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作品名 作者名 カップリング 作品発表日 作品保管日
こうのとり伝説は思い出に変わるか 726(29スレ目)氏 ジェイド×アニス 2009/02/07 2009/02/11

劇的なきっかけがあった訳ではなく、ゆっくりと少しずつ、なるべくしてなったとでも言おうか。
なるべくしてなる、それすなわち運命(と書いてさだめと読む)ではなかろうか、目の前の男を見ながら少女はそう思う。
運命なんて言葉は似合わない上に寒々しいので、彼女はなんとかして事の発端を探そうと記憶を辿り、一つの出来事を思い出した。
そう言えばあった、きっかけとも呼べないきっかけが。劇的でもなんでもなかったが。

針に通した黄色い糸で、ぬいぐるみの足のほつれを縫い直す。
町から町へと移動する途中、裸の地面に雑草がまばらに生える開けた場所で昼食をとり終えたのが数分前。
思い思いに一息つく面々から少し離れて、アニスは適当な切株に座り、大事な相棒を抱えていた。
裂かれた布から白い綿がはみ出している。
道すがら、襲ってきた魔物の爪に引っかかれてしまったのだ。
もちろんそれくらいでアニスもトクナガもやられやしないし、仲間とのコンビネーションで100倍返しにしてやった。
「でーきた。もう大丈夫だよ、トクナガ。痛かったねー」
丁寧に丁寧に塞がれた傷跡は、ちょっと見ただけでは縫い目に気づかない程見事だった。
アニスがトクナガの脇に手を差し込み、高い高いして仕上がりに満足していると、横から声がかかった。
「おや、トクナガには痛覚があったんですか。それは知りませんでした」
トクナガを抱きしめてそちらに顔を向けると、微笑を浮かべたジェイドが立っていた。
「そーですよ、ずうっと黙ってたトップシークレットだったんですけどね」
彼の戯言に乗っかってアニスも返すが、もちろんトクナガは痛みなんて感じない。
どうでも良いことをわざわざ取り上げて、言葉の応酬をするのはこの男と少女のいつものじゃれあいだ。
「なら、そうやって首を絞めんばかりに抱きしめるのもやめてはいかがですか? トクナガが苦しんでいますよ」
「やだなぁ大佐ったら、トクナガはアニスちゃんのあっつーい抱擁には慣れっこ……あ、ねーねー、大佐」
「はい?」
せりふを途中で切って、アニスは大佐の軍服を指差した。
「それ、外れそうになっちゃってますよ」
上から二番目、アニスから見て左側のボタンが軍服から今にも落ちそうなくらいぐらぐらしている。
「ああ、本当ですね、いつの間に」
「よーし、お針子アニスの出番ですね」
「お願いします」
「はーい。あ、そのままでいいですよ」

トクナガを背負い、糸の端をたま結びにしたアニスは、軍服を脱ごうとしていたジェイドを制し、彼の軍服の合わせに手を突っ込んだ。
珍しくぎょっとする彼に、してやったりとほくそ笑む。
「じっとしてて下さーい」
すいすいと針を動かし、補強する。
素早く正確に動く小さな手は仕上げにボタンを摘まみ、しっかりと縫いつけられたのを確認した。
「いやー、いつ誤って刺されてしまうかと冷や汗ものでしたが、なかなかお上手ですね」
「いえいえー。いっそちくっと刺して差し上げればよかったですぅ」
降ってくる声に顔を上げて笑ってみせ、またすぐに正面を向く。
すっ、とアニスが彼の胸に顔を寄せる。倒れ込んでくるのかと、ジェイドは咄嗟に両手を彼女の二の腕あたりに持っていった。が、杞憂に終わる。
糸が外から見えないように、ほとんどボタンに口づけるようにしてアニスは口に含んで糸を切る。
「はい、おしまい」
体を起こし、ボタンをつつく。トクナガに続いていい出来だ。
アニスが見上げると、きょとんと見下ろす彼と目が合った。
またまた珍しい表情だが、この反応はなんだろう、とアニスは不思議に思った。
隙だらけな顔をしている大佐はめったに見られるものではないので、見つめてみる。
が、まじまじと見つめ返されてしまい、なんだか気まずくなったアニスは目線を外した。彼女に触れる一歩手間の位置にある手が目に入る。
「大佐ぁー? なんですか、この不埒な手は」
じと目で見上げると、ジェイドはそこでようやく手をおろした。
「いえ」
ずれてもいない眼鏡を押し上げ、彼はにっこりと笑う。
「ありがとうございます。あなたはいいお嫁さんになれますね」
彼にしては随分とストレートな誉め言葉に、アニスは空を仰ぐ。雨雲も雪雲もなし。眼鏡か槍でも降ってくるのか。
「お世辞はいいからお駄賃下さいよぅ」
アニスは頬を膨らませた。

あれがきっかけになって、なあんとなく、そういったレールに乗せられてしまったのかもしれない。
そして、レールに乗ってしまえば、脱線でもしない限り、スピードの速かれ遅かれはあれど終点まで運ばれるのだ。

こほん。小さな咳払いによってアニスは追憶から引き戻された。
今日の宿はなかなか格安で、久しぶりにパーティーの人数分の部屋が取れた。
そのジェイドの部屋に夕食後に呼び出されて、アニスはのこのこと出向いたのだった。
前々から、そろそろジェイドがもう一歩踏み入んできそうだと察していたアニスに、扉をノックするのに心の準備は必要なかった。
「いい年した男がこんなことを、それもあなたのような子どもに言うのも恥ずかしいのですけれど」
彼の言った子どもに突っ込んでやりたかったが、アニスは空気が読んで黙っていた。
少女趣味はないって言ってませんでしたっけ、とも、いくらいつものふざけた調子でも言えなかった。
彼に少女趣味がないのと同じように、アニスとて、おじさま趣味ではないのだ。金の亡者ではあるが。
そこには、アニスだから、大佐だから、といった理由がでんと構えているのだ。
二人は揃って床に座わり向き合っている。なにぶんお安い宿なので、ソファーなんて気のきいたものはない。
唯一腰を掛けるのにベッドがあるが、それもなあ、今の状況じゃちょっとなあ、と口にこそ出さなかったがお互いに遠慮した。
で、薄っぺらい絨毯の敷かれた床である。
賢い男は実に自然に見せかけてアニスをここまで誘導し、こちらもお利口な彼女はわかっていながら誘導された。
その男が、だ。
さっきから何回もこういった前置きだか言い訳だかをしているだけで、ここから先をなかなか言わないのだ。というより言えないのか。
これは終点でなく、ただの通過点であるはずだ。もっとさらりと言ってくれないと。
更に、ようやく口を開いたかと思えば、
「私は、たぶん、あなたが」
「多分ってなんですか多分って」
子どもは聞き流してやれたが、これはそうもいかない。
「いえ、そうじゃなくてですね、たぶんではなくて、えー……」
似合わないことに畏まっているのか、正座をした彼は背筋を伸ばした。
「すー……」
「すー?」
釣られて正座していた彼女はいよいよかと同じく背筋を伸ばす。が。
「………」
「もーう! なーに戸惑ってんですかこのお!」

つーかキモいわ! 正座してるのも言い淀んでんのも。普段は立て板に水のくせに、ぐじぐじ悩んでんじゃヌェーよおっさん!
叫びたいのをぐっと堪える。ことアニスに関しての彼は、表面には出さずとも挫けやすい上に引きずるので面倒なのだ。
「いやー、睦言や殺し文句ならいくらでも言えるんですけどね。純粋に口説くのはあなたが初めてなもので」
「ぎゃー、最低!」
今までずっと、体ばかりで真剣なお付き合いをしたことがないと暴露しているようなものだ。
正座したまま、じりじりとアニスが後退すると、ジェイドは一々傷ついた顔をした。ああ面倒臭い。
「あーもう、いいですよ、怒りませんから。名誉ある口説かれさん一号になれて光栄です」
ここに来て脱線しかけているのに気づき、軌道を修正する。
最低は最低だが、アニスは今までの一人に組み込まれないと証明されたし、初めてと言われて嬉しかったりもする。こちらも初めてだから。
「二号なんてありませんよ」
二人はやっと笑顔になった。さて、今ほど口説くのにぴったりなタイミングもない。のだが。
「……」
「……」
「ちょ、まさかこのままうやむやにする気ですか。せっかく雰囲気も上手いことできてたのに」
「やっぱダメですか」
「ビンゴかよ!」
「なかなか恥ずかしくて」
「むー、アニスちゃんもお手伝いしてあげますからあ、いい加減ちゃっちゃと言って下さい。このままじゃ朝になっちゃう」
「助かります」
「しょうがないなあ。じゃあいきますよー、アニスちゃんは大佐が」
「私はアニスを」
「「せーの」」

