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作品名 作者名 カップリング 作品発表日 作品保管日
nameless world 24氏(24スレ目) ジューダス×リリス 2007/03/05 2007/03/06

 遠くで声が聞こえる。
 それは男のようであり、
 それは女のようであり、
 それは子供のようであり、
 それは老人のようであり、
 しかし、そのいずれもが、同じ言葉を口にしていた。
 裏切り者。人でなし。大罪人。
 さんざん聞きなれた言葉だ。別に今更改めて言われたところで、どうということもない。
 それに――彼らの口にしていることは……すべて事実なのだから。

 考える。
 この悪夢と呼ぶには余りにも生ぬるいシロモノは、一体誰が見せているのだろう、と。
 ――神?
 脳裏に浮かんだ考えを、彼は皮肉げな笑みを浮かべて否定する。
 神は死んだ。
 僕たちが――殺したのだから。

 瞳を閉じる。……いや、もともと閉じていたのかもしれない。
 幻聴は鳴り止まず、口々に僕をなじりたてる。
 ここは過去でもなく、未来でもなく、現在でもない、一筋の光すら漏れない、暗い闇に満ちた時の狭間。
 僕は彷徨う。
 この何処でもない場所を、永遠に。

「もしもーし」

 ……気のせいか、今、ひどく間の抜けた声で呼びかけられた気がする。
 いや、勿論幻聴だろう。
「起きないわねえ……えいえい」
 あろうことか、ぺちぺちと頬を軽く張られる感覚まで覚えた。
 これはいよいよ、僕の精神が磨り減ってきている証なのだろうか。
 ふと、脳裏をよぎるのは、彼女の姿。
 僕はすがるように、口を開きその名を呼ぶ。
 ――二度と、会えはしないのに。
「……マリアン」
「なんか言ってるんですけど」
『うむ』
 幻聴はあろうことか、謎の第三者まで呼び出して、幻聴同士で会話を始めた。
 おい、せめて僕に話しかけろ、幻聴なら幻聴らしく。
「…………」
「また黙っちゃった」
 うるさい。放っておいてくれ。この場所には僕しか存在しない筈なんだ。幻聴は消えてくれ。
「こうなったら……荒療治!」
 幻聴の不穏な台詞とともに、軽く金属の擦れる音を僕の耳が捉えた。
 何故か。
 背筋にゾクリと、嫌な感覚が走った。
 早く目を覚まさなければ、大変なことになる、そんな予感が。
 ――目を覚ます? バカバカしい。
 この夢に終わりなど、あるはずが――
 ……しかし、ひたすら警鐘を発する、この鼓動の高鳴りはなんだ?
 僕の内心などお構いなしに、幻聴はどこか楽しげに、高らかに声を発し――
「秘技! 死者の――」

「や、やめろこの馬鹿!」
 恐怖に耐え切れず、僕は思わず瞳を開き、飛び起きていた。
 ――そこは、決して暗闇に包まれた場所などではなく。
「……どこだ、ここは?」
 やや古びた感じの、どこにでもあるような木造家屋。
 だというのに、強烈な既視感を覚える。
 そうだ。僕はいつか、この家を訪れたことがある。
「やっと眼が覚めたのね」
 すぐ脇から、女の声。先ほどまで聞こえていた幻聴と、同じ声。
 それだけでなく……やはり僕は、この声の主に、会ったことがある。
 だが――
「――リリス・エルロン……」
 僕が呆けたように名を呼ぶと、女――リリスは不思議そうに首をかしげた。
「? 私の名前、知ってるのね」
 彼女のほうへ顔を向けた際の動揺は、決して顔には出さなかった筈だ。
 見知った家。見知った声。そして見知った人物。
 しかし、彼女の姿は、僕の記憶しているそれより、遥かに若い。
 暖かい飲み物を用意してくるから、とリリスは台所へ向かい、
 僕はリビングのソファー――どうやらここに寝かされていたらしい――で、呆然と一人ごちた。
「……ここは……過去なのか?」
 過去という言い方は、果たして正しいのかどうなのか。
 ……ともかく、なぜか僕は消え去ることもできず、こうしてこの場所に存在している。
 それだけは、確かなことだった。

「はい。ホットミルクでよかったかしら」
 なにぶん田舎だから、あまり洒落たものがなくて。そう言ってリリスは笑った。
「……構わない」
 カップに手を添えると、確かな温かみを感じる。
 前にこのような感触を抱いたのは一体、いつだっただろうか。
 ほんの少し前だった気もするし、長いこと抱かなかった感覚だった気もする。時間のイメージが、あやふやになっている。
 僅かばかりの量を含むと、絞りたてだろうか、これまで飲んだことのないような濃い味が口の中に広がった。大雑把な味だが、悪くはなかった。
「あなたは、村の北の海岸に、打ち寄せられるようにして倒れていたの」
 リリスは僕の向かいに腰掛け、訥々といきさつを語るが、今重要なのはそんなことではなく。
(一体この時代は、いつ頃なんだ……?)
 僕とリリスが顔を突き合わせたのは、カイル達と共に旅をしていた、その時だけだ。
 だから、いくら若く見えるとは言っても、彼女の年齢――ひいては、今が何年なのか、ということを正確に把握することはできない。
 まさか、「今何年ですか」などと言い出せるはずもなく、僕はリリスの長話に、適当に相槌を打つことしかできなかった。
「さて、それはそれとして、あなたのお名前は?」
 カップを置いて、リリスは真っ直ぐに僕の眼を見据えて訊ねる。
 一瞬の逡巡。
「……ジューダスだ」

 なんとなく見つめ返すのもはばかられ、やや顔を背け気味に答える。
「ふぅん」
「……なんだ、その気の無い返事は」
「うん、別に?」
 ……兄とは別の意味で勘に障るな、こいつは。
 どうもこいつは僕の名前自体にそれほど興味があったようでもなく、またしても「それはそれとして」と話題を切り替えて一人で喋り始めた。
 まあ、この場合深く追求されずに助かった、とも言えるかもしれないが。
 だが――確かに、僕という人間は一体誰なのだろうか、とも思う。
 リオン・マグナスは死んだ。
 今は便宜的に「ジューダス」という名前を口にしたが、それはあくまで、カイル達と旅路を共にした男の名前だ。
 そうなると、目的もなく、生きる意味もない、今の僕は――誰だ?
「――ダス、ジューダス!」
 少々耽りすぎていたらしい。顔を上げると、頬を膨らませて怒るリリスの顔が眼前にあった。
「……ん、ああ」
「ああじゃないわよ、ボーっとして。それで、あなたはこれからどうするつもりなの?」
「これから……」
 これから僕は、どうすればいい? 何処へ行けばいい?
 少なくとも……他人の眼に映る僕と言う存在は、裏切り者、リオン・マグナスに他ならない。
 目の前のこの女は、僕の正体を知らないが故の、まさしく例外中の例外だろう。
 おめおめと人前に姿を晒せばどうなるかなど、火を見るより明らかだ。
「僕は……」
「行くところ、ないの?」
 否定はできたはずだ。確かに行く当てはなかったが、首を振って、すぐにでも出て行くことは出来た筈だ。
 だが、僕は答えられなかった。
 リリスは、そう、と小さく呟くと、人差し指を立ててにこやかに言い放った。
「じゃあ、暫くここに住んで、うちの仕事手伝ってくれないかしら?」
「……何だと?」
 リリスは、言ってから「我ながらいい思い付きだわ」とばかりに両手を音を立てて合わせ、べらべらと理由を述べたてた。
「いやねえ、お兄ちゃんがまた旅に出ちゃって、お爺ちゃんも、この間……亡くなっちゃって、畑仕事に羊の世話ともー大変なのよ」
「それを僕にやれと? だいいち、スタン……兄が旅に出たからといって、両親はどうした」
 さっ、とリリスの表情が消えた。兄と同じ、蒼い瞳の色はどこまでも深く、彼女のこころが読み取れない。
「いないわ。私が生まれてすぐに、流行り病で死んじゃった」
「……そうか」
 完全に、とは言えないが、彼女の気持ちは、少しは理解できるつもりだ。
 僕も――物心ついた頃には既に母は亡く、父は父の皮を被ったバケモノだったのだから。

