―――白い、女だった。
生身が触れれば白煙を上げかねないほど汚染物質を満載した雨が、ざぁざぁと降っていた。耐環境装備の無い者には死しか与えない猛毒のシャワーの中、まるで、足元で爆ぜる雨煙りから立ちのぼったかのように、白い女がそこにいた。
艶やかな翠の黒髪も、愛らしく整った面貌にも、白磁のその肌にも、分け隔てなく雨は降り続けている。濡れた髪からの流れが、鎖骨の溝から小降りな乳房の谷間を通り、股下の茂みに落ちていく。
裸の、女だ。
真っ白な肌の美しい女。年の頃は十代半ばを越えたところだろうか。未だ、幼さを残していながら、女としての艶やかさが香り立とうとし始める、まさしく妙齢の乙女。
それを、一人の男が横抱きに歩いてくる。
「お、おい、貴様! 止まれっ!」
異様な風景に我を失っていた門番の一人が、慌てて男を制止する。
「ここがどこだか分からんのか? 貴様のような野良犬が……」
「青雲幇が封主が館。……それともすでに劉豪軍のものか?」
地の底から響く声のようであった。
声量自体は特別低くも、大きくも無い。嗄れた、聞き取りづらい声だ。だが、それに込められた陰の気質は桁が違った。
まるで。そう、地獄の幽鬼が発するならば得心も行く。そういう声だった。
「どちらにせよ同じこと。ではあるが」
言って、微笑む。深く削り取ったような頬に、暗い蔭が蟠る。闇のような両眼に、昏い色の炎がともる。酷薄な唇が吊り上がって牙じみた犬歯が顔を覗かせる。
地獄の修羅でもたじろぐ貌を見て、よもや以前の彼を思い起こせるものはいないであろう。
「劉に伝えろ。孔濤羅が還ってきたと。地獄の底から、瑞麗とともに」
意外すぎる言葉に、周囲の空気が止まる。それと、まったく同時だった。
―――パララ、パパパパパパパッ
半ば開いた瑞麗の口腔から、銃弾が発射されたのは。
鬼哭街 Dynamic
「これは一体どうしたことなのだ!!」
封主にとってこれは、天動驚地。いや、それすらまだ生温い。。
仁も義もなく、ただ利のためだけに腐敗してゆく青雲幇。
技と理もなく、ただ強さのためにのみ機械の体に陵辱される武林の技。
いつか、どこかで狂ってしまったこの世界。
その中で、この男だけが希望であるはずだった。
―――孔濤羅。人呼んで、”紫電掌”。
戴天流、最後の正統であるはずの彼が、モニターの向こう側にいる。
鬼籍に入ったと言われた彼を再び眼にすることは、おそらくは僥倖なことだったのだろう。
もしも、もとの通りの彼であったのなら。
「正しく乱痴気騒ぎですな」
モニターの向こうを指して、傍らの劉豪軍はそう評した。
なるほど、それはまさしく狂態の一言。主役は濤羅その人。そして、踊りの相手は彼の愛する妹……の、人形。よくできた、笑ってしまうほど、故人に瓜二つな人形だ。
その人形を、濤羅は肩に構える。丁度、尻が前を向く形だ。肉付きよく張った太股の間から、二つの孔が丸見えになった。
性器と肛門……ではない。
排泄器官でも、男のものを受け入れるわけでもない二つの孔。そこから、煙を噴いて何かが飛び出した。
―――轟
きっかり一秒後、瑞麗が”産んだ”グレネード弾は轟音と共に爆発した。そしてそれは、最初の一発でしかなかった。
爆発、爆発、爆発。そして、炎上。
朱色の柱を炎が舐め、ごうっ、と音を立てて燃え上がる。
乳白色の壁が熱を浴びてぱりぱりとひび割れていく。
清代の邸宅を模しているとはいえ、壁も柱も防火防災仕様のグラスファイバー製だ。木や漆喰のように燃えもしなければ砕けることもない。ナパームか、それに類する燃焼系の爆弾を使用したのだろう。一度張り付けば二度と剥がれぬ燃焼剤が、千数百度にも達する温度で燃焼する。サイボーグどころか、戦車中隊にも喧嘩が売れる。
