「告白に至る病」

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 二人の距離は肩が触れ合う程度。
 もし触れ合ったら、そのままリミットブレイク。親を殺した仇敵のように相手を睨みつけ、
最後には拳を交えるまでに至る。
 幼なじみで従兄妹と書いて不倶戴天と読ませ、血で血を洗う熾烈な闘争の果てに尚も
敢然と立ちはだかる生涯最大の宿敵、と二人は互いに認める。
 果たして自分たちの相性は良いのか悪いのか。晃二郎は絶望的に悪いと考え、おとねは
究極的に良いと考える。そのどちらが正しいのか。それは誰にも分からないけれども、
どちらにしてもその極致にいることだけは間違いない。
 いつも。金田晃二郎と小鉄おとねは肩触れ合う距離にいた。
 
 学校へ通うのも二人一緒だった。晃二郎は文字通りおとねに引きずられるように、
幼稚園から今に至るまでそれを繰り返してきた。晃二郎が風邪を引いた時も、インフル
エンザでノックダウンした時も、肺炎で死にかけた時でさえも、おとねは容赦なく
引きずった。自分がそうなった時は問答無用で晃二郎に看病をさせた。おとねが全快した
翌日に晃二郎が病に倒れることもあったが、そんなものは全く酌量されなかった。
 こんなこともあった。「晃二郎のものは私のもの、私のものは私のもの、ユーコピー?」
「アイクォピィー! なんて言えるかぁ! テメエ何様? ひょっとしなくても地球で一番の
存在とでも思ってないか? アアン? 殺すよマヂで、大体が―――」ずずいと携帯電話を
突き出すおとね。「アンタのものは私のもの、私のものは私のもの、ユーコピー?」「アイクォ
ピィー!」再生された音声はそこでブチ切れていた。この詐欺紛いの音声データは、その日の
昼休み、放送室をジャックしたおとねの手によって晃二郎が駆けつけるまでエンドレスで
垂れ流された。 

 そして、いつものように、二人は叫ぶ。
「今日こそコロス! ゼッテー決着つけてやる! テメエを凌辱して全世界に電波を発信してやる!」
「ヤレるもんならヤッてみな! このチンカス野郎っ!」
「ばっ、つーか、もっと年頃の言い回しはないのか!? テメエだって生物学的にはオンナノコだろうが!」

 これらは全て、地獄の一丁目である。普段の、大小問わず、突き詰めれば息を吸うことさえも
共有するぐらい互いの傍に居つづけた。
 
 今も。金田晃二郎と小鉄おとねは健やかなる時も病める時も常に肩触れ合う距離にいる。
 その大部分が怒声と罵声と呪詛が多重に折り重なった醜い光景だったとしても。
 それが変わらない二人の光景。

 今日も、そんな一日だった。六限目終了の鐘が鳴り響き、終わりのショートなどブッチってでも
おとねの魔の手から逃れようとした晃二郎の挑戦はあと一歩でドアに手が届く、その距離であえなく
失敗に終わった。
「ああん、何で一人で行っちゃおうとするの? 今日は二人でチョコパフェをつつくって約束なのに。
ひっどいわぁ!」
 おとねはしなしなっと、ありもしない約束でっち上げ、それを破られたと周囲に吹き込んで同情を買いつつ、
「ンなやくそグハァッ――――」 
 今や戦犯と化した晃二郎を鉄拳で制する。
「オラオラオラオラオラアァァ!」
 ガトリングガンの斉射を針の穴に通すように、正確無比なコントロールで打ち据えていくその形相は
まさに夜叉のソレである。
 
 拳がめり込み、顔が陥没する。
 バキメキィグチャア――――――。
 思わず目を背けて耳を塞ぎたくなるような光景。
 晃二郎が逃げようとしても、衰えることを知らないおとねの多段攻撃を被弾してはノックバックしてしまい、
全く動けない。
「たっけてえぇぇぇぇぇぇ! 死ねるほんとに死ねるって!」
 晃二郎は恥も外聞も投げ捨てて、周囲にいたギャラリーに助けを求めるが、
「なにゆってんの、おとねちゃん泣いてるじゃない。泣いて薄情なあんたの胸に飛び込んでそれを
叩いてるだけじゃない」
 一番近くにいた女子がおとねに同情したようなことを言って泣き崩れる。
「勝手に作り上げないでー! 頼むからこの死へ一直線な現実を見てー! つーか泣きたいのオレだってぇぇ!」
「でもさ、金田と小鉄のはいつものことだからなあ、愛情表現の一種なんだろ?」
 今度は女子の横にいた男子が言う。
「だからそういうオブラートいらないの! 愛情も友情もここにはないの! ただの肉塊に成り果てそうな
オレをたすkブフッ――」
 晃二郎の悲痛な叫びを覆い隠すように、
「グヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ――――――――――――――――――――――」
 歪んだ笑顔が張り付いたおとねの口からこぼれる哄笑が辺りに響き渡った。