「つまり、お前は今、この家に一人なのか?」
「そうよ。だから部屋も余ってるし、ジューダスは何も心配しなくていいわ」
 ……この場合、心配するのはお前のほうだろう、などと口に出したかったが、堪える。
 そんなことを口走ってしまえばきっと、「襲いかかるつもりなの?」と笑われるに決まっていた。
「分かった。助けてもらった恩の分ぐらいは働いてやる」
 気がつくと、自分でも思いがけないことに、肯定の台詞が口から出ていた。
「ほんと? ありがとう!」
 リリスが喜色満面の笑みを浮かべる。あまりにも無邪気なその姿に、微かに僕も笑った。
 この田舎の村なら、ずっと――というのは無理だろうが、暫くの間は僕の正体も誤魔化せるだろう。
 だから、その時までの、ほんの僅かな間。僕にもたまには、こんな休息は許されるだろうか?
 軽口混じりに答えを返してくれた相棒は、もう居なかった。

 リリスに断りを入れて、散歩がてら村を一望できる丘へと登る。
 どうやらこの時代は、少なくとも神の眼を巡る争いからは後になるようだ。
 確か、スタンの祖父はあの旅の最中は存命していた筈だったからな。
 これで少なくとも、過去の自分に対面する可能性はなくなったわけだ。僅かに安堵する。
「しかし……全く変わらないな、この村は」
 ひろびろとした放牧地で、のそのそと追い立てられる羊。
 緩やかな斜面に作られた段々畑。
 さらさらと清らかな音を立てて流れる小川。
 こののどかな空気を纏ったまま、この村は数百年の時を過ごし、そしてこれからも変わらないのだろう。
(……少なくとも、十数年『後』とも、何も変わってないな)
 見下ろしたその村の風景は、まるで時の流れから取り残されたかのよう。
 もしかすると、この村なら――
 浮かんだ甘い考えを、首を振って振り払う。
 確かに、リリスの口利きがあれば、村の皆は僕を受け入れてくれるかもしれない。
 だが、それも僕の正体を知らない、という前提の場合に過ぎない。
 僕の正体を知れば、村の人たちは勿論、僕を許してはおかないだろう。
 そしてそれはきっと、リリスも例外ではあるまい。
 僕が世界と一人の女性を天秤にかけ、そして女性のほうを選んだのは間違いの無い事実なのだから。
 僕は、そのことを微塵も後悔はしていない。
 だが――今こうして存在している僕の、この世界での居場所はない。
「……戻るか」
 あまり遅いと、奴も心配に思うだろう。
 どうせ遠からず別れることになる立場ではあったが、あいつの妹に対して、黙って出て行く気にはなれなかった。

◇ ◇ ◇

「もっと羊たちと心を通い合わせて!」
 めぇめぇ。
「……できるか!」

「ただ闇雲に、力任せに鍬を突き立てればいいってもんじゃないのよ!」
 ざっくざっく。
「この僕がっ!」

 日々の過ぎ去る速度は、これまでとは比べ物にならないほどあっという間で。
 剣の代わりに、鍬を握る手は、まだまだ不慣れで。
 久方ぶりに手の平に肉刺を作ったり、それを潰したりしている間に、一月が過ぎていた。
「今日もお疲れ様、ジューダス!」
 門をくぐると、待ち受けていたかのようにエプロン姿のリリスが玄関で出迎えてくれる。
(今日「も」、か……)
 それはきっと、僕の存在が彼女の日常に組み込まれたという証。
「夕食はシチューよ! たんと召し上がれぇ!」
 そう言って身体を翻し、ポニーテールを揺らしながら、踊るような足取りで彼女は台所へと消える。
 すっかり見慣れた光景だった。
 最初は正体を悟られるのを警戒して疎遠に振舞っていた村人とも、最近は仕事の合間など、少しは会話を交わすようになってきた。
 正体を知られていないという安心感がそうさせるのだろうか?
 ……いや、以前の僕なら、それでも進んで他人と触れ合おうとは、しなかった筈だ。
 何がきっかけになったのか――あの馬鹿どもとの、それぞれの旅のせいなのか。
 きっと――これが、変わった、ということなのだろう。

 だけど、安息を覚えるその度に、僕の心の奥、もう一人の自分が囁きかけるのだ。
 忘れるな。
 僕の正体を。
 僕のした行為を。
 僕は、自分のしたことを棚にあげて、一人幸せになっていい人間ではない、と。

「……どしたの? ジューダス」
「いや……なんでもない」
 そう。
 きっといつか、破綻は訪れる。
 だからせめて、全てが露見する前に、この場所を去らなくてはいけない。
「なんでも……ないんだ」
 だというのに……どうしてこう、心が重い。

 満天の星空の下、村の夜風は冷たい。
 夜、一人外へ出て、草原に腰を下ろして夜空を見上げるのは、殆ど最近の日課になりつつある。
 単純に空に近いせいもあるのだろうし、都市に比べて灯りの数があまりにも少ないこともあるだろう。
 とにかくこのリーネの村の星空は眩いばかりで、眼を閉じても、その瞼越しに星々の光が届くような錯覚すら覚える。
 遠くの山の稜線の色はやや赤みを帯びてきており、秋、そして冬の訪れはそう遠くなさそうだ。
 雪が降り始めれば、この山奥の村から出て行くというのは困難になるだろう。
 決断の時があるなら、それはきっと、もうすぐそこまで迫っていた。
「…………」

 ぎし、という、軋むような音がした。その出所を探り、自分の歯が鳴った――歯軋りをしたのだと知る。
 悔しかった。
 いつの間に自分は、こんなにも弱く、未練がましい人間になってしまったのだと。
 リオン・マグナスを匿っている村があると知れれば、僕だけでなく、村の皆も、きっとただではすまない。
 それは「知らなかった」では済まされない、それほど大きな罪。
 だというのに、それでも、この村で畑を耕し、羊を追いたて、くだらない話に華を咲かせ、
 そして――
「くそ……ッ!」
 どうしようもない気持ちが胸の中に渦巻き、紛らわそうと、雑草を力任せに引っこ抜き、放り投げる。
 もちろん、そんなことで気が晴れる筈も無い。思考は堂々巡りを繰り返すばかり。
「僕は…………」
 すがるように、夜空を見上げる。
 そこに浮かぶマリアンの幻影は、ただ優しく微笑むばかりで、僕に何も言ってはくれなかった。
 
「最近のジューダス、何かちょっと変」
 翌日の夕食時。その言葉は、突然降りかかってきた。
 それに対する僕の反応は、やはり鈍い。
「ただでさえ少ない口数が更に少なくなったし、それに、何だか……思い詰めてるみたい」
 思い詰めている。
 遂に、そんな言葉が、リリスの口からも出るようになったか。
 つまりは、誰の眼にも明らかなほど、今の僕の様相は異常だ、ということだ。
 心の奥から囁きかけてくる声が、大きくなる。
 潮時だ。
 出て行くには、いい機会じゃないか。
 ……そうだな。
 こんな平穏な毎日、きっと僕には、過ぎたものだったんだ。
「……リリス」
 喉を通って出た自分の声は、余りにも力が無かった。
「あ、ごめんなさい……怒った?」
 だというのに、リリスは何を勘違いしたのか、小さくしゅんとうなだれる。
「そろそろ……出て行こうと、思ってる」
 その言葉だけは、しっかりと言えたはずだ。
 僕がこの場所を去る際に、こいつに、いらん心配や心残りだけは、させたくなかったから。
 ……いつ、僕が居なくなっても、いいように。
「……そ、か」
 リリスは、俯いたまま、小さく、ぽつりと答えた。
 それっきり、二人の間に、会話は途絶える。
 その日の夕食、普段は思わず舌鼓を打つほどの美味しさだった筈のマーボーカレーからは、何の味もしなかった。