「愛しています」「だぁいすきです」

「……」

「あれっなんか好きからパワーアップしてるんですけど……
って、いやっ、そんなわかりやすく落ち込まないで下さい! 今どき体育座りって、のの字って!」
どよんと暗い影を背負って、爪先を壁につけて座る彼に慌てて駆け寄る。
ジェイドの爪先を跨いで壁を背にして、アニスは狭い隙間に座った。体を壁から起こして、彼の膝頭に手をおく。
加えて、膝頭から足首までに体を寄りかからせ、だめ押しに目をうるうるさせて顔を近づけた。
「大好き、じゃ不満ですか?」
「はい」
「きっぱり!」
「私はピオニー陛下が大好きです」
「うわぁ」
「ネフリーも大好きです」
「ふへぇ」
「バルフォアの両親やカーティスの両親も大好きです」
「はあ」
「ネビリム先生も」
「はあい」
「サ、いやあれは違うな。ルークにガイ、ナタリアにティアやミュウ、みなさんが大好きです」
「はい」
「当然イオン様も」
「イオン様は私のです! あっ違っ、私はイオン様のです!」
「………」
「はうあっ、大佐、頭からきのこがっ!」
「腐りますよ」
「手遅れです」
「とにかく、大好きな人は私にもたくさんいます。ですが」
額がくっつきそうになるまで近寄られ、もう目線を外すことは許されなくなった。
この先が読めたアニスはこっそり悔しがる。さっきは好きが言えなかったくせに。
「愛しているのはあなただけだ」
読みを見事当てたアニスは深々とため息をつく。ここまで言われては仕方ない。
「えっと、私も、パパとママが大好きです。イオン様も大好き。ティアもナタリアもルークもミュウもガイも。
教会の友達や陛下、トクナガ。あ、もちろんガルド。おまけにディスト」
「ちょっと行ってきます」
「どこへですかそんな物騒な槍持って」
「ゴキブリ駆除に」
「もう、これから大事なこと言うのにい。聞き逃したって二度と言いませんから」
アニスが頬を膨らませると、彼は大人しく座り直した。意外と扱いやすいなこいつ。
なんでもない風にジェイドを見上げて、アニスは伝えた。
「愛してますよー、大佐ぁ」

こういった儀式(愛の告白なんてアニスは言わない、断じて!)(でもジェイドは言う)を経て、次の日から二人はレールの上を爆進することになる。
儀式を終えた二人は幸せそうにべたべたしていたが、風呂がまだだったのでアニスはじきに部屋に帰った。
入浴を済ませたらまた来てくれるかもしれないとジェイドは期待していたが、
アニスはそのまま眠りこけ、再び顔を合わたのは朝食の席で、そこにはみんながいた。
腹ごしらえも終わり、また世界をひっくり返すような旅の一日が始まった。
最後尾を歩くアニスの横には当然のように彼がいる。
特にそれを気にするでもなく歩いていると、するりと手に手が滑りこんできた。
ぎゃっ! と短い悲鳴を上げて青いグローブに包まれた手を振りほどく。
「つれませんねぇ」
それにアニスが言い返すよりも早く、前を歩くナタリアが何事かと振り返った。
「アニス? どうしまして?」
「あっ、ううん、なんでもない。えっと、ちょっと、なんか」
「ちょっとこけそうになったんですよね」
平然と嘘をついてジェイドが差し出した助け船に、てめえの仕業だろうがという文句を飲み込み、アニスは乗っかった。
「そうそう。アニスちゃんとしたことがうっかりしちゃってて」
自ら頭を小突くアニスに、ナタリアは優雅に首を傾げた。
朝の太陽に照らされ、ナタリアの金髪が一層輝くように縁取られる。眩しさにアニスは目を細めた。
「そうですの? お気をつけて。この道は舗装されていませんから、転んでしまっては大変。傷になってしまいますわ」
ナタリアの気遣いが、アニスに罪悪感となって突き刺さる。
「うん、ありがと、ナタリア」
ナタリアは視線をスライドさせ、ジェイドを見上げた。
「ジェイド、しっかりアニスを見ていて下さいませね」
何故そうなる。
「そうですね、怪我をしては大変ですから、しっかりと見張っておきます。そうだ、念のために手でも繋ぎますか」
何故そうなる。
ジェイドはたった今思いついたかのように、いけしゃあしゃあと言ってのけた。
「そうして頂きましょう、アニス。それが一番安心ですわ」
頷くナタリアにアニスは頷き返せず、次いで差し出された手には呻き声をあげた。
過程は彼が考えていたものと違ったが、最終的にはアニスの手を握ることに成功したジェイドは至極ご満悦だった。

「賢いですね、さすがはアニス。こうした方がみなさんに隠してこそこそせずに、堂々とできると計算したのでしょう。
それなのにつれないなんて言ってしまってすみません」
近年まれに見るポジティブシンキング。どこかの大佐じゃあるまいし、そんなしょうもない計算をアニスはしない。
これだけでも勘違いもいいところなのに、堂々と、ときた。
二人は未だ最後尾にいるので、こうしているのを知っているのはナタリアだけだ。
これ以上堂々とはできない。他のみんな、それもイオン様に知られたら、とアニスはひやりとした。
あ、いや、でも、と前を歩く主の背中をアニスは見つめる。
妬いて欲しい訳ではないが、きっとイオン様は今の二人を見ても穏やかに笑うだけだろう。
相変わらず仲がいいですね。幻聴レベルにまで安易に想像できる。
「アニース」
名前を呼ばれ、渋々と見上げると、朗らかな笑顔をした彼に手を握り直された。
唇を尖らせ、アニスは自由な方の手でジェイドの指を外しにかかる。
「離して下さいーっ」
「何故ですか? 私達、もうそういう仲でしょう?」
ジェイドはますます力強く、ただ包んでいただけの手を、アニスの指と彼の指とを一本ずつ絡める繋ぎ方に変えた。
俗に恋人繋ぎと呼ばれるが、彼のはそう呼ぶには甘さのかけらもない。まず気合いと力が入り過ぎだ。
両者が同時に力を抜かなければ解けない、つまりどちらかが離そうとしても、
もう片方がそれ許さなければ逃れられない繋ぎ方。いわばこれは、指ギロチン。

「うわ、きもちわる……じゃなくて、確かにそうですけど……って、そうじゃなくって!」
爪を立てて甲をつねってやる。するとようやく彼は彼女の手を離した。
鋭い目付きでアニスはジェイドを睨みつける。そもそも二人の考え方が真逆なのだ。
もう以前の、親子のようで、気の置けない悪友といった気楽な仲ではなくなったのだから、人前でじゃれあうのは控えたい。
だってみっともないし、恥ずかしいではないか。というのがアニスで、
やあっとそういった仲になれたのだからもっといちゃいちゃするべき!するべき!がジェイドだ。
「夜あんなにべたべたしたのに、みんながいるのに、お昼なのに、今することないじゃないですかっ」
ここに来てようやくジェイドは、アニスの主張が彼のものとは違うことに気づいた。
「ああ、アニスは照れ屋さんなんですね」
「そゆこと。大佐とは違って奥ゆかしいんです、恥じらいがあるんです」
やっと通じたか、とアニスがほっとしたのはつかの間、何故だか彼はにたりと笑った。
「ははあ、つまり」
日光が反射して、押し上げた眼鏡が白く光る。
「二人きり、夜なら構わないと」
「ぐあっ」
アニスは大きく飛び退いた。いや、確かに彼の言う条件下なら、手を繋ごうが構わない。
彼女とて、引っつきたくないわけではないのだ。好きなのだから。
間違ってはいないのだが、しかし彼のその言い方ではまるで……
「アニスはいやらしいですねぇ」
「くっ、くたばれぇー!」
トクナガを大きくするのも忘れて、アニスはジェイドの弁慶を目がけて右足を繰り出した。

