくていいからな」
 ……えらい言われようだな。ここまで言われると寧ろ清々しい気分だ。
 それはともかく、女でノリが良くて来いと言えばすぐにでも来れそうな奴……いるな、一人。
「マジレスして悪いが、一応一人心当たりがいる」



 携帯を取り出し、心当たりに電話。奴はすぐに出た。
『どうしたんですかせんぱい? せんぱいが雪村に電話をくれるなんてどのような
 非常事態が……まさか世界に3杯しかないと言われる魔法のミルクティー『ロイヤル
 クラウンZ』でも発見してそれを雪村にプレゼントしてくれるとか……え? 卓球?
 わかりました。せんぱいの為ならこの雪村、例えこれからバイトに直行しなければならない
 時間であっても愛する人の為に殉職する覚悟です。では三十秒でそちらに駆けつけますので』
「……と言う訳ですぐにこっちに来れるそうだ」
 携帯を折りたたんでポケットに入れながらそう告げると、山彦は何故か嬉しそうな、星崎は
 何故か不機嫌そうな顔をしていた。
「俺は嬉しいぞ。お前が女を調達するなんて光景が見られるとは」
「そそそそんなんじゃありません! 後輩に世の中の縦社会構造を教えてやってるだけです!」
「……その割には鼻の下伸ばしてるけど?」
 さっきまで機嫌よさ気だった星崎が再び邪眼で睨みをきかせてくる。
「だからなー! 何でおれが雪村なんぞに」
「雪村なんぞに……何ですか?」
「どわぁ!」

 突然背後から聞こえてきたもう聞き飽きた筈の声に思わず心臓が跳ねてしまう。
「は、早いな雪村」
「はい。うまくも安くもないのでせめて早さだけはと思いまして」
「……」
 なんかえっち臭いな、と思ったのは俺だけだろうか……。
「あー、やっぱり鼻の下伸ばしてるーっ」
「ののの伸ばしてません! そ、そんな事より卓球やるぞ卓球! ほら雪村ラケット」
「はい」
 様々な疑惑の視線を無理やり掻い潜りつつ、ようやくスポーツの秋らしい体裁が整う。
 で、当初の予定通り男女混合ペアのダブルスで試合をする事になった。ペアは俺と雪村、
 山彦と星崎。初対面であろう雪村と山彦を組ませる訳にもいかんしな。
 ……決して星崎の忌諱に満ち満ちた妖気にびびってる訳じゃないぞ。
「なー、どうせ勝負するんだったら何か賭けないか? その方が絶対盛り上がるし」
「あ、賛成ー」
「雪村はせんぱいにお任せです」
 ギャンブラー俺こと俺が反対する筈もなく、山彦の意見は受理された。
「じゃ、敗者は勝者の言う事を何でも一つだけ聞くって事で。もち出来る範囲内でな」
「OK」
 かくして欲望と打算にまみれた健全さと対極にある『第1回チキチキ! 素人だらけの
 卓球大会』の開幕と合なった。



 ……ポコン……ペコン……パキン……ペチッ……ポトッ
「ああっ」
 雪村のショットが相手コートを捉えられずアウト。
「よっしゃ! これで9−6な」
「くっ……またしても妙な回転かけやがって」
 ルールは一般的なダブルスのそれで、11点制・必ずペアと交互で打つというもの。
 素人ばかりだからスマッシュ等の華やかな技はなく、女二人は山なりの返球ばかりだから
 盛り上がりに欠ける上に身体を動かしている実感がない。
 そんな中、山彦だけがせこい回転系ショットを操り、ジワジワと点数を離されていた。
「すいませんせんぱい。雪村がだらしなく不甲斐ないばっかりに……」
「そんな事はない。おのれ山彦、いたいけな年下の女の子相手になんて大人気ない」
「なっ……ちょっと切るぐらい別にいいだろ」
「あんな妖怪ヘラヘラ(年中婦女子相手にヘラヘラする軟派妖怪)の言う事なんて気にする事
 ないよ相楽君。ギッタギタにして一年分のクレープ奢らせてやるんだから!」
「ンな天文学的金額を俺が持ってる訳ないだろが! つーか持ってたら貴様らごとき下賤の者と
 卓球なんかするか! おしゃれなバーで貴婦人達とロゼワインの必要性について優雅に
 語り合うっちゅーねん!」
「くきぃーっ! 小憎たらしい事言ってーっ!」
 とか何とか星崎と俺が言い合っている内に山彦がドサクサ紛れのサーブを打とうと
 しているのを俺は見逃さなかった。
 さすが俺! 野鳥の会もびっくりの観察眼!

「くらえ! 不意打ちじゃないぞ他所見してる方が悪いんだサーブ!」
「甘ーい! 他所見してるしてると見せかけて実はちゃんと見てんだレシーブ!」
「ちぃっ! 星崎さん頼んだ!」
「……」
 カッ
 その時、俺達は伝説を見た。
 無言で放った星崎のスマッシュは、こちら側のコートの角を超高速でかすめ、そのまま
 体育館の壁までフライヤー気味に飛んでいった。
「す、すげぇ……全日本選手以上のスマッシュだ」
「毎日練習してる俺達でもあんなの絶対打てねえよ……怪物だ」
 周りで見物していた卓球部員のレギュラー組がガタガタ震えていた。無理もない。
 あんな打球あり得ねー……。
「せんぱいぃ……あんなの取れませんよ。それに星崎先輩、なんか打つ時にスポーツ精神と
 かけ離れた敵意込みでこっちを睨んでる気が」
「むう、まずいな。何故かわからんが星崎の奴セブンセンシズでも目覚めたかのような
 覚醒っぷりだ。このままじゃ向こうの外道な要求を雪村が甘受している様を
 黙って見てなくてはいけない事態になってしまう」
「うわぁ、人数合わせで無理やり呼びつけた後輩に罰ゲームを全部押し付けようと
 してるー、かっこいー」
 これでスコアは10−7。まずいな、マッチポイントじゃねーか。しかも星崎が
 トランス状態だし……このままじゃ負けは必至。
「ちょっとタンマ。作戦タイム」
「おいおい、そんなルールないぞ」
 そう非難する山彦だったが、口とは別にボディーランゲージで本音を訴えてきた。

                 (以下通訳)

『そんな悪足掻きはいいからとっとと負けろ! はっきり言って今の星崎さんの近くには
 いたくねーんだ!』
『何をー? 無類のフェミニストで『フェミニーサガラ』ってブランドを立ち上げるのが
 将来の夢だと公言してはばからない貴様の台詞とは思えんぞ』 
『馬鹿な事言ってないで早く負けろって本気で。
 お前が負けて彼女の欲求を飲めば機嫌も回復するだろうよ』
『大人しく軍門に下れと言うのか? 馬鹿を仰い。この勝利の雄叫ビスト桜井舞人の辞書に
 敗北の文字はない。敗亡の次の字は這坊子(はいぼこ)だ。
 ちなみに這坊子ってのは「はいはい」をする頃の赤ん坊の事を言って、
 セミの幼虫が地中から出てまだ脱皮する前のものを指す事もある』
『そんな一生使う事のない言葉の意味なんてどうでもい・い・ん・だ・よ! とにかく、
 どうしても作戦タイムを取りたいってんなら星崎さんの機嫌を直してくれ!
 怖すぎて喋りかけられないし、かといってダブルスの手前離れる事も出来ないから
 地獄なんだよ! 今!』
『知るか。女へのおべっかはお前の得意分野だろ。日頃鍛えたナンパ師のありとあらゆる
 テクニックを駆使して自己解決しろ』
              
               (身振り言語の訳 終了)

「という訳で五分後会おう」
「舞人ぉーっ!」
 俺は雪村をつれて体育倉庫へ向かった。



 カビ臭い上に埃まみれでキノコとか生えてそうな倉庫の中に入る。
「せんぱいせんぱい、これすごいですよ、形はシメジなのに紫色の細かい斑点がびっしりと。
 今日鍋を作る予定なんですけど、これを入れてみたらどうなるでしょうね」
「それは面白いな……と言いたい所だが、そんな毒々しいもの闇鍋でも使えないだろ。
 確実にオーバーフードだっての」
 体育の授業ででも使ったのか、薄汚いマットが丸められずに床の上に放置されている。
 流石にそこに座る気にはなれず、二人とも立ったままの会議となった。
「さて、雪村。このままじゃお前はあの淫靡ジブル『ヤラヒコ』とクレープまみれの
 女王『ゾンビ』にケツ毛まで毟り取られかねん。そこでだ……ん、どうした?」
「わ、私……ヶッ毛なんて生えてないっしょや!」
 雪村は真っ赤っ赤になって尻に毛が生えている事を否定した。確かに女、しかも下ネタに
 弱いこいつに言う事じゃなかったな……俺も少し混乱してるのかもしれん。
「わ、悪かった。とにかく! このままじゃ負けるから勝てるように作戦を練ろう。つーか練れ」
「すいよすいよー」
「寝んな!」
 スパン! と景気よくスリッパでツッコみたかったが生憎身近に
 そのような物は無いので無難に手で叩く。
「いったぁーい、どっちですかもぉー。あんまりどっちつかずだと幾ら温厚で優女な
 雪村でも仕舞いには反抗期突入ですよプンプン」
 何か別の事を指摘されてそっちを非難されてるような気がしたが、
 ここは敢えて気にしない事にした。

「そうだ雪村。お前怪我した事にしろ。たしかここまでゲームが進行したら
 ゲーム成立ってのは決めてないから、上手く言いくるめればノーゲームになる事間違いなしだ」
「怪我した真似っこですか? うーん、我がクラスの片桐さん―――あ、個性派女優志望の子
 なんですけど、彼女だったら上手にこなせるでしょうけど……自信ないですキッパリと」
「なーにを軟弱な事を。大丈夫だって、ちょいと足を引きずればあの女性崇拝家が
 勝手に心配してくれるって」
「うわぁ、怪我した真似なんてキングオブ軟弱な事を考え付いた挙句にそれをやらせようと
 してる後輩を軟弱呼ばわりー、かっこいー」
「じゃ、そゆことで。一回ぐらい捻挫とかした事あるだろ? あの時の歩き方を思い出せば
 無問題無問題。ホレ、ここでやってみ?」
「はあ、では」
 雪村は右足首を捻挫したという設定にしたらしく、左足を一歩前に出して右足を
 引きずるようにして引き寄せて見せた。
「おお、上手いぞゆきむー。これでお前も立派な女優だ」
「へへー、せんぱいに褒められちゃった。てへり」
 そう呟いて嬉しそうに頬の肉を弛緩させる。それがいけなかった。
「あれ……あ、あ」
 ついでに全身の筋肉も緩んでしまったらしく、バランス悪く支えられていた
 雪村の身体が大きく傾く。
「あ、あ……あーれー」
「おおっ?」
 色々な方向に右往左往したベクトルが、意図的かどうかは定かではないが
 俺の方へ一直線に向く。
「うきゃん!」
「どわわっ!」
 ズドーン! という大きな擬音こそしなかったものの、二人揉み合うように
 マットに倒れ込んでしまった。俺が下で雪村が上。