 ぼこぼこに殴られたのと殴ったのが一緒に帰る。
 その道すがら。
 川原の風を受けて乱れた髪を整えるおとねの横で晃二郎は思う。黙って大人しくしていたら可愛く見えないことも
ないかもしれないような気がするかもしれないけどまあ勘違いだろう、と。
「ナニよ」
「いや、別に」
 眉を吊り上げ、剣呑を撒き散らすおとねから晃二郎は視線を外した。
「晃二郎」
「何だ」
「今日のところは勘弁してあげるけど、次に逃げたときはどうなるのか分かってるんでしょうね」
「……どうなるんだ」
 言いながら、晃二郎は既に暗澹たる感情に苛まれている。
「どうって。そりゃ決まってるじゃない。アンタの皮被りミニマムソーセージに油性マジックで短小って
書くのよ。消えないように濃く。するとあれでしょ、用を足すときは勿論、自家発電をしようとしても短小の
文字に気持ちと一緒にしょんぼり首を垂れるっていう寸法よ。これって言わば貞操帯みたいなもんよね。
唯一の楽しみも潰えてアンタ可哀想ね」
「てゆーか、もうそれが実現したかのように哀れむのはやめてくれ……」
 昼でもない夜でもない端境期の水面に跳ね返る光で晃二郎の目は染みた。
 何でこんなのが幼なじみで従兄妹なんだ。ゲームやマンガのように晃二郎ちゃん、お弁当だよ(はあと)
ってのは無理だとしても、これはないだろう。神様とか運命とか呼ばれるそれらを恨んでもいい筈だ。
 晃二郎は深いため息をついた。

 ため息ついでに、オトネイズムを発揮された時に妄想せずにはいられない、この状況を
脱出するいくつかの方法を思い浮かべてみる。
 例えば、車がおとねを突き飛ばす、金属バットで頭をしこたま殴るなどのショック療法とか、
弾丸を脳にめり込んで、神経の何本かを断裂させるとか、禅寺に叩き込んで今までの悪行を
悔い改めさせるとか、催眠術で元来乙女だと思い込ませるとか、刀鍛冶に弟子入りさせて
社会の厳しさを教え込むとか、献身的な女性が出てくる映画を見せて天啓を得させるとか。
何なら、狂える科学者ミスターダイジョーブの人格改造手術でもいい。とにかくあの底抜けの
馬鹿さ加減をどうにかできたら。

 そんな妄想を脳裏で弄んだ。
 ただの戯言のつもりだった。
 魔物が一瞬、顔を覗かせたように。
 現実になった。

 晃二郎もおとねも気配など微塵も感じなかった。だけど、すぐ後ろに原因がいた。
 
 土手道の真ん中を王様かなにかのように歩いていたおとねを黒い車が猛スピードで跳ね飛ばした。
 
 おとねは宙を舞った。そのまま土手道から斜面を転がり落ちて、凶が重なったか、緑の絨毯を
覆い隠すように存在した石畳の上に躰を強く打ちつけた。
 全ての過程はゆっくりと移ろった。
 手を伸ばすことも出来ず、呆けたように晃二郎はその場に立ち尽くす。
 ゴオオオ――――――――と耳鳴りがした。
 視界に張り付いた黒い靄を払って、晃二郎は辺りを見た。高低という断絶の向こうに結果が転がっていた。
 原因と過程と結果。
 そして、かかる認識。
 
 晃二郎は歩くような軽い足取りで斜面を下りていく。心配など全くしていない。喩え隕石に直撃されようが、
おとねちゃんはだめーじをうけなかった! と表示されそうな奴だ。心配するだけ無駄無駄。いや、寧ろ心配した
様子を曝した途端に、あらあら愛するおとねちゃんが死んじゃうって心配した? 泣きそうなツラしちゃって、
全く晃二郎ってば私にZOKKON LOVEなんだから〜、とでも言われかねない。
 降り立った草木の隙間からは虫の翅音が聞こえてくる。おとねはうつ伏せで寝転んでいた。晃二郎は腹に
力を入れて近づいた。おとねがリビングデッドのように撥ね起きて、自分をビビらせようとして寝ているに
違いない、と思っているからだ。

 おとねを見下ろす姿勢で約三○秒。晃二郎も動かなかった。
「おい」
 晃二郎が痺れを切らして声を掛けた。沈黙が耐えられなかったのもあるが、面倒くさくなったのでさっさと
済ませてしまいたかったのが最大の理由だった。
 さらに五秒。おとねはピクリとも動かない。
「おい、いい加減に起きろって」
 おとねの躰に手をやって、反転させた。仰向けになった反動で短いスカートが捲れ上がって、縞々のぱんつが
チラっと顔を出した。
「ぱんつ見えてるぞ。いいのか」
 やはり反応はない。何となく妙な空気だった。晃二郎はため息をつき、頭を掻いてスカートを整えてやった。
 おとねの奴はどうやら本当に気を失っているらしいな、と晃二郎が思い始めたのは、普通の人間なら
おっ死んでもおかしくない衝撃を受けても当然のように傷一つないおとねの躰をマジマジと眺めて放置しようかと
悩んで辺りをウロウロして戻ってきてそれから暫くしてからだった。
 
 晃二郎は仕方なさそうな表情を作って、おとねの口に手をやる。息はある。次に首筋。脈もある。
……気を失っているだけか。ため息。覚悟を決める。この瞬間に目を覚まされたら殺されそうだと思いつつ、
おとねの頬に手をやって、勢い良く張った。一、続けざまに、二、三。目を覚まさない。
 この光景を目に入れ、手で触り、脳が理解して漸く、ほんの僅かだけ焦燥感が胸を灼いた。おとねは意外と
深刻な状態なのかもしれない。しゃーない、病院にでも運ぶかと思い、抱え上げようと浮かした瞬間、
おとねはパチっと勢い良く目を覚ました。晃二郎は硬直した。