――――ぐぁ、あああああああ
轟々と燃える地獄の劫火。火達磨と化した人影が転げ出てくる。総てがただの人ではない。生身であれば瞬時に焼け尽くされている。全身をクロームで覆ったものだけが、辛うじて即死を免れた。
――――バララララララララララララ
その、数少ない生き残りめがけて人形に仕込んだ機関銃が火を噴いた。右腕に一門。左腕に一門。そして、少し遅れて人形の頭が外れると、首の奥から特大のガトリングガンが伸び出てくる。
それが、馬鹿げた量の銃弾を吐き出す。
銃弾の雨、どころではない。
『飛流直下三千尺、疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと』
かつて、李白にそう詠まれた廬山が滝の如き、銃弾の大瀑布。
巻き上がるは、血と硝煙の水煙。
ひれ伏すは、鋼鉄に鎧われた強者どもの骸。
方天戟を構えた巨躯も、ローラーを備えた韋駄天足も、為す術などない。ただただ、焼け付く炎にのたうち、そして美しい人形が吐き出す銃弾に吹き散らされて倒れるのみ。
―――ババババババババババババババババ
まさに、無人の修羅場だった。
ただ一人、孔濤羅だけが地獄じみた劫火の中で立っている。紅暗く、炎に照らされた凶相はつり上がっていた。
笑って、いた。
地獄のような狂気に身を浸して、紫電掌が笑っていた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
突如、裂帛の気合が、黒々と燃え盛る炎を切り裂いた。
烈火を切り裂く白銀の胴衣。
劫火を畏れぬ堅き義心。
元氏双侠が片割れ、元尚英はまさに炎を切り裂き濤羅へと迫る。周囲を焼き尽くす炎すら、彼を留める助けにすらならない。
「孔! 孔濤羅!!」
問う声はなかった。
外道畜生にまで堕ちたかつての友。くれてやるのはただ、血と鋼の一撃のみ。一切の逡巡すら、尚英の内にはない。
鋼の両脚が炎を蹴散らす。両の腕に構えた浮萍拐を、重ねて頭部の盾とする。その体を一本の矢に変えて、ただ、真っ直ぐに駆け抜ける。
圧倒的な火力を前にしながら、あまりに愚直な特攻。たとえサイバー拳士であろうが、いやたとえ彼が強襲型の多脚戦車であろうとも、無謀以外の例えはない。
―――ババババババババババババババババ
応えて、濤羅が銃口をむける。
拐が消滅するのに刹那と時間はかからなかった。
一歩と進まず両の腕が瓦礫に帰した。
クロームで固めた鋼の身体も、みるみる蜂の巣に成り果てる。
されど、元尚英の神速は僅かとも鈍る事はない。ひたすらに、真っ直ぐに、孔濤羅へと迫る。
まさに不死身と思われたその疾走。しかし、濤羅の目前にまで迫ったその時。とうとう、駆ける脚すら砕け散り、元氏双侠が片割れは地に伏した。
その刹那だった。
倒れゆく白銀の影より、一筋の真紅が飛び立った。
両手に握るは一対の護手鉤。その顔も、体格も、身体に埋めた鋼すら、元尚英と見分けがつかない。
元氏双侠がもう片割れ、元家英。
遺された双子の兄は、あまつさえ弟の骸を踏み台にして、真紅の猛禽さながらに濤羅へと斬りつける。
血肉を分けた双つ子を盾として、必死必殺の一撃を放つ。
一人が、その命を捨て。
一人が、その命を奪う。
まさに、修羅の所業だった。
元氏双侠ならばこそ為しうる、捨身必殺の法。足下で空しく散る銃弾を尻目に飛翔した家英の一撃は、過たず濤羅の首を捕らえていた。
―――その一部始終を、地に投げ捨てられた瑞麗の首が、見ていた。
首にかかった鉤を振り切るよりも早く、脇に抱えられた人形の片足が家英に向く。そしてまさか、それが根元から火を吹いて発射するとは。
バシュゥゥゥゥゥゥッ!!
