病院へ行こう!







結局のところ。
金と手間を惜しみさえしなければ、それなりの成果が得られるのだ。街づくりというものは。
いつ終わるとも知れない病院長の長話を聞きながら頭に浮かんだのは、ひどく月並みな結論だった。
我ながらいささか平凡すぎたか。考え直そうかとも思ったが、彼はすぐに思いとどまった。控えめに言っても、全く意味がなさすぎる。
バルジャンは隣を歩いている病院長に気取られないよう、胸中で嘆息した。

後ろの廊下から、ばたばたと足音が近付いて来た。
音からすると、かなり急いでいるようだ。彼は歩調を緩め、心持ち道を空けてやる。
その数秒後、両手一杯の診療道具を抱えた白衣の若者が自分達を追い抜きかけ―――こちらの顔を見て、ぎょっと顔をこわばらせた。
慌てて立ち止まろうとする若者に、バルジャンは目で笑いかける。
自分の無礼を市長がさほど気に掛けていない様子だったので、安堵したのだろう。ほっと息をつくと、彼はこちらに向かって軽く会釈をした。そして再び、ばたばたと忙しそうに廊下を走っていく。

尚も話に夢中な病院長の声を耳で流しながら、走り去る若者の背中を何となく目で追いかける。すると、彼は廊下の向こうが大きな広間になっていることに気が付いた。
確かあそこは、病院の入口のロビーだ。となると、自分達は病院内を一周して戻って来たのか。

意識を凝らすと、ロビー独特の微かなざわめきがここまで流れてくる。
柔らかな風が通り抜けると、消毒液の匂いがふわりと辺りに舞った。
視界に移るのは、白い壁に白いシーツ、動き回る白衣の人々。統一された白は、病院らしい清潔感を感じさせられる。
バルジャンはそんな病院内の様子を、どこか信じられないような気分で眺めた。

(金と手間か。なるほど、有益には違いない)

実際、彼がこの町へ来た当初のこの病院は、それはそれは凄絶な有様だった。
壁面は剥がれ落ち、天井には大穴が開き、野良猫とネズミが診察室を疾走している上空ではコウモリが気ままに超音波を出していたり、それはもう廃病院さながらの様相を呈していた。
バルジャンは感慨深げに呟く。

「・・・随分と様変わりしたものだな」

隣で病院長が勢い良く吹き出した。いつの間にか長話は終わっていたらしい。
彼も昔の有様を思い出したのだろう。医者らしからぬ恰幅の良い体を折り曲げて、盛大に笑った。

「確かに!この変わりようは尋常ではありませんな。全て市長の御助力の賜物です」
「私は当たり前のことをしたまでだよ。人々の生活にとって、病院は無くてはならないものだろう」
「ふふ。そんなことは皆、昔から分かっていましたよ。だが実行する者は誰もいなかった」

向けられた自分への賛辞を、バルジャンは困ったような顔をして受け止める。
自分の功を誇らない所も、彼が町の人間達から幅広く人望を集める理由の一つだった。

ロビーに戻ったバルジャンは、礼を言って病院長と別れた。
彼は正面玄関に向かって歩を進め―――ぎょっとして足を止めた。
視線の先には、たった今病院の正面入口から入ってきた2人の男。
バルジャンは彼らを良く知っていた。この町の警察官だ。
別段、そのこと自体に驚いたのではない。まあ警官という響きには今でも苦手意識はあるものの、彼が言葉を失ったのはそういう訳ではない。
問題なのは、彼らの有様だった。2人とも顔が泥と血で薄汚れ、制服には無数の切り裂かれた跡があった。

彼らは市長の存在に気付いたのだろう。入口付近で踵を鳴らしてこちらに敬礼を送ってきた。
反射的に返礼をすると、バルジャンは彼らに歩み寄った。

「君たち、どうしたんだその怪我は」
「は。先程この近くの露店街で強盗犯数名を取り押さえた際、乱闘になりまして」

警官の一人が形式ばった口調で返してくる。だが次の瞬間、彼はくしゃりと笑ってみせた。大げさに肩をすくめ、

「我ながら、あんなゴツい奴ら相手に良くやったもんですよ。思い出しただけでもぞっとしねえ」

屈託ない笑顔を浮かべ、先程とは打って変わったくだけた調子で言い放つ。顔なじみのその警官につられ、バルジャンは静かに笑みを浮かべた。
と、視界の隅に不自然な赤が映った。
はっとしてバルジャンはもう一人の警官に向き直った。改めてその様子を見て、自然と顔が曇る。

「ジャベール、ひどい怪我じゃないか」
「―――いえ。それ程には」

ジャベールは拍子抜けするほど、いつも通りの口調だった。余計な感情を一切含まない、冷酷とすら印象を受ける、極めて事務的な口調。
だが、彼の言葉以上に外見が多くを物語っていた。バルジャンは思わず顔をしかめた。
ジャベールは普段着ている警察の制服を肩にかけている。
肩口を負傷したのだろう。制服の下から覗く白いシャツには、べっとりと血がこびり付いている。
固まった血が、所々赤黒く変色していた。少なくとも出血は治まっているようだが。

「その肩の傷、随分深いのではないのか?」
「は。特に大したことでは・・・」
「ああ、その傷?見事にざっくり行ってるでしょ」

余計なことを言うな、と刺々しい視線で語る同僚を特に気にするでもなく、警官の片割れは言葉を継ぐ。
この男、意外と大人物かもしれない。バルジャンはそれを見て内心苦笑しながらも、彼の言葉に耳を傾けた。

「それ、切羽つまった犯人の野郎がトチ狂って、近くにいた子供に切り掛かろうとしたんですよ。それをこいつが間に入って、こう、ざくーっと」
「・・・そうだったのか・・・それは災難だったな、ジャベール。ゆっくり養生してくれ」

