あなたがそばにいる

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 その日の目覚めは、いつもと違っていた。

 頭に芯が通っていない。そんな感覚だった。
 枕から頭を離す、たったそれだけの動作さえ重く感じる。身体にまとわりつく
浮揚感と倦怠感は、それ以上の行動を億劫にさせるには十分だった。
 額に手をあてると、いつもより高い熱を帯びた手応えが返ってきた。上体を
こうして起こしているだけでも、体温が上昇している気がする。
 これは…やっぱり風邪だろうか?

 昨夜、新刊の文庫本に予想以上に没頭し、床についたのが1時過ぎになって
しまった。
 その間、暖房用の電気ストーブは点けっ放しの状態だった。スチーム機能のない、
古いタイプだったために部屋が乾燥してしまったのだろう。
 加えて、今日の朝は冷え込んでいる。このぶんだと明け方はもっと寒かったに
違いない。
 体調を崩す条件は十分に整っている。どうやら油断が過ぎたみたいだ。

 不調を圧して登校の準備をするか、それとも休んでしまおうか。微熱をともなった
頭で考えていると、穏やかな足音に続いてノックの音がした。
 ドアを開けるまでの所作で、僕にはその向こうの人影が判別できる。この動きは…
雪さんだろう。
 これが花梨だと違ってくる。勝手知ったる幼馴染の家。足音も高く部屋に直行、
ノックもそこそこに勢いよくドアをあけ、
「透矢〜、起きてる?学校行くよ、学校!」
と、朝から実に賑やかだ。
 少し考えて、僕はドアの向こうに「どうぞ」と呼びかけた。今の自分の状況を伝える
べき人がいるのは確かだ。

「おはようございます、透矢さん。朝です」
 案の定、ドアの後ろには雪さんの姿があった。
「ちょうどいまお目覚めのようですね…あら、顔色が…」
 いつもの見慣れた微笑みが気遣わしげな表情に変わる。
「あ…雪さん、おはよう。…うん、ちょっと今朝は体の調子がおかしいみたいなんだ」
 雪さんの前で今更嘘をついても仕方がない。下手に誤魔化そうとすれば、雪さんの
ことだ、すぐに見抜いてあれこれと世話を焼き、片時も離れないに違いない。
 なるべくなら雪さんの手はわずらわせたくはない。ここは隠さずに正直に話すのが
得策だろう。
「そう言えば…昨夜は遅くまで起きていらしたみたいですね。では、失礼して…」
 雪さんの顔が間に近づき、額と額が合わされた。整った目鼻。仄かな髪の香り。
そして、雪さんの息づかい。熱などなくても体温があがるように思えてしまう。
「だいぶ熱いですね。…今日はこのままお休みにしたほうがいいですよ?」
 熱いのはなにも体調の所為ばかりとも思えなかったが、無理をしてもなにもいい
ことはないのも事実なので、僕は雪さんの提案を素直に受け入れることにした。
「…うん。できるだけ今日はゆっくりして、少しでも回復させることにするよ」
「良かった…今の時期の風邪はこじらせると厄介ですから」
 心底ほっとしたような雪さんの顔がそこにあった。
「では、朝食の用意をさせていただきます。…もっとも、お身体がお身体ですので
軽めのものになりますけど」
 そう言って、雪さんは一旦部屋を離れた。

「ごちそうさまでした」
「はい、おそまつさまでした♪」
 いつもより量の少ない朝食をゆっくりと口に運び、僕は空の食器をトレイに置いた。
 その間も、雪さんの視線は僕のほうから離れなかった気がする。
「…どうしたの、雪さん?僕の顔に何かついてる?」
 思わず自分の口に手をやってみる。食べこぼしでもついているのかな?
「いえ、なにもついてはいませんよ。ただ…」
「…ただ?」