操の危機をびしばし感じたアニスだったが、一ヶ月が過ぎても決定的なことは何もなかった。
ジェイドは誰も見ていないところでアニスの頬をつついたり、髪に指を絡ませたり、
膝に乗せたり、抱きしめてみたりするだけだ。
スキンシップ過剰とでも言おうか、それだけで留まっている。
彼はアニスとの触れ合いを貪欲なまでに欲しがっている割には、その先にあるはずの性的なことには素振りすら見せないのだ。
「あの……別に、おでこだけじゃなくても、その」
寝る前、アニスの額に口づけるのが新しい習慣になりつつあるジェイドに、
彼女は彼の唇が離れたばかりの額を押さえておずおずと言う。
もじもじするアニスを凝視して、一つ瞬きをする間だけ止まった彼は、くっ、とふき出した。
「なっ、なん、なんで笑うんですか! ひどい、信じらんない、子ども扱いしてばかにして、大佐なんかもう知らない!」
相手にされなかったことに恥ずかしくて悔しい思いをし、アニスは顔を真っ赤にして怒る。
勢いに任せて枕を投げつけるが、あっさりと止められてしまった。
「ああ、すみません。確かに子ども扱いは否定しませんが、決して馬鹿にはしていませんよ。許して下さい」
口では謝るが、態度では悪びれもせずにジェイドは嬉しそうに笑みを深くして、今度は頬にキスした。
「そういうのをばかにしてるって言うんですよこのおっさん!」
一体いつになったらまともなキスをするんだ、と続くはずだったアニスの言葉は、喉の奥に飲み込まれた。
「ほーう」
いつもは口づけた後、かき上げたアニスの前髪を丁寧に下ろす大きな手が、アニスの肩に添えられた。
そこを軽く押され、真っ赤な目に射抜かれたこともあって、体中の力が抜けたアニスはベッドに沈んだ。
やば、おっさんは地雷だったか。
顔面から笑みを消失させたジェイドは両手を、アニスの傍らに挟むようにしてつき、ぐっと体を倒してきた。
「あ、あの」
緊張に震える声も、赤くなったり青くなったりする顔も見られたくなくて、アニスは顔をシーツに埋めようとする。
が、ひんやりとした手が彼女の頬を包んでそれを妨げた。
恐る恐るその手の持ち主を見やると、いつになく真剣な表情をした彼と目線がぶつかる。
ますます体が強張り、狼狽えるアニスの頬に添えた手を、ジェイドは。
ふにっ。
「…………は?」
揉んだ。
「えっ、えっ」
ふにふに。
「え、ちょっと、なにこれ」
ふにふにふにふにふにふに。

「いやあの、たいさ」
みよ〜ん。
「ひゃにひゅるんれふかぁ」
彼はアニスの抗議を聞き流し、引っ張ったり戻したり、円を書くように撫でたりと好きなようにいじり続ける。
気がすむまでアニスの頬をこね回したジェイドは、顔面に笑顔を復活させて体を彼女の上から起こした。
「察して下さい。子ども扱いするなと言われましても、実際に世間から見たあなたはまだ幼い。私も捕まりたくありませんし」
ベッドに腰掛けて見下ろしてくるジェイドに、アニスは先ほどとは違った意味で力が抜ける。
「それって、私が大人になるまで手ぇ出さないってことですか」
「そういうことです」
肩透かしを食らってぐったりとベッドに身を沈めたままのアニスにジェイドは手を差し出す。
アニスがのろのろと手を伸ばしてそれに重ねると、彼はアニスを一気に引っ張り上げた。
「さて、今日はもうお休みになって頂いて結構ですよ。ティアとナタリアが心配します」
「はあ、なにそれ、さんざん好き勝手したくせに、なんか………あーもう。そうする、もう寝ます。お休みなさーい」
「お休みなさい。良い夢を」
今日もまた過剰なスキンシップだけで終わったことに安心とほんの少しの残念を抱えて、アニスはドアノブに手をかける。
部屋を出ていくその背中に声が投げられた。
「気長に待ちますから、そう急かさないで下さい。たとえあなたが一刻も早く私に濃厚に愛されたいと「きしょいわ!!」

それから更に一ヶ月、じれったいにも程がある触れ合いを続けていく中で、アニスはジェイドのある習慣に気づいた。
週に一回、彼は皆が寝静まってから一人起き出し、こっそりどこかに出掛けるのだ。
そして皆が起き出し、朝食の準備をしている時に、朝の散歩から帰ってきたかのように見せかけてパーティーに紛れてしまう。
他のメンバーは彼が夜に抜け出しているのはもちろん、散歩の頻度が週一であることにも気づいていないようだ。
誰よりも彼を見ているアニスだからこそ気づいたと言えよう。
帰ってきたジェイドからする甘い匂いは、より早くアニスに勘づかせるのを手伝った。
彼の軍服から、ティアの次に羨ましい彼の髪から、優しくて甘い香りがするのだ。
「はっはーん」
コーヒーを啜るジェイドを離れた席から見つつ、アニスは呟く。
隣でアニスの淹れた寝覚めのホットミルクを飲んでいたイオンが首を傾げた。
「アニス?」
「いえっ、ただの独り言です」
慌てて首を振り、朝食を再開したアニスは、トーストをかじりながら頭の中を整理した。
誰にも何も告げずに夜脱け出す男、その頻度は週に一回。帰ってくるのは朝、服と髪からする甘い香り。
これはもう、もうもうもう、ここまで揃えばあれしかないだろう。うん、女の人だ。
いくら世界のために走り回る旅をしていても、禁欲生活を強いられている訳ではない。
大人だし、男だしで、アニスには解らないあれやそれが、それは色々あるのだろう。
パーティーには他にも男性がいるが、
イオン様はそんなものからは一番離れた場所にいらっしゃって、ルークはまだお子様、ガイなんてそれ以前の問題だ。
アニスにぶつけられないものを他所でどうにかしている、きっとそうだ。
あの甘ったるい匂いは女の人の香水が移った、絶対そうだ。
ここまで考えて、アニスはにやにやが押さえきれなかった。
アニスちゃんったらもしかしてもしかすると大佐の弱味握っちゃった?
にやりと笑うアニスには、彼や見えない女性達への嫉妬や憎みといった類いの感情は微塵もない。
やきもちすら焼かないのは、それはいくらなんでもどうだろう、と彼女自身思わないことはない。
のだが、ジェイドの気長に待つ発言を聞いたアニスは自分を可哀想だとは思わなかった。
むしろ、随分と年の離れた彼女を好きになってしまったお陰で、彼やその女性達の方がお気の毒だとちらりと思ったくらいだ。

あちこちを移動している中での出来事なので、お相手は固定されておらず大方その場その場でとっかえひっかえしているのだろう。
その割には彼からする香りはいつも同じだったが、ある企みを思いついたアニスはその重要な点には全く気づかなかった。
今のアニスを占めるものはただ一つ。
これをネタにしてお金ふんだくってやろう。
この子たくましい、たくまし過ぎる。
知れば誰もがそう思わずにはいられない魂胆を胸に、アニスは好機が訪れるのを数日間待ち、
とうとうやって来た勝負時に、彼女はジェイドに向かっていった。
時刻は昼と夕方のど真ん中辺り、宿に早めにチェックインした一行は、各々好きなように出掛けている。
部屋に残っているのはアニスとジェイドだけ。
それまでベッドに腰掛けて本を読んでいた彼は、アニスが近寄ると栞も挟まずにそれを脇に置いた。
「たーいさぁ」
すかさず彼の胸にダイブして、彼の首に己の腕を絡める。
「どうしたんです、珍しい。今日は甘えたさんですね」
しっかりとアニスを抱き止める。
ジェイドに親密な触れ合いを求める時のアニスは、普段の明るさを引っ込めて、
ためらい勝ちに彼の軍服の裾を掴んだり、髪を軽く引っ張ったりして合図するのだ。
それが今に限って、普段と同じように振る舞うので、彼もこれは何かがあると思ったようだ。
「あのねあのね、アニスちゃん、おこづかい欲しいなあ」
腕をジェイドの首からほどき、軽く握った両手を口元に持って行って首を傾ける。お得意の猫かぶりポーズ。