ジャベールに労いの言葉をかけると、バルジャンは姿勢を正して彼らに向かった。市長らしい厳かな口調で、告げる。

「2人とも、本当にご苦労だった。この町の市長として、君たちのような優秀な官吏がいることを誇りに思うよ」

二人の警官はさっと踵を揃え、市長に敬礼する。
バルジャンはわずかに頷くと、それを別れの挨拶としてその場を立ち去ろうとした。
その時、

「おまわりさーん!!」

一人の少女が入口からぱたぱたと駆け寄って来た。

「あ、さっきの」

警官の片割れの呟く声が聞こえた。視線で問うと、彼は軽くジャベールの肩の傷を示してみせた。
ふむ、とバルジャンは軽く鼻を鳴らし、納得の意を表す。

「さっきは助けてくれてありがとう!これあげるね!」

少女は右手に下げた紙袋の中から、小さな包みを二つ取り出した。
私が焼いたのよ、と言葉を添えて、2人の警官にそれぞれ渡す。

「あ、市長さま!せっかくだから、市長さまもどうぞ!」
「ああ、どうもありがとう」

バルジャンは包みを受け取って、赤いリボンを解く。と、中に数枚のクッキーがあった。
ひとつ摘まんで口に入れる。ふわりと広がる、ほのかな甘みと香ばしい匂い。
とても美味しいよ、と伝えると少女は頬を赤らめてにっこりと笑った。

ふと、バルジャンはジャベールに視線を転じた。
彼の同僚が『このクッキーがいかに美味いか』について、あらゆる言葉で褒めちぎって少女を喜ばせている傍らで、菓子包みを受け取ったまま、どこか渋い顔をしている。
何となく声をひそめて、聞く。

「どうしたのかね、ジャベール。甘いものは苦手か?」
「・・・・・・・・・は」
「まあ一枚くらい食べて、美味いと言ってあげなさい。その方があの子もきっと喜ぶ」
「―――ですが、」

なかなか諦めが付かないといった風のジャベールに、彼は呆れたように囁く。

「子供の好意を受け止めてあげるのは、警察官と言うより大人の責務だぞ」
「いえ、その・・・」

そこまで言って、ジャベールが口ごもる。
何とも珍しい光景だろう。バルジャンはひどく驚きつつも、無言で話の続きを促す。
警部はいかにも気まずそうに、さらに声を落として言葉を続けた。

「・・・ですが、甘い物を食べると―――何と言うか、頭痛と胸焼けが一度に襲って来まして」

言って、ジャベールは小さな包みを所在なさげに持ち替えた。
何とはなしに。バルジャンは彼が言いたいことを察した。
怪我を負い、血液をだいぶ失ったこの状態で下手に体調不良を招くと、明日からの職務に影響が出かねないというのだろう。
なるほど、この男らしい生真面目な物言いである。むしろ、警察官としてあるべき自己管理とも言える。バルジャンは小さく吐息した。

「そうか、職務か・・・」

一瞬、バルジャンは遠い目をした。何かを考え込むかのような市長の表情に、ジャベールは怪訝そうな視線を送る。
バルジャンは小さくかぶりを振ると、それとなくクッキーの欠片を摘んだ。
そのままあさっての方角を見て、ジャベールにとっての要注意ワードをぼそりと呟く。

「あ、犯罪者」
「な―――」

即座に反応したジャベールの口に、その欠片をひょいと放り込む。間髪いれず、バルジャンは再び小さくかぶりを振った。

「言いたいことは分かるし立派な考えだ。が、ここはやはり食べておくべきだよ。あの子の為にも」

みるみる顔色が青くなる警部に対し、それに、と市長は朗らかに言い放つ。

「少しくらい体調が悪化しても大丈夫だろう、ここは病院だし。先ほど一通り見て回ったのだがな、実にいい病院だぞ」

果てしなく明快な市長の言葉に対し、当のジャベールからの反応が返ってこない。
この男、人の話を聞いているのだろうか。バルジャンは警部の目の前で手をひらひらと振ってみる。それでも反応は無い。どうやら顔色を変えたり冷や汗をかいたり目から光を消してみたり、自分のことで手一杯のようだ。
そんな警部を軽やかに放置して、バルジャンは少女に声を掛けた。

「良かったね、ジャベール警部が涙が出るほど美味いと言っているよ」
「え、ほんと!?」
「本当だとも。ほうら、顔色を変色させてまで感激している」
「わあい!ありがとう、おまわりさん!」

少女は生きる屍と化したジャベールの手を取ると、ぶんぶんと回した。
彼女が嬉しそうに顔を綻ばせると、まるでその場に花が咲いたかのように辺りが華やぐ。
バルジャンは深く頷いた。これでいい。どんな社会だろうと、子供達の無邪気な笑顔がある限り、明日への希望もまた尽きることは無いのだ。
少女によって、人形のように上下左右にぶん回されるジャベールの手を見ながら、バルジャンはほんのりと笑った。

それは、まるで心地の良い音楽のように。少女の涼やかな笑い声は、どこまでも優しくその場を包み込んだのだった。






(終わり)



地べたに顔打ったり鈍器がヒットしたり溺れかけたり、何だか思い返してみると、ジャベは生傷が絶えませんね。まあいいや(いいのか)。
てゆうかバルジャン、か弱い女子供が絡むとわりかし容赦ないですね。や、絡まなくてもジャベに対しては無意識に容赦ないという説もありますが。まあいいや(いいんです)。
そして皆でアハハウフフしている隙に警部重症ですよ。どこまでも続く、踏んだり蹴ったり人生哉。















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