「こうして、ゆっくり透矢さんのお顔を見るのも久しぶりでしたもので」
「あ…」
 今までの自分の行動を思い返し、僕は雪さんに対して申し訳ない気分になった。
 自分と雪さんが顔を合わせて話をするのは、基本的に朝食時と帰宅後の短い時間
である。休日といえば、部活とかで家を空けることがほとんど。その間、雪さんは家で
待っている。
 雪さんにしてみれば、今日という日は僕の近くに居られる数少ないチャンスなのだろう。
風邪の看病という自由度の低い条件下ではあるけれど…

「雪さんは…」
「はい?」
 薬と水を載せたトレイを持って部屋に入ってきた雪さんに、僕は話しかけた。
「いつもそうやって、ひとりで家を管理してきたんだね」
「はい♪それが雪のつとめですから」
 弾んだ声が返ってきた。日常の仕事は少しも苦にならない、そんな印象の返事だった。
「でも、今日はそれに僕の看病が加わるから…」
「ふふっ、透矢さんはいつも優しいですね。大丈夫です。それくらいでへこたれるような
雪ではありません」
 雪さんは僕の言葉を遮り、笑顔とともにそう言った。
「透矢さんが雪を心配してくださるお気持ちは嬉しいのですが、雪はそれ以上に透矢さん
のお身体が心配です。家のことは雪に任せて、透矢さんはゆっくり休んでいてください。
花梨さんも透矢さんの回復を心待ちにされているはずです」
 …僕の身体は僕ひとりのものではない。雪さんの言葉を聞いていると、あらためて
それを実感させられる。
 朝、部屋の入口に佇んで僕のほうを見ていた花梨の顔が浮かぶ。今ごろは庄一や
和泉ちゃんにも僕のことが伝わっているだろう。彼らの心配の種を減らすためにも、
なるだけ早く体調をもとに戻さなければならない。
 雪さんが家事を片付けるために部屋を出るのを見届けた僕は、布団を肩の埋まる
位置までかぶり、少しでも眠っておくために目を閉じた。
 しかし…

 …眠れない。
 意識が眠りに移る手前で、身体の中から湧き上がるような熱がそれを妨げる。そんな
状態が正午近い現在まで繰り返されている。
 たまに瞼を開くと、天井やドア、果ては自分が寝ているベッドの足の側までも、異様に
遠くに見えてしまう。視覚がおかしくなっているのは、朝よりも病状が確実に進行している
証拠だろう。
 さらに高くなった体温が焦りを加速させる。大事を取って休んだのに却って風邪を悪化
させるなんて…
 こんな今の有様、到底雪さんには見せられそうにない。そう考えるそばから足音が
近づいてくる。
「透矢さん、もうすぐお昼です。お加減はいかがですか?」
 ノックの後に静かにドアが開けられ、モノトーンのメイド服に身を包んだ雪さんが
姿を現した。
「あ、雪さん。お昼ごはんは…」
 つとめて元気に話し掛けようとしたが、それがいけなかったらしい。喉から流れた声は
予想以上にかすれたものになっていた。
「…そのご様子ですと、あまりよろしくはないみたいですね」
 表情を曇らせて、雪さんが近づいてくる。その右手が枕の上の僕に額にあてがわれた。
「もうこんなに熱が…申し訳ございません。雪がついていながらこんなことになるなんて」
 雪さんの掌の感触が、いやにひんやりしたものになっている。それほどに高い熱が
出ているのだろう。
「雪さんは何も…」
 悪くはないんだ。僕はそう言おうとしたが、喉をついてとび出した咳のためにそれは
できなかった。
「無理にしゃべろうとなさる必要はありません。…でも、これでは食事も難しいですね」
 顔を俯かせ、雪さんは何かを考えていた。やがて、

「透矢さん、雪に少し時をいただけますか?」
 顔をあげ、雪さんが僕に問いかけた。
「う…うん。けど、どうしたの?何か思いついたって顔だけど」
 心なしか、雪さんの顔にかすかに笑みが浮かんでいるように見える。
「大丈夫です。すべて雪にお任せください」
 その時、僕に見せた微笑みは、いつもの雪さんのそれに戻っていた。