 床板が軋まぬよう、注意しながら、一歩一歩、確実に進む。
 作るような荷などなく、持つものはこの一ヶ月握ることすらなかった剣と、気休め程度に正体を隠す仮面だけ。
 厚意に甘え、よりかかって、そして――最後は、こうして悟られないように夜逃げ、か。
 さすが、裏切り者と罵られるだけのことはある。全く、情けなくて、笑ってしまう。
 玄関の扉を、ゆっくりと、ゆっくりと、開く。戸板は微かに音を立てたが、眠りに浸る常人がこの程度で起きることはない筈だ。
 僅かばかりの躊躇。そして……未練、だろうか。振りほどいて、一歩、踏み出す。
 外は今日も、変わらぬ星の海。
 だが、それも今日で見納めになるのだろう。
 この大地の下どこに居ても、見上げる星空は同じ筈なのに、僕の眼には、二度と同じようには映るまい。
「……さて、どこへ行くかな、これから」
 行くあてなど勿論ないが……そうだな。彼女を……マリアンを探しに、世界中旅をするというのもいい。
 日の当たる場所を通れないものになるだろう。
 そして、いざ彼女の姿を見つけたとしても、最早今の僕には、彼女にかける言葉も、資格もない。
 それでもいいさ。
 彼女が無事で、元気な姿を一目、見られれば――
「どこに行くのよ」
 声。
 後ろからではなく、前から。
 闇に溶けるように、一人の女性のシルエット。
 リリス・エルロンが――そこに居た。
 こいつは、分かっていたというのか。僕がこの行動に出るということを。
「逃げるの?」
 月と星の心もとない灯りの下では、リリスの表情は読み取れない。
「逃げるわけじゃない。だが……僕は、本当は一刻も早くここを去らなければいけなかったんだ」
 一ヶ月ものうのうと居座っておいて、全く持って言い訳がましい台詞だ、と思う。
 だが、僕はもう、これ以上……
「――あなたが」
 珍しく、リリスが一瞬躊躇したかのように、言葉を飲み込んだ。
 しかし僕は何より、これまで「ジューダス」と気安く呼び捨てにしてきた彼女が「あなた」と僕のことを呼んだことに違和感を覚える。
 まさか、という思いが、脳裏をよぎる。
 そしてそれは、現実のものとなった。
「それは、あなたが……リオン・マグナスだから?」
「……知って、いたのか」
「ええ」
 闇の中、リリスが一歩、前へ歩み出る。
 その右手には、彼女には不釣合いと呼べる長さの、何か長柄のものが握られていて、僕は混乱しながらも、眉を顰める。
 はっきりとは見えなかったが、その輪郭線は、まさしく長剣のものだったからだ。
 後ずさりたくなる衝動をこらえつつ、僕はリリスの影へ向かって問いかける。
「……いつからだ」
「最初から」
 即答。
「最初から……だと?」
 欺かれた。そんな思いに囚われる。
 皮肉っぽい笑いに、口元が釣りあがる。
「じゃあ何だ。お前は、知っていて僕を匿って、戸惑う僕の姿を見て影でほくそ笑んでいたのか?」
 違う。そうじゃない。
 僕が言いたいのは――
「お前は……知っていて、何故、僕なんかを庇ったんだ……」

 リリスは答えない。ただ、無言で土を踏みしめる音が、徐々に近づいてくる。
 彼女の持つ、長剣と思わしき影が歩くたびにゆらゆらと揺れて、僕も反射的に、剣の柄に手を伸ばしかけ――止める。
 いつ、どのように殺されても、文句は言えない身分だ。抵抗はするまい。
 特に――世話になった、こいつには。
 眼を瞑る。
 最後の瞬間は――訪れなかった。
 そればかりか、僕にとっての世界の価値観を揺るがすほどの言葉が、彼女の口から紡がれた。
 耳元で、囁くように。
 彼女は確かに、こう言った。
「だって、あなたは――世界を救った、英雄じゃない」
 ……何?
 こいつは今、何と言ったのか。
「……何を、言っている?」
 言葉の内容を理解することが出来ず、思わず、瞳を開き問いかける。リリスの顔がすぐ目の前にあって、僕は慌てて視線を逸らす。
「言った通りよ。あなたは、神の眼に自らのソーディアンを突き刺し、外殻大地による世界崩壊の危機を救った、英雄」
「馬鹿な!」
 確かに、そのようなことをした覚えはある。だが、それは、あくまでカイル達と共に改変された過去へと遡った際に取った行動だ。
 何もかもが在るべき姿に戻ったこの世界では、そのようなことは起こりえない。
 何より、その光景を、この時代の一体誰が目撃していたというのか。
 ふと、気がつく。
 リリスの持つ、その右手の長剣が、ぼんやりと赤い光を放ち始めていることに。
「――まさか」
『そのまさか、だ』
 聞き覚えのある声が脳裏に響き、僕は思わず、叫びに近い声をあげていた。
「何故、貴様がここにいる……ディムロス!」
 僕の動揺とは裏腹に、ディムロスは落ち着き払った声。
『……まあ、いろいろあってな。久しぶりだな、リオン・マグナス……いや、今は……ジューダスと呼ぶべきか?』
 ――全く。
 この村に来てからというもの、僕は驚かされてばかりだ。

 ディムロスが話すには、こうだ。
 先ず、自分がなぜ、神の眼にその身を突き刺したにも関わらずこうしてリリスの手の中に収まっているかというと、奇跡的にコアクリスタルだけが無傷で残り、
 リーネ近郊に落下したところをリリスに拾われ、ここではない様々な異世界を巡って刀身の完全な修復に成功したから。
 リリスはそれを、スタンの二十歳の誕生日にプレゼントとして兄に贈ったこと。
「ところがお兄ちゃんったら、ルーティさんと旅に出る時に、うっかり忘れて置いてっちゃったのよね」
 ディムロスもディムロスで、結局スタンに言い出せなくて、スタン本人は最後までディムロスのことを「よく出来たレプリカ」と思い込んでいたこと。
『それで、だ。ここからが本題になるわけだが』
『あの馬鹿者が……』などとスタンに対する愚痴を吐いていたディムロスが、僅かに声のトーンを落とす。
 僕は無言で、続きを促す。
『うむ。それで、肝心なのは、私が千年前の天地戦争時代にお前に出会い、そして神の眼にシャルティエを突き刺すお前の姿を記憶しているということだ』
「それは、つまり――」
『そう。この世界は、俗に言われているらしい『四英雄』に加え、誰も知ることのない、世間では『裏切り者』と蔑まれる、隠れた英雄――
 リオン・マグナスこと、ジューダスを含めた、『五人の英雄』により救われた世界だ』