「あいたたた……すいませんせんぱーい」
「いや、別にいいけど……ん?」
 あらかじめ言っておくが、俺は武道の達人ではない。
 あと気とか操ったりもしないし少年漫画の主人公でもない。
 しかし、それでも、このまるで周りの空気を歪ませるかのような
 威圧感たっぷりの殺気は感じ取れた。取れてしまった。
 ごごごごごごごごごごごごごご……
「体育倉庫……二人っきり……マット上で絡み合う……」
 もはやプリンセスと呼ばれた頃の面影は塩酸にでも溶かしたかのような
 邪悪な声がぶつ切りに聞こえてきた。
「ま、まて、のぞぴー。違うんだこれは。お前が思ってるようなそんなふしだらな行為に
 没頭なんてしてないぞ」
 ……って、なんで浮気が見つかった亭主みたいな言い訳してんだ俺は。
 アホらしい。別に彼女でもない人間に他の女とイチャイチャ……はしてないけど、
 そういう風に見られたからって何をビクつく必要がある?
 男のプライドと威信にかけて、ここはビシッ! と言ってやらねば。
「こら、そこの脳みそフライング女(ビシッ)」
「何ですか?(ギョヌリ)」
「いえ、何でもないですすいませんごめんなさいもうしません」
 男のプライド・威信はフライド・チキンと化していた。

「……あのー、あんまり理不尽な怒り方で喧嘩を売るとせんぱいキレちゃいますよー?
 怖いですよーせんぱいがキレると。子供の頃私をメスブタ扱いしたゴロツキどもを
 鰐顎拳で全治4年の重傷を負わせて海外の病院送りにした話はウチの田舎では
 有名な伝説なんですよー。いいんですかー」
 雪村が変なテンションで割り込んできた。ちなみに体勢は転んだ時のまんま。俺も。
「あらすごーい、でもそんな心配は無用じゃないかな。
 今のさくっちは女の子に手をあげるような最低男とは違うものー」
「そうですわねー。でもせんぱいは優しいだけじゃなく男らしさも兼ね備えておいでですから、
 必要とあらば正義の名の下に鉄槌を下す事だってあるかもしれませんよー?」
「ふーん、例えば口うるさくて馴れ馴れしい後輩にとかー?」
「いいええ、きっと独占欲丸出しのヤキモチ焼きな同級生にだと思いますわー」
「えー、今時そんな女の子いるー? ありえなーい」
「そうですねー、おほほほほ」
「あ、あわわわわ……」
 明らかに一触即発の空気が俺の胃をギューっと締め付ける。竜虎相打つとはこの事か。
 いかんぞ、いかん。このままでは俺の知り合い同士に確執が生まれてしまい、
 事あるごとに俺に火の粉が飛び掛りかねん!
「き、君たち、喧嘩はいくない。ここは一つ冷静になってだな……」
「さくっちとは話してないの!」「せんぱいはすっこんでてください!」
「……キャイーン」
 負け犬は黙って身を小さくするのみ。そう思って微妙に身体を縮めようとしたその時、
 俺の手に弾力ある感触が……。

「きゃああっ!? せ、せんぱいダメですよいけませんよ、そんな人前で胸に触れるなんて」
「わっ、す、すまん。不可抗力だ。つーかずっとこのままの体勢でいたから
 微妙に末端神経がしびれて……」
「きゃん! そこは……」
「え!? ち、違うぞ、わざとじゃないぞ。本当だってば!」
 俺は二人の女子の顔色を伺いつつ本気でそう言ったのだが、星崎は全く聞いてそうになかった。
「くききーーーーっ!!」
 姫ご乱心。見境なしにその辺にある物をスローして来た。
「わっ馬鹿やめろっ、危ないって」
「うるさいうるさいうるさーい!」
 チリトリ、バスケットボールやバレーボール、ラケットカバー、名も知らぬ器具……
 様々な物が俺と雪村に襲い掛かってくる。
 その中に一つ、動体視力から脳へ危険信号を伝達する物があった。壊れたハードルの欠片。
 あれはまずい、俺はいいが雪村に変な当たり方をしたら……って、そういう軌道じゃねーか!
「危ない!」
「えっ?」
 俺はとっさに、ほとんど反射にまかせて雪村を押し退けた。
 ビシッ! という大げさな擬音はしなかったが、手の甲に少しだけ痛みが走る。
 まあ、悪くない当たり方だと思う。
「あ……」
 ちょこっとだけ血が滲んだ俺の手を見て、星崎が我に返った。
「ご、ごめんなさい! 私、私……」
「狼狽るな、このくらいで。かすり傷もいいとこ、皮がちこっと捲れた程度だよ」
 実際そうなのだが、怪我させてしまた本人はそうも言ってられないらしく、
 なんか泣きそうになってる。

 雪村はというと、俺の怪我の心配というより放心状態のような顔をしていた。
「……せんぱいに助けられちゃった……身を挺して……」
 ……ま、いいか。
「と、とにかくだな、いざこざとかはよくない」
 このまま上手くまとめに入れば話は収まりそうだと踏んだ俺は、ゆっくりと
 立ち上がりながらこれから話す内容を頭の中で高速編集する。
 都合のいい事に真似じゃなく本当に怪我したし(怪我と言うほどのものでもないんだが)、
 これはもしかしたら八方上手く収まりそうじゃないか?
 そう思ったのが間違いだったと気付いたのは、立ち上がった後で
 余計な一歩を踏み出した瞬間だった。
「俺達は平和の国に生まれーーーっ!?」
 足元にあったラケットカバーをモロに踏んでしまい、滑り、コケる。
 しかしここで運動神経が卓越しまくりの俺は無様に転んだりはしないんだなー。
 とっさに右手を出して身体を支える!
 ビキッ
「ぐわあああぁぁぁっ!?」
 肘を伸ばしきった状態で全体重が右腕にかかってしまった。
 これは……いかん。やっちまった。
「うおお……素直に受身をすべきだった……」
「さ、さくっち? さくっちーっ!?」
「せんぱい!?」
 桜井舞人、右腕肘関節損傷(全治1週間)。



              【  10月8日(火) 】


 教室のドアを左手で開けると、室内の視線が一斉に俺の方へ集中するのを感じた。
「いやー、アイドルは辛いね。入室しただけでクラスの視線を独り占めなんて。
 任しときな。老いてしまった今も尚少年○とか名乗ってる身の程知らずな
 グループとは違ってこの桜井舞人、いついつまでも君たちに変わらない美貌と
 至高のエンターテイメントを提供し続ける愛の伝道師となろうじゃないか。ふふっ」
 見られる快感に酔いつつ、ドアを開ける為に一度床に置いたカバンを拾って自分の席へ向かう。
「……おい」
「何だ山彦、そんなに俺のスター性が妬ましいか? 所詮凡庸の塊でしかないお前には
 一生背負えないカリスマだから諦めるんだな。もっともスターはスターで苦労も多いんだがな」
「いや、学生服の上から包帯巻いてる奴が突然現れればそりゃスターにもなれるけどよ、
 どうせ一日署長もいいとこだぞ」
「何を戯けた事を。この俺が一発屋だと言うのか? いや、俺は一発屋を否定はしないけどな。
 この不況の中一発当てるだけでも十分な才能の花火だ」
「そんな事より、その包帯取れよ。あまりにも無意味だぞ」
「……確かに」
 小学生の頃、クラスで一番目立たない輩がある日骨折して腕を吊って来てヒーロー扱い
 されていた事を思い出し、怪我してる事が皆にわかるよう学生服の上から肘の辺りを
 包帯でグルグル巻いてみたが……その効果は意外と薄かった。
 もっとチヤホヤされると思ったんだが……。
 それにあー、なんだ。星崎がこれ見ていらん事を気にする可能性もある。
 それを考えると、取っておいた方が賢明なのかもしれない。
「やれやれ、折角コンビニで買った200円の包帯がもう用無しか」
「予備に取っとけよ。服の下にも巻いてるんだろ? 全治1週間つったら結構な怪我なんだし」
「まーな。肘曲げたらすっげー痛いんでテーピングしてるんだけど、おかげで
 肘曲げられないから寝返りも満足に出来ん」
 その所為で寝不足だったりする。

「右手だしなあ。色々不便だろ? ノートは取れるのか?」
「手首は動かせるから、何とかなるかも。やってみるか」
 右肘を伸ばした状態で着席し、左手で筆記用具を取り出す。それを机に並べてノートを開く。
 そして右手にシャーペンを……シャーペンを……。
「……取れん」
「もうちょい身を引け。椅子ごと後ろに」
「おお、そうか」
 普通なら肘を曲げて手首の位置を調整するんだが、肘が曲がらない現状では体全体を
 動かして手首の位置をコントロールしなければならない。だりぃな……。
「しかしこれだとノートに書いてる間ずっと身体を後ろに傾けなきゃいかんぞ」
「……だな。後ろの席の人にも迷惑がかかるし、大人しく左手で書いた方がいいんじゃないか?」
 席替えの結果、一学期俺の真後ろにいた八重樫が真ん前に来た。つまり俺の後ろは
 特に親しくない学生Aと言う事になる。あの猫娘似の釣り目女ならともかく、
 さすがにシャイで人見知りの激しい俺には学生Aに迷惑をかけるなんて出来ない。
 山彦の言う通り、左手で書くしかないか。
 いや……待てよ。
「お前のノートをコピーすればそれで済むじゃないか。
 わざわざ不慣れなサウスポーで大量失点する必要もあるまい」
「今月は貧乏じゃなかったのか? 全教科一週間丸ごとコピーじゃ塵も積もれば、だぞ」
「……確かに」