「透矢さん、入りますよ」
 この日、何度目かの雪さんの入室。両手で支えられたトレイには、朝と同じように薬と
水の入ったグラスが載せられている。
 いや、よく見ると薬の種類が朝と違っている。熱に冒された頭と目でもそれだけは
判別できた。
「…薬、朝と違うみたいだね」
「ええ。今度の薬はビタミン入りのものです。今の透矢さんにはこちらのほうが良いと
思って急遽お薬屋さんで買ってきました」
「そうだったんだ…わざわざありがとう」
「そんな…お礼なんて。他ならない透矢さんのためですから」
 雪さんが近づくのに合わせ、僕は上体を起こしかけた。
「あ…透矢さんはそのままお休みになっていてください。あとは雪が動きますから」
 起き上がるのを止めるかのように、雪さんの手が僕の肩に置かれる。今の身体では
押し通すのにも体力を消耗しそうに思えたので。僕は雪さんの言葉に従うことにした。
 雪さんが薬の箱を開け、ケースから錠剤を取り出す音が聞こえてくる。
「少し、お口を開いていただけますか?」
 言われたとおりにすると、そこに薬を摘んだ雪さんの細い指が近づいてきた。
 開かれた歯の間を指が通り、口腔に薬が入ってゆく。レモンの味がする薬だった。
「そのまま、じっとしていてくださいね。…絶対にですよ?雪からのお願いです」
 なぜか言葉の後半の口調は強いものだった。逆らうことが許されないように思えた。

 次は水だろう。口もとにグラスが運ばれてくるものと思い込み、ちらと雪さんのほうに
目を向けると、予想外の光景がそこに映った。
 雪さんが手にしたグラスを自分の口に持ってきている。雪さんが飲むのかと思ったが、
どうやらそうではないらしい。グラスの水を嚥下せずに口に含んでいる。
 そのままの状態で雪さんの顔が僕の枕もとに近づいてきた。そのとき、僕は、雪さんが
これから何をしようとしているのかを悟った。
 …口移しで僕に水を飲ませようとしている!
 驚いている間に、雪さんの左手が僕の後頭部にまわり、右手が頬を捉えた。あわてて
押し返そうにも、僕の右手はすでに雪さんの身体の下にある。どうやら抵抗は無意味な
ところまでやってきているらしい。
「ん…っ」
「…う!?」
 間近に雪さんの顔が迫り、僕の唇に甘く、柔らかい感触が覆い被さった。
唇同士が深く触れ合っている。戸惑いが消えないうちに、今度は温かく、湿った何かが
僕の唇をくぐった。
「ん…ふ……んんっ」
 冷たい液体が雪さんの舌を介して僕の口腔に流れ込んでくる。僕はそれを受け止め、
薬とともに喉に流し込んだ。
「……っ………ふ………んん………っふ……………はぁ」
 薬を飲み込んでからかなりの間があって、僕の唇はようやく雪さんから解放された。
 繋がっていた名残が、離されたふたつの唇の間で糸をひいている。それほどに長い間、
雪さんの舌は僕の口腔で踊っていたのだ。
「ゆ…雪さん…」
 陶然とした表情で人差し指と中指を唇にあてている雪さんに、僕は話しかけた。
 しかし、後の言葉が続かない。いつもの雪さんとはまったく違う面を見せられ、衝撃の
あまり言いたいこと、聞きたいことが言葉としてまとまらないでいる。
 ようやく僕の口から出たのは、
「あまり長くくっつけてると、うつっちゃうよ?」
 このひと言だけだった。

「透矢さんの風邪でしたら、雪は本望です」
 表情はそのままに、雪さんらしい答えを僕に返してきた。
 その瞳は、ずっと僕のほうを捉えている。いつの間にか、雪さんの右手が僕の右手を
上からそっと握っていた。
 繋がれている手から、なんとも言えない温もりが伝わってくる。気持ちがいい。
 …遠い昔、誰かから同じような温もりをもらっていたような気がする。