「さあて、どうしましょうね。あなたが私を階級ではなく名で呼んで下されば考えます」
彼の意図するところがすぐには解らず、二回瞬きをして、ようやく理解したアニスは頬を赤く染めてベッドから飛び退いた。
その反応にジェイドは薄ら笑いを浮かべて小首を傾げ、アニスを見やる。
堪らずにくるりと背を向けるが、それすら彼にしては可愛くて仕方がない。あーかわいい、ほんとかわいい。
「わ、私知ってるんですから」
思いがけず出鼻を挫かれたが、照れをごまかすためにも仕切り直す。
「大佐が週一で夜な夜などっか行ってるの」
トクナガの下で手を組んで部屋の中をゆっくり歩く。
「みんなびっくりするだろうなぁ、大佐が隠れてこそこそ何してるか知ったら」
喋るごとにいつもの調子を取り戻し、意地悪な声をする。
「イオン様達にチクっちゃおっかなぁ」
そしてとどめの一言。
「大佐もまだまだお若いですねー」
踵に重心を移動させ、首だけで振り返る。
一瞬だけ考える表情をしたジェイドは、次に合点のいったように目を少し大きく開き、そして最後ににっこりと笑った。
「アニース、あなた、私がどこで何をしていると思っているんですか」
「え? そりゃあ……」
あれなお店であれなことでしょ、とアニスは言おうとして、動きが止まる。
この反応、ひょっとして間違った推理をしていたのだろうか。
ジェイドは再び首を傾げ、にこやかな笑顔でアニスに先を促した。
「……カジノ?」
思った通りを口にすればまずいことになると敏感に察したアニスは、それらしいところを挙げる。
が、ジェイドは首を縦にも横にも振らない。
「お酒?」
困ったアニスが苦し紛れに言うと、ジェイドは大袈裟にため息をついて首をすくめた。
「ばればれですよ。大方私がいかがわしい店に通いつめているとでも思ったんでしょう」
推理が違っていたことが確定し、アニスはびしりと固まった。
「本当、アニスはいやらしい子ですねー」
口角を上げて意地悪く笑う彼に、ぼんっ、とアニスは一気に顔を真っ赤にした。
「ちっ、違う、思ってない! カジノとかお酒とかって思ってました!」
彼女が声を張るのにも構わず、先ほどの十倍返しとばかりに彼はちくちくぐさぐさ続ける。

「皆さん驚くでしょうねぇ、アニスが私にどんな疑惑を持っているのか知ったら」
「是非ともイオン様に教えて差し上げないと」
「まあでも、アニスは思春期ですからねー、お年頃ですもんねー、すーぐそういう思考になっちゃうのも仕方ありませんよねー」
ジェイドが言葉を重ねるごとにアニスの顔がどんどん赤くなる。
仕舞いにはぷるぷると震える彼女に彼はたいへん気を良くした。
そしてとどめに一言。
「いやー、若い若い」
「いっ……」
限界点突破。
「いーやー!」
その場にうずくまり、アニスはじたばたする。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
「もうむり、はーかしい! やだ、せくはらー! うにゃあああああ!」
じっとしてなどいられずに、床をごろごろ転がる。
「うわあーん! もうほんっとーにっ……はれ?」
ベッドや壁にぶつかる前に、それよりかは柔らかいものにぶつかった。
顔を覆っていた手と指の間からそーっと見上げると、ジェイドが真上から見下ろしている。
アニスがばたばたしている隙に近くに移動していたらしく、彼女は彼の足にぶつかったのだ。
「それで?」
部屋の灯りが逆光になってアニスにはジェイドの表情が良く読めなかったが、声は僅かながら怒っている風に聞こえる。
「恋人が浮気をしているかもしれないというのに、あなたは嫉妬どころか脅迫ですか。
前々から知っていましたけれど、なかなかいい性格をしていますね」
「こいび……。た、大佐ほどじゃありませんよぅ。それに、結局私の勘違いだったみたいだし」
「傷つきました。つまりあなたは私が他の女性と仲良くしていてもどうでもいいということですね。
あまつさえそれをネタにお金を巻き上げようとするなんて。私よりもガルドの裏の肖像画の方がお好きだと」
「えっ、いや、そんなことは…………いや? いやか? えーと、うーんと」
「なっ、この期に及んで迷っているだと……いやでも即答でうんって言われなかっただけ進歩した? のか?」
双方疑問符をまき散らす。先に我に返ったのはジェイドで、床に転がったままのアニスをひょいと抱き上げた。
「ふわっ」
間の抜けた声を上げるが、それを彼が気にする訳がない。
トクナガを取り上げられ、ベッドに丁寧に仰向けに寝かされる。
慌てて起き上がろうとすると、両方の手首を捕まれた。

その手首をシーツに押さえつけるだけでなく、彼はベッドに膝をついてアニスに覆い被さってきた。
「ええええあああの、きなきょなきっきき気長に待つんじゃ!?」
「気が変わりました。そもそも私は気が短い方なんです、今思い出しました」
慌てふためくアニスをジェイドは満足げに見下ろす。
「かといって怒りに任せて嫌がるあなたを無理矢理に、というのは避けたいので、一応意思確認を。
いえ、それもまた一興ですが今することではありませんしね、次の機会にでも」
とんでもないことを口にして、彼はぎりぎりまでアニスに顔を近づけた。
「どうです、私と一戦交えませんか」
「う、え、あ、その……」
かつてない程近く、薄いガラス越しに赤い目がアニスを写す。
これひょっとして譜眼発動してるんじゃ。
だって、だって、つい頷いちゃいそうだもん。いや、ほんとは違うんだけど、つい、とかじゃないんだけどさ。
おろおろするアニスをじっと見つめたのち、ジェイドは微笑して体を起こした。
なんだかアニスがこんな風に狼狽えるのを予想していたように見える。少なくとも呆れているのではない。
これで質の悪い戯れで終わる、はずだった。
例の甘い香りが鼻をくすぐり、それを感じたアニスは解放された手で、反射的に離れていく彼の服の裾を握っていた。
ジェイドは伸ばされたアニスの手に、アニスは手を伸ばした己に驚き、固まる。
何が起きたか解らないように、彼は彼女の指先に釘付けになり、そして眉根をほんの少し寄せて笑った。
「アニース。ここでその行動は、私に都合のいい勘違いをさせてしまいますよ」
「………」
喉が乾いて声が出ない。心臓がばくばくしている。頬が手が胸が熱い。
まともに彼に視線を向けられず、ぎゅうっ、とより強く握り締める。
俯いたまま頷くことすらできないアニスの豊かな髪の間から、痛々しいほどに赤くなった耳が覗く。
ジェイドは口を顎ごと片手で覆った。
反対の手は後頭部の髪をかき混ぜるようにかく。軽く寄った眉は下がり、目線は部屋の一角に注がれている。
俯き勝ちにびくびくしながら、アニスはジェイドを見る。どうも彼は予想外の出来事に戸惑っているらしい。
いや、恐らくは戸惑いだけでない。
て、照れてる?
穴が空くほど見つめないと気づかないレベルで、頬が赤いようなぴんくのような全くそんなことはないような。

「アニィース……」
瞬きを何回も繰り返しながら彼を見つめていたアニスは、地を這うような声での呼びかけに肩を跳ね上げた。
お互い遠慮がちに目線を絡ませる。
子どものわがままをたしなめるような口振りのくせに、
困りきってアニスに主導権を委ねて己から動くのを避けているのだ。アニスを傷つけないために。
赤い果汁が滴り落ちてきそうな目を見つめ、アニスは唇を開く。
「……か、かん、勘違い、じゃ、ない、です、よ………」
喉の奥からどうにかこうにか絞り出した声は、こんな状況でなければ確実に彼に笑われるくらいに震えてか細かった。
ジェイドは乱暴に頭をかき、最後に髪を一撫でして、ベッドに手をついてアニスに顔を寄せる。
「いいんですね?」
そう確認する彼は、駄目だと言えばあっさりと止めるのだろう。
彼女はまぶたをきつく閉じることで決意を表した。
アニスはアニスの意思をもって、小さくではあるがはっきりと頷いたのだ。
ゆっくりと空気が動いたのが解る。リラックスさせるためだろう、最初に固く閉じたまぶたに唇を落とされた。
慣れてしまった心地よい感触にまぶたと指先に込める力を緩める。
続いて唇に降ってきたそれに、アニスは頭の裏にぴりぴりと走る痺れを感じた。
父と母がしてくれるような愛情たっぷりなキスに、もっと別の感情が加えられている。
長い間唇を合わせたままだったが、やがてジェイドに舌先で唇を撫でられた。
貝のように閉じていたそこを薄く開くと、随分と遠慮がちに舌が入ってくる。
割れやすい飴を口にしているように丁寧にアニスのものと絡め、くすぐるように上顎にも這わせる。
これでもアニスだって知識ばかりが先に立つだけの今時の女の子だから、キスというものに年相応に憧れを抱いていた。
ふわふわしていて柔らかくってあったかくって、マシュマロをいっぱい貰った時みたいに幸せな気持ちになれるもの。
ところが、実際は違った。
皮を剥いたザクロのように真っ赤でざらざらしていて、でもぬらりともしていて、
口の中と脳みそを優しくぐちゃぐちゃに支配されるものだった。
酸素が足りないというよりも、胸がいっぱいになって苦しくなり、裾を握っていた手をジェイドの胸に移動させた。
そのアニスの手に己の手を重ね、ジェイドは彼女の唇から名残惜しそうに離れる。
二人の間に唾液が糸を引いた。