 ディムロスの言葉は、荒唐無稽なれど信じざるを得ないものだったが――天地戦争時代に僕と出会ったことを覚えていることが何よりの証拠だ――しかし、腑に落ちない。
「何故だ? 神を消し去り、全ての歴史は何の改変もされない状態へと修正されたんじゃないのか?」
『そこまでは私にも分からんさ。ただ……ちょっとした知り合いから聞いたことがあるな。「歴史は無数にも枝分かれする、大樹のようなものだ」と』
 もしくは、改変された世界、未来や過去への旅、それを全て含めて、正しい歴史の流れというものなのかもしれんぞ、などと、
 ディムロスは冗談か本気か区別のつかない様なことを呟く。
 ――成る程。話は分かった。だが……
「だからと言って、人々がそのことを知らないようでは、僕の立場は何も変わりはしないだろう」
 リリスは、ふう、と息をゆっくり吐き出すと、きゅ、と僕の手の平を握った。
 夜の冷気に晒された僕と、そしてリリスの指先は冷たかったが――しかし、温かかった。
「そんなことないわよ。少なくとも――この村のみんなはね」
「何……?」
 リリスは、寒さからか頬を微かに赤く染めながら、僕の瞳を除き込むように、眼を細めて笑った。
「この村に住む人は、みんな知ってるわ。あなたの正体も、あなたが悪い人じゃないってことも」
 リリスどころか、村人全員が、僕の正体を知っていて、何食わぬ振りをして過ごしていたというのか。
 まるで……僕を匿うかのように。
「それもお前の仕業か?」
 地面に横たわるディムロスを一睨みすると、代わりにリリスが答えた。
「うーん、その件に関しては、私とディムロスは何もしてないの。お兄ちゃんがね……」
 騒乱の後、行方の知れないリオン・マグナスに対し、莫大な懸賞金の賭けられた手配書が出回ったのは当然の流れだった。
 それはリーネのような田舎にまでも及び、それを目にしたスタンは怒り狂い、
「あいつは悪い奴じゃないんだ! だからもし、リオンを見かけても通報したりとか、捕まえたりするのはやめてくれ!」
 と、村中で叫んで回ったらしい。まったく……馬鹿馬鹿しい話だ。
「お前の兄も馬鹿なら、信じる村の人間も馬鹿だな」
「勿論、誰の言葉でも信用するってわけじゃないのよ? でも、馬鹿正直さでは村でも群を抜くお兄ちゃんの言葉だったし、
 それに何より……この村に来てからのあなたを見ていれば、誰だってわかるわ。
 あなたが……とても優しい人だってことくらい」
「僕が……優しい?」
 他人に、そんな風に言われたことが、果たしてあっただろうか。
「そう。あなたってお兄ちゃんから聞いた通り。
 器用にそつなくこなすふりして、何でも一人で背負い込んで、その重みに潰れちゃいそうになる――不器用で、優しい人」
 僕より僅かに背の高いリリスが、まるで壊れ物を扱うかのように、包み込むかのように僕を、抱きしめる。
 彼女の金の髪が、波打つように揺れ、ふわりと、草の匂いが広がった。
「もう、罪を償う必要なんてない。
 全てが終わって、こうしてあなたがここに居る。
 それこそが、きっとあなたが赦されたという証なんだから。
 だから――心に着けた仮面を取って、楽になりましょう」
 僕は、無言のまま、安らかなその言葉に、身を委ねる様にそっと瞳を閉じ――
 月光の下、ゆっくりと二人の唇は重なった。

     ◇     ◇     ◇

 少しずつ近づくリリスの家の灯りは、今のジューダスにとっては余りにも眩しく、暖かいものに思えた。
 帰る家があるということ。寄り添い、共に歩んでくれるひとが隣に居るということ。
 そのことを実感し、僅かに顔をほころばせたジューダスの顔を覗き込み、リリスはクスクスと笑いを漏らした。
「やっと笑ってくれた」
 一ヶ月もいっしょに暮らしていたのに初めて見たわ、と、指を絡ませつつ言うリリスに、ジューダスは心持ち憮然とした表情を見せる。
「……そんなに、僕は無愛想か?」
「そうじゃなくて、やっとあなたの素顔が見れて嬉しいのよ」
 いっつも思い詰めたような顔してたんだもの、と付け加え、リリスは少しだけ、ジューダスに身体を寄せる。
 微かに肩が触れ合い、一瞬身体を強張らせたジューダスは、思わずそっぽを向いた。するとすかさず、
「なぁに? 照れてるの?」
 と、からかいの混じったリリスの声が飛んで来るのだった。
 そんなふうに、ぽつりぽつりと会話を交わしているうちに家の灯りは間近に迫っていて、
 リリスはあっさりと絡んだ指をほどくと、一人「ただいまぁ」と先に玄関をくぐる。
 彼女のその態度を、心のどこかで少し残念に思っている自分に気づき、ジューダスは否定するように首を振って、リリスの後に続く。
「……何をしている?」
 無言で玄関のドアを開けると、先に家に上がったリリスが振り向いて待ち受けていた。
「ん」
 何かを促すような仕草。ジューダスは首を傾げかけて、リリスが求めているものが何か思い至った。
「…………ただいま」
「ちぇ」
「何だその舌打ちは!」
 リリスはふてくされた様に背を向けると「なーんでも」と、それでもどこか嬉しそうにリビングのほうへ駆けて行った。
 その背中を見ながら、ジューダスはほっとすると同時に、この家に住むようになって、
 初めて『ただいま』などといった言葉を発したことに気がついた。

「はい、どうぞ」
 ホットミルクがなみなみと注がれたカップのもつ温もりが、かじかんだ指先をほぐす。
 カップの淵ぎりぎりで危なっかしく揺れる、その水面を覗きながら、ジューダスはこれからのことを考える。
 これまでの『いつ出て行くか』ではなく、『どのようにこの村で暮らしていこうか』と。
 今までは『いつか出て行く』ということを前提とした居候の身ゆえ、リリスの家に一緒に住むことを半ば黙認してもらっていた形だったが、
 いざ実際にこの村に住み着くとなると、そういうわけにもいかない。
 村の皆に無理を言うことにはなるだろうが、空き家を提供してもらうかどうかして、自分の家というものを持つ必要があるだろう。
 ……と、いった考えを、リリスに伝えたところ、リリスはきょとんとした顔で、平然と、
「なんで? このままこの家に一緒に住めばいいじゃない」
 などとのたまった。
「馬鹿を言うな。そんなことをして、村の男が黙っているものか」
 少ないながらも村の人間とコミュニケーションを交わして、ジューダスも、如何にリリスがこの村で人気があるか、というくらいは実感していた。
 同時に、自分の人間性はともかく、「リリスと若い男が一緒に暮らしている」ということを快く思わない人間が居るであろうことも。
「いいじゃない、キスまでした仲なんだし」
 リリスは機嫌よく、指先でそっと自らの唇をなぞる。
「それは、お前が――」
 一方的に、とは言い切れず、黙り込むジューダス。
「嫌だった?」
 心持ち不安げに訊ねるリリスに、ジューダスは返事を返せない。
 嫌ではなかった。それは確かだ。
 だが――
 黙りこくるジューダスの様子に、リリスはあーあ、とため息をつき、席を立つ。
「……やっぱり、マリアンさんには勝てない、かぁ」
 小さく呟き、自室へと去ってゆくリリスの背に、ジューダスはすがるように手を伸ばしかけたが、
 かける言葉を持てず、彼の視線の先、ゆっくりと扉は閉じられた。


 居間にひとり、残されたジューダスは考える。
 自分にとって、マリアンという存在は、果たしてどのようなものだったのか。
 愛していた、と一言で表すのは簡単だ。
 だが、愛という言葉は、一言で表せるものではなく、それゆえにジューダスは深く悩んだ。
 自分がマリアンに対し抱いていた愛は、一体――
『……全く、無様だな』
 部屋の隅から聞こえてくる、ディムロスの嘲るような声に、ジューダスは顔を伏せたまま「……居たのか」と、そっけなく返す。
『お前が運んで来たんだろうに……まあいい』
 剣のくせにディムロスは大仰に咳払いなどして、一転、諭すような口調になる。
『ジューダスよ』
「……なんだ」
 ディムロスは、私はマリアンという人物についてはお前ほど知らんが、と前置きした上で、
『正直な話、そのマリアンという人物とリリス、お前はいまどっちを抱きたい』
「ん、な……ッ!」
 あまりにも真っ向な質問に、リオンはうろたえながら、しかし反骨心からかしっかり返答してしまう。
「馬鹿なことを言うな! マリアンは……マリアンはそういうんじゃ……」
『ほう? ならリリスはそういう存在だとでも』
「…………」
 唇を噛むように、俯き黙り込んでしまったジューダスに、
『結構なことじゃないか。マリアンを抱くことには躊躇はあるが、リリスに対してはそれがないのだろう?』
「……僕は」
 確かに、ジューダスにとってマリアンという存在は、ある種の聖域というか、侵さざるべきもの、といった意味合いを含んでいた。
(僕は……マリアンに、母の姿を重ねていたのか?)
 ヒューゴ、正確にはミクトランの手から守ることの出来なかった――実際にはリオンを産み落とした直後に亡くなっている為、守りようがなかったのだが――
 母、クリスの姿を、マリアンに重ねて見ていただけだったのだろうか。
 そうかもしれない。そうでないのかもしれない。
「分からないんだ……僕は」
『誰も、自分のことでも全部はわからんさ。お前も……リリスも』
「リリスも?」
 自分にとってのマリアン。だとすると、リリスにとっては――