 しかたない、普段隠している秘密兵器、幻の左に陽の目を見せる日が来たと言う事か。
「この一週間で俺は世界を制してしまう。左を制するものは世界を制するからな。
 この若さで森羅万象を掌握する事になるとは甚だ不本意だが仕方あるまい。
 恨むなら体育倉庫……」
 にあるラケットカバーを恨めよ、と言おうとした時。
「……」
 どんよりとした雨雲のような空気をまとった星崎がいつの間にか登校を果たしていた。
「……あ、あの」
「いや、違う。恨んでない恨んでない別に何も恨んでないぞ。だからお前は何も気にすんな」
「う、うん……」
 雨雲が全く晴れないその表情でそう言われてもなあ。
 実際問題、星崎に非はない訳で。こいつが投げたラケットカバーがたまたま
 俺の足元に落ちて、それを俺が勝手に踏みつけて滑って転んで変な手のつき方して
 怪我した訳なんだから。
 ……あらためて反芻してみると間抜け極まりないな。
 こんな怪我で俺はクラスのアイドルになろうとしてたのか……。
「あの、あのね。私のノートでよければいくらでもコピーして。勿論御代はこっちでもつから」
 随分気前のいい事を陰鬱な顔で言う星崎。そんな負い目バリバリで言われても、
 こっちとしては『イヤッホウゥゥゥ! ラッキィィィ! お世話になるぜ子猫ちゃん! 
 ヒュウウ、ヒュウウウウ!』なんて言える筈もない。

「いや、大丈夫だって。左手で書けばノープロなんだから」
「そうそう。ダメだよこいつを甘やかしちゃ。その内エスカレートして『おい女、
 そのリボンをよこせ』とか『何色の下着はいてるんだい? ハァハァ』とか
 言い出すに決まってるんだから」
「ンな童貞臭い要求なんてするかボケ!」
「童貞だろ? お前」
「どどど童貞じゃありませんっ!」
 話が下の方に流れていった所為か、星崎は表情こそそのままだが僅かに顔を赤らめていた。
 ここで星崎が『本当は童貞なんでしょ?』とでも言えば一気に場が
 明るくなるってもんだが、さすがにそれはノーマル状態の星崎でも無理だ。
 つーかそんな下ネタトークに積極的に絡むプリンセスはいや(らし)過ぎる。

                ≪キーンコーンカーンコン≫

 何か最後が肩透かしっぽいチャイムの音。HRが始まる。
「とにかく、余計な事を気にしなくていいから」
「あ……」
 俺は星崎の顔を見ずにそう告げ、左手でノートに試し書きを始めた。ま、何とかなるだろ。
 他人に見せるものじゃないし。
「……余計な事、じゃないもん」
 何か星崎の声が聞こえたような気がしたが、気にしない事にした。



 悪戦苦闘しつつ放課後を迎える。慣れない左手での筆記に普段の倍以上の疲労感を覚えた。
 おかげで内容に関しては以下略。
「八重樫、悪いが古典のノート見せてくれないか? ちょっと書きそびれた部分があるんだ」
 これまでの俺なら書きそびれても別に気にも留めないんだが、左手だから
 書ききれなかったと山彦や星崎に思われるのが癪だった。それに、二学期は
 真面目君になると誓ったからな。
「……」
 まるでウツボの目が意外と可愛い事を知ったかのような驚愕の顔を一瞬見せた
 八重樫だったが、すぐに冷めた表情に戻って無言のままノートをよこしてくる。
 うーむ、相変わらずローの時はひたすらローな奴だ。こいつの中には1速と5速しか
 ギアがないんだろうな、きっと。
 取り合えずちゃっちゃと自ノートを補完し、八重樫に返す。
「サンキュ。女の事情は暫く続きそうなのか? 大変だな」
「や、ま、いつもの事だから。んじゃさくっち、ノートレンタル料300円明日までに
 用意しといてね。あでゅー」
「何っ!? 高すぎっつーか金取るような事かよ!」
 八重樫は冗談なのか本気なのかどっちでもいいのかよくわからない台詞を残し教室を出て行った。
「よー、ノートちゃんと取れたか?」
 代わりに山彦が出現。予想通りの事を聞いてきた。
「まあな。この順応星出身の俺にかかれば不慣れな左手でも一瞬にして恋人気取りだ」
「そうか。なら俺のノートを見せる必要はないな。書ききれなかった場所とか
 あれば……と思ったんだが」
 な、なにぃぃぃ!?
「……うわぁぁぁん! 僕の300円を返せーっ!」
「な、何だよ? お前が遠足に持っていく菓子を間違って食ったりはしてないぞ」
 世の中親切が仇となる事はよくある事で。山彦がわざわざこんな事言わなければ
 こんな損した気分にはならなかった訳で……。

「まあいいか。さて舞人、今日は何の秋を満喫する?」
「……まだやるのか?」
「そりゃ月間って設定だからな。せめて三日坊主までは辿り着こうぜ」
 やたら低い目標設定に嘆息しつつ、俺は肘の曲がらない右腕を上げて山彦に見せる。
「うわ、なんかキョンシーみたいだな、その手の動き」
「微妙に古い例えを……とにかくだな、こんな状態じゃスポーツも芸術も無理だ。
 つー訳で秋満喫月間はやめ」
「そうか……」
 山彦は心底残念そうな顔をしていた。なんか俺が悪い事したような気分にさせられるが、
 怪我と言う大義名分がある以上主導権はこっちにある。
「じゃ、俺は右肘を治療すべく渡米してダイ・ジョーヴ博士と
 面談せねばならない身なんで、お先」
「お待ちなさいな」
「……何だハングドアイズ。帰ったんじゃなかったのか?」
 先程法外な金額を要求してきた地上げ屋八重樫が早速取り立てにやってきたらしい。
「い、言っとくけどな、あんな大金払う気はないからな。どどどうしても払えというなら、
 うう訴えてやる!」
 ここでポイントの整理を。
 1.桜井舞人は10年に1人のハンサムで、女性の視線を独り占め状態だった。
 2.桜井舞人は品性良好でユーモアもあり、人から恨みをかう人物ではなかった。
 3.八重樫つばさはそのやっかみでノートを貸す代金として300円と言う
   法外な要求をして来た。
 4.ノートを借りたのは事実である。

 さて、我が法律相談所の誇る最強弁護士軍団の見解はいかに……!
「や、あんな冗談を真に受けなくてもいいから」
「冗談。冗談だとっ!?」
 その割には八重樫の声のトーンはいつになく低い。機嫌悪いのは知ってるが……。
「さくっち、ゾンミに何かした? 本物のゾンビみたいな顔して廊下をフラフラ彷徨ってるけど」
「……いえ、何も」
 あの 責任感バカ、まーだ気にしてるのか。
「とにかく、ゾンミがあんなに落ち込む理由は身内の不幸以外ではあんた以外に
 考えられないんだから、どうにかしなさい」
「いや、だから」
「負傷箇所を撲殺されたくないでしょ?」
「キャイン」
 八重樫に負け犬の返事をして、俺は廊下へ。奴の証言通り、そこで星崎の姿が確認できた。
「あら桜井ちょうどいい所に。人手を捜してたのよ。さー来なさい、いいから来なさい」
「え、あ、あれ? あれれ〜?」
 いきなり現れた眼鏡のひと(声で判明)に襟首を掴まれ、俺は星崎に話しかける間も
 与えられずそのまま図書室へ連行された。

「あ、桜井君久しぶりー」
 図書室はがらんどうとしており、人っ子一人見当たらなかった。
「ところでひかり姐さんや、そろそろ襟首から手を話してくだせー。
 チアノーゼの兆候が現れ始めてるんです」
「あら本当。顔が毒々しい紫色になってるわね……ナスの肉詰めみたい」
「桜井君、桜井君ってば」
 姐さんの首絞めから解放された俺は、久しぶりに酸素を満喫するべく大きく息を吸い込む。
「ごほっゲホッがはっグプッ」
 吸い込みすぎて咽てしまった。
「あーもう、お子さんかあんたは。ほらゆっくり息吸ってー吐いてー」
「だ、大丈夫? 桜井君?」
「ゴホゴホッ……ふーぃ、死ぬかと思った。
 三途の川が思いの他短い事を初めて知りましたよ。あれは多分10cmないな」
「三途の川が三寸だったら奪衣婆と懸衣翁も楽な仕事でしょうね。
 はいはい、下らない駄洒落はもういいから手伝ってね」
 ぐっ……人を一山100円のミカンみたいな扱いしやがって……いつか犯しちゃる、このアマ。
 いや、犯しませんよ実際には。ンな下らん復讐劇で人生終わらせたくないし。
 にしても、怪我人に対する扱いとは思えんな、全く。失礼しちゃう。
 ……そうか、ひかり姐さんは俺が怪我人だと知らないんだ。やっぱ学生服の上から
 包帯巻いとくべきだったか。

「……うー」
「あれ、里見先輩どうしたんですか? そんな思いっきり背伸びして。あ、取りたい本が
 上の方にあるんでそれを取る為の屈伸ですね。それなら俺がとってやりますよ。
 でもいつの間にここに来たんですか? 入って来る時に声かけてくれればいいのに」
「ううーっ! 声かけたもん!」
 里見先輩は何が不服なのか、目に涙を溜めながら非難の声を上げてきた。
「桜井君! 人を無視するのはよくないんだよ? 無視される人の気持ちを考えた事あるの?」 
「は? いや、無視なんてしてませんて。だって俺がここに来た時先輩いませんでしたやん」
「いたでしょっ!? ちゃんと声かけたしちゃんと正面にいたもん!」
「あー……すいません、視界の外だったみたいで」
 などと余計な事を言ってしまう俺。言ってから後悔しても遅かった。
「そんな事言うとマダガスカルの人に怒られるんだから!
 『体に罪のある者はだれもいない。ほんとうの罪人は言葉に罪のある者だ』って!」
「仰るとおりです。申し訳ありませんでした」
 一応誠意をもって謝罪する。マダガスカルに知り合いなんぞおらんが、
 言ってる事はもっともだ。
「わかればいいのよ。今後慎むようにしなさい」
「はあ」
 何か言葉の節々にお姉さんぶりたいという魂胆が見え隠れしているが
 あえてツッコむ必要性は感じなかったので黙っておく。
「ところで桜井君、秋といえば読書だよね。我が文芸部も読書強化月間中って事知ってた?」
「いや、初耳もいいとこですが……」
 今更強化するまでもなくここは読書好きの巣窟なんじゃ……あ、でもないか。
 特にあの二人は……あれ?