「きゃんっ」
 晃二郎の手から滑り落ちたおとねは、らしくない、実に可愛らしい声を上げた。
「うぅぅー、痛いです……」
 続いて聞こえた甘いロリ声。とても現実とは思えなかった。晃二郎は脳が壊れるかと思った。
だからなかったことにした。
「おとね、だぃじょうぶきゃ」
 なかったことにできなかった。だから震えた声が出た。後ろを向いて深呼吸をしてもう一度。
「おとね、だぃじょうぶきゃ」
 効果は全くなかった。その様子をおとねはぽかんとした間の抜けた表情で見ていた。晃二郎は猛烈に
恥ずかしくなった。同時に絶望的な気持ちになった。「だいじょうぶきゃ」一週間はこのネタで笑われるだろう。
今までの悪夢から自分の行く末に多大な暗雲が立ち込めたことを悟った晃二郎は、物言わず立ち上がり、
おとねに背を向けて、
「帰るぞ」
 それだけ言った。
「あ、あの、どなたですか」
 背中に返ってきたのは自分を嘲弄するような下卑た嗤い声ではなく、記憶からの抹殺に失敗した
棘のない真ん丸とした声だった。
 
 晃二郎はもの凄い顔をして振り返った。
「ひっ」
 おとねは怯えたような声を上げ、顔を赤くし、目を伏せて周囲を窺うようにした。ひどく落ち着きがない。
「何を言ってんだ、おとね」
「あのあのあのあの、ええと、そのケホッ、その、すみません、分からないんです……」
「おとね! いい加減に――――――――」
 夢にまで見た光景が目の前にある。信じられなかった。信じなかった。でも。それが本当なら。
信じたい。何に代えても信じたい。

「ほんとうに! 何も分からないんです」
 言い張るおとねを見て、中間試験にて数学で一五点を獲得した自慢の脳が真実を見極めようと
フル回転を始める。
「ほんとーに、オレが分からない?」
 こくっと首を縦に振るおとね。眉を下げ、瞳をうるうる潤ませた、か弱い女の子然としたその風情は、
おとねの本性を知る晃二郎にとっては身の毛もよだつ光景である。
「ホントにホント?」
「ほんとーです……」
 どうする? どうする? どうする? どうする? 晃二郎の頭の中はそれで一杯だった。おとねが本当のことを
言ってる場合、嘘を言っている場合、それらを思考して最善の方法を選ばなくては! なくては! ては!
 人生初のオーバークロックで脳が知恵熱を吹き上げ、神経が焼き切れるギリギリのところで一体どうすれば……、
と苦悶の表情を浮かべて思考する晃二郎をチラっと見て、おとねはおずおずと、
「私のことを知ってるんですか?」
「ううん、全然、知らないよ、全く、何もかも」
 即答だった。思考より本能が全てを優先した。どうするも何もないじゃないか。置き捨てよう。この場に放置しよう。
そうだよ、解放だよ。このまま放っておけば自分はおとねから解放されるんだ、何を迷うことがある、殺されそうなんだ、
殺して何の問題がある。正当防衛だ。記憶喪失なんだ仕方がない。そうだ自分もそうなったことにしよう。気づいたら
おとねはどこかに行ってた。知らない。何も知らないヒャッホー!
 そう断じた晃二郎は今や自分が応援する球団がサヨナラ満塁ホームランで日本一に輝くよりさらに劇的なスタンディング
オベーションの中にいた。生きてて本当に良かったと心から思った。人生にこんな幸せがあるなんて。湧き上がる昂揚感、
幸福感、歓喜、ああ言葉では言い尽くせない。ありがとう! 本当にありがとうー!
 そのまま漢泣きしあわせスキップをしながらフェードアウト、家路につこ―――、
 万力のような力でカッターシャツを掴まれた。

 やっぱり嘘でしたかおとねさん、と思った。屹立していたモノが百八十度反転した。死が首筋まで迫っている気がした。
振り返る勇気などこれっぽっちも持てずに晃二郎が立ち尽くしていると、
「何も分からないんです。……私どうすれば……」
 蚊の鳴くような声。向き直ると、縋るような目をしたおとねが、そこにいた。ほっとしたのも束の間、その様子に、
罪悪感がちくりと胸に穴を作ったが、構わずに、
「でも、オレただ通りがかっただけだし。交番あっちの方にあるから行ってみればいいんじゃないか」
 あさっての方角を指差して、この場から離れようとテキトーなことを言った。おとねは指で指し示す場所と
晃二郎の顔を交互に見て、困ったように俯いた。