「……あいつ、まさか」
『まあ、そういうことだな』
 それは、本来抱いてはいけない筈の、許されざる思い。
『あいつも今、悩んでいる。こういう言い方は良くないのかもしれんが……
 スタンに対する想いを吹っ切るために、お前に積極的にアプローチしている、という部分もあるだろう』
 尤も、リリスの「それ」も、憧れなのか、どうなのか、本人にはいまいち判然としないようだがな、と、ディムロスは付け加え、
『だが、リリスがお前に対し、好ましい感情を抱いているのは確かだ。そしてそれは、お前にも当てはまるだろう?』
「……傷の舐めあいでもしろというのか。悪趣味だな」
 ディムロスは、くぐもった声で、しかし、確かに笑った。
『なに、私もスタンに置いていかれた――言わば、振られた身だ』
「馬鹿を言うな。僕とお前らを一緒にしないでくれ」
 そう言うジューダスの顔も、僅かに綻んでいた。
 ――とうの昔に、分かっていたのだ。
 マリアンが僕に向ける視線は、同情や、哀れみといった種別のものであることぐらい。
 だけど、それでも守りたいと、そう思った。その想いに、何の偽りもない。
 そして……その、マリアンに対し抱いた感情とは別種のものを、今、リリスに対し抱いていることも。
「……今回だけは、お前の口車に乗せられてやる」
 苦々しげに口に出した言葉だったが、しかし、心の中は穏やかだ。
 やっと決心がついた。
 これまでの自分と向き合い、
 これからの自分と、生きていく決心が。
『そうかそうか。では、空気の読める私は、暫くの間眠らせてもらうとしよう』
 からかい混じりのディムロスの声に、一言吐き捨てる。
「……随分と性格が悪くなったな、お前は」
『――なに、千年も無駄に生きていれば、こうもなるさ』
 それきり静かになったディムロスを一瞥して、ジューダスは、ゆっくりと扉の前に歩み寄り、そしてノブをそっと回した。
 部屋の隅、髪を解いたリリスがベッドの端に腰掛けていて、ジューダスを見つめてきた。
 後手にドアを閉める。吸い込まれるような蒼い瞳に眩暈を覚えながらも、ジューダスは一歩、また一歩と歩み寄り、リリスの前に立った。
「僕を不誠実な男だと笑うか」
「笑わないわ」
 リリスは立ち上がり、その手をジューダスの頬に添えると、そのまま、すこし身を屈め、ジューダスを引き寄せるようにして、その唇を重ねた。

 ベッドに深く身体を沈めたリリスの胸元は大きくはだけていて、下着もつけていないために、その白い肌が露になり、
 上に覆いかぶさった思わずジューダスの視線はそこに集中する。
 普段は厚手のエプロンドレスにその身を包んでいるため、実感する機会というものはなかったが、
 いざこうして余分なものが取り払われた状態で相対してみると、思いの外それは豊かなボリュームを持っていて、思わずジューダスは、その双丘に手を伸ばした。
「ん……」
 突端部に指先が触れ、ぴく、とリリスの身体が一瞬硬直する。ジューダスは、遠慮がちにしていた手の動きを早めた。
「あ……ッ、ン」
 揉みしだくたびに、リリスは甘い嬌声を漏らす。白い肌はじっとりと汗ばみはじめていて、頬だけが真っ赤に染まっていた。
 右手を胸に添えたまま、ジューダスは左手で、自らのズボンのファスナーを降ろす。
 怒張した自らのソレが、ズボンを突っ張らせて痛みを与えていたからだ。
 当然、リリスの視線は、そこに集中した。
「うわぁ……」
「……なんだ、その反応は」
 リリスはばつが悪そうに、ぺろりと舌を出すと、
「……いや、男の子なんだなあ、って」
「僕を何だと思っている」
「いやあ、時々オンナノコじゃないかと見まごうほどで」
「僕だって……男だ。……好意を抱いている女性の裸を見れば、興奮だって、する」
 そうして照れてそっぽを向くジューダスの黒い髪を、リリスはそっと撫であげた。
「……綺麗」
「この髪がか?」
 ゆっくりとリリスは、髪に添えていた手を下ろし、ジューダスの肌をなぞる。
 頬や、口元。首筋。一箇所触れられる度に、思いが高まっていくのが分かった。
「髪だけじゃないわ。その肌も、瞳も、大切なもののためなら全てを投げ打つことのできる、あなたの心も、みんな綺麗」
「リリス……」
 再びの、口づけ。互いの唇を噛むような、熱いキス。
「は……む、っ」
 リリスもその身を起こし、抱くように、ジューダスの首の後ろに手を回す。
 舌と舌が絡み合い、蕩けるような快感に、二人の鼓動は早くなる。
 ジューダスは、そっとリリスの上着に手をかけ、ゆっくりと脱がしていく。
 差し込む月明かりに照らされたその肌は、息を呑むほど美しく。
 思わず見惚れていると、お返しとばかりに、リリスもジューダスの上着を剥いだ。
 そればかりでは飽き足らず、ぺたぺたと胸元を触りたて、身体ごと寄りかかった。
「女の子みたいな細い身体だけど……でも、やっぱり男のひとのものね。ごつごつしてる」
「生憎、慣れない農作業やらで鍛えられたからな」
 顔を見合わせ、お互い吹き出す。ジューダスは、その手を、リリスの腰――パジャマのズボンにかけると、確認を求めるように、もう一度、名前を呼んだ。
「……リリス」
 返事は、満面の笑顔。
 脱がしやすいようにと、僅かに腰を浮かせたリリスのパジャマを、下着ごとゆっくりとずらしてゆく。
 むわりと、篭った熱気があふれ出す。
 何も覆うもののなくなった、リリスの薄い茂みの奥は既に湿り気を帯びていて、指先でなぞるようにそっと触れると、きらきらと糸を引いた。
「…………」
 思わず、己の親指と人差し指の間で糸を引いた、その透明な液体を目で追っていると、
「そんなにじろじろ見ないでよ……」
 照れたような、拗ねたような、そんな懇願の声がすぐさま降りかかり、ジューダスは、慌てて眼を逸らす。
「……すまん」

 けれど、そんな程度で照れている場合ではなかった。
 これから、自分たちは、この先一歩も二歩も進んだ行為を行うのだから。
 今一度確認を求める言葉が、喉の奥まで出かかって、ジューダスは慌ててそれを飲み込む。
 行為に怖気づいたり、二の足を踏んでいるとリリスに受け取られることも嫌だったし、
 そのことから、自分がまだ未練を残しているのだと――そう思われることは、もっと嫌だった。
 唾液を飲み込むと、ごくりと、自分でも驚くほど大仰に喉が鳴る。
 ジューダスは、自らの怒張したそれをその入り口にあてがうと、
「行くぞ……」
 どちらかというと、自らに言い聞かせるようにそう呟き、ゆっくりと腰を沈める。
「……ッ!」
 途端に襲い来る、未知の、そして未曾有の快感。
 入り口から僅かに中に突き入れただけだというのに、まるで電流のような痺れが、ジューダスの全身を駆け巡った。
 それはリリスも同様であったようで、びくびくと身体を強張らせ、はぁはぁと荒く、熱っぽい息を吐きながら、しかし、ジューダスの眼を見る。
 まるで、続きを促すように。
 溶けるような熱さと、痺れるような強烈な快感を覚えながら、ジューダスが更に腰を突き入れる。
 先端に当たる、微かな抵抗感。ジューダスは一瞬躊躇するが、
 リリスが、まるでジューダスの動きを助けようとするかのように彼の腰に手を回すと、意を決して更に腰を前に進めた。
 ぷち、という、僅かな感触。リリスが微かに眉を吊り上げ、ベッドシーツに、ほのかに朱色が散る。
「ン……く、ぅ」
「……大丈夫か」
 そう声をかけるジューダスだったが、その最中も腰の動きは止めていない。いや、もう止まらない。
 リリスもそんな表情を浮かべていたのはほんの一瞬で、
「うん……だいじょう、ぶ」
 すぐに紅潮した頬に気丈な笑みを浮かべて、そう言ってみせる。
 その反応に、ジューダスは興奮を更に深くして、遂に、自らのそれを、リリスの中へ全て納めた。
「……全部、入ったぞ」
「……ん」
 このまま続きをしなければならない――動かなければならないところなのだが、
「…………動かないの?」
 眼を細め問いかけるリリスに、ジューダスは息も絶え絶えに、こう返すのがやっと。
「……ちょっと、待って、くれ」
 はじめて男を受け入れるリリスの膣内は狭くきつく、ジューダスの精を根こそぎ搾り取るかのようにギュウギュウと締め付けてくる。
 ただ奥まで挿入しただけだというのに、あまりの快感にジューダスはまるで力を根こそぎ吸い取られたかのように、
 姿勢を維持するのが精一杯となっていて、まったく動くことができなくなってしまっていた。
 そのことに気づいたリリスは、肘を揺らしながらも僅かに上体を起こし、悪戯っぽい笑みを浮かべ、こんなことを言い出した。
「大丈夫? ……私が、動こうか?」
 勿論、ジューダスを鼓舞する為の、少し挑発っぽく言ってみた台詞だというのは分かっている。
 だがしかし、相手もはじめての行為だというのに、そこまで言われては、やはりジューダスの男としての矜持が黙ってはいられない。
「馬鹿に……するな!」
 男のプライドが、ジューダスを突き動かす。
 ず、ずず、と、あまりスムーズとは言えない動作で腰を引くと、それだけで、二人の繋がった部分から、わずかにとろりと蜜が溢れた。
「……っ、はぁ、はぁ……っ」
 腰を引ききったジューダスは頭を垂れ、大きく荒く、熱い息を吐き出す。
 疲労と快楽が入り混じった、今まで味わったことのない感覚に、くらくらと視界が歪む。
 ――まだ、ただの一度、往復しただけ。それだけだというのに、この体たらく。
 それでも、最後までやり遂げたい。やり遂げねばならない。
 なんとか力を振り絞り、身体全体をぶるぶると震わせながら荒い息を吐き、ゆっくりと、ゆっくりとジューダスは前後運動を開始する。

