セーヌ川、5秒前。 |
目を開けると、漆黒の闇が広がっていた。 それが空だと気付くのに、さして時間はかからなかった。 いまだ焦点が定まらない視界を緩慢に動かすと、遠くの方でぼんやりと灯りが見える。 地上の全てを照らす明るさではない。人の道を照らすための、人工的な光。 ならば太陽ではないだろう。すると、今は夜か。 周囲にわだかまる夜気を吸い込もうとして、彼は軽く咳き込んだ。何故か、喉の奥に水の味がした。 ひどく気分が悪かった。気だるさが全身を包んでいた。 頭の隅で起き上がろうとは思うものの、腕の動かし方が思い出せない。 全ての感覚が重く、鈍い。まるで、何重にもかさねられた殻の中から世界を眺めているような。 彼は混濁した頭で、ぼんやりと思考を紡いだ。 今が夜なのは分かった。だが、自分がここにいる経緯がまるで分からない。 と、彼は自分の口中に鉄の味が広がっていることに気付いた。 血だ。いつの間に、口の中を切っていたのか。 そう、血だ。 ・・・・・・血? 途端に、頭を覆っていた濃い霧が取り払われて行く。 瞬時にして頭の中に割り込んできたのは、断片的な記憶だった。 銃声。悲鳴。硝煙に混じった生臭い血の臭い。折り重なった死体。 思い出すのは、それだけで充分だった。 あとはただ、糸を辿って行くように。ごく自然に思い出す。 自分の名前。職業。現在の職務内容。昨夜のあの戦いの記憶。 そして――― ―――自分の世界が砕け散ったあの瞬間。 同時に。 彼は叫んでいた。あまりの衝撃に喉が引き攣れ、実際声にはならなかったが。 堰を切ったように、空虚な心へ感情の渦が押し寄せてくる。 恐怖、不安、焦燥、悔恨が―――それはおおむね、絶望とも言い換えることが出来た―――胸の中を荒れ狂い、蹂躙する。まるで激流のように。 それは、信じがたい苦痛が伴った。剥き出しの神経を切り刻まれているような、痛み。 彼は堪らず、身を捩って苦痛から逃れようとした。 が、体が言うことを聞かない。動かすことが出来ない。指一本たりとも。 内臓が圧迫され、肺に空気を入れることさえままならない。 水を含んで重くなったコートも服も、まるで外側から自分を押し潰そうとしているようだった。 耐え難い苦痛の中、彼は呼吸も出来ずにただ恐れ戦く。 吐き気がする。体の震えが止まらない。 彼は仰向けで横たわったまま、声も無く絶叫した。 遠くに見える灯りが不自然に拡散したのを感じ、彼はようやく自分が涙を流していることに気付いた。 顔を歪ませ、ぎり、と歯を噛み締める。喉の奥に血の味がした。 弱い。自分はあまりにも弱い存在だ。 この体を起こすには、何もかもが重すぎる。両足で地を踏みしめて立つには、あまりにも自分は脆弱すぎる――― ぱしゃん。 唐突に響き渡る澄んだ水音に、一瞬思考が止まる。 半ば呆然と視線だけを転じると、川べりに人影が見えた。 顔は良く見えないが、男だ。体格を見ればそれは一目で分かる。 あの男も服を水に濡らしたのだろうか?こちらに背を向け、シャツか何かを絞っている。 ジャベールは目を細めた。あの男、どこかで見たことが――― 刹那、頭から冷水をかけられたような衝撃を感じた。 間違いない。あいつだ。だが、何故あの男がここにいる? 彼は信じ難いといった目で、男の後姿を凝視する。 当の男はこちらの様子に気付いた風でもなく、絞ったシャツをばさりと広げていた。 そして、へっくしょい、とやけに間延びしたくしゃみの音が周囲に響く。 実際、寒いのだろう。 暖を取るものがある訳でもないのに、ずぶ濡れになってこんな寒空の下を――― ・・・ああ、そう言えば確かに寒い。 彼は初めて、自分の体が寒さで凍えていることに気が付いた。 へっくしょい! またもや間の抜けた音が鼓膜を叩く。 やめろそれ。気が抜けるだろう。 だがこちらの胸中にはお構い無しに、同じ音は二度三度と続いた。 間の抜けた音が響くたび、どことなく頭の隅が醒めていくのを感じながら、彼はとりあえず、自分の目尻に溜まった涙を拭おうと考えた。 あんな緊張感の無い音を連発するような男に、泣き顔を見られるのも癇に障る。 どうやら第三者を目にして、彼の自尊心がわずかに蘇ったらしい。 指先に意識を集中させる。微かに力がこもった。 次いで、腕全体を意識する。すると、先程までは鉛のように重かった腕が軋みながらも動き出す。 途端に、彼は猛然と腹立たしくなってきた。 あの男は、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。 殺せと言ったのに助けるような真似をして。それに納得が行かず死のうとしたのに、性懲りも無くまた助けるとは。 というか、そもそも何故あいつがここにいる。散歩の途中か。偶然通り掛っただけか?それとも、自分が川へ身を投げることを見通していたとでも言うのか? 彼は苛立たしげに、手の甲で目元をぐいと拭った。 いや。 彼は軽くかぶりを振った。 どちらでもいい。そんなことは、どうでもいい。 彼は手をつき、なけなしの体力を振り絞って上半身を起こそうとした。 疲労しきった体は悲鳴を上げたが、そんなことはどうでも良かった。 右足に力を込める。どうやら相当の努力を惜しまなければ、何とか立ち上がれそうだ。 胸の中を荒れ狂う感情の渦は、いまだに胸を締め付けるが。 水を吸った服は重く圧し掛かり、冷え切った手足はろくに動きもしないが。 今はまだ、どうでもいい。 彼は軽く息を吸った。 とりあえず、あいつ一回殴ろう。 まともに力の入らない腕で、どれ程の威力も期待は出来ないが、とりあえずぶん殴ろう。 これまでの事だとか、この先の事だとか。そういった話は、それから考える。 この腹立ちをまずあの男にぶつけなければ、先へは一歩も進めないような気がした。 男がこちらを振り返った。起き上がろうとしている自分を見て、何か言葉を発した。 はっきりとは聞き取れなかったが、どうやら大丈夫かと言ったらしい。 お節介め。胸中で毒づきながら、右手で拳を作る。 相手がこちらへ近付いてきた。 実に好都合だ。あいつがいる距離までは、さすがに歩いて行けそうに無い――― いきなり問答無用で殴られたら、あの男は何と言うだろうか。 驚くか、呆れるか、怒り出すか。喜ばれたら非常に困るが。 彼は無性に愉快になった。それもまあ、どうでもいい。 相手はもう、すぐそこまで来ている。 彼は重い体を叱咤して膝を付いた。すでに体力を使い果たし、その証拠に膝が頼りなく震えている。だが、あの男に助け起こされるなど真っ平だった。 それは、絶望を訴える胸の声だとか、水を含んだコートや服だとか。全ての存在が自分の体に重く圧し掛かって来るけれど。 彼は正面を睨み据える。 今はまあ、どうでもいい。物事には優先順位というものがあるだろう? そして彼は、再び地を踏みしめる。 |
| (終わり) |
正しい題名→セーヌ川のほとりで乱闘騒ぎが勃発する5秒前。 まあ死にかけてる人がすぐぶっ倒れると思うので、大ごとにはならないでしょうが。 妄想いっぱい夢いっぱいでお送りいたしました。強く生きろよ!てなもんで。 |