「そういや佐竹先輩と宇都宮先輩が見当たりませんね」
「あー、二人とも先生から呼び出されて……」
「……いや。それ以上の説明はいいです」
 里見先輩の声のトーンがどんどん沈んでいく様から全て推測できた。
「そ、そう? それじゃ二人の分まで桜井君が読書強化月間に貢献してくれると嬉しいな」
「え゛……」
 先輩が懇願するような目で俺に訴えかけてくる。くっ、卑怯だ。ここで断ったら俺は
 いたいけな子供を泣かしてしまうのと同様の罪悪感を背負ってしまう事請け合いじゃないか。
「……わかりました」
「うんうん、本を読むのはとってもいい事だよ。活字は想像力と表現力と思想形成の宝庫
 なんだから。それじゃ私、お勧めをいくつか見繕って来るからちょっと待ってて」
 里見先輩のお勧めか……どうせ児童書とかシェークスピアとかゲーテの詩集とかなんだろうな。
 ま、いいけど。
「こだまと何話してたの?」
 ひょっこりと現れたひかり姐さんが興味津々と言う面で聞いてくる。
「先輩の親御さんは新幹線マニアかどうかという話です」
 面倒なので適当に答えておいた。
「なーにそれ? 名前がこだまだから新幹線マニア? 安直さっ」
「安直さ?」
「安直+くさっで安直さっ」
 アホくさ……。

「でもこだまって名前珍しいじゃないですか。他には突然陣痛が来て新幹線内で
 出産したから……って理由ぐらいしか思い浮かばないし」
「そうね……乗客にたまたま助産婦のおばあちゃんがいたりして、乗員乗客全員から見守られて
 無事出産、鳴り止まない拍手の中若い二人は命の尊さを初めて知るのでした……って展開なら
 勢い余ってその新幹線の名前を子供につける可能性も無くは無いわね」
「でしょう? そういやひかり姐さんも新幹線の名前ですね。うわー、偶然ですね」
「あら本当。それじゃ私の両親も新幹線マニアか新幹線出産を経験したって事かしら」
「そうかもしれませんねー。はっはっは」
「あはははは……ちょっと失礼」
 ひかり姐さんは図書室から出て、コソコソと携帯を取り出しどこかに電話をかけていた。
『あ、お母さん? 私の名前って誰がどういう理由で決めたのか教えて。え?
 そんな事を何で突然聞くのかって? そんなのいいから』
 ひかりと言う名前は別に新幹線とは関係なく結構ありふれた名前だと思うんだが……
 キップのよさの割には意外と心配性なんだな、姐さん。
 しかし新幹線の名前か……待てよ、俺の知り合いの女の名前ってことごとく……。
 いや、気にすまい。たまたまだ、たまたま。
「うーっ……」
 頭を振って妙な勘繰りを消去していると、ちっこい先輩の唸り声が聞こえてきた。
 声のする方に言ってみると、ちっこい人が脚立の上から頑張って最上段に手を伸ばしていた。
 脚立使っても届かんのか……脚立が低すぎるのか、先輩が低すぎるのか。
「先輩、代わりましょうかー?」
「別に……大丈夫だから……」
 足を震わせながら必死で高い所に手を伸ばす様は、夢に向かって足掻いている先輩の
 人生の縮図のように見えた。邪魔しちゃ悪い。何となくそう思った。
 いや、決してさっきからチラチラ見えているおパンツを鑑賞する為じゃないですよ?
 ほ、本当ですよ?

「……何か変な視線を感じるんだけど」
「木の精です」
「そっか、紙は木材を機械処理してパルプにしたものが材料だもんね」
 どうにか誤魔化しが成功した。成功するのもそれはそれで問題な気もしたが。
「あ、あとちょっと……なんだけど……」
 先輩が手を伸ばすたびにスカートも上がって……うひょ。
「……やっぱり変な視線を感じるんだけど」
「自意識過剰もいいとこです」
「そ、そうかな……」
 さすがにこれ以上のピーピングは無理っぽいな。ここまでにしておこう。
 薄いピンク色を十分堪能した事だし。 
「……何してるのあんたら」
 両親に名前の由来を聞き終えたのだろう、姐さんが何処かホッとしたような表情でやって来た。
 しかしその顔がすぐに歪む。いやらしく。
「桜井、随分いいポジションにいるのねー。丸見えじゃないの? そこ」
「ばっ、余計な事を……じゃなくて、そんなガセネタ言うんじゃありません!」
「ま、丸見え? 丸見えぇぇぇっ!?」
 脚立の上で狼狽しまくりの里見先輩。当然、脚立は揺れバランスを崩す。
「さささ桜井君! あなたって人は!」
「ちちち違います、いや、違わなくもないんですが、いや、違うんです!」
「そこに直りなさい! 正座でお説教2時間コースを……わ、わわっ」
 絶望的な角度に揺れた脚立の足が床から離れたのは、それから百分の一秒後だった。
「あ、あ、あーーーっ!」
「どわあああ!?」
 ズッ……ドーーーーーン!
 いくらちっこいとはいえ人一人と脚立の体重が重力加速度によってパワーアップされた
 状態で襲ってくるのだから、そんなもん支えられる筈もなく。
 俺は明らかに痛みと腫れを生じている左手首を見ながら、割と冷静に今後の事を考えていた。
 桜井舞人、左手首捻挫(全治1週間)。



              【  10月9日(水) 】


 朝。別に台風が来てる訳でもなく、大雪に見舞われている訳でもない、至って普通の朝。
 しかし少なくともこれから一週間は俺にとってかつてない試練タイムだ。
 目が覚めて、ボケーッとしたままテレビのリモコンに手を伸ばす。それを右手で取り、
 自分の身体の方に引き寄せ……
「ぐあっ!?」
 のた打ち回る。昨日の夜テーピングを巻き忘れた……じゃないな、巻けなかったんだ。
 なにしろ左手も使えない有様だ。
「……」
 おおよそ思い付く朝の娯楽を全て諦め、洗面所へ向かう。
 取り合えず顔を洗って歯を磨かないとな。
 まず歯を磨こうと手を……ダメじゃん。
 仕方ない、顔を洗おう。水道の蛇口を伸びきった右手で捻り水を出す。
 洗面台に勢いよく水飛沫が舞い、清々しい朝を演出。
 そして顔を洗おうと手を……ダメじゃん。
「……」
 仕方なく洗面器に水を貯め、顔だけ突っ込んで上下左右にシェイクした。
 そして壁にかけておいたタオルに顔をこすり付ける。これでどうにか
 顔だけは洗えた……気分にはなった。


 さて、次は着替えだな。昨日は悪戦苦闘の末、制服だけ脱げてTシャツと
 トランクスって格好で寝たんだっけ。未だ残暑が居ついている為、この格好でも
 別段寒くはないから助かったと言えば助かった。
「……うーむ」
 脱ぎっぱの制服を9秒眺めた。そして悟った。無理だ。羽織るだけならともかく
 ボタンを留めるのは物理的に不可能。
「仕方ないな……」
 まずズボンを足だけで履く。ベルトはこの際締めなくていいだろう。Yシャツのボタンも
 締めずにそのまま着こなす。ちなみに袖は通してない。その上から制服を羽織る。
 ちなみにこっちも袖は通さない。ネクタイは首にぶら下げた。
「よし、完璧!」
 出来上がりを確かめるべく鏡の前に立つ。
「なんてアウトローなんだ……ダイナ舞人アーミーここに誕生といったところか」 
 自身の姿に見惚れそうになるのをグッと堪えて、俺は学び屋と言う名の戦場へ赴いた。



「……何の冗談だ? 酔いどれ中年サラリーマンの寝起きでも表現してるのか」
「馬鹿な事を。このニヒルでワイルドな中にも見え隠れするそこはかとない
 芸術性と上品さが汲み取れないとは、お前の目は蟲穴か」
 登校して即座に目を丸くしながら話しかけてきた山彦をしっしと追い払い、
 手に振動が来ないようゆっくりと着席する。
 脇に挟んだカバンを机の上に置いたところで、今度は真ん前の八重樫が目を丸くしていた。
「左手までやっちゃったの?」
「まあな。さすがに『超絶大王・肉便器マン』と名乗るだけあって超絶に手強い相手だった。
 無傷では勝てんなと悟った俺は敢えて左手を差し出し、奴の口の中で
 爆発系の呪文を……いや、ちょっとした事故だ」
 超絶大王・肉便器マンの口の中で爆発を起こした様を想像した瞬間、
 俺の脳は続きの緊急回避を決行した。
「へー、それじゃ今日は右足をやるんだ」
「……何故そうなる」
「だって呪われてるとしか思えないし。一日毎に四肢を失っていくさくっち……
 ああ、何て可哀想〜♪」
 八重樫はミュージカル風に言葉だけの同情を謳った。つーか女の事情はどうした。
 もう復活かよ……くそっ。
 黙れ女と言いたい所だが、最近の不幸っぷりを鑑みるに、確かに呪われているのかもしれん。
 原因は……アレだな、絶対。アレが俺の手元に来てから怪我続きだし。
「でさ、ノートとかどうすんだ? さすがに両手が使用不能じゃどうしようもないだろ」
 追い払った筈の山彦がまだそこにいた。
「まあな。と言う訳で山彦、ノートのコピー頼む。コピー代がもったいないが
 さすがにそうも言ってられんし」
「あ、それだけどな」
 山彦は皆まで語らず後ろをチラッと眺めた。そこにいたのは、
 まだ申し訳なさげなオーラを発している星崎希望。

「あ……あのね、コピーなら私が全部やるから」
「いや、でもな」
「いーから舞人、ここは星崎さんの顔を立てろって」
 そう言いながら山彦は俺の首を羽交い絞めにして、耳元に顔を寄せて来た。
「彼女のいいようにさせろって。じゃないといつまでも沈んだままだぞ」
「そ、そうか?」
「もうちょっと女心を勉強しろお前は」
 などと余計な一言を残し、山彦が俺を解放する。ったく、相変わらずの世話焼きたがりめ。
「……」
 星崎は少し顔を赤らめながら、こっちの出方を伺っている感じだ。
 その様子を八重樫が冷めた目で眺めている。
 な、なんか俺が星崎を苛めてるような空気になってるんだが……
 ええい、頼ればいいんだろ、頼れば。
「そ、それじゃお願いしていいかな?」
「!」
 驚きと喜びを同時に内包したような表情でこっちを見るプリンセス。くそ、何か照れくさいな。
「……えへへー、それじゃ仕方ないなー。頼まれちゃいます」
 妙に嬉しそうにそんな事を宣う。ツッコもうかとも思ったが
 どうも野暮くさいので止めておいた。
「えっとね、それでね……他にも」