「ん……あっ」
「くっ……」
 粘り気のある湿った音が、結合部から響きだす。動くたびにそのままへたりこんでしまいたくなるような快感と脱力感に襲われながら、
 ジューダスは気力でそれを捻じ伏せ、腰を引き、そしてまた突き入れる。
「あ、あっ、ん……っ、奥に、当たって……ン……ッ!」
 リリスの嬌声が、ほのかに上気したその肌が、伝い落ちる汗が、ジューダスを突き動かす。
 乳房をまさぐったり、とか、甘い言葉をかけたり、とか、そんな余裕はない。
 ただ、目の前のひとを抱きたいという衝動に任せ、快楽に屈するのではなく、更なる快楽、その果てを求め、ジューダスは徐々に動きを早くしてゆく。
 僅かに響いているばかりだった粘り気を帯びた音は、やがてぐちゅ、ぐちゅという大きな音へと変貌してゆき、
 二人の繋がった部分からこぼれる蜜は量を増してゆき、シーツに細かく飛び散ってゆく。
「く、あ、ふぁ……っ」
「大丈……夫、か、リリス?」
 ようやく少しばかり余裕が生まれたのか、ふと、『気持ちいいのはもしかして自分だけではないのか』
 という観念に囚われたジューダスが、思わず不安げな表情を浮かべリリスの瞳を覗き込んで訊ねる。
 すると、しなやかなリリスの手がするりと伸びてきて、ジューダスの頭を抱えるようにして引き寄せる。
「ん……ちゅ」
「……んむ」
 帰ってきた答えは、甘い口づけ。
 突然の行為に、ジューダスが身を強張らせると、その隙を狙っていたかのように、するりとリリスが彼の口内に舌を滑り込ませた。
「……!?」
自分の口の中に異物が侵入してくる感覚にジューダスは戸惑ったが、己の舌を舐めつけてくるそれがリリスのものだとわかると、応えるように、自らも舌を突き出した。
 お返しとばかりに、リリスの舌に、自らの舌を絡ませる。
「ん……んむ」
「っ……ん、ちゅ」
 口づけをかわしたまま、上下で繋がったふたりは下腹部をこすり付けるように腰を動かす。
 互いの喉の奥から漏れる熱を持った嬌声が、口づけを交わしたままのふたりの口内を熱くしてゆく。
「ん、む、ぷは、あ……っ」
 窒息しそうになったリリスが思わず唇を離すが、それも一瞬のことで、短く息を吸うと、すぐにまた被りつくようにジューダスの唇を再度貪る。
 口づけを交わし、そして往還を繰り返しながら、ふたりは互いの身体を撫で回す。
 頬を、首筋を、背中を、しなやかな足を。
 愛おしむように。
 慈しむように。
 目の前のこのぬくもりを、失うまいとするかのように。


「あ、ああ、は……ァン!」
「く……」
 指先が肌に触れるたび、ゾクゾクとした電流のような快感が、全身を駆け巡る。
 あふれ出る愛液は、互いの肌を伝い落ちる汗と交じり合い、二人を乗せたシーツを、ぐしょぐしょに濡らしていた。
 二人の手の平は、行き先を求めるかのように彷徨い、そして最後に、互いの手の平を見つけ、指先が絡み合う。
 理性も何もかも飛んでいきそうな、熱くゆだった光景の中で、感じることができるのは、互いの存在、温もり、そして、
 目の前のひとを、愛しているという、確かな気持ちだけ。
「ッ……」
 ――リリスは、僕のすべてが綺麗だと、そう言った。
 僕だってそうだ、と、揺れる視界の中、意識ごと刈り取られそうな快楽の中、もはやジューダスの視界には、リリスしか映らない。
 目の前で揺れるリリスの白い肌。流れるような金の髪。このような状況でも、決して瞑ったりせず、じっと見つめてくる、蒼く深く澄んだ瞳。
 本人は少し気にしているらしいちょっと低めの鼻、やや尖り気味の桜色の唇、思わず被りつきたくなるような健康的な首筋。
 もちろん、外見的なところだけではない。
 気の強い性格も。それでいて少し繊細なところがある部分も。その底抜けに大きな包容力も。
 目の前の女性の、その全てが、たまらなく愛おしい。
 快感はとめどなく、どこまでも上昇し、まるで火花が飛んでいるかのように、視界すらチカチカと明滅する。
「あっ、はぁっ、ああっ!」
 一際高くリリスの嬌声が響き、ぎゅう、と締め付けが激しくなる。
 瞬間、むずむずとした刺激が、違和感のような衝動が生まれ、ジューダスの股間の、その先端部にじわじわと、痺れるような感覚が集まる。
 限界が近いことを悟ったジューダスが、途切れ途切れに、そのことを伝えようと喘ぐ。
「リリス……く、もう、っ」
 これまでの規則的な動きとは違い、がく、がく、と、小刻みに震えるように動きを変えたジューダスの様子に、リリスも、裏返りそうなほど高まった声で応える。
「うん、わ、んん……っ! わたしも、もう、もう!」
 腰を引こう、という考えは、ついぞジューダスの脳裏を過ぎることはなく。
 そしてリリスも、止めようという考えすら浮かばず。
 ジューダスが、一際強く、奥へと突き入れるのと同時。
 激しい締め付けが陰茎にかかり、ジューダスは思わず強く目を閉じて、リリスの中に、自らの想いを、衝動を、解き放った。
「く……ああ、っ!」
「ん、んんン……あああ……っ!」
 同時に達したのか、リリスもその背を弓なりに逸らせ、繋いだ手の平が、ぎゅ、と強く握り締められる。
 脈動する度に小刻みに精を放つジューダスの証を中に感じながら、リリスは、荒い息のままに、彼の髪をそっと梳いた。
 ジューダスも、それを振り払うようなことはせず、瞳を閉じると、倒れこむように、そっとリリスの胸元に、自らの身体を預ける。
「……っ、はぁ、はぁ……」
「……ふぅ」
 呼吸を繰り返すと同時に、ゆっくりとリリスの胸も上下し、ジューダスの耳に、心臓の鼓動がとどく。
「聞こえる……お前の鼓動が」
 リリスは、ジューダスの頭をきゅっと抱きしめ、より一層ジューダスを胸のなかにうずめさせる格好となる。
「私も、感じるわ。あなたの鼓動が……あなたの、生きているってあかしが」
「リリス……」
 何か言いたげなジューダスに気づいているのかいないのか。
 それにしても、と、リリスは、二人の精が飛び散って湿ったベッドシーツをちょいとつまみながら、すっかりいつもの調子でぼやいた。
「ベッドのシーツ、変えなきゃね」
「……馬鹿」