優美な脚が、人形の脚だけが爆煙を吐きながら、真っ直ぐ元家英へと飛翔する。そしてそれも一瞬の事だった。
柔らかい爪先が家英の鋼鉄の腕に触れた瞬間、それは閃光に変じた。
―――轟
すべてが爆風に変わって、それが晴れた時には家英の右半身は蒸発していた。装甲されたクロームの塊を消滅せしめた火力は、歩兵携帯型の対戦車ロケットといった所か。
地獄のように立ちのぼる硝煙の向こうで、濤羅の銃口が家英に向く。カラカラと音を立てて、人形の首から伸びたガトリングが回っていた。銃口が火を吹くまでに一瞬が、まるで永劫のようだった。
そして、滝のごとき銃弾は……家英に撃たれる事はなかった。
横合いから、爆発と硝煙をつっきって濤羅に突進するものがあった。
元尚英だった。
いや、それをもはや尚英と呼べるであろうか。白銀の胴衣は全て引き千切られていた。鍛え上げた両腕は肩口からもげ落ちて、バチバチと接合神経系がスパークしていた。神速の両脚はもはや瓦礫だ。もとより、生身の部分はほとんど遺っていなかった。
鮮血と肉片がこびりついたスクラップ。しかし、それに元尚英の魂はいまだ宿っていた。そして、彼が駆けたその勢いも。
執念か、義侠心か、それともクロームに載ったバグが見せる奇跡か。命令系を失ってなお、サイバーパーツは亡き主の命に従い、直進していた。
そして、激突。
それは技ではなかった。
靠ですらない、唯の体当たり。衝突の瞬間も、元尚英の肉体であった鋼鉄の塊は前進しようと脚をばたつかせていたほどだ。
しかし、避けるには速すぎた。孔濤羅をもってしてなお、人形の身体を盾として直撃を受けることしかできなかった。
ものの一撃で濤羅の身体は壁に叩き付けられた。元尚英であった肉体は、役目を終えたとばかりにその動きを停めた。そして、もう一人の元氏双侠は……。
「詰みだ。孔濤羅」
生き残った半身でもって、護手鉤を濤羅につきつけていた。
「……貴様に、何があったかは知らぬ。貴様の妹の……瑞麗殿の死に不審は多い。彼女を護れなかった我らの不甲斐なさを責めると言うなら責めるがいい。
だがな、貴様の今の姿は何だ? 外道羅刹にも劣るその姿は何だ?
死してなお、尚英は貴様を止めた。これが義だ。正道を駆ける者の力だ。これは、元氏双侠の勝利ではない。紫電掌の敗北でもない。ただただ、元尚英の義侠の……」
―――く、く、く……
静かな笑いが家英の言葉を斬った。暗い、深い、地の底から響いてくるような笑いだった。
「―――変わらぬなぁ。元家英」
僅かに懐かしげな声。その時にはもう、濤羅の手が家英に向いていた。
―――紫電掌!?
家英は退かなかった。元より生きるつもりはもはやなかった。ただ、為すべきことは濤羅の手が届くよりも速く、首に突きつけた鉤を振り抜くだけだった。
鉤の刃が、濤羅の掌よりも速く首の肉に食いつく。最早、濤羅の命は絶した。そう思われた瞬間、鋼の感触が、家英の手を阻んだ。
「……!? 莫迦なっ、サイバ……」
バババ、ババババババババ……。
そして、家英に向けられた掌が火を噴いた。
かつて、妙手を操ったその手は、今は鋼になっていた。そして、手の中に宿る功夫は、秒間六百発の銃撃に変えられていた。
家英の顔面がスクラップに返るのに一秒と時間はいらなかった。
「だからお前らはいつでも詰めが甘いんだ。御託を並べる前に殺せる時にキッチリ殺せ」
そう言って、濤羅はゆらりと立ち上がった。
目にはかつての友を殺した翳りは僅かもなかった。ただ熱気と狂気が渦を巻いて瞳孔に集結していた。
「変われば変わるものだな。濤羅」
「―――マカオで俺を拾ってくれた人間が親切でな。おかげで俺はこんなに素敵な身体だ」
炎の中に、劉豪軍が立っていた。
手には、血塗りの細剣。それ以外、寸鉄すら帯びていない。だが、陽炎に揺れるその姿は戦神の如き迫力を備えていた。
「お前の瑞麗は、それか?」
倒れ伏す、人形を指して劉豪軍は問う。
「いいや」
ぎしり、と軋む音を響かせて濤羅は首を振る。
「瑞麗は死んだ。お前が殺した。二度と生き返る事はない」
「―――なんだと?」
ぞくり。
灼熱地獄と化した邸内に、凍えるような冷気が満ちる。悪鬼外道が跋扈する裏社会において、恐怖とともに呼ばれる二つ名、『鬼眼麗人』。まさにそれに相応しい、深く、冷たい気配が満ちる。