「じゃ、オレは行くから」
 今日になって何度目だろうか、背を向ける。
 これは正当な行為だ。考えてもみろ、今まで奴のせいで蒙った害悪の数々を。奴の要求には全て応えなければ
ならない奴隷如き扱い。嫌なことは全て押し付けられ、不満解消の矛先は常にこちらをロックオン、ピー音で
掻き消さねば耐えられない卑語満載のセクシャルハラスメント、秘密など持ちようのないほど侵害されたプライバシー、
生きる意味について常に考えさせられたほどに崩壊寸前だったアイデンティティ。これは正当な行為だ。
「……せめて、途中まで一緒に、」
 おとねはその先を口にしなかった。互いに声なく静寂が広がる。風が薙ぐ。
「ごめんなさい、ご迷惑を掛けてしまって」
 諦めた声で、挨拶し、おとねはのろのろと歩き出す。断絶が深くなる。石畳を抜け、その少し先でこけた。
晃二郎は躰を動かしかけて、やめた。
 やがておとねはゆっくりと立ち上がり、足を引きずって、歩くのを再開した。虚空を掴むように、晃二郎の手。
 斜面に掛かる石段まで歩いて、おとねは遠くなった晃二郎の様子を窺った。向こうが自分のほうを見ているのに気づき、
慌てて深々と頭を下げる。階段を上りきって、再度の会釈。足を引きずって。夕暮れの向こうに消える。

 晃二郎は手を首筋に当てて、石畳のデコボコした部分を睨みつけていた。親の仇みたいに憎悪を込めてそれを蹴った。
 あれがおとねだという事実。外見は普段と変わらない。茶色の髪をカチューシャで止めて。背はそんなに高くないけど
引き締まった躰をセーラー服に包んで。
 変わってしまったのは、困ったように、自信なさそうにしている声とか表情とか態度とか雰囲気とか。
 あいつはおとねであっておとねではないのかも知れない。本当に突き放して良かったのか。分からない。
だけどこれじゃ、
「オレが悪者みたいじゃねーか……」
 ただその場にいただけなのに。圧倒的なまでの胸糞悪さ。
「くそっ」
 地面を思い切り蹴って走り出す。草を散らし、階段を使うのももどかしく土手を斜めに駆け上がる。
おとねは長い影法師を作って、とぼとぼと歩いていた。
「ったく」
 いちいち悪態をつきながら晃二郎はおとねとの距離をつめる。
「おとねっ!」
 肩で息をしながら、デカい声。頂を垂れて歩いていたおとねは雷で打たれたかのように晃二郎を見た。
その表情は逆光のせいで晃二郎には分からない。分かるように小走りにおとねの傍まで行く。
嬉しそうな、困ったような、そんな表情が目の前にある。音を立てず、何かが軋む。
「あのあのあのっ……」
 先に口を開いたのはおとねだった。しかし、その言葉は意味の体を成していない。やがて、声が消える。俯いて
手を胸の前で合わせるその姿は祈りを思わせる。
「……その、なんだ、こっ交番が向こうってのは、言った、よな」
「はい、先ほど……」 
 期待がゴッソリと抜け落ちた顔を、おとねはした。晃二郎は直視できずにそれから視線を外す。仰ぎ見る天上は
ただひたすらに赤い。

 自分を鼓して声を出す。
「幼なじみって分かるか」
 呆けた空気が辺りに広がった。晃二郎は苛立たしげに頭を掻いた。おとねが上目遣いに口を開き、
「……えっと、小さい頃からのお友達、ですか?」
 晃二郎は声の方を見ずに頷く。
「じゃあ、従兄妹は」
「お父さん、お母さんの兄妹の子?」
「そうだな。……それで、オレたちはその両方を満たしている。オレから見ておとねは幼なじみで従兄妹だ」
 晃二郎はおとねの方を見た。
「だから―――、帰ろう」
 全く理由になっていなかった。だけど、今この場において口にすべき言葉はこれだという確信もあった。
 足を見て、手を差し伸べて。晃二郎はおとねを背負った。骨が太く、筋肉ががっちりついたおとねの躰なのに、
とても軽く感じた。
 おとねは少しだけ高くなった視界にわあーと声を上げた。少しだけ、ほんの少しだけ。空が近い。
 
 今、そこにいる僕、ここにいる君。
 空と川が橙と赤の絵の具をぶちまけたような色をしていた。その奥に薄く紺が迫る。
 影法師が長さを増す。二人で家路につく。

 二人とも口を開かなかった。街燈が二人の行く手を照らしていた。
その遥か上を超然と。月がたゆたう。

「お前んちここだから……」
 小鉄の表札が掛かる家の前で晃二郎はそう言った。久方振りに地上に
下り立ったおとねは反応を示さない。ただ俯いて拳に力を込めるのみだ。
 無言が広がる。初夏の夜の空白。
「じゃあ……」
「あ、あのっ」
 覆い被さるようにおとねが声を上げる。
「あのっ、一緒に事情を、説明してくれませんか」
 ああ、と晃二郎は思った。さっきからおとねが身を固くしていたのは
それを心配していたからか、と。同時にそう思い至らなかった自分が
嫌になった。

 幸いと言うべきか、おとねの親は両人共に在宅していた。晃二郎は
真っ先に頭を下げた。自分が付いていながらこのようなことになって
しまって申し訳ない、と。その必要があったのかどうかは分からない。
しかし、それが礼儀だという気がした。詳しい説明をした後で、逆に
頭を下げられた。おとねが迷惑を掛けてしまった、と。そういう事情で
あればこれからすぐに病院へ行く、と。もし入院するようなことに
なれば連絡するので良ければ見舞いに来てほしい、と。そして。
 ―――これから「も」おとねのパートナーとして仲良くしてくれる
ことを切に望む、と。
要求が次第に大きくなっていくことや、これから「も」ということに
疑義を抱かざるをえない晃二郎であったが、ともかくも頷いて、
小鉄家を後にした。