     ◇     ◇     ◇

 二人で眠るには、ベッドもシーツも、十分な大きさとは言えず、自然とふたりして寄り添うように、一つのシーツにくるまる。
 身体が密着していれば、当然、顔も近くなるわけで。
 目の前で、まさしく精根尽き果てすやすやと眠りに落ちている彼の顔を眺めていると、自然と微笑みがこぼれた。
 長いまつ毛。
 ほっそりした輪郭。
 沢山の戦いを潜り抜けてきた筈なのに、染みひとつない、白くきれいな肌。
「……むぅ」
 ひょっとすると、女のわたしよりも女らしいかもしれないその整った顔立ちに軽い嫉妬を覚えるが、まあそれはそれとして。
 私より少しだけ背の低い彼の頭に、そっと手をかける。
 ――私も、彼も、早くに両親をなくしたという意味では同じ存在。
 だけど、私と彼とでは、育ってきた境遇があまりにも違う。
 兄の、祖父の、そして村の皆の、たくさんの愛に囲まれて育ってきた私。
 だから私は、たぶん彼の母親代わりになることもできる。……マリアンさんが、そうしたように。
 でも、私は、彼を近くて遠い場所で見守る存在で居るよりも、彼とともに、手を取り助け合いながら、二人並んで困難を乗り越えていける存在でありたい。
 ……確かに、彼を見てると、母性本能をくすぐられるのも、確かだけど。
 隣で穏やかな寝息を立てる彼を起こさないように、そっと寝返りを打つ。視線の先、窓の外は、もう僅かに白み始めている。
 ふと、兄の姿が脳裏をよぎった。
 世界中を巡る旅ををしている彼は一体、今どこにいるのだろう。
 根が正直だから、悪い人にうっかり騙されて、財布の中がすっからかんになって寂しく野宿……なんてことになってなきゃいいけど。
 ――まあ、ルーティさんが一緒だし、それはないだろうけど。
 でも。
 例えさんさんと降り注ぐ太陽の下にいようとも。
 満天の星の海を見上げていようとも。
 きっとこの声は、とどくはず。
「――今日まで、ありがとう、兄さん」
 兄に対する、子供っぽい憧れ。もしかすると、初恋と形容すべきなのかもしれないそれに、私は別れを告げる。

 そして今日もまた、朝日を出迎えるとともに、新しい一日が始まる。
 ひとつ、ちょっとした決心を、胸に抱きながら。

     ◇     ◇     ◇

「あーさーよ。ほら、朝! 起きて!」
 耳にキンと響くその言葉と同時に、ゆさゆさと激しく身体を揺さぶられる。
 ……もう朝か。
 何故だろう、どうも身体中にへばりつくような、じっとりとした疲労感を覚える。
 それに、今日はやけに寒……?
「!!!??」
「あ、起きた」
 跳ね起きた僕は、
 覗き込むようにしているリリスの顔があまりにも接近していることに驚愕し、
 自分が寝ているのが、普段リリスが使っているベッドということに驚愕し、
 シーツの下の自分が、何も……下着すらも身に纏っていない状態であることに驚愕した。
「何呆けた顔してるの?」
「何って、お前……」
 はたと気づく、いや、思い出す。
 僕は、昨晩――
「あ、赤くなった」
「……仕方ないだろう」
 何せ、初めての経験だったのだから。
「ウブねえ」
 そう言って笑うリリスの頬も、朝日のせいではなく、ほのかに朱に染まっていて。
 表情を悟られまいとしたのか、リリスは誤魔化すように別の話を振ってきた。
「あ、そうだ。今日から上のベッド、使ってね」
「上のベッド……?」
 そういえば、この部屋のベッドは、二段重ねのそれである。
 この一ヶ月、僕はリビングに置いてある大きなソファーをベッド代わりにしていたのだが……
「いつまでもソファーってわけにもいかないでしょう。もう『お客様』じゃないんだから」
 そういうことじゃない。僕が言いたいのは――
「……いいのか? スタンが使っていたベッドだろう?」
 リリスは、たおやかに微笑み、ゆっくりと首を横に振る。その仕草や表情に、寂しげな影はなかった。
「兄さんは、きっともう帰ってこないから」
 お兄ちゃん……兄さん、か。
 その言葉を聴いた時の僕は、一体どんな表情をしていたのか、リリスは慌てて、僕の動きを手で制すと、
「別に兄さんの代わりってわけじゃないのよ」
「そんなこと、わかってるさ」
 僕にとってリリスが、マリアンの代わりでないように。
 マリアンも、リリスも、それぞれ違う意味で、僕にとってたった一人だけの特別な存在。
 リリスにとっての、僕とスタンも、そうであるように願いたい。
「まあ、それはともかくだ」
 開いた戸から、ひゅう、と冷たい隙間風。
 僕は、ぶるりと身体を震わすと、リリスに向かって一言、
「……まずは、服を着たいんだが」


 この一ヶ月ですっかり着慣れた服(スタンのお古らしく、だいぶ緩い)に袖を通し、廊下に出ると、
『よう』
 空気の読めない剣が馴れ馴れしく話しかけてきた。
「……何だ、一体。昨晩のことなら何も言及しないぞ」
 先手を打ってそう言うと、ディムロスはくぐもった笑いを漏らした。
『私もそこまで野暮じゃないさ。何、礼をひとつ、言わせてもらおうと思ってな』
「礼? それこそ言われる筋合いじゃない」
 ディムロスの為にやったことなどでは、決してないのだ。
『それでも……だ。ありがとう』
「……随分と、リリスに思い入れがあるんだな」
『まあ、恩人でもあるし……友人だからな。こういう時、生身の肉体がないことを時々恨めしく思う』
「お前、まさか……」
 僕の動揺を察したのか、ディムロスはからからと笑う。コアクリスタルから、からかい混じりの表情が透けて見えるようだ。
『恋愛とは違う愛の形もあるだろう?』
「……フン」
 分かっているさ。そんな事。
『しかし、スタンはもう戻ってこないだろうし、これからはリリスも前ほど私を引っ張り出そうとしないだろうし……暇になるな』
 一転、そうぼやくディムロスだったが、
『そうだ、新婚旅行は異世界大冒険というのは――』
 僕は無言で剣の柄を蹴り飛ばして、ディムロスを床にたたきつけると、背後から聞こえてくる雑音の一切を聞こえない振りをしてその場を去った。

 ――彼女は決心をした。
 僕もひとつ、決心しなければならない。

 台所では、リリスが朝食の支度で忙しなく動き回っている。
 邪魔をしては悪いかと、一瞬声をかけるのをためらうが、だけど、この僕の決意を、一刻も早く、伝えたかった。
「リリス」
「うん? なあに?」
 スープの味見の最中だったのか、おたまを片手にリリスが振り返る。
「その……僕の名前のことなんだが」
「?」
 僕が何を伝えたいのかわからないのだろう、リリスが首を傾げる。
「その……ジューダスという名で呼ぶのは、やめてくれないか」
「どうして?」
「ジューダスと呼ばれるのが嫌というわけじゃないんだ。……思い出も、思い入れも、ある。
 だけど、それはあくまで、どこかここじゃない、別の世界の十数年後、カイルたちと共に旅をした男の名前なんだ」
 だから、その名前は、彼のために――そして僕は、また新しい誰かに、生まれ変わる。
 これが、僕の決心。
「だから……新しい名前?」
 頷くと、リリスは口元を手で抑えて、くすくすと笑いだした。
「じゃああなた、これから何か重大な出来事があるたびに、名前を変えるの?」
「うるさい……これが最後のつもりだ」
「それって……?」
 蒼く透き通った瞳に見つめられ、照れ隠しに、声を張り上げる。
「ッ……なんだその目は! だから、名前は――リリス、お前がつけてくれ」
「私が?」
「……ああ。カイルが僕にジューダスという名を授けてくれたように……」
 僕はお前とともに、生きてゆく。
「そうねえ……」
 リリスは、暫しの間考えこんだのち、
「じゃあ、こんなのはどうかしら。
 生まれ変わった――ううん、はじめて、本当の自分になるあなたには、きっとピッタリな、素敵な名前」