              ≪キーンコーンカーンコーン≫

 どうやら修正されたらしいチャイムの音が星崎の言葉を遮った。
「それじゃ、頼むな」
「あ……うん」
 何か言いたげな星崎だったが、結局そのまま自分の席へ戻っていった。



 恙無く学業を追え、放課後。
 さて、どうしようか。などと思っていると、ぐぅ〜という腹の蟲の泣き声が鼓膜に響いた。
「……そういや昨日から何にも食ってないな」
 なにしろ手が使えない訳で、食事を取る事がこの上なく億劫なのは想像に難くない。
 そんな訳でずっと俺の胃は暇を持て余していた。
 しかし許せ、胃。この不甲斐ない右手と左手では満足にメシをかっ込む事も出来ぬ。
 すまん、胃。今の俺じゃ君の粘膜・平滑筋層・漿膜、そして胃腺に仕事を与える事が
 出来ないのだ。不況不況不況。バブルももはや死語となった今日、悪いのは誰だと
 嘆いてみても誰も振り向きはしないんだよ。
 ……なんて言ってる場合じゃないな。何か食わんと餓死しちまう。
 このままでは桜坂のファンタジスタが八つ墓村のたたりじゃあ〜だ。何とかせねば。
「さくっちー」
「何だ甘味処の召使い、ノートのコピーの件か? 今更クレープ買うお金が
 無くなっちゃうからやっぱやめー、なんて言われても困るぞ」
「そんな事言う筈ないよ。そうじゃなくて……」
 何故か赤面気味な姫君。なんだ? 俺って見るだけで恥ずかしくなる程
 みすぼらしい格好してるのか……してるな。朝からそのまんまだった。
「あ、この格好か? いやな、最近の流行はラフ&ガンってファッション雑誌に
 乗っていたのを昨日たまたま立ち読みしてだな」
「え? ううん、そうでもなくて……」
 ガラガラガラ!
「せんぱいせんぱい、左手まで怪我したって本当ですか!? ああおいたわしやダーリン、
 雪村を身を挺して庇った、雪村を身を挺して庇ったばっかりに。でももう大丈夫です!
 この雪村、不肖ながら負傷したせんぱいのありとあらゆる身の回りの世話を
 やらせて頂きたく上級生のクラスに紛れ込んできました!」

「不承」
「な、なぜですっ。この雪村の医療看護能力をお疑いですか? 私にかかれば心残りが
 『笑点の次の司会者は誰でしょうねえ』という孤独死直前のおばあちゃんでも
 滞りなく昇天出来る事請け合いですよ……って、あれ?」
 突如乱入してきた雪村を冷酷に拒んだのは俺ではなく、
 さっきとは全く違う目つきの星崎さんでした。
「……雪村さん、でしたっけ? いきなり出てきてけたたましく喚くのは
 他の人たちの迷惑になるから止めた方がいいんじゃないかなー」 
 星崎怖っ! 親しくもない人間にこんな事言う奴じゃないのに……どうしたんだ?
「あらー、星崎先輩じゃないですかお久しぶりです。昼休みですから
 多少騒がしい輩が飛び込んできても大丈夫ですよきっと」
 一昨日顔を合わせてるのに久しぶり……なんか雪村も怖い。
「そうかしら。ほら、さくっち困ってる顔してるよ?」
「そんな事ないですよ。付き合いの長い、長い付き合いの私にはわかります。
 せんぱいは雪村を庇って怪我をしてしまった訳ですから、
 せんぱいの専属ナースは雪村であるべきという顔をしておられるじゃないですか」
「えー、ありえなーい」
「おほほほほ、御為倒しを」
 先程まで和気藹々としていた教室がシーンと静まり返る。クラス全員が
 この剣呑さに驚き慄いている様が手に取るようにわかる。
「ね、修羅場? これって修羅場?」
「知らん」
 ただ一人、八重樫だけが新大陸でも見つけたコロンブスのような顔をしていた。
 精神を疲労骨折しそうになりながらそっぽを向くと、視界におずおずと
 ドアの隙間から進入してくる人影が入ってくる。
「あのー、すいません、桜井舞人君はいらっしゃるでしょうか……?」
 里見先輩だ。その声と姿は言うなれば火に飛び込んでくる油だ、と思った。なんとなく。

「ここです」
「あっ、桜井君。左手は大丈夫? 昨日はごめんなさい、私の所為で……」
 里見先輩は元々小さい身体をさらに小さくして教室に入ってくる。
「いや、あれは近年稀に見る自業自得の模範例ですから。海より深く反省しております、ペコリ」
「そ、そんな。だって私が怪我させちゃった訳だし、私が悪いよ。
 確かにルソーは『最大の災害は自ら招くものである』って言ってるけど、
 それとこれとは話が別だし」
 誰もルソーになんて聞いてないんだが……いくら名言とは言え
 会った事もない人間の言葉など胸に響きはしない訳で。
「それでね、お詫びにダ・ヴィンチのシュークリーム……って言っても貰い物なんだけど、
 これをお裾分けしようと思って」
「は、はあ。それはわざわざご丁寧に」
 ダ・ヴィンチと言うのはさくら通りにある洋菓子店で、シュークリームやアップルパイが
 美味いと評判の店だ。特にシュークリームは甘さ控えめで上品な味付けとあって
 男にも人気が高い。
 シュークリームなら手を使わなくても食える。家畜のような食い方になるが、
 この際贅沢は言ってられん。胃、ようやく君たちに仕事を与えられそうだよ。
「……」「……」
 俺がありがたくシュークリームの入った箱を受け取ろうと伸びきった右手を
 差し出すと同時に、殺気にも似た鋭い視線が二組襲来してきた。
「受け取るんだ。その人の申し出は素直に受理するんだ」
「その女の子の言う事は素直に聞けて雪村の言う事は聞けないんですか。そーですか。
 せんぱい、もしかして……おとぎの国の住人ですか?」
「訳のわからん事を。この人は俺より年上だぞ。貴様らより遥かにお姉さまなんだ」
「あはは、せんぱいにしては珍しく直球のジョークですね。でもそういうのを間に
 挟む事で普段のシックでシニカルなボケが一層際立つんですね。緩急って言うんですよね、
 こういうの。雪村また一つ学ばさせていただきました」
 雪村が俺の言葉を信用する気配は全くない。いや、気持ちはわかるが……。

「わ、私は最上級生ですっ! ネクタイだってほらっ!」 
「え……あ」
 タイの色で雪村はようやく事実を認識したらしい。先輩に無礼な言葉を働いた事より、
 目の前のちびっ子と思っていた人間が上級生だと言う事実に呆然としている感じだ。
「……さくっち」
 星崎がすがる様な、哀れむ様な目で話しかけてくる。
「ごはんとか、どうしてるの? 両手とも怪我してるんじゃちゃんと食べられないんじゃない?」
「あー、まあそうなんだけど。けど大丈夫だろ。昼は食わなくても死にはしないし、
 夜は……青葉ちゃんにでも頼むし」
 ピ シ ッ 
 まるで致命的な何かにヒビが入ったかのような、そんな音が聞こえた気がした。
「青葉ちゃんに……?」
「頼む……?」
「え? な、何か問題が?」
 幽鬼が二匹、獲物を捉えたかのようにゆらりとこっちに近付いてくる。
「青葉ちゃんって、桜井君の恋人?」
 だーっ! 余計な事言うなちいさい人!
「恋……人?」
「ちちち違いますっ! 隣人です!」
「せんぱい、やっぱりおとぎの国の……」
「だから違うと言ってるでしょうが! 青葉ちゃんには日頃からお世話になってるから
 頼みやすいんです!」
 芸風と違うシャウト系での対応に追われる。なんなんだ、なんなんだこの展開は!

「……ううっ」
 突然奇妙な声が真横から聞こえてきたので目をやると、
 山彦がハンカチで目くじらを押さえていた。
「舞人が女性問題……それも複数の女性との修羅場でてんやわんやしてるのを
 この目に焼き付けられる日が来るとは……我が人生最良の日かもしれない」
「阿呆か。お前の人生は他人の不幸を最良と呼ぶほど薄っぺらいのか」
「やはり日頃からの俺の努力が実を結んだと言う事か。
 継続は力ナリ。コ○助はいい事を言ったもんだ」
「それはコ○助が言ったんじゃないと思うけど、まあいいか。
 ヤマ、気持ちはわからないでもないよ。私も感慨深いものがあるし」
「わかってくれるか」
「こんな楽しい時間は久しぶり。女性問題なんてさくっちのキャラじゃないとこがまたなんとも」
 他人事だと思って、貴様ら……。
「や、他人事だし」
「うわぁぁぁん! 人の心を読むなよぉぉぉ!」
「あ、逃げた」
 俺は半ば強引にこのなんとも表現しがたいグラビティ地獄から脱出する事に成功した。

 いろいろあって、放課後。
 俺は非人道的な連中からからニヤニヤした顔でかわれたりする前にどうにか学校からの
 脱出に成功。八重樫の言う呪いの効果もなく、どうにか現状維持のまま帰宅の途についた。
 さて、これからどうするか。
 まずはメシをどうにかしないとな。先輩から貰ったシュークリームを動物食いした所で
 補給された栄養はたかが知れてる。
 この手じゃ買い物もままならないからな……やはり青葉ちゃんに頼むか。 
「おにいちゃん、いるー?」
 何というグッドタイミング。ドアを叩きながら発せられた可愛い声に、
 俺は満面の笑みで出迎えようと小躍りしながら玄関へ向かった。
「やあ青葉ちゃん、実は今まさに君の事を考えていたのだよ。実はお願いがあってね」
「はいはいわかってますよ。任せておいてください、
 この雪村にかかればどんな頑固な汚れも雪のように真っ白に! 
 あ、柔らかくするのは使ってませんよー……あいひゃひゃひゃ」
「 な ん で き さ ま が こ こ に い る 」
 青葉ちゃんより前に立っていた小娘の頬を右手で伸ばす。無論肘を伸ばしたまま。
「なんでって、随分な物言いですね。愛するダーリンが困っているんですから、
 愛してるハニーが救いの手を差し伸べるのは至極当然、
 どこの国の恋愛小説を見てもそう書いてありますよ」
「愛なんていらねえよ」 
 俺は一流気取りの俳優気分でそう言ってのけたが、雪村の顔に何ら変化はなかった。
 この辺は付き合いの長さというか、俺の言葉の本気具合はもうバレバレって感じだな。