 おとねのことを考えていた。あんた変よと問うてくる親の相手もそぞろに。
飯もそぞろに。風呂もそぞろに。生まれて初めて。嫌悪以外の感情で
おとねのことを考えていた。
 ベッドに転がり込む。目だけを動かして窓越しに空を見る。
無限に広がるノスタルジア。
 晃二郎。こうじろう。晃二郎! 晃二郎っ。こーじろー。晃二郎? こうじろー。
――――――晃二郎。おとねが自分を呼ぶ声。その表情。それが最も変化した点だ。
もう、戻らないのか。驚く。自分は戻ってほしいのか? ……分からない。
自分は戻ってほしいのか、ほしくないのか。そもそも自分はどうしたいのか。
 自分がおとねに求めることは何なのか。
 彼岸に渡ったおとね。ここにいる自分。そのことだけが、頭の中をぐるぐると回る。

 翌日。
 朝のショートが始まるギリギリ、晃二郎はそのタイミングで教室に雪崩れ込んだ。
ようーとか、はよーとか、テキトーに交わされる朝の挨拶。
挨拶して、相手が一様におやっという表情を見せる。言うまでもない。
晃二郎の傍におとねがいないことを、誰しもが訝しがっていた。
 
 担任が前の扉から入ってきて教壇に上る。チャイム鳴ったっけ。のんびりと
思いながら晃二郎は席につく。いつも通りの、とりとめのない、どうでもいい類の
伝達事項が告げられ、最後におとねが入院したということが付け加えられた。
教室の空気はざわついた。

 ショートから一時間目が始まるまでの短い時間。晃二郎の周りにクラスメイトが殺到した。
「どーゆーことだよ」「つか、小鉄の容態は」「いつの話だ」「納得のいく説明を」
「別れたんじゃなかったのか」「おとねちんの皆勤は」「今の心境は」「いつになったら
復帰する予定なんだ」
「知らん」
 晃二郎は全ての質問をその言葉で薙ぎ払った。おとねがなぜ病院に行ったのか、
入院しているというのなら、なぜ入院しているのか、その原因くらいは知っている。
しかし、それ以上のことは何も知らない。語る気もなければ、語る言葉も持たない。
 そうやって、クラスの連中をテキトーにあしらっていると、何人かの取り巻きに
押し出されるように、「あ、後でいいよぅ」とか言いつつ、クラス委員長であり、
おとねの親友でもある、橘美空が晃二郎の前にやってきた。
「あのね、金田君。そのう、おとねちゃん大丈夫なの?」
「いや、ごめん。本当に知らないんだ」
 記憶喪失。昨日のおとねの状態は音に聞くソレであるように思う。もし、仮に
おとねが記憶を、今までのことを思い出せないようになってしまったら、おとねの
姿をしたあの女の子をおとねと呼んでいいのか。そう呼べるのか。記憶を認識でき
ないその個体がおとねであるということ。
 おとねがおとねであるということそれは何によって規定されるのか。
 不確かだ。何もかもが。
 そんな状況で自分が訳知り顔で何かを語る権利などもっている筈がない。
晃二郎はそう思った。

 放課後になって、美空はおとねとも仲の良い友人二人と一緒に、晃二郎に話し掛けた。
もしも晃二郎がおとねの見舞いに行くというのなら、それに同伴させてもらおうと
考えたのである。

 晃二郎も行くかどうか迷っていた。おとねは入院したという。晃二郎が真っ先に
思いついたのは市の中心から少し離れたところに位置する県立の総合病院である。
昨夜、おとねの両親はその病院へ行くと言っていた。しかし、昨日の今日でその後の
経過を知らされたわけではない。家に帰れば何かしらの連絡があるかも知れないが、
それからだと面会時間に間に合うかどうか。さらには漠然と。自分が行く必要なんて
あるのか。そんな考えもよぎる。
 だから、橘美空とその友人の申し出は自分の心を説得するための口実としてありがたかった。

 県立病院の最寄りの駅で下車して、緩やかな坂道を登る。日中には猛威を振るっていた
太陽も今ではすっかり翳りを見せている。チチチと虫が鳴く声がする。
「金田くん、やっぱりおとねちゃんの事が心配?」
 いつもの、とりとめのない、女の子たちの話が途切れた瞬間の不意打ち。
「ごめんなさい。心配だよね。当然だよね。変なこと聞いたね、私」
 美空は自分をぽくって叩く仕草をする。
「入院するくらいだし、状態ひどいのかな」
 別の女の子が言う。言葉に操られるように悄然とした雰囲気が広がる。
 晃二郎は顔を上げて、
「大丈夫だって、あのおとねだぜ。地球が滅亡しようとも万物の法則を乗り越えて
私には関係ないもんね、って傲然と言い放つようなやつだ。皆だってあいつが
どうにかなるシーンを想像できるか? オレにはできないよ」
「そうだよね。うんうん、おとねちゃんは無敵だもんね」
 美空が笑う。

 クラス、いや学園のアイドルと目される橘美空は完璧に近い人間だった。
橘家の方針により、そう育てられた。全国模試では常にトップ常連、運動能力も
インターハイで三位に入賞したバレー部の中に混じっても遜色ない実力を持ち、
顔立ち、スタイルの良さは言うまでもない。これだけのスペックを有しながら
彼女は人の前に立とうとはしなかった。驕らない。万事につけ控えめで他人を
たてようとする。そして、柔らかく笑う。
 晃二郎は美空のことが好きだった。いや、ただ憧れているだけかも知れない。
その感情を分かつ境界を晃二郎はまだ見つけていない。
 美空が笑う。親友の無事を祈って。
 その横で。
 晃二郎は胸にぽっかり空いた空白の原因を考えている。