 彼女の桜色の唇が、小さく動く。
 その瞬間――僕は、生まれ変わった。

     ◇     ◇     ◇

「それじゃあ、暫くの間家を空けるけど、留守番お願いね」
「ああ」
「羊の世話とかで困ったら、村の皆を頼るのよ。ちゃんと頭を下げて」
「……いいから早く行け」
 あの夜の後、スタンたちから、結婚を知らせる手紙が届いた。
 それを見たリリスはひとつ、晴れやかな表情で決心をした。
 兄が帰ってこないというなら、いっそ自分から出向いて、思い切り祝福してやろうという、そんな決心だ。
「ルーティさんにも、お兄ちゃんの起こし方のコツとか、ちゃんと教えてあげないとね」
 そう言って旅の荷物に、楽しそうにおたまとフライパンを放り込むのはどうかと思ったが。
「なぁにその表情は。さては私と別れるのが寂しいの?」
「馬鹿を言うな。これから鬼のような形相をした女にたっぷりいびられるであろうスタンとルーティに、僅かばかりの同情をしただけだ」
「そんなことしないもん」
 リリスは腰に手をあてて、不機嫌ですとアピールするがごとく頬を膨らます。まるっきり子供だ。
「まあ、それはそれとして」
 かと思うと、その一瞬あとには何事もなかったかのようにけろりとしている。
 まったく、よくもまあこうころころと表情が変わるものだ。
 リリスの視線は、僕ではなく、僕の手の中にある長剣に向けられていた。
「いいの、ディムロス? せっかくお兄ちゃんのところに戻れるチャンスなのに」
『構わん。あいつを見守るべき存在は、既に私ではないということだろう。
 それに――私までスタンのところに出向いてしまうと、どこかの寂しがりやの話し相手が居なくなってしまう』
「おい、誰のことだそれは」
『さあなあ?』
「ほらほら喧嘩しないの。……まったく、これじゃ安心して家を空けることもできないわ」
「いいからお前も早く行け!」
 声を張り上げて、埒の明かない会話を断ち切る。
 リリスはやれやれ、とため息をついて、ゆっくりと身を翻そうとして――半身の体勢で、その動きを止めた。
「……ねえ」
 そこで、言葉に詰まったように、リリスは胸元のペンダントをぎゅ、と握り締めた。
 ……言いたいことはわかっていた。
 慣れないなりの笑顔を形作って、僕は不安げに黙りこくる彼女に、そっと言葉をなげかける。
「どこにも行かないさ。ちゃんと――待っている」
 背後に目をやると、そこには、
 歩くたびに床はぎしぎしと不安な音を立て、
 雨が降れば屋根の隙間から雨漏りの滴が滴る。
 そんなくたびれた一軒家。
「待っているさ。僕らの……この家で」
「……うん!」
 リリスはひまわりのように笑い、ひとつ大きく頷く。
 もう誰かの姿を、彼女に重ねることはない。
 今度こそリリスは身を翻して、軽やかに走り出す。
 その背中に軽く手を挙げると、まるで後ろに目があるかのように彼女は振り返り、思わず笑いが漏れるほど、大げさに手を振り返し、
 そして――僕の名を高らかに呼びあげた。
「行って来るわね、エミリオ!」

     ◇     ◇     ◇

 誰かがそばにいるだけで、ただの一日も、鮮やかに彩られた、きらきら輝く日々になる。
 穏やかに、けれど豊かに日々は綴られ、あの、神の眼をめぐる騒乱から、はや十八年の月日が過ぎました。
 ――私と、エミリオが出会ってから、もうすぐ十七年、か。
「おい! 何を感傷に浸ってるんだか知らないが、放せリリス!」
 ムードのわからない旦那が、襟首を引っつかまれてぎゃあぎゃあとわめいている。
 勿論、捕まえているのは私なんだけど。
「暴れないでよ、子供じゃあるまいし。だいいちこの世界のカイルたちは、あなたと面識があるわけじゃないんだから別に照れなくてもいいじゃない」
「照れてるわけじゃない!」
「じゃあどういうわけよ!」
 互いにぜいぜいと、荒く息をついて小休止。
「……リアラが、生きているんだろう」
 僅かに眼を逸らし、ぽつりとエミリオは漏らす。
 兄さんから手紙が届いたのは一週間ほど前のこと。
 世界中を旅している兄さんの子……私から見ると甥っ子のカイル達が、このフィッツガルドのほうまで来たついでに、わざわざこんな山奥の村に寄ってくれるらしい。
 で、そのことを知った途端に(わざと今朝まで伏せていたわけなんだけど)こうして暴れだす困った旦那さん。
 エミリオが言うには、自分もリアラも、本来ならばこの世界には存在していない人間――いわばイレギュラーな存在。
 そんなこの世為らざる人間が顔を合わせれば、なにか世界によくない影響が起きるやも……とのことだけど。
「そんな言い訳しりませーん」
「言い訳なんかじゃない!」
「言い訳よ。だって、ほら」
 タイミングよく玄関をくぐって現れた人物を、私は指差す。
 正確には、その人物が背中に掛けている剣を、だけど。
「……何? 母さん」
 トレーニング上がりなのだろう、僅かに肩を上下に揺らしながら、タオルで汗を拭うリムルは首を傾げる。
「いや、リムルじゃなくて」
『……私に何か用か?』
 愛娘の背中から、ディムロスがなんとなく不機嫌そうに声を発した。
 私とエミリオの間に生まれた子であるリムルが、ディムロスの言葉を聴くことができるのはある意味当然のことで、
 私譲りの雷の才能のうえに、エミリオとディムロスに剣の手ほどきを受けるうちに、ちょっとたくましすぎるくらいにたくましくなってしまった。
 最近ではディムロスと共謀して、何かいろいろやっているようだけど……まあ、それは今はどうでもいいか。
「そうそうディムロス。あなたからもこのひとに何か言ってやってよ。いい年こいて知り合いと会うのが恥ずかしいってだだこねてるのよ」
『何……?』
 そんなくだらない事で私を呼んだのか、と、ディムロスはますます不機嫌そう。
 ……リムルと二人きりのひとときを邪魔されたのが気に食わなかったのかしら?
「違う! そうじゃない! 僕は世界の理というものをだな――」
「なぁにが理よ! 異世界で直したこのディムロスとあなたが出会ったところで何も起こってないんだから、大丈夫に決まってるじゃない!」
 本当はエミリオ自身、苦しい言い訳だと気づいていたのだろう、呻くようにぐ、と押し黙って、

 更に暴れだした。
「放せっ! 僕は、あいつに『おじさん』などと呼ばれるのは真っ平御免だ!!」
「それが本音ね! 私だって『おばさん』なんて呼ばれたくないわよ! だいたい私と結婚してなくたってあなたカイルのおじさんなのは変わりないでしょ!」
 村のみんなからは、「リリスちゃんは若く見えるなー」なんて言われるけれど、冗談じゃない。私はまだまだ若いのだ。
 こんなにも楽しいことで満ち溢れているこの世界、まだまだ! 老け込んでなんかいられない。

 そんな私たちの情けない言い争いを遠巻きに眺め、リムルは呆れた様子で、ディムロスはからからと陽気に笑う。
「やれやれ……」
『まったく、いつまで経っても仲睦まじいことだな』

 豊かで、穏やかで、平和な日々。
 だけど今日は、ちょっと賑やかになりそうな、そんな予感。
 玄関の脇、壁に立てかけられた、古い仮面の置物も、今日はどこか笑顔でいるように見えた。


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