それが唇の端からも垂れるのを感じ、アニスは赤ちゃんみたい、とぼうっとする頭の隅で思う。
ジェイドはグローブを外して親指でアニスの口元を拭い、次にアニスの手を包む白い布も取り去る。
彼の左手と彼女の右手で指を指と絡ませ、ジェイドは剥き出しのアニスの肩に触れた。
「嫌なら嫌だと言うこと。解りましたか?」
ぼんやりとしたまま頷くと、肩に置かれた指に少しだけ力が入った。
「本当に? では練習しましょう」
え、練習って何を、どうやって。
不安がるアニスをよそに、ジェイドは近くにあったハンカチをてきぱきと細長く折り、彼女の目の前に掲げた。
「嫌、は?」
アニスが嫌がることをして、それで彼女が嫌だと言えるか確認したいのだろう。
この布で何をするつもりなのかは解ったが、咄嗟に言葉が出なかった。
不合格。頭を一周して、後頭部で緩く結ばれる。
「た、た、た」
視覚を奪われ、アニスは暗闇の中に放りこまれたような孤独を覚えた。
「やだ、やだよ、たいさ……や、いや……い……」
今よりもっと幼い頃、借金取りがほとんど毎日やって来ていた夜を思い出す。
アニスちゃんはここでじっとしていてね、と母にベッドの中にいるように言われ、ひとり部屋に取り残される。
暗闇の中、アニスの頼りは母の作った人形だけだった。
あの時のように、アニスは小さな震えを止められない。

目隠しはすぐに外され、視界が明るくなるのと同時にきついくらいに抱きすくめられた。
「今更ですけど犯罪ですよね、これ。改めて痛感しました」
小さな子どもをあやすように、ぽんぽんと優しく背中を叩かれる。
「今更過ぎますよぅ」
涙声になりながら笑ったアニスが、おちゃらけた口調でさっきの記憶を語ると、ジェイドはますます強く彼女を抱き締めた。
「ねぇアニス、やっぱり」
止めましょうと彼が続けるのを、アニスは遮った。
「アニスちゃんは嫌なら嫌ってちゃんと言える子です。さっきはちょっと遅れちゃっただけ。だから……」
ジェイドの背中に手を回す。
「だから、なんですか?」
「ええっと、その、だから……あの……って、察して下さいよ! それともわざと言わせたいんですかぁ?」
アニスがぽかぽかとジェイドの背中を叩く。
「すみません、そういうつもりでは。ああ、ですがそれもいいかもしれません。アニスの誘い文句を受けるのも」
「さ、さそいもんく」
ジェイドの肩に唇を押し付けたまま、アニスは目を白黒させる。
私が。誘い文句。えっと、どうしよう。
散々悩んだ後、アニスはもぞもぞ動き、ジェイドの胸の中へと体を落ち着かせた。
胸に手を当てて、深呼吸。
そこに辿り着くまでにあっちこっちに視線をさ迷わせたが、最終的には彼をすぐ下から目だけで見上げる。
図らずも気後れから上目遣いになった。
「た、たい、や、えっと、あぅう……じっ、じぇい………ジェイド」
それはもう頑張って名前を呼んだアニスに、次に何を言えば文句が完成するのかと考える隙も与えず、
ジェイドは彼女をぎゅうぎゅう抱き締めた。文字通り締めるほどの力で。
「はぅっ」
いきなりのことにみっともなく声が上がるが、それでも力は緩められない。
「ぐ、くるしー、たいさぁ」
これはあれだ、可愛いものを見つけた時のティアだ。
皆に隠れて(が、全員にもろばれだ)こっそりミュウを抱き締めているティアの姿がよぎり、大佐と一緒にしてごめんと思わずティアに謝った。

ようやく回された腕から力が抜かれた。
「つぼを心得ていると言うか、タイミングがいいと言うか、ひょっとして計算してますか」
「してませんー」
頬を膨らませると、ジェイドに人差し指でつつかれる。それで空気が抜けたように、アニスはつつかれた頬を引っ込ませた。
額をつき合わせて二人でくすくす笑って、すっかり緊張がほぐれたところで、ジェイドはアニスの教団のお仕着せの前を首筋が見えるまで開いた。
喉の近くに口づける。
アニスの肩がぴくりと揺れた。
「嫌なら言って下さいね」
「ううん、嫌じゃないよ、くすぐったいだけ。です」
こんな時まで律義に敬語を使おうとするアニスが可愛いらしい。ついでにその律義さがこれから吹っ飛べばよりいいなあと彼は思う。
舌を突き出して鎖骨を撫でるとびくりと大きく震え、音をたてて首筋に吸い付くと唇を固く結んで顔を背ける。
「これ……」
一つ、アニスの肌に小さな花のような跡をつけると、彼女は彼の熱の移ったそこを手で押さえた。
何よりもアニスに嫌われるのを恐れているジェイドは、そこを押さえたまま何か考え込むアニスにちょっとだけ慌てる。
「嫌でしたか、すみません。その、言い訳にもなりませんが、襟を閉めれば隠れる場所ですよ。その辺ぬかりは」
「私も」
「はい?」
「私もしたい」
「は」
アニスの言うところが解らないジェイドだったが、構わずアニスは彼の軍服の襟を小さな手で開いた。
「アニス、あの」
ぐいぐいと広げ、アニスと同じように首を外に晒す。
「えっーと、こう、かな?」
ちゅうっと音を立てて、アニスは唇を彼の首に押し付ける。
全く予想していなかった展開に固まったジェイドを、己の技術では大したリアクションは望めなかったかとアニスは軽く腕を組む。
「むう」
「あの、アニス、これは一体」
「えー、だって、大佐だけずるいじゃないですかぁ。
こういうのって所有印って言うんですよね、これは私のものですよーっていう印」
アニスはもう一度、と挑戦する。
「大佐が私にそれつけるんなら、私も大佐につけないと」
が、それでもアニスには跡はつけられなかった。仕舞いにはほとんど噛みつくようにする。
「でーきた」
「歯形じゃないですか」
「いーの、これから上手くなるもん」

ぷんだ、と横を向いて唇を尖らせるアニスはたいそう可愛いらしいが、
なんというか、こういう場面ではもう少し、先ほどまでのしおらしいままでいてくれないものか、と思う。
己がどうこうするより先に、すでに敬語解除されているし。
彼女らしいと言えば、これ以上らしい態度はないが。
そっぽを向いたアニスの気を引くためにも、目の前にある形のいい耳を食む。すると、ひゅっと息を飲んで体を小さくした。
「弱いんですか」
声に出さずに、知らないと結んだ髪を伴ってアニスは首を横に振る。経験がないのだ、どこが弱いかなんて知るはずがない。
ジェイドは淵をなぞり、奥へと舌を差し込んだ。背骨に沿って電気が走ったような感覚になる。
「………あ……」
初めて唇から零れた上擦った声に、アニスは驚いて両手で口を覆った。
しどろもどろになるアニスを安心させようと額に口づける。
ジェイドはアニスをベッドに沈め、再び彼女の襟に手を伸ばす。
隠れていたところが冷たい空気に晒されて居心地が悪い。
キャミソールをたくしあげる彼の口角が僅かに持ち上がったのを目ざとく見つけ、アニスは一層赤くなった。
「いっ、今、揉みがいのない胸って思いました!?」
「いいえ」
「うそ、絶対つまんないって思った! ぺったんこって!」
「いーえ」
普段その話題でティアをいじり倒している分、己の体の未熟さからくる羞恥に耐えきれず、アニスが涙目で睨みつける。
が、彼女にそうやって睨まれるのが楽しくて楽しくて仕方ないとばかりにジェイドは笑った。