 受付でおとねの病室を聞いて三階に上がってきた晃二郎たちは、居並ぶ個室の
一つから見知った顔が出てきたので声を掛けた。
「あら、晃二郎ちゃん。今ねお宅に電話したのよ。まだ帰ってないっていうから
言付けを頼んだのだけれど、来てくれたのね」
 美空とその後ろに控える二人にも視線を走らせて、
「美空ちゃんも。後ろの方々もおとねのお友達の方かしら。今日は来てくださって
本当にありがとう」
「いえ、こちらこそ、お声を掛けて頂く前に押しかけてしまって。それで
おとねちゃんの容態は……」
 美空の言葉におとねの母は無言で目を扉にやった。つられて全員が扉を見る。
扉の横のプレートには小鉄おとねと書かれた紙が挟まっていた。
 聞き逃すほど小さいため息が流れて、
「ここじゃあれだから談話室の方でいいかしら」
 先導するおとねの母に従って四人は廊下を進んだ。

 晃二郎が土手道での事故を手短に話し、おとねの母が後をうけて、
「一般的に言うところの記憶障害だってお医者さまは仰っていたわ。私には良く
分からないのだけれど、記憶には記銘、保持、再認という一連の精神作用あって、
今のおとねは記憶を再認する、つまり思い出すということができないらしいの。
おとねの中には過去の出来事が長期記憶としてしっかり残ってる。だけどそれに
触れることができない。あなたたちと過ごした時間のことはしっかりおとねの中に
あるのに……」
 そこで言葉が途切れる。おとねの母が四人の顔をそれぞれ見て、
「おとねがあなたたちのことを認識できなくても、友達でいてやってほしいの。
お願いします」
 頭を下げた。下げられた四人は軒並み居心地が悪かった。特に昨日に続いて二日連続で
下げられた晃二郎は卑怯だとすら思った。理不尽だとすら思った。年上の人に、
いつも世話になっている人にこうして頭を下げられて、それを撥ね付けることなど自分には
できない。その頼みごとが可であるとか否であるとかは関係ない。
ただ、卑怯だと、理不尽だと思った。
 その思考を寸断するように、
「大丈夫です。おとねちゃんの友達をやめるだなんてそんなことは絶対ないです。
だから。安心して顔を上げて下さい。そうされると、私、胸が痛いです」
 美空の声がした。晃二郎は澄んだ声だと思った。
 一瞬の間が空いてそれに同意するクラスメイトの声。
「金田君もそうよね」
 突然、美空に水を向けられて、晃二郎は戸惑ったが、程なくしてから頷いた。
「ありがとう」
 おとねの母は嬉しそうに笑う。

「そういえば、」
 取りとめのない疑問。
「何でこの病院なんですか。ほら、おとねん家から近いとこに総合病院って二つ
くらいあるじゃないですか、なのにここって。いや、病院が遠いからどうって
わけじゃないんですけど、気になったんです」
 おとねの母は昔から晃二郎とおとねに向けてきた優しい顔をした。晃二郎と
おとねが一緒になって何で、なんでー、と自分の周りでちょろちょろしていた
遠い過去が去来していた。
「ここにね、私の主治医がいるの。弟なんだけれどね。安心感、なのかな。
他のお医者様がダメだって言ってるわけじゃないのよ。あの時は私もあの人も
動転していたから」
 軽く目を伏せて、
「ふふふ、ごめんなさいね。おとねの主治医は晃二郎くん
だったのにね。風邪の時とかおもちゃでおとねを診断したりして。
あのおもちゃの聴診器とかまだ残ってるわよ」
「ちょ、ちょっと小母さんっ」
「え、金田くんっ、やっぱりそういうエッチなことしてたの」
「最後にしたのはいつなの」
 おまけの筈の二人が水を得た魚のように口を開く。晃二郎が反論しようにも
次々と繰り出される波状攻撃の前に手も足も出ない。
「はい、今日はどうしましたか」
「……むねが、むねがきゅんってするんです。せんせいのことをおもうと。むねが」
「それはいかん。さあ、この聴診器で何の病か特定して進ぜよう、
ささ、お早く胸をはだけなさい」
「……こうですか、ぽっ。はずかしい……」
「おお、そのさ――――――」
「ハイ、カットー。お疲れさん、それ以上は放送コードに引っかかるので、ヤメレ」
 強引に割り込んで。ため息をつく。

「放送コード? 今のは心臓か何かの病気じゃないのかな」
 美空が首を傾げて聞いてくる。
「……ひょっとして、素ですか」
「あはは、美空だからねー、その手のギャグにはついてこれないよ」