「おにいちゃん、怪我したんだって? 大丈夫?」
「あーうん、全然平気だよ。心配はいらないけど、もしかしたら迷惑かけちゃうかも
 しれないかなー、なんて」
「うん、かけられちゃうよ。何でも言っていいからね、遠慮なんかしないで」
「……そこはかとなく贔屓の匂いがプンプンするんですが」
「それはきっと最近仕入れたハエトリグサの匂いだろう」
「わっ、本当にあるじゃないですか。まさかその一言の為に仕入れたんですか、かっこいー」
 下駄箱の上に置いてあるハエトリグサを雪村はまじまじと眺めていた。
「ちなみにハエトリグサの英名はVenus fly trap。ビーナスだぞビーナス。
 愛と美の女神もまさか自分の名前が食虫植物に付けられるとは夢にも思ってなかっただろう」
「はえー」
 青葉ちゃんが食い付いて来た。よし、ここは俺の趣味のよさを最大限アピールだ。
「見よ、この魅惑的なボディ。美しいピンク色が描く滑らかな曲線。まるで……」
 まるで、の後に続く言葉を脳内で検索した結果、一つしか出てこなかった。
「あ、あわわわわ……」
 とてもいたいけな少女の前で口に出来るものではない。俺はどうにかして
 別の単語を高速模索した。
「まるで、唇のようじゃないか。いやあ、はっは」
「あ、似てる似てるー。ずいぶん分厚い唇だね」
 青葉ちゃんは無邪気に喜んでいる。ふう、よかったよかった。
「……」
 ふと見ると、雪村がこっそり赤面していた。
「アー、アーユームッツリ?」
「ち、違うべさっ!」
 言葉は雄弁なり。だがそこは年上の余裕、あえて深くはツッコまなかった。

「それでは雪村、青葉ちゃんと共に買い出しに行ってきますので。いい子にして
 待ってるんですよー。さ、青葉ちゃん、行こ」
「えー、もう行くのー? もうちょっとしてから行こうよー」
「いいからいいから。ではせんぱい、しばしの別れです。けれども再会した暁には
 暫時の空白などものともしない乙女の想いをとくとご堪能ください」
「ああ、とっとと行け」
 騒がしい余韻を残しつつ、雪村と青葉ちゃんは夕食の買出しに桜通りへ。
 二人がアパートから離れて行くのを窓から確認した後、高速であの忌々しい写真を
 置いている机に移動する。
 実は二人と話している最中にようやく思い出した。この部屋には禁忌のブラックフォトグラフ
 があると言う事に。雪村をからかいつつも内心ドキドキだったのはここだけの秘密だ。
「さて……」
 どうしたものか。あの様子じゃあの二人、当然部屋の中に入る訳で。そうなると、例え
 隠したとしても雪村辺りが冗談半分で色々と部屋を物色してこの写真を発見する可能性はある。
 何処か気の利いた隠し場所はないものか。ベッドの下……は問題外だし、
 机の中や押入れの中も論外だ。ポストの中も危険な気がする。
 ……なんか友達が来るからって必死でエロ本隠そうとしてる中学生みたいだな、俺。
 いや、小学校高学年か。今時の中学生は堂々とコンビニでエロ本を立ち読みしてるからな。
 別に恥ずかしくもないんだろう。
 そんな事はどうでもいいんだ。隠す場所、隠す場所……。
 ふと、鏡が目の中に入った。あ、俺まだ学生服じゃんか。けどこの有様じゃ
 着替えもままならないからな。このままでいいか。

「……まてよ」
 学生カバンに隠すのはどうだろう。どうせ面白いものは入っていないだろうという先入観と
 学業関連に唾をつけるのは気が引けるという倫理観が上手く噛み合った、
 まさに最適な隠し場所じゃないか。
 さすが俺! ビバ俺! 思いつきばっかりで生きる男!
 ……このキャッチフレーズはあんまりよろしくないな。
 それよりカバン! どこだ、どこに置いた!
「……ない」
 散々探したが、部屋のどこにもカバンはなかった。玄関も探したが結果は同じ。
 あ。そういやカバン持ち帰ってなかった。手が使えないから何かを掴むと言う行為を
 無意識の内に避けてるのかもしれん。
「くうっ……折角のナイスアイディアが」
 しかし過去の自分の愚行を後悔しててもしょうがない。
 他に何処か適切な場所は……。
「さくっち、いるー?」
 写真を脇に抱え模索していると、ノックと同時にアニメ声が室内に響いた。
 間違いなく星崎。まごう事無き星崎。あーもう、なんでよりによってこんなタイミングで!
 こんな! こんなっ!
「えーこちらハンサム。ここにお住まいのハンサムは来るべきハンサム社交界の方々との
 語らいに備えるべくハンサムに相応しいハンサム作法を習得中です。知り合いに
 ハンサムがいる方、ハンサムに心当たりのある方は申し訳ありませんが消えてください」
「あ、鍵開いてる。それじゃお邪魔しまーす」
「おいこらクレープ女。人の話を聞いてなかったのか?」
「あー、ひっどーい。人をクレープ好き以外に印象点0みたく言ってーっ」
 いくらプリンセスといえど人様の家に勝手に上がれば不法侵入。俺は『法の下には
 何人も平等です』が必殺技の弁護士よろしく、断固たる態度で☆崎を弾劾する事にした。

「どうせ山彦から住所を聞いてノコノコとやって来たんだろうが、ここは貴様のような
 のんきくん女Ver.が易々と敷居を跨ぐ事は出来ぬ。大人しく去れ。
 そして人のギャグにドピューとかドドドとかいう怪しげなSEでズッコケてるがいい」
「わー、ここがさくっちのお家かー。意外と片付いてるんだね」
 姫様は人の話をキカナイキカナイ病に侵されておいでらしい。
 この際毒入りの林檎でも食わせて黙らせるか……?
「ねー、台所はどこ?」
「あー、あっち」
「うん、ありがとー」
 ……はっ。余りに自然な星崎の振る舞いにこっちも素で対応してしまった。
 しかし不幸中の幸い、俺部屋への進入は許してない。
 今のうちに取り敢えず写真を緊急避難させよう。
 という訳で、俺は写真を例によって腕の伸びきった右手で掴み、ざっと周りを見渡す。
 よし、机に置いてある本と本の間に挟もう。本当に取り敢えずだがこの際仕方あるまい。
 何はともあれ、応急処置ではあるがどうにか体裁は整った。
「……ところで星崎、台所なんか何に使うんだ? 家の冷蔵庫は基本的に
 最低限の物しか置いてないぞ。先端が異常に伸びたタマネギとか、
 干してないのに干しダイコン気味なダイコンとか」
「それは最低限外の代物だと思うけど……えっとね、夕食作ろうかなと思って。
 あ、材料なら大丈夫だよ。来る途中にスーパーで買ってきたから」
 なんとまあ、いくら負い目があるとは言えそこまでしてくれるのか。
 俺は星崎と囲む食卓を想像してみる。
 ……………………
 …………
 ……

『さー出来たよ。たんと召し上がれ、いつ見てもハンサムなあ・な・た』
『あいや待たれい。拙者両手に名誉の負傷を抱えておる故、一人では満足に箸も持てぬ身。
 さてどうしてくれようぞ』
『それならご安心♪ 私が食べさせてあげる』
『むう、武士の身でおなごに物を食べさせて頂くのは甚だ不本意だが致し方あるまい』
『はい、あーーーーん』
『あ〜〜〜〜〜ん』
『どう、お味の程は?』
『むむ……このもっさりがっかりとた食感。ストーカー並みにしつこい甘味。
 噛む度に口の中の水分をガッチリと吸い込んで離さない所も高ポイントだ。
 素晴らしい、これこそまさに精進料理の真髄。一般的な意味で精進できる事間違いなしだ』
『うふふっ、いっぱいあるからたーんと召し上がれ』

 ……
 …………
 ……………………
「いや、そんなにいっぱいは食えないよ。って言うか本当は一口だって食えないよ。
 アルシ○ドになっちゃうよ」
「……どうしたの?」
「あ、いやいや何でも。で、何を作るんだ?」
「えっと、こ……」
「せんぱい、只今帰りました! 約30分の長い長い遠距離恋愛もなんのその、
 7月7日だけ逢引なんてケチ臭い事を言わない織姫の登場ですよ。愛しの彦星様、
 私はいついかなる時もあなたの元へ舞い戻って来ます」 
 あ。
 本気で、素で忘れてた。こいつと青葉ちゃんがいたんだ。
「……」
 星崎の顔が瞬時に不機嫌モードに……かと思いきや、それは刹那的なものだった。
 すぐに普段のプリンセススマイルを浮かべる。
「……」
 雪村も故郷の雪を思わせるような純白の笑みを返す。
 ほっ、どうやらもうあのギスギスとした空気は発生しないようだ。
 俺は安心し、帰還した雪村にお帰りの一つでも声かけようと足を踏み出す。
 ……いや、正確には踏み出せなかった。俺の意思とは無関係に、
 何か抑止力みたいなのが働いている。
 動くな。動けば盗られるぞ。命と書いてタマと呼ぶそれを弾かれるぞ。
 そんな声が内部のそのまた奥から聞こえてきた気がした。
 ……よく見たら二人とも頭に怒りマークが。うう、冷戦ってやつか。

「あ……青葉……ちゃん……は……?」
 まるで重力が地球の100倍という修行場のような雰囲気にどうにか俺は風穴を開けた。
「青葉ちゃんは午後のタイムサービスに参戦中です。先に雪村が走還して
 下ごしらえをしておく間に青葉ちゃんが贅肉の塊たちと闘争するという
 見事なコンビネーションで偽富士山の頂点に突き刺さった優勝トロフィーは頂きです」
「いや、いくら買い物慣れしてるとは言え青葉ちゃんにあの屈強で遠慮のない連中の相手は
 荷が重いだろう。明らかに人選ミスだと思うが」
 ようやく緩くなったプレッシャーを跳ね除け、俺は雪村にきっちりとした説明をしてやった。
「言うなれば、『4番センター福王』或いは『SGGK森崎』だ。
 なにがスーパーがんばりゴールキーパーだ。嘗めてんのか?」
「後者は少々的外れな気もしますが、言いたい事はわかりました。
 雪村が軽率だったという事ですね」
「そういう事だ。お前の戦場はここじゃない。お前はお前のG線上に帰るがいい」
「それは無理です。今日のところはアリアに乗せて優雅に舞って見せますので
 それでお許しください」
 そう言いながら雪村は雫内に古くから伝わる子守唄を歌いつつ、
 白鳥の足の方のような踊りをして見せた。 
 それを星崎は目を丸くして見ていたが、敢えて何かを言う事はなかった。
「ただいま〜」
 そんなアホ臭い踊りから目を逸らす事数分。目を回しながら青葉ちゃんが
 帰宅……じゃなくて再訪。フラフラではあるが戦利品は少なくない様子だった。
 大したものだ。
「わ、すごい。見てくださいせんぱい、秋茄子が一本10円ですよ。
 秋刀魚が一匹58円ですよ。アイス・クレープが168円ですよ」
 ピクッ、という擬音が聞こえたような気がしてその方を見ると、
 明らかに耳を大きくしたクレープ馬鹿がいた。