その笑顔に擬態語をつけるのなら、ふにゃり。死霊使いが形無し、部下たちが見たら幻滅ものだ。
「全く逆です。むしろ私は小さい方が揉みがいがあると思います、成長を促進させるという意味で。
ええ、あなたのためなら助力は惜しみませんよ」
「たいさぁ………なーんて、流されませんよ! やっぱちっちゃいって思ってんじゃないですかー!」
「ティアがメロンなら、さしずめアニスはさくらんぼといったところでしょうか」
「しっ、しね、死ね! 変態ロリコン鬼畜ロン毛軍オタ中年セクハラ眼鏡!!」
言うに事欠いてそれか! じわりと瞳に涙を滲ませ、アニスが叫ぶ。
それに耳を傾けていたジェイドは、アニスが息を切らせると彼女の起伏に乏しい胸に頭を寄せた。笑顔のまま。
「ふへっ、なに……」
さくらんぼと称されたそこを、ぱくりとくわえられる。
軽く歯を立てられたと思ったら、いきなり強く噛まれた。
「いっ」
前髪を鷲掴みにして、思いっきり引き剥がす。眉一つしかめず、ジェイドはされるがまま口を離した。
「禿げたらどうするんですか」
「禿げろ! なにすんの!」
「あなたが酷いことを言うので傷ついてしまったんです。それはもう深く深く」
「だからって私本体を傷つけんな! あーもー、さいあく………って、ちょっとおぉお!」
「なんです、色気のない声出して」

そこに口づけられ、アニスは素っ頓狂な声を上げる。
「なに、なにすん」
「あなたとこうした取り留めのないやりとりをするのも楽しいのですが、重きを置くべきなのは会話ではなくこちらの方ですし」
「いや、そりゃそうだけどさ」
「これでもまだまだ序の口ですよー。アビスでいうところの、ナムコのロゴが出てきた辺りです」
「OPすら始まってないの!?」
あわあわするアニスをよそに、ジェイドは先ほど噛んだせいで赤く膨れたそこをねっとりと舐める。
「ひっ……」
与えられる刺激もそうだが、視界による衝撃も物凄い。
あのジェイドが、常に胡散臭い笑顔を浮かべて人をおちょくって遊んでいる大佐が、
敵からも味方からも恐れられ、たった一声で軍隊を動かし戦場を引っ掻き回す死霊使いが、
なあんの面白味もないアニスの胸を執拗に舐めるのだ。
金と呼ぶには些かくすんだ色の長い髪が、アニスの肌にかかる。
目につく赤い舌に全身が竦み上がり、何かにすがりつこうと手を浮かせた。
虚しく空を掴むと、その空気を握った手ごと彼の大きな手に包み込まれる。
「痛そう」
突起に触れるか触れないかのところで呟くジェイドに、誰のせいでとアニスは叫ぼうとする。
が、今度は冷たい息が吹きかけられ、ひりひりする感覚に妙な声が引きずり出されそうになり、慌てて唇を引き結ぶ。
腫れとは別に、ぷくりと立ち上がったアニスのそれを口に含むだけでは飽きたらず、
ジェイドは残った方を片手で押したり摘まんだり撫でたりした。
情けない声なんて出すまいと踏ん張っていたが、一層強く吸われ、とうとう熱い息が押さえきれなくなった。
「ふぁっ、んんっ」
きつく噛み締められて白くなっていた幼い唇が開かれ、本来の色を取り戻して喘ぐのを上目で見やり、ジェイドは目を細めた。
「ん、んあ、あ、いや、やめ……」
「はい」
「……ないで………」
約束通りに舌を引っ込める彼が、むしろじれったい。
アニスが震える唇で求めると、
「はい」
と先ほどもそうだったが、更に優しい声で返事をして再開させる。
なぶられるごとに、むず痒いんだか心地いいんだか判断できないものがアニスの全身に向かって広がっていく。
それだけでも厄介なのに、尚悪いことに、このひりひりは甘ったるい疼きまで連れてきた。
おへそを舐められた時により強く快楽を感じ、
膝頭をくっつけ、足と足の間に隠されたそこに忍び寄るむずむずをやり過ごそうとする。

そんなアニスの様子に彼は一旦手と舌を休め、体を起こした。握っていた彼女の手を解放する。
「あ、だめ」
離れていくジェイドの手を止めようとして、しかし遅れてしまったアニスの手は宙をさ迷う。
その小さな声に、彼は彼女の膝頭にかけていた両手を離した。
「ち、違う、そうじゃなくって……」
アニスが嫌がっていると思ったのだろう。小さな手をジェイドにつき出すと、長い指でそっと指先を撫でられた。
今度こそ捕まえ、指と指を絡ませて、ぎゅっと握る。
「こう、してて。ずっと、ぜったい離さないで……でね」
今から言うことはとても恥ずかしいことだ。
己のことも彼のこともまともに見れず、天井の隅や照明や壁に視線を走らせる。
が、結局はジェイドの目を見て、まぶたを伏せ勝ちに、小さく小さく呟く。
「……たぶん、たぶん嫌じゃない、から。だって、だって大佐だもん。だから……」
この先は言わずとも解るだろう。というか言いたくないから解って下さいお願いします。
アニスがますます頼りない表情でジェイドを見ると、完璧に固まっていた。
あれ、これひょっとして息してないんじゃ。そう思うくらいに微動だにしない。
「あの、でも、あ、あんまり……その、いじわるなこと、しないでね………」

そこまで驚かれると、ずっと感じていた羞恥が大きくなってしまう一方で、アニスは縮こまってごにょごにょと続ける。
たっぷり一分間は停止し、焦れたアニスに髪を引っ張られて我に返った途端、
体の上に降ってきたジェイドに彼女はきつくきつく抱き締められた。
またか。
「アニス、かわいいっ!」
ティアか。
「あ、ありがと」
たいさ、キモいっ!
と正直に叫んでも良かったが、さっきの一言に全力投球したのと、
ジェイドのこの反応に心底疲れたアニスには的外れな礼をするのが精一杯だった。ティアまじでごめん。
頬擦りまでされて、脱力どころか口から魂が抜けそうだ。
心行くまでアニスをぺたぺたしたジェイドは、彼女のお願いを守ってしっかりと片手を指ギロチンにして、上機嫌に彼女の服の前を全て開いた。
上半身だけでなく、それまでお仕着せに包まれていた下半身までもが、遂に明るみになる。
恥ずかしい、恥ずかしくて死んじゃいそう。
泣き出す一歩手前のアニスがジェイドを見上げると、それはそれはいい笑顔で見つめ返された。
釣られる形で笑顔を返しかけて、でも何がそんなに楽しいんだろうと首を伸ばし、アニスは口元を引きつらせた。
黒いスパッツに指がかけられていて、下着が覗いている。
さくらんぼ。よりによって、今日の柄はそれだった。
「いいい、いまいま今、がきくさいぱんつって思った! そんでやっぱりさくらんぼだって思った、ぜったい思った!!」
「嫌ですねぇ、そんなことは全く全然爪の先ほどこれっぽっちも」
「うそだー! ぜったいうそだー!!」
「むしろそこがいいのに」
「やっぱ思ってんじゃん! どーせ、どーせ私はお子ちゃまですよさくらんぼですよっ!」
「あなたのそういうところにも惹かれているんですよ。私は」
真っ赤になって叫ぶアニスが可愛くて可愛くておかしくなりそうな(既に大分おかしいが、本人は至って正気のつもりである)
ジェイドは肉球の素晴らしさに初めて気づいた人類のように、へにゃーとだらしなく笑って彼女のスパッツごと下着に片手をかけた。
ゆっくりと下ろされ、太ももをすり抜ける感触にすら何かを感じてしまう。
「たいさっ、手つきが、なんか、やらし……」
「アニスがやらしいから」
うっとりとした表情と声でそう返される。