 おとねは白い部屋で白いパジャマを着て白いシーツを足に掛け白い骨のベッドから
身を起こし、茫洋とした顔つきで窓の外を眺めていた。
「よう」
「あ、」
 おとねはそれだけ言って、嬉しそうな表情を見せたが、すぐにあれ? という顔をした。
「私たち、おとねちゃんと同じクラスで仲の良い友達だったの。覚えてないかな」
 おずおずと入室した美空の言葉に、おとねは申し訳なさそうな顔をして俯いた。
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃないの。おとねちゃんのこと小母さんから聞いた
から自分たちのことを紹介しようと思って。あれこれ考えていたら変なことを言っちゃったね。
本当にごめんなさい」
「こんにちは、おとねちゃん。このそそっかしいのは橘美空って言って、あなたの
親友だったりするのよ」
 美空の後ろにいた女の子が前に出て茶々を入れる。美空はもう、と拗ねた表情を軽く作って、
それに合わせる。
 そして、披露される数々のエピソード。女の子たちのお喋りに花が咲く。
 晃二郎はそれを眺めていた。自分が知らないおとねが確実にそこにいたという事実。
それでも、表情を変えたりしない。おとねが自分の預かり知らないところ何をしていようとも、
それに対する反応を他人に知られたくはなかった。無論、おとねにも。

「それじゃーねー、ラブゲッチューさん」
「かーねーだーくーん、誰もいないからっておとねちゃんに悪戯しちゃダメよー、エロはダメよー」
「うっさい。早く帰れ。つーか、橘さん、あいつらを調教してルクセンブルク界隈の
変態肉屋に売り飛ばしましょう」
「ちょーきょー? へんたいにくや?」
 美空は耳慣れない言葉に首を傾げた。
「うわっ、やっぱり素だ、この人」
「だから、その手のギャグは通じないって、美空には」
「むー、バカにされてる気がするよ」
 話題はあちらこちらしながらも、おとねを含めて全員が打ち解けて、
最後には軽口を叩きまくっていた。
今日、四人でここに来て良かったかもしれないと晃二郎はちょっぴりだけ思った。
 午後七時。面会終了時間まで後一時間は残っているが、美空たちは門限やらの関係で
帰ることになった。晃二郎も一緒に帰ろうとしたのだが、その途端にそわそわしだした
おとねを見かねて美空が面会時間ギリギリまで居てやれないか、とさり気なく言ったのである。

 三人が辞して。部屋は一気に閑散とした。窓の外は既に暗い。淡い黒と濃い紺が
交差し、そこからネオンが生まれてくる。そんなふうに見えた。
 祭りのあと、宴のあと、遊んだあと。そのどれもが切なくて寂しい。おとねは
それを嫌がったのかもしれない、晃二郎がそう思っていると、
「あの、」
 この状態になってからお決まりの、センテンスを短く切る言い回しでおとねは
口を開いた。後が続かない。晃二郎が先を促す。
「あの、ですね。その何と言いますか、」
 真っ赤な顔をがばっと上げて、
「何て呼んだらいいですか、名前」

「はっ?」
 晃二郎の、呆気に取られた反応は、意味を取りかねた、というより全く意味を
理解できなかったといった方がいい。それぐらい唐突だった。
 目の前のおとねを見る。眉を上げて、口を引き結んで。無意味に必死だった。
晃二郎は苦笑する。
「変なやつだなあ。ひょっとして今日オレの名前を呼ばなかったのはそのせいなのか」
「……昨夜はそれを考えていて眠れませんでした」
「この馬鹿ちん」
 晃二郎はおとねの頬を人差し指で軽く突いた。ぷにぷにと柔らかい。
「ううう」
「おとねはオレのことを何て呼びたいんだ」
「前はどんなふうに……」
「前、以前か。事故の前は晃二郎って呼び捨ててたけどな。別にそれでもいいぞ」
「……こ、晃二郎。だ、ダメです。呼べません」
 ぶんぶんと頭を振るおとね。
「おいおい、記憶障害とか言われてる奴が無闇に頭を振るな」
 おとねは振るのを慌ててやめて、髪もついでに整える。女の子の仕草だった。
「晃二郎さん、晃二郎くん、……晃二郎ちゃん」
「言うまでもないが、ちゃんはやめろ」
「……ダメですか」
「ダメだ」
「じゃあ、晃二郎くん」
「じゃあって。仕方なくって感じですか、おとねさん」
 晃二郎が意地悪く言うと、
「違う違いますようー。仕方なく、だなんて、そんなことないです。嬉しいです」
 うんうんと口に出して頷くおとね。
「こーじろーくん、晃二郎くん、こうじろうくん」
 おとねは歌うように口ずさむ。晃二郎は小さいときにそう呼ばれていたのを
思い出したが、何も言わなかった。


 面会時間が終わろうとしていた。
「おとね、そろそろ帰るわ、ほら、時間だしさ」
「……はい」
「そんな顔するなって。明日もまた来るから」
 その言葉におとねが笑う。この約束だけは守ろうと。晃二郎は思った。

 果たして晃二郎は約束を守り、その一週間後におとねは学園に復帰した。
 復帰当日。金田家では、「晃二郎のせいで」記憶障害になったおとねちゃんが
学園に復帰するのを助ける会が結成され、その綱領の第一は登下校時は晃二郎が
付き人になること、と圧倒的多数の賛成により定められた。
「ンなことできるかっ」
「じゃあ、今すぐこの家を出て行きなさい」
 金田家の頂点に君臨する母はにこやかな笑顔で言った。絶好調時のおとねをも
凌駕するプレッシャー。対するは生活力のない晃二郎。
「おとねさんのお迎えに上がらねばならないので、母上殿、お弁当を用意して頂きたいのですが」
 食卓を挟んでの無条件降伏。しかし、
「晃二郎の分だけないわ。残念ね」
 優しい笑みに一蹴された。