 高熱に締めつけられていた意識が雪さんのもたらす温もりによって解き放たれた
せいか、瞼が急に重くなったように感じる。
「なんだか、今ごろになって眠くなってきちゃったよ」
「存分にお休みください。それまで、雪はここでこうして透矢さんを見守っていますから」
 とても懐かしい感じのする雪さんの笑顔が、僕を迎えた。
 満ち足りた気分のなかで僕は目を閉じ…そのまま意識が溶けていった。

 深く、大きな温もりが、僕の身体を包んでいる。
 長い間、味わったことのないような安らぎのなかに僕はいた。
 この感触には、覚えがある。
 物心がついているかいないかのころ、感覚だけでこれを受け取っていた…
 持ち上げた右手が、誰かの掌に包まれる。柔らかくて、とても温かい。
 ………

 ようやく僕は、この温もりの持ち主を思い出した。
 ああ、あの人だ。僕は永く呼ぶことのなかったその名を呼ぶ…

「………!!」

 意識が反転する感覚が僕を捉えた。
 二度、三度と目を瞬かせ、自分が自室のベッドに体を横たえていることを認識する。
 さっきまで僕が見ていた光景が、夢の中のものであったことを自覚した。
 しかし、右手を包む温もりは目覚める前と変わらない。
 右手が眠りにつく前とまったく同じ状態なのだろう。
 そして、肘の辺りにも人肌の温もりを感じる。
 そこに目を向けると、雪さんの寝顔が最初に視野に入ってきた。僕を見守っている
と言ったときの、そのままの姿勢で眠っている。
 もちろん、服の上には何も羽織っていない。雪さんの用意した、薬缶つきのストーブ
だけでは、はっきり言って心もとない。それに、ディープキスという形で僕と接触している。
 何か上にかけられるものがないか、首だけを巡らせて探していると、僕の足のそばに
毛布が1枚たたんで置いてあった。
 これも雪さんが用意してくれたものだろうか?熱も退き、だいぶ軽くなった頭をすこし
起こして、左手だけでそっと毛布を雪さんの身体にかぶせた。
 雪さんが目を覚ます気配は感じられない。それを確かめた僕は、右手を繋いだまま
再び枕に頭を静めた。
 窓の外は、夕方特有の朱に染まっていた。

「ん…ううん」
 雪さんの頭が持ち上がり、瞼が二度、三度と上下した。
「あ…透矢さん。…雪は、ひょっとして…?」
「おめざめですか、雪さん?」
 僕の言葉に、雪さんはうろたえる様子を見せた。
「も…申し訳ございません。まさか、このまま眠ってしまうなんて…」
「謝らなくたっていいよ、雪さん。まだ眠っていても良かったのに…かわいい寝顔
だったよ、うん」
「…も、もう。雪をからかわないでください…あ」
 どうやら、毛布の存在に気付いたらしい。
「こ…この毛布は、透矢さんが?」

「うん。雪さん、寝ていたときに何も羽織っていなかったから…」
「ということは、この毛布は透矢さんの真心なのですね」
「そ、そんな大げさな…」
 いとおしげに毛布を手にする雪さん。もちろん、その間も右手は離れてはいない。
「あの…」
「なんだい、雪さん?」
「もう少し…もう少しだけ、こうして透矢さんの手に雪の手を重ねていてもよろしい
ですか?」
 僕の手に置かれた雪さんの手の力が、こころもち強くなった気がする。
「…構わないよ。いや、訂正。思っていることは僕も同じだよ。雪さんがそれを望む
なら、ずっとこうしていたっていい」
「そんな、そういうわけにはいきません。…でも、透矢さんのそのお気持ち、とても
嬉しいです。雪は…雪は今すごく幸せな気分です」
 その思いは僕も同じだった。同一の時間と温もりを共有するふたり。それはある意味、
男女の交わりにおける理想の姿に思える。

 この繋がれた手の温もりを忘れないでいられたなら、例え僕が僕でいられなくなる
時が訪れても、そして、二人が同じ世界にいられなくなっても、すべてを乗り越えて
また出会うことができるだろう。

あなたがそばにいる…

                                           (了)

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