「Partnership」
朝靄の中に、規則正しいランニングの足音が響く。
まだ太陽がほんの少し顔を出しただけの早朝、通行人の影もない。
足音の主は、ランニングウエアに身を包んだ九条雪人という青年だった。
超エリート高、知る人ぞ知る名高き「後光天凛学院」を卒業し、その後すぐに名のあるボクシングジムへ通い出し、早2年が経とうとしていた。
2年の中で彼は目覚しい成長を遂げ、今ではジムで敵う相手は誰も居ない。
それどころか、すでにいくつかの試合でチャンピオンに輝いている、期待の新星でもあった。
天凛学院在学中から続けているボクシングで、世界最強を目指す。
それが彼の夢であった。
いくつかの優勝を取ったとはいえ、世界の広さに比べればまだまだ井の中の蛙。
その意識を忘れずに、雪人は基礎のトレーニングである毎朝のランニングを欠かさず続けていた。
少しずつ晴れてくる朝靄をかき分ける様に、ただ黙々と一定のペースで走り続ける雪人。
足は自然に、ある場所へと向かっていた。
公園の並木道を抜け、都会の街中では珍しいほど自然の木が多く植わる小高い丘の一角。
小さな教会が、そこにはあった。
まだ日も昇りきらない早朝であるために、いつも教会に人の気配は無い。
それでも雪人は、そこまでの道のりをランニングのコースにしていた。
舗装された、平らなばかりの道ではトレーニングにならず、丘へ登る坂道を利用している事も要因の一つなのだが…
「…雪くん?」
「…!」
教会の前まで来たところで、不意に声をかけられた。
振り向くと、慣れ親しんだ親友の驚いた顔があった。
金に近い長い茶髪に、ぴっしりとした神父の衣装を身にまとった、落ち着いた雰囲気の青年。
アルフレッド・山崎という、この教会の神父だ。
「アル…なんで」
「なんでって、ココはボクの教会じゃないか」
「…」
「相変わらずだなぁ、雪くんは」
言って、ニッコリ微笑む。
見る者に癒しを与えるような、暖かい笑顔…昔見た笑顔と何も変わらない。
神の道の教えを説く事を生業としているアルフレッドは、学生時代から敬虔なクリスチャンだった。
卒業後はそのまま、通っていた教会へ神父として勤める道を選んでいた。
二人は学生時代からの親友だった…友という言葉だけでは片付けられないほど、誰より互いを信頼しあえるパートナーとしての関係。
共に、「首席」である「生徒会長」の座を目指して戦った戦友でもあった。
その関係は卒業から2年を経た今でも続いている。
歩み始めた道は違ったけれど、どんなに離れていても忙しくても、相手を忘れる事は無かった。
たびたびアルフレッドは差し入れを持ってジムを訪ね、雪人も日中のトレーニングの合間をぬって教会へ訪れる。
そうして過ごした卒業後2年間は、よりお互いを深く結びつけていくことになった。
「いや…何時もはこんな朝早くは居ねぇだろ」
「そうなんだけどね。今日は庭を掃除しようと思って」
よく見ればアルフレッドは、今時珍しい古びた竹ぼうきを握っている。
「何故かこの時間に目が覚めたから、準備してたらキミが走ってくるのが見えたんだ」
「…偶然だな」
「そうだね。でも、こんな偶然なら何時でも大歓迎だな、ボクは」
「そうだな」
お互い、顔を見合わせて笑う。
「雪くん、ちょっと寄っていかないかい?…それともすぐに戻らなくちゃならない?」
「いや…寄らせてもらうかな」
教会の中にはまだ朝日が差し込まず、ひんやりした気持ちの良い空気が漂っている。
雪人を適当な場所に座らせ、アルフレッドは奥の部屋から冷えた麦茶を持ってきた。
「作り置きのもので、申し訳ないけど」
「悪いな、有難う」
「…雪くん…」
「?」
アルフレッドが奥へ行っている間に、雪人はランニングウエアの上着を脱いでいた。
鍛え上げられた腕や肩には、数多くの傷や痣が浮いている。
見るに耐えない、というほどではないが、近くで見るとその数の多さに絶句してしまう。
「トレーニング…大変なんだね」
「あ?」
「怪我、多いみたいだから」
「あぁ…ま、いつもの事だしな。怪我するのが仕事みたいなもんだろ」
他人事の様にサラッと流す雪人。
アルフレッドは無言で再び奥の部屋へ行くと、今度の帰りには小さな箱を抱えて戻ってきた。
「腕、出して」
「何でだよ…いーよ手当てなんて」
「怪我をするのが仕事なら、早く治すのも仕事だよ」
「そう…なのか?」
「そうだよ」
アルフレッドは、雪人の腕の大きめな痣にシップを貼り始める。
雪人は強引に腕を引っ込めてまで、治療を止めさせようとは思わなかった。
「…はい、終わったよ」
「あぁ…」
「あんまり、無理しちゃ駄目だよ?」
「無理なんかしてねぇよ」
保護者のように諭すアルフレッドの言葉を、雪人は相変わらずサラサラと流していく。
「でも、そんなに怪我して…」
「約束、したろ?」
「?」
「トップになる、って」
「…トップに…それってもしかして…」
『トップになる』
天凛学院で、生徒会長の座を目指し戦った時、交わした約束だった。
必ずトップになる。お互いにそう約束して、一緒に選挙を戦った。
だがその約束なら、すでにもう果たされているはずなのに…
「オレの中でお前との約束は、まだ終わってねぇんだよ」
「雪くん…」
「『世界最強』には、まだ程遠いからな」
「…まだ、あの時の事、覚えててくれたんだね」
「まぁ、な」
教会の壁にはめ込まれたステンドグラスが、朝日を通してキラキラと輝きはじめた。
座って話す二人の傍に、ゆっくりと光が届こうとしている。
「オレは、何時か必ず世界最強のボクサーになる。だからお前も…」
「ボクも?」
問われて、雪人はちょっと考えるようなそぶりをし、
「…何つーのかな…世界最強の、神父になれよ」
突拍子も無い答えを返した。
「…」
「…?」
「ゆ…雪くん…そんなの、無いよ…」
「な、お前、笑う事ないだろうが!」
「だって…」
肩を震わせ、込み上げる笑いに耐えるアルフレッドに、雪人は真剣に怒っている。
…アルフレッドの反応は、当たり前といえば当たり前なのだが。
「いや…ゴメン。そうだね…確かに神の前に上下はないけど」
「…」
「世界最強の神父、か。良いかもしれないね」
「なんっか、バカにされてる気がするんだが…」
「バカになんかしてないさ、雪くんらしくていいよ」
「……そうか?」
「そうだよ」
朝日の光が、教会の中を煌々とステンドグラスの色に染めていく。
アルフレッドの金に近い茶髪に、雪人の黒髪に、光の粒が踊り始める。
もう陽は完全に昇ったようだった。
「ん、そろそろ行くか…」
「雪くん」
ランニングウエアを羽織る雪人に、アルフレッドが声をかける。
「人と諍い合うだけが、戦いじゃない。
雪くんのように自分の持っている実力で、ボクなりに目指してみるよ。世界最強の神父」
「…何度も言うなよ…」
「なんで?ボクは結構気に入ってるんだけどな。世界最強の神父」
(…もう、どーでもいい…)
「?」
朝の光が全てを平等に照らし出していた。
教会を出、二人は別れを告げる。
「じゃ、また今度」
「おぅ」
「キミに、神のご加護がありますように」
アルフレッドが走り出した背中へ祈った言葉に、雪人は腕を振り上げて応えた。
END