 隣の小鉄家のベルを鳴らす。
「はーい」
 おとねの声。
「……あー、オレだ。何というか、む、迎えに来たぞ。都合が悪いなら先に行くが」
「わ、悪くないです、都合。今すぐ行きます。見捨てないで下さいー」
 ガチャン、かばんーおべんとーはううー。慌てている様子が全部筒抜けだった。
小鉄家の壁が薄いのか、おとねの声がデカイのか。
「お待たせしましたー」
「ん、じゃ行くか」
「はいっ」


「ゆうえんちのですね、ちけっとというものがですね、にまいほどですね、
あるのですが」
 全てが反転した土手道で。あの日のように斜陽に照らされながら。
緊張した面持ちで。おとねは言った。
 手には二つ鞄を提げている。一つは学生の本分である勉強をする為の
教科書やらノートやらが入っていて、もう一つの鞄、こちらは手提げ袋
と言った方がより正確だが、には弁当箱が二つ入っていた。昼休みになって、
購買にメロンパンでも買いにいこうとして、ポケットに入れていたはずの
財布が見つからず、こりゃどうしたもんか、と悩んでいた晃二郎に
「お、おべんとうがあるのです。い、いいいっしょに食べませんか」と
てれてれしながらおとねが提案し、「おとねにしては美味いじゃないか、
明日も頼む」「はいっ」などのやり取りの末に空箱となった一品だ。
 空の弁当箱や箸箱が当たる音が鳴る。カラカラ。赤い世界とその音が
帰り道だということを教えてくれる。
「あー、うん」
 晃二郎は気のない返事をした。気がないのではない。以前、冗談めかした
おとねの誘いに乗って二人で観に行ったという経験はあるが、
いや、それだけに、今のおとねがそう言ってくる訳が分からないだけだ。
「えーと、二人で観るのか」
「もっと用意した方が良かったですか。美空ちゃんに誘ってみるように
言われたのですけど、美空ちゃんも一緒にって誘ったほうが良かったですか」
 おとねは言わなくてもいいことまで口にして、あうあうと泣きそうな顔をした。
「そうじゃない、そうじゃない。ちょっとびっくりしただけだ」
「二枚で、ぐすっ、いいんですか」
「二人で行きたいんだろ、なら十分だ」
「い、いい、いつにしますか」
 大慌てでそう言って。おとねは両の拳を胸の前で力一杯握りしめている。

「ま、まあ、遊園地だろ。色々と回るだろうし休みの日ってことになるよな。
週末か、週明け……、土曜か日曜か。どっちでもいいぞ」
「日曜日っ」
 少し上がって、顔の辺りで待機。
「了解」
 晃二郎の声に、
「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」
 力が解放された。てのひらをたいように翳すように突き上げられた手。
嬉しいと書き込まれた顔。ぴょんぴょんと跳ねる躰。それらが土手道で影絵のように動く。
「はしゃぎ過ぎだ」
「うれしーですよー。デートっ。ですもん」
「デート?」
 呟きは疑義を問うている。
「違うんですか」
 おとねの躰に充満していたはずの力は急にどこかへと霧散した。
「いや、何というか……」
 晃二郎が言い淀む。デートなのか、これが。そうだと言うのなら、
過去におとねと映画を観に行ったこと、遊園地や動物園に遊びに行ったこと、
ショッピングモールで肩を並べて歩いたこと、それらとの差異は一体
何だというのだろう。
 おとねとデート。実感が湧かない。難しく考えているわけでも、
固く考えているわけでもない。根本的に何かが違うのだ。そもそも晃二郎は
おとねを女の子として識別してきた過去がない。自分の嫌な部分の半身。
性別を超えて、そう思ってきた。そう思わざるをえなかった。
今は、どうなのか。記憶を想起できなくなったおとね。女の子に
なってしまったおとね。確かに、今までのような関係ではない。
だけど、絶対的に。
「実感が湧かないんだよな」

 晃二郎が意識を現実に向けた時には、傍におとねはいなかった。
「おとね?」
 辺りを見回す。随分と後ろにぽつんと人影がある。
「今日は先に帰っててくださーい」
 手で輪を作って、声を張り上げる。
「デート、やーくーそーくー、ですからねっ」
 おとねは元来た道を取って返した。
 晃二郎は間の抜けた表情でそれを見送る。
 そして、一言、
「そいや、どこの遊園地なんだよ」

 先の晃二郎の呟きは、結局のところ、デートじゃないんじゃないのか、
などという良く分からない、曖昧模糊としたものに過ぎなかったが、
おとねにとってみれば半ば拒絶されたに近かった。今日どころか美空に
チケットを渡されて作戦を発起された瞬間からどう切り出そうかと悩み続け、
艱難辛苦にめげそうになりつつも、やっと口にした一言。承諾されたと思い、
天に舞い上がったのも束の間、「デート?」と返された。
うわーんと声を上げて今すぐ泣きたかった。しかし、そうしたところで
どうにかなるものでもないことは、おとねにも分かりきったことだった。
 顔を上げる。こぼれそうになった涙を拭く。

 決戦は日曜日。
 まずは、美空ちゃんに相談しよう。
 そう思った。


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