「……それ、おいしいの?」
 クレープ馬鹿にクレープ絡みの我慢など出来る筈もなく、
 おずおずと青葉ちゃんにそんな事を聞いている。
「おいしいですよー。生地が意外とふんわりしててアイスとよく合って。
 中にバナナとチョコも入ってるんだよ」
「……」
 目の色が変わっていた。
「あ、あのあの、それ、私に……」
「いいですよー。あ、でもアイス・クレープは一つしか買えなかったんだっけ。
 どうしようおねえちゃん」
「私はこちらの『トロピカル・デ・モンテカルロ』を頂きますので。
 アイス・クレープは星崎先輩にお譲りします」
「小町ちゃん……! ありがとっ、ありがとっ」
「いえいえ希望先輩、世の中持ちつ持たれつですから」
 あれほど禍々しい空気を発していた二人がもう名前で呼び合っている
 この現状はなんなんだろう。女って怖い。怖いよママン。
 ……一番怖いのはママンなのかもしれないが。
「人が多いから換気をよくするね。おにいちゃん、窓開けるよ」
 妙に和気藹々とした空気が流れ始める中、よく気が利く青葉ちゃんは
 買い物袋をテーブルに置くとそんな事を言ってきた。
 いや、普段なら別に気にもしない事なんだけど……。
「あ、ああ」
 返事に少し動揺が出てしまった。窓は机の本棚のすぐ横にある。異常接近だ。
 しかし青葉ちゃんは余計な動作は一切せず、窓だけをガラガラと開けた。
 杞憂。そんな言葉が脳裏を支配した……その瞬間。
「ひゃっ!」
 突然の突風。青葉ちゃんのスカートがひらひらと舞う。

「あー、びっくりした」
 しかし残念な事にもう少しというところで重力が粘りを見せた。無念。
「……残念そうな顔してる」
「してますね」
「ししししてませんよ」
 くそっ、さっきまで犬と猿みたいな二人だった癖してもう息が合ってやがる。
 でもいいか。仲が悪いよりずっといいし。何事も平和が一番。ピースフルワンダホー。
「……ん?」
 何かが俺の視界の端っこにヒラヒラと舞っていた。それを目で追う―――追う―――おうっ!
 あれはあの忌まわしき写真! さっきの風で落ちてきやがった!  
 幸い三人は見ていない。床に落ちた写真の上に俺はこそっと身体を置いた。
「どうしたのおにいちゃん、油っぽい汗かいてるよ」
「いやいやいやいや、アブラカタブラそんな事ないよ青葉ちゃん。ないってば。本当だよ?」
 俺のあからさまに怪しい態度に首を傾げた青葉ちゃんだったが、
 それ以上問い詰めてくる事はなかった。  
 ああ、なんていい子なんだ。将来は間違いなく良妻賢母だな。うんうん。
「じゃ、私そろそろ料理の続きをやるね」
「では雪村、僭越ながら手伝わせていただきます」
「あ、それじゃ私はお掃除するね」
 そう仲良さ気に話しながらそれぞれの持ち場に散っていく三人を尻目に、
 俺は尻の下にある写真を右手でどうにか拾った。

 さてどうする。カバンがないんじゃもう隠し場所はないぞ。絶対見つかる。
 見つかる見つかるとネガティブ思考でいると余計見つかりそうな気がするが、
 嫌な予感は消えてくれない。
 捨てたり燃やしたり出来ればいいんだが、差出人がそれを許しはしないだろう。
 ロクでもない事態は避けたい。
 くそっ、和人の奴が生真面目に持ってこなきゃこんな事で悩まなくてすんだものを……。
「……」
 そうだ、和人だ。奴に預けるという手があった。あいつになら中身を見られてもかまわん。
 多分似たような目にあってるだろうし、理解力は間違いなくNo.1だ。
 しかし、問題はどうやって呼び出すかだ。奴とコンタクトを取るには否が応でも
 あのお人を経由しなくてはならない。街とかで偶然会わない限り。
 あーもう、気まぐれで遊びにとか来ないかなー、和人の奴。なんて無理か。
 そんな都合よく……。
 ドンドン! 
「え……?」
 これはまごう事無くドアをノックする音。
 まさか、まさか! 神はいたのか! ヒーイズゴッド! ヒーイズアンビリーバボー!
 俺は写真を小脇に抱え、全速力でドアの前まで移動し、
 そのまま自分でもよくわからない動きでドアを開ける事に成功した。
「和人くううううん! 君ってやつは、君ってやつはぁ! ハローマイサン!
 サンキューリトルボーイ! ユーアーエブリシーーーン、グっ!」

「はあい。つ・ば・さ・ちゃんでーっす」
「神は死んだああああああああああああ!!」
 ゴッドとデッドは似ている。そんな簡単な事を今日俺は初めて悟った気がした。 
「どうしたの? 私の来訪がそんなに慟哭するほど嬉しかった?
 やーねーさくっちたら、いくら日頃孤独と戯れてるからって人の訪問を泣くほど喜ぶ?」
「散れ、痴れ者。外跳ねに今更用などない。どうせ山彦から住所を聞いて来たんだろうが、
 お前が居るべき場所はここより350km東へ行った所にある主要都市の駅の中な筈だ」
「や、ま、大した用はこっちもないんだけど」
 極めて無表情に八重樫はそう口走ると、右手に持っていた学生カバンを
 俺の目の前にずいっと持ち上げた。
「忘れ物」
「え? あ……」
 予想外の再会に俺は驚きを禁じえない。わざわざコイツが持ってきてくれるとは。
「あー、その手じゃ掴めないか。それじゃ私が持って行ってやりましょう。じゃ、失礼」
「こらこらこら! 勝手に上がるな勝手に!」
 必死で引きとめようとしたが、手が使えない俺には止められる手段などなく、
 あっさりと進入を許してしまった。
「あれ? 靴が多い」
「ききき気の所為ですよ」
「明らかに多いってば。ほー。へー。ふーん」
「ちちち違いますよ!? 僕は女を連れ込んでチミが想像してるような淫行に
 ふける様な淫ら属性はこれっぽっちも持ち合わせて……」
「さくっちー、自動泡立て器ってない? うぃんうぃんって動くやつー」
「せんぱーい、味付けは薄いのと濃いのとちょうどいいのとどれがいいですか?
 濃いのですか、そうですかわっかりましたー」
「おにいちゃーん、おトイレの掃除終わったよー。次はお風呂のお掃除するねー」
 一斉だった。打ち合わせでもしかのかと勘ぐりたくなる俺の気持ち、わかるかいベイベー。
 しかも妙にえっち臭い言葉の羅列だし……勘弁してくれ。

「いやいや、そういう事なら。それじゃ一応」
「おい、何を……ああっ、人ん家の玄関をカメラ付き携帯で激写するなよぉ」
「証拠証拠。よし、これで完璧。後でヤマに送ってやろ。
 あ、配達料はこれでチャラでいいよ。じゃねー」
 八重樫つばさは一体何故存在するのだろう。俺か? 俺を笑い者にする為だけに
 この世に生を受けたのだろうか?
 そんな事を考えずにはいられない数十秒の出来事だった。
「せんぱいせんぱい、誰か来たんですか? 女の人の声がしましたけど」
 台所から雪村がこっちにやって来た。
 何故か小型フライパンも一緒に持ってきているが、敢えてツッコミはいれない。
「いや、人は来てない。あれは悪魔だ。ドラキュラの末裔かもしれん」
「はあ……ところで」
「なんだ小娘。言っとくが味付けはちょうどいいが俺の本望だぞ。勝手に決め付けるな」
「いえ、その小脇に抱えている写真は一体何なんでしょうと思いまして」
「……」
 やっほーい。忘れてましたー。あははー。
「な、何を無知な事を。雪村にはこれが写真に見えるというのか?」
「雪村は無知ですから、この世に現存する全ての物質を知る訳ではありません。
 しかしそれは写真だと断言できる次第です」
 くっ、この俺の『触れてくれるなオーラ』を敢えて無視して特攻してくるとは……
 さすが雪村、伊達に俺の相方はやってないって事か。
 しかしここで屈する訳にはいかない。このガーディアン桜井、なんとしても
 これだけは人に見せないようにしなければ。俺の全人格を否定されかねない。
「ふっふふふ。しからば教えてしんぜよう。これは写真などではない。
 遥か古代より栄えしアトランティス王国の第14代目の王が……げっ」
 間の悪い事に、俺の携帯の着メロがポケットから鳴り出した。

「取ってあげましょうか?」
「ああ、頼む」
 重要な電話(和観さんの呼び出し)である可能性が否定できない以上、取らない訳には
 いかない。仕方なく俺は雪村に自分の制服のポケットを蹂躙される事を許容した。
「取りました」
「うむ。それじゃ携帯を開きなさい」
「了解ですマスター」
 メイドロボのような機械的な物言いで折りたたまれた携帯を開く雪村。
 そして何も言わずに通話ボタンをプッシュする。
 中々気が利くメイドロボットだ。この様子じゃ俺が言うまでもなく『携帯電話
 サポーター』としての役目をパーフェクトに遂行しそうな雰囲気だな。
 あとは携帯を俺の耳元に近づけて……。
「はいもしもし」
「お前が出るんかい!」
『あー、はいはい。えー、そうですねー。いえいえ。そんな、こちらこそ。
 はい、はい。そうですか。そうですよねー。あははは』
 雪村は俺のツッコミなどお構いなしに談笑を始めやがった。
 相手は誰だ……? 俺の知り合いで携帯の番号を知ってて、
 且つ雪村の知り合いとなると……まさか母君じゃあるまいな。しかしそれしか思いつかん。
『はい、はいー、では失礼しまーす、はーい』
 雪村は満足しきった面で俺の携帯をまるで自分の物のように扱っていた。
「いやー、間違い電話でした」
「嘘付け! 間違い電話であんなに話が弾むかっ」
「でもほら、せんぱいの番号登録にはない番号ですよ?」
 そういって雪村は着信履歴を俺に見せる。確かに番号のみしか表示されていない。
 しかも知らない番号だ。