いつものように咄嗟に言い返せなかった。
そうか、私ってやらしいのか。でも、大佐だって負けてない。
湿り気を帯びたそれは膝を通り過ぎ、片方の足首にだけかかって残る。
「ふえぇ……」
何も生えていない、つるつるのそこを隠そうと太もも同士を擦り合わせる。
「アニース、隠さないで」
「むり、そんなのむりだよぅ」
アニスは改めて己が置かれた状況を見つめ直し、目眩がした。
高く結った髪はほどかれず、でもぐちゃぐちゃになっていて、教団のお仕着せであるワンピースは全て前が開かれている。
白いキャミソールは鎖骨辺りで纏められ、その下の胸の突起は唾液でねたねた。照明を反射している。
ここまで開けっ広げにしているのならさっさと靴下も剥ぎ取られそうなものだが、膝上まであるそれは何故か無事。
それによって爪先から膝上だけが隠れていて、却って、なんか、なんか。
極めつけに片方の足首には引っかかっているスパッツと下着。柄は先ほども言った通り。
うああ、なにこれ。なにこのかっこ。
やっぱり、やっぱり大佐の方がいやらしい。
アニスをここまで乱した張本人は、彼女に襟首を開かれた以外そのままで、それが彼女をますます恥じらわせる。
髪もさらりと肩に流したまま、眼鏡さえ外していない。
「アニス」
彼独特の陽気で間延びしたものではなく、おまじないをかけるように大切に名前を呼ばれる。
ジェイドの手を、アニスは了承の意味をこめて握った。
彼は痛くない程度に握り返し、アニスと繋いでいない方の手をそこに伸ばす。
優しく指の腹で押され、びくっと足が跳ねる。
てっきりそのまま指で続けられると思っていたのに、触れたのは別のものだった。
「ひあっ!?」
濡れた舌が、ぴたりとアニスの割れ目の始まりに添えられている。
「嫌?」
そうやって、アニスが頷けないのを知っているくせに、ジェイドは尋ねる。ずるい、ずるい、ずるっこ。
首を横に振る代わりに、アニスはぎゅうっとまぶたを閉じた。
言葉にならなかった彼女の意思はちゃんと伝わり、行為は進められる。

ぴたりと閉じたそこをなぞり、入り口を探られる。
くすぐるように舐められて、ただでさえ力の入らない腰が更に抜けていく。
アニスがまたも唇を噛み、声はおろか息さえ止めているのに気づき、ジェイドは柔らかく笑った。
「息をして下さい。死んでしまいます」
太ももを撫でられる。
「……ぷは!」
いい加減苦しくなったアニスが水泳の息継ぎのように息を吸うと、彼はちゅっと太ももに口づけた。
そのまま吸われ、赤い華が咲く。
「んぅ……あ! そこ、隠れるとこ!?」
「どうでしょう。スカートで隠すには下過ぎますし、靴下で隠そうにもここまでは伸びないかもしれません」
「ぎゃっ、ひどい、いじわるしないでって言ったのに」
呻くアニスにくすり笑いを向けて、ジェイドは再びそこに唇を寄せた。
見つけた入り口に、舌を侵入させる。
「は、ぁんっ!」
内側の壁を擦られ、跳ね上がったアニスの足は空を蹴った。
頭の天辺から背骨を通って腰へと、快楽が走り抜ける。ぞくぞくしたそれは足を伝って爪先まで支配してしまった。
一筋、それまでなんとか耐えていた涙が頬を滑り落ちる。
「きゃんっ! ふぇ……」
ぐるりとかき混ぜられ、鼻にかかったような甘くて甲高い声が駄々漏れになる。
抑えが効かなくなった涙がぼろぼろ零れる。
「辛い?」
アニスは首を左右に振った。シーツの上で豊かな黒髪がぐちゃぐちゃになり、涙はその中に落ちていく。
力の入らないアニスの腕がだらりとしても、ジェイドは彼女の手を離さなかった。約束通りに。
彼の鼻で小さくて敏感な粒を押される。
くりくりと捏ねるようにそれを押し続け、舌は中から溢れてくる液をかき出す。
ジェイドの舌をきゅうきゅうと締めつけてしまっているのが嫌でも解った。緩めようにもそれができない。
「あ、やだ、も、いや」
はくはくと、陸に打ち上げられた魚のように酸素を求める。
「きもちい、から……だめ………」
「……それは、駄目な理由になっているのでしょうか」
苦笑しながらも、やっぱり舌を抜いたジェイドの髪に、アニスは指を通した。
「やだ、はなしちゃ、め」
指に髪を絡ませる。とろりと溶けきった瞳で彼を見つめた。
「どっちなんですか、もう……」
困ったように伏せられた彼のまぶたの淵が、ほんのりと朱色に彩られている。
「照れてる」
「………否定はしません。肯定もね」
手を握り直し、ぐ、ともう一度ねじ込まれる。

明確な意志をもった彼の舌はアニスをいじめ抜き、追い詰めた。
「にゃっ……たいさっ、へん、なんか、へんなの………やあっ、たすけて」
堪らなくなって髪と手にすがる。返されたのはより一層強い愛撫だった。
「は、ひゃあ―――ひあぁあっ!」
びくびくと一際大きな震えが止まらない、頭が真っ白になる。何も考えられなくなって、遠退く意識を必死に繋ぎ止める。
「ふにゃ……」
なんとか気を失うのは免れたが、泣き疲れたアニスのまぶたは重く、閉じそうになる。
だめ、寝ちゃだめ、起きてアニス、寝ちゃったら……
「アニス、今はゆっくりお休みなさい」
アニスが起きていないといけない理由であるジェイドに優しく囁かれ、ゆうるりと頬を撫でられる。
おやすみなさいと心で呟いて、アニスは意識を手放した。

「ただいまですのー、みゅ? ジェイドさんだけですの?」
扉が開けられると同時にミュウの高い声が耳に飛び込み、アニスは夢の底からふわりと浮かび上がった。
「ええ、むさいおっさん一人のお出迎えですみません。アニスなら眠っています。疲れてしまって起きていられないようなので」
部屋の入り口側のベッドに腰掛け、本を読んでいたジェイドは栞を挟んでそれを閉じる。
どうやら長い自由時間を終えて、皆が帰って来たようだ。
何回か瞬きをし、アニスは慌てて、だるい体にむち打って布団の中に頭を突っ込む。
ぐちゃぐちゃの髪はリボンがほどかれていて不自然ではないように、服も元通りに整えられていた。

「へえ、そっか、大丈夫か? 俺達が出かける時はぴんぴんしてたっぽいけど」
ルークが部屋の奥のベッドに目を向ける。
布団からは頭すら覗いていないが、小さな子ども一人分膨らんでいた。
「無理をして元気なふりをしていたのかもしれないわ。私達に心配させないように」
ティアもルークに続いて、アニスが潜った寝床を気遣った目で見やる。隣でナタリアが手を合わせ、
「いいことを思いつきましてよ。新鮮なお野菜が手に入ったところですの、
アニスのためにナタリアスペシャルスタミナ料理を作ります!」
ガイが抱えた野菜と果物が入った紙袋に手を伸ばした。
「アニスのためを思うなら、余計な……じゃない、そっとしといてやるべきだと思うんだがなあ……」
ナタリアがトマトを取り出すのを阻止できなかったガイが独りごちる。
アニスを含めたその場にいる全員がガイの言葉に頷く中、イオンは静かにベッドに歩み寄った。
「アニス?」
横を向いて寝ているアニスの顔にかかる髪をそっと耳にかけ、イオンは呼びかけた。
「………はい」
つむっていたまぶたを持ち上げる。アニスの大切な主は、
「ジェイドから調子が悪いと聞きました。大丈夫ですか?」
と腰を屈めて目線を合わせた。
大丈夫です。いやほんとは指一本動かせないほどだるいんですけど、犯人はそいつなんでイオン様のご心配には及びません。

「はい。大丈夫、です」
顔の筋肉を総動員して笑ってみせる。
イオンは表情だけで笑って、仲間達を振り返った。
続いていくつもの足音が聞こえたので、仰向けになるよう寝返りをうつ。
「本当に大丈夫?」
ティアが、アニスの顔にかからないように己の髪を押さえながら覗き込む。
「だいじょーぶだいじょーぶ。ごめんねティア」
「謝ることないわ。疲れた時は仲間に気を遣わないでゆっくり休んでいいのよ」
アニスが謝る内容はそれだけではないのだか、言う訳にもいかないので彼女はありがとうと頷いた。
ひょい、とティアの反対側からジェイドも身を乗り出してアニスを見下ろす。
目が合った瞬間、さっきまでの行為や、眠ってしまったアニスに彼が服を着せたであろうことが駆け巡り、かーっと顔が熱くなった。
「おや、アニス、熱でもあるんですか?」
掛布団を鼻が隠れるまで引っ張り上げ、目だけ見せるアニスの額に、
仰々しくグローブを外しジェイドは手を乗せた。
きっ、と睨み付けるが、赤い頬で潤んだ目では全く効かない。むしろ逆効果だ。
アニスにだけ見えるように唇の端を持ち上げ、ついでジェイドは片目をつむってみせた。