「―――貴様は、瑞麗が……」
「鬼眼麗人。義兄として一つ言いたいことがあった」
その冷たい怒気すら、濤羅は笑って流す。
「男が、つまらぬ事をぐだぐだと抜かすな。――――女にもてんぞ?」
それは言葉の駆け引きであった。
もちろん、鬼眼麗人と呼ばれる者。そんな事は百も解っていた。
解った上で激昂した。
それは、劉豪軍の逆鱗だった。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
双つの剣が交錯する。
一つは鋼の細剣。
神技超常を秘めたるその剣は、音の壁すら越え、六つの流星となって中空を翔る。
一つは純白のセラミック刀。
鋼の右腕から伸び出たその刃は、魂持たぬまま、同じく六つの軌跡を描いて流星を迎え撃った。
――――ィィィィィィ ッッッ
音にならない衝撃。
交錯したその瞬間、砕け散ったのはセラミックの刃だった。同じく絶技をトレースしてなお、金剛石に勝る硬度を有してなお、唯の鋼の塊に、白い刃は六つに分断されて砕け散った。
同じく、双つの掌が動いた。
紫電と銃弾。
同じく必殺の威力を備えた左手が、お互いの脳味噌目がけて打ち出される。
速さも、早さも、鋼の掌が勝っていた。だが――。
ばぢっ
先に閃いたのは紫電の方だった。
遅きをもって速きに勝り。軽きをもって重きに勝る。まさに、神威鬼手たる内功の絶技だった。
駆け抜ける内気の雷が濤羅の身体を貫く。ギリギリと、音を立てて人口筋肉がひしゃげる。目と言わず、口と言わず、吹き出したケミカルリンゲル液が臭い匂いを発して沸騰する。
瀕死の虫けらのように痙攣して、紫電掌と呼ばれたその肉体は二度と動かなくなった。
「――――」
この世に顕現した修羅地獄。その中に、唯一人劉豪軍だけが遺された。
憂いるように俯いたその貌は、笑っているようにも、泣いているようでもあった。
「―――瑞麗」
立ち上がり、地に堕ちた瑞麗の首を抱き上げる。
愛おしげに。
狂おしげに。
「濤羅。お前は何を見ていたのだ?
お前は何を想っていたのだ?
瑞麗を、お前の愛する妹を。お前を愛する妹を……お前は、これしきも解ってはいなかった。
なあ、濤羅。見てみろよ。瑞麗が、汚れてしまった」
子供のような声でそう言って。愛しい人の生首に、鬼眼麗人。劉豪軍は口付けた。
―――それが、瑞麗の形をした生首が爆発するスイッチだった。
炸薬の中には大量の金属片が混じっていた。
生体部品で作られたサイバネティックスには、それを防御する装甲は無かった。
そして、誰もいなくなった。
「気分はどうかね? 孔濤羅くん」
修羅の一夜が過ぎ去って、瓦礫と化した邸宅に首無しの人形だけが残っていた。
「気分―――。さてな。この体になって以来、感触が無い」
「そうか。そうだったな。それで、復讐は為ったようだが。これからどうするのかね?」
「そうだな。今、ロシアの連中はどうしている?」
むくり、と首無しの人形が起き上がる。
女の形をした人形。しかも首の代わりにガトリングは生えている人形が、男の言葉を喋るのは、何というかやはり、奇妙な光景だった。
「ロシアか。ふむ、この機に乗じてサイバネティックス市場を掌握しつつある。と言ったところか」
「ふん、仁義というものを知らん連中だ」
がつり、がつりと、不器用に人形がが歩きだす。片足がどこぞに吹っ飛んでいては、それも仕方ないかもしれないが。
「往くのかね?」
「無論」
応えは短い。微塵たる迷いもそこには無かった。
「となると、その次はイタリアか、アメリカか。日本のヤクザかもしれん。忙しくなるな、これは」
「付き合ってもらうぞ。最後まで」
「よかろう。そちらの方が面白い」
――――”紫電掌”と呼ばれた男がいた。
いつか、どこかで狂ってしまったこの世界。
古き善き世の最後の正統と云われた男がいた。
その剣は神妙絶技。
その拳は無二無双。
最後の侠客と呼ばれていた。
いつか、どこかで狂ってしまったこの世界。
その拳も、剣も、砕けて消え去り。
唯、仁と義だけが遺された。
剣の代わりに銃を抱き。
拳の代わりに鋼を埋め込み。
孔濤羅で有ったものは、唯、仁義だけを遺した。
人。其れを指してこう呼んだ。
――仁道、義道を極めし兵器。
彼の物、極道兵器なり。と
===劇終===