「つ、強者だなお前」
「ほほほ、雪村は敗残兵ですから」
 全く意味のわからない返しをしつつ、雪村が俺のポケットに携帯を入れ……
 ようとした瞬間、再び着信音が鳴った。
「おい、今度は俺が出るからな」
「そうですか。同じボケをかぶせるという天丼とやらを一度やってみたかったんですが」
「あれは中堅向けだ。初心者がやるとスベるからやらん方がいい」
「わかりました。ではここは雪村、せんぱいの手となり足となり
 電話のサポートに全力を尽くします」
 足になっても無意味だろうに……とか思いながら、俺は通話ボタンを押されて
 会話OK状態の電話に耳を当てた。
『もしもし、さくっち?』
『え、八重樫か? お前さっき直に会ったばかりだろ』
『や、実は間抜けな事にさくっちのカバンをそのまま持ってっちゃって。
 面倒だからそのまま持って帰ろうかなーと思ったんだけど』
『ああ、別にいいぞ。その代わり明日学校に持って来てくれ』
『それも面倒だし。さすがに目の前にあるゴミ捨て場に放り投げるのも気の毒かなと思って』
『持って来てください』
『それじゃ5分でそっち着くから、何か飲み物とか用意しておいて。じゃねー』
 身勝手極まりない言葉を残し、電話は切れた。
「雑巾の絞り汁出しちゃろか……」
 どうせ臭いでバレるので無意味な事だが本気でやってみようかと画策していると、
 雪村が極自然な動作で俺の耳に当ててる携帯を下にずらし、そのまま脇に挟んでいた
 写真を……とと取ったあああああっ!? 取られたあああああっ!!

「ああ何という事か、せんぱいがあれほど頑なに見せるのを拒んでいた写真が
 いともあっさりと雪村の手に。これはもはや雪村に対する警戒心とか
 ファイアーウォールが皆無であると受け取ってもいいのでしょうか」
「違うよぉ! 返せぇ、返せよぉ」
「うふふ、せんぱいったら照れちゃって。そんなに見せたくないものなら
 脇に挟んで持ってる訳ないじゃないですか。大方本当は見せたくて仕方がないんでしょう?
 小町さんは何でもお見通しですよ」
 うぐっ、反論できない。間抜けな反論しか思いつかない。実際間抜けだし。
「ではでは、ご期待にお答えしてイッツ・ア・ショーターイム」
 雪村は俺の必死に訴えかける眼差しに気付く事無く、ついに写真を視界に捉えた。
「……」
 1秒、2秒……5秒。反応なし。
「…………」
 10秒。ここでようやくリアクションがあった。
 無言で写真から目を逸らすと、それを持ったまま家の中へ入っていった。
「おーい! 見たなら見たで何か言ってくれ!
 これじゃ物凄く寒い事をしでかした前説の若手芸人みたいな空気じゃないか!」
 俺は半ば自棄でそう叫んだが、答えは返ってこなかった。
 上下、靴、その他もろもろ全部買い揃えた翌日にそれを着たまま泥沼へ飛び込めと
 言われた貧乏若手芸人の心境で自分家に入る。
 おそらく雪村はあの写真を二人に見せてるだろう。
 それを見た二人のリアクションも何となく予想できる。
 ……終わった。俺の築き上げてきたクールでニヒルなハードボイルドという人間像は、
 この日をもってフールでジキルなハイド☆ボインちゃんとなるに違いない。 

「え、えええっ!? これ、さくっち!?」
「あ、確かにおにいちゃんだよ、これ。目とか鼻とか、顔のパーツはそのまんまだし。うわー」
 案の定、驚愕とも侮蔑ともとれるような叫び声が聞こえてきた。
 ふっ……いいさ。これが現実なんだから仕方ない。受け入れるさ。
 受け入れて、受け切ってやる。
「さあ笑え! そうさ、俺は変態さ! 男なのにそんな格好をするダメ人間さぁ!
 どうした? 笑えよ、おかしいだろ? 俺は男だぞ、スカートなんて履いていい訳ないし
 口紅を塗るなんて道理違反もいいとこだ。髪の毛? カツラだよ。そりゃ三つ編みだって
 お手のもんさ。どうした雪村? おとぎの国じゃなく新宿2丁目の住人だった俺を
 笑わないのか? どうよ星崎、クラスメートが変態だった気分は。青葉ちゃん、
 無理しなくていいんだよ。シゲさんに言いつけてしかるべき場所に連絡しても俺は
 君を恨んだりはしない。どうしたんだよ皆、笑えよ。笑えよぉぉぉ!」
 我ながら嫌過ぎる人格を演じつつ、三人の様子を伺う。
 いやね、実際問題こういうやさぐれたキャラにでもならなきゃ
 耐えられない空気なんだよ、本当。
「さくっち……」
 しかし返って来た返事は、とんでもなく意外なものだった。

「女装、似合うんだねー」
「本当だよ。すっごく綺麗なんだもん、びっくりしちゃった」
「雪村、ひょっとして負けてるかも……愛しのダーリンに女として負けるなんて……複雑です」
 え? 何? ひょっとして、別に悪い印象を与えてはいない? むしろ意外な一面の発掘?
「き、君たち。これを見て真っ先に変態とか悪趣味とか思ったりしないのかな?
 どうなのかな? かな?」
「えー、でも綺麗だし」
 きき綺麗って! プリンセスの異名を持つ学園のアイドルにそんな事言われるなんて!
「おにいちゃん、かっこいいだけじゃなくて美しかったんだね。すごいよ、尊敬しちゃうよ」
 美しい……なんという芳醇な響き。トロイア戦争時にアフロディーテから
 愛と美の女神の称号を受け継いだ俺にこの上なくジャストフィット。
「せんぱい、どうしてくれるんですか。これじゃ雪村の女としての威厳とか誇りとか
 色仕掛け作戦が全滅ですよ。なんて罪深いビューティーコロシアムなんですか」
「ふっ、許せ雪村。この桜井”アフロ”舞人、揺るぎない男の色気の裏に秘められた
 表裏一体の色気をどうしても抑える事が出来なかったんだ」
 実はこの写真、俺がここに来るちょっと前に和観さんが遊びに来た際に撮られたもの。
 俺が寝てる隙に我が母親と和観さんの二人で悪戯した際の証拠物件らしい。
 無論俺に女装趣味などあるはずもない。だが特殊な趣味か特殊なイベントでもない限り
 女装なんてする機会がある筈もなく、布団の上であどけなく眠る俺に残されたのは
 特殊な趣味の疑惑だけだ。少なくとも俺はそう思っていた。
 しかしどうだ。結果はここにある6つの羨望の眼差し。そう、俺の女装は
 恥ずかしい代物じゃない。寧ろ誇るべきものだったんだ。
 いやいや、まいったなこりゃ。桜坂の福山雅○こと俺は新宿2丁目でも英雄だったとは。

「うーっす、さくっちいるー?」
 玄関のほうから吊り目っぽい声がする。八重樫が来たか。ちょうどいい、
 奴にも俺の隠された財宝をお裾分けしてやらんでもない。
 俺は写真を右手に、玄関へ直行した。
「やあやあ八重樫さん。まあ何も言わずこれを見るがいいさ。そして
 賛美と羨望と嫉妬の声を上げる事もやぶさかではないぞ」
 俺は八重樫に自分の女装写真を堂々と見せた。
「……」
 ふっふっふ、黙ってるな。あまりの美しさに声も出ないか。当然だな。
 人間あまりにも自分の想像を超える感動を覚えてしまった場合、
 声すら出せずに呆然とするからな。
「や、これはまた美味しいネタを」
「……ネタ?」
 俺の聞き返しを無視し、八重樫はカメラ付き携帯を取り出して写真を写真に撮った。
「お、おい。この美しさ、この優雅さについて何ら述べる事はないのか?
 今なら歳末もびっくりの特別期間、何を言っても無料だぞ?」
「や、別に」
 カメラに収め終えた八重樫はつまらなそうに写真を返してきた。
 ついでに俺のカバンも玄関に放り投げる。

「あー、それじゃ一言だけ」
「そうかそうか、普段美とはかけ離れた生活を送っている貴様もようやく
 この華麗さに気がついたか。いいだろう、言ってくれ」
「変態」
「ぐはっ」
 俺は死んだ。俺の築き上げてきたクールでニヒルなハードボイルドという
 人間像はこの瞬間滅亡した。
「じゃ、これはさくっちの趣味って事で、担任及びクラスの皆さんにフラッシュ
 作って紹介してあげるから」
「ま、待て! いや待ってください! それは、それだけは!」
 俺はすがるように八重樫に頼み込む。土下座もする。土下寝もした。
 怪我人がここまでやればいくら情薄女の八重樫でも……と思ったのが間違いだった。
「わきまえなさい。女装なんて2億年早い」
「……はい」
 笑顔でそう宣告された俺は、八重樫の後姿を為す術なく眺めていた。
 いつまでも眺めていた……。



              【  10月10日(木) 】


 数年前まで休日だった日に登校するのは憂鬱だ。
 しかし、この日。俺より登校するのが憂鬱な人間は絶対にいない。断言できる。
 そんな悪魔の尻尾を装備してしまった気分で俺は我がクラスの敷居を跨いだ。
「おー、来たぞー! 我がクラスの英雄のご登校だ!」
「体育祭の仮装行列、バッチリ決めてくれよー!」
 文化祭の出し物決定したぞ! 一人新宿2丁目劇場! よろしく頼むぜ主役!」
「修学旅行の余興はまかせといて! 私たちが腕によりをかけてメイキャップしてあげる!」
 もう予想通りというか何というか、どうでもいいって気分にさせられる
 囃子のような声が耳を素通りしていく。
「……」
 そんな中、山彦は黙って俺の席にやって来た。
「芸術の、秋だな」
「……まあな」
 俺は奴の友情に涙を禁じえなかった。
 世の中、悪い事ばっかじゃないよな。いい事はほとんどないけど。
 そんな事を思う秋のとある一日の朝は、皮肉なくらい澄んだ青空だった―――


                                    カーン……



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