アニスは疲れているんだから安静にするべきだ、とガイとティアがルーク達をもう一つの部屋に連れていき、
残ったのはそのアニスと看病を引き受けたジェイドだけになった。
「大佐ぁ」
「はい」
ベッドの脇に椅子を据え、ナタリアから受け取ったりんごを剥く彼の指先を見ることもなく見る。
「疑ってすみません」
何をとは言わなかったが、すぐに察した彼は手を止めずに肩をすくめる。
「そうですよ、私が愛しているのはあなただけだというのに」
「あ、あい………。で、結局何してたんですかあ?」
聞きたいことは二つあって、一つはこれで、もう一つはアニスが眠った後のジェイドなのだが、それを聞くのはちょっと怖い。
本当の意味でアニスが、こうのとりやキャベツ畑説を過去のものにするのはまだまだ先のようだ。
こんな風にフライングはあっても、気長に待つというジェイドの言葉は、アニスの方が無理やりどうこうしない限り守られるだろう。
黙ってしまった彼は今度は包丁を動かす手を止めて、
「……すみません、こればかりは教えて差し上げられません。たとえ大切なあなたでも。大切だからこそ」
と小さく謝った。
その態度と口振りに不穏なものを感じ、アニスは布団の中から手を伸ばす。

マルクト帝国軍第三師団師団長、皇帝の懐刀、死霊使い。
様々な呼び名を持つ彼が背負っているものは、アニスが想像もできないほど大きく、重く、
そして明るいものばかりではないのだろう。
どこかで定期的に、アニス達にも黙って独りで危険な任務をこなしていてもおかしくはない。
アニスの手に、ジェイドはりんごと包丁を手放して指を絡めた。
お互いにしっかりと握り合う。
不安げに下がっているアニスの眉を見て、安心させるように彼は笑った。
並大抵のことでは彼はやられない、それこそしぶといのを彼女も知っている。
それでも、とアニスは思うのだ。
いっつも飄々としている大佐にだって、あのべろみたいに、どす黒いまでに赤くて、どろどろしていて、
爛れそうに熱くて、熔岩みたいな、青色や緑色した血管の通る心臓みたいな、
綺麗でもなんでもない、生々しい内側があるんだ。
アニスがそうであるように、人間臭くってしょうがないところが、この男にも、ある。
切ないまでにその手にすがり、アニスはジェイドを見上げた。
「大佐、お願い、どこにも行かないで」
「心配しなくても、私はどこにも行きません。あなたを残しては」
握り返された手は、優しくて暖かかった。

それから一週間、またも朝食の席でさりげなく合流したジェイドを見やり、ガイは紅茶を啜った。
「旦那は今日も朝帰りか」
「そうなんだよねぇ、一体何してんだか。
はぁ、危ないことしてないといいんだけ、どっ!? がっ、ガイ! 気づいてたの!?」
思わず椅子から立ち上がりそうになるのを堪え、アニスは隣に座るガイの方へとテーブルに肘をつき、身を乗り出した。
「え、うん。というか、アニスは知らないのか? 旦那が何してるか。それより行儀悪いぞ、あと近い」
さりげなく椅子を引いてアニスから遠ざかる。
そんなのお構い無しにアニスは身を小さくし、他の皆に聞こえないように声を潜めた。
「しっ、知らない知らない、教えてくれないんだもん! ねえ教えて!」
「えぇえ、でもなぁ。多分ジェイドはアニスにだけは言いたくないだろうから」
「教えてくれないと抱きつくから」
「それだけは勘弁してくれ、特に旦那の前では絶対に止めてくれよ、いいかい?」
「わかった、わかったから早く」
「えーっとなぁ、平たく言えば花の観察だよ」
「は、な……?」

「そう。場所は教えて貰えなかったけど、この世界のどこかに珍しい花があるんだ。野生でね。
苗だってもちろんなかなか見つからないんだが、それ以上に花が滅多なことでは咲かないんだよ。
でも、苗だけなのに物凄く強い香りがするんだ。その香りもこの花に纏わる謎の一つ」
「はあ」
「その苗を旦那はいつの間にかどこかで見つけたらしくって、その花が咲く条件を研究しているんだ。
毎日出かける訳にはいかないから、週に一回、それも夜」
「………」
「そう、ここが、いやここもと言うべきかな、とにかく不思議なんだよ。その花は必ず夜に咲くんだ。
アニスだってほとんど全ての花は朝日と共に開くのは知ってるだろう? 
ごく稀に夜に咲くのもあるけど、数少ないそれらは全て何故夜なのか解明されているんだよ、
でもこの花だけはその理由は謎に包まれたまま。アニスはなんでだと思う?」
「…………その花と、ガイには教えられるのに大佐が私に・だ・け・言わないのと、どう関係してるの……?」
「釣れないなあ、ちょっとくらい君も考えてくれたって……おい、アニス、トクナガトクナガ。
食事中なんだから、物騒なまねはよしてくれよ」
「…………」
「さて、君の疑問だけど、ジェイドはその花を一刻も早く咲かせて、いや、咲かせてだと語弊があるかな。
とにかくつぼみなんてけち臭いこと言わずに、
どーんと咲いたその花を誰よりも先に見せて驚かせたいんだよ、大事な大事なアニスをね」
「へぇ、そうだったんだぁ、素敵なサプライズイベントだね………
ねえガイ、大事な大事なアニスって、私と大佐のこと知ってるの?」
「え? 知ってるも何も見たまんまじゃないか。年の離れた友達、もしくは親子みたいなもんだろう?
旦那がアニスを猫可愛がりしてるのはちょっと見ただけでも解るよ」
「ふうん。良かった。ガイ、私の目玉焼き食べていいよ。
ちょっと用ができちゃったから。大丈夫、まだ手つけてないから、それ」
「まあ、残ったらもったいないし食べるけどさ……アニス、またトクナガでっかくなってるぞ」
ガイに背を向け、アニスはトクナガに飛び乗る。口で返さなかった代わりに、背中を見せたまま相棒の人形と一緒に手を振った。

「たぁーいさぁー」
「おやアニス、おはようございます。いい朝ですね」
「おはようございますぅ、ほんとに気持ちいい朝ですねー。ところでぇ、大佐お気に入りのお花さんのご機嫌はどうでしたかぁ?」
「やれやれ、喋ってしまったんですね。あんまりしつこく聞くものだから教えて差し上げたのに。
口が堅いと見込んだ人に限ってこれなんですから、手に負えません。ガイには後ほど鼻の穴スプラッシュの刑ですね」
「手に負えないのはてめえだぁああぁああ!!」
「おっと。そんなに照れなくてもいいじゃないですか。
アニス、トクナガを元に戻しなさい、小鳥さん達が震えていますよ」
「照れてない、小鳥さんとか言うなきしょい! なんで素直に花の観察してるって言ってくれないのっ!」
「そりゃあ恥ずかしいからですよ」
「自分のあまりのキモさが?」
「何故そうなるのです」
「三十路過ぎたおっさんが夜な夜な睡眠時間まで削って、娘並みに年の離れた女の子のために花の観察してたらキモいじゃん、
キモい以外の何ものでもないじゃん、むしろキング・オブ・キモい人じゃん」
「あなたの喜ぶ顔が見たいだけなのに、それをあなたはそんな風に……」
「そんなまどろっこしいことしなくても、アニスちゃんはガルドくれれば喜びます、ガルド」
「それではただの援助交際ではありませんか」
「いいですよ私はそれで」
「………あなたはそうでも、私は、嫌です」
「……うそだよ、私だってそんなのやだもん、冗談だよ……大佐の気持ちもお花も嬉しいけど、
でも……もう、心配させないでよ……」
「アニス……」
「だって、大佐の言い方いかにもで………私、てっきり大佐が軍の仕事とかで危ないことしてるのかなって……」

「そう勘違いして下さるように演技しましたからね」
「てめっよくもぬけぬけと!」
「嘘はついていませんよー。危ないことをしていますとも、危ないことをしていませんとも言っていませんから。
そもそも、本当に血生臭いことをしているのなら、あなたやガイに勘づかせるような隙なんて見せずに徹底的に隠します。
それでもティア辺りが目ざとく気づきそうですが。あなただって軍人ですしね。今回ばかりはあなたの考察不足ということで」
「屁理屈! ずるい、ずるいずるいずるい卑怯反則! 乙女の気持ちを弄んでくれちゃってぇー!」
「愛してますよーアニース」
彼女に向けて両手を広げるジェイドの胸を目がけて、アニスは人形の頭を乗り越えた。
「うっさい黙れっ! 私もですよっ!!」
アニスが、トクナガから降ってきた。


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