※自傷行為の表記があります。苦手な方はご注意ください。



手を引いて、連れ出して
 


 教室に入ったとき、私は一瞬息ができなくなったのかと思った。急に足が震えだして、手がしびれてしまったようにピクリとも動かなくなって、誰かの視線がまるで針のように突き刺さった。あぁ、知られてしまったのか。と、理解して、自分の気持ちを整理するためにサボった四日間はなんだったんだ、と、どこか客観的に考えながら。「気にしてないし」なんて、メールで送られたあんな機械的な文字でよく言えたものだ、と私は思う。もう私の精神状態はほとんど、誰かを信用するなんてことができない状態だった。(そもそも人のメールを勝手に読むという行為に走った人間の、一体何を信じていいのか、私にはわからない)

 あぁ、視線がいたい。うつむいて歩くことでしか自分を守ることができないと思った。とりあえず、自分の席まで歩いていけば、そこまでできればあとは一日、そこで何も言わずに時間が過ぎるのを待てばいいと思った。かたん、いすを引く音、がたん、机に教科書をしまう音、とすん、私が机に突っ伏してしまった音。それでもまだ聞こえてくるクラスメイトの笑い声と、朝の挨拶と、いすを引く音と、とにかくいろんなものが耳障りに聞こえてきて、そして、私は得も知れない恐怖に襲われる。耳をふさぎたくなる衝動、震える体を必死に自分で抱えて抑える。ココには何も期待してはいけない、声になるかならないか、ぎりぎりのラインのところで、私はそうつぶやいていた。

 そもそも私が精神科に通っているなんて、彼女たちの格好の話題になると思う。

 なにせ、私と同じ同世代の女の子はどういうわけか、誰かの話題が大好きだ。自分が含まれない誰か。たとえば、三組の村上君が隣のクラスの渡辺さんにふられた、とか、学年主任の田辺先生に初孫が生まれた、とか、体育教師のSセンセーは、一年の英語教師で去年大学を卒業したばかりのMセンセーとホテルに行っていた、とか、六組の出席番号三十三番の羽藤まどかが精神科に通ってる、とか。
 だから私は小さくうずくまることにした。どうせ彼女たちは話しかけてこないことを知っているから。でしゃばったっていいことないし。そもそも私は病気になって以来、それを知られることを恐れて壁を作って人付き合いをしていたから、大して前と変わらない。そうだ、何も変わらない。

 右ポケットに入っているカッターに手をかけて、机の下で刃をだしてみる。英語の授業。クラスの半分が寝ている英語の授業。くだらない、くだらない、くだらない。私はつぶやく。くだらない。カッターの刃をつまむ、ぷつり、音がした気がした。小さい痛み。そんなことはどうでもいい。一度顔を上げる。はげた英語教師が黒板につづる英文。くだらない。チョークの音が妙に耳障りだ、ううん、それ以上に呼吸の音。聞こえるはずもないくせに、聞こえるはずもないくせに、妙に耳につく四十人分の呼吸の音。
 いなくなるなら、おまえらがいなくなればいい。私は思う。お前らがいなくなればいい。春樹じゃなくて、ユキさんでもなくて、梨香ちゃんでもなくて、美月君でもなくて。お前らがいなくなればいい、そう思う。どんな悩みを抱えているのか、そんなこと私が知ったことじゃない。だけど私にとって、私にとって大切な、愛しくて、触れるのすら戸惑ってしまうような彼らがいなくなる理由なんか思いつかないから。あんなにも世界を愛しく思ってる人たちなんて、いない、から、だから。
私はうつむく。下を見て、できるだけほかの空間を他人と共有しないようにする。
神様は残酷だ、私はもう一生信じない、一生信じない、どんなに困ったって、絶対信じてやらない。どうして春樹たちが消えて、このクラスメイトたちが残っているのか、わからない。正当な理由なんてみつからない。

 カッターの刃を左手に当てる。ガリガリと、引っかくように私は動かす。ガリガリ、ガリガリ。少しは落ち着くかもしれない。そう思って。さっきぷつりと音がした、右手の人差し指から温かさなんか微塵も感じられない赤いぬるぬるした液体だけが流れている。気にしない。痛みなんか感じない。ガリガリ、ガリガリ。うっすらと蚯蚓腫れのような線が浮き彫りになる。でもやめない。ここでやめてしまえば、私はつぶれてしまう。クラスメイトの笑う声が聞こえる、誰かが冗談を言ったのか、そんなことはどうでもいい。私は思う。消えてしまえたらいい。春樹たちが消えて、こんな連中が残っている世の中なら、私も一緒に消えてしまえばいい。それもいいと思う。ガリガリ、うっすら赤い液体がでてきた。しらない、気にしない、大丈夫、大丈夫。  

まるで私だけ、どこか違う世界にきてしまった、よう、に。うつむいて、机の下でそれをくりかえす。一番後ろの席でよかった。チャイムが鳴って現実に引き戻されたとき、はじめてそう思った。

「おい、まどか、辞書貸して」

急にかけられたその声に私は驚いて、右手に持っていたカッターを落としてしまった。がちゃん、耳障りな音、その刃に赤い血がついているのを確認して、吐き気を覚えた。

 「まどか、聞こえてねぇのかよ、和英かせってーー」
 一覇の声が聞こえる。途中で途切れたそのせりふに、なんだかすべてを見透かされたような気分になる。ほかのクラスメイトは気づいていない。だけど一覇は気づいてしまった。私は何もいえないまま、だけどゆっくりとした動作でカッターを拾った。刃をしまう、血をふく勇気が、私にはなかった。左の手首が妙にあつい。
 「和英、ね、」
 わざとらしい声だけれど、それ以上を今の私に求めても同じ結果に終わっていたと思う。右手で差し出した和英辞書を、一覇は受け取らず、「保健室」とだけ言った。私はもう、逆らう気力もなくなって、うるさい教室から、クラスメイトから、世界から、逃げるように一覇の後ろについていく。休憩終了のチャイムの音。だけど一覇はそんなこと気にしない風で、それがなんだかとても強く見えて、少しだけ涙が出た。


 保健室には誰もいなかった。出張中、とかかれた小さな札だけが、取り残されたようにそこにおかれている。一覇は棚から諸毒液と包帯を取り出して、怒ったような顔で私の左手首を手当てする。

 「おおげさだね、」
 「どっちが」

 絞り出したようなその声すら懐かしい気がする。たった数時間あの教室にいただけなのに。あともう一時間あそこにいたら、私は飲み込まれてしまっていたのかもしれない。得体の知れない世界、それは私や一覇や春樹さんのいる世界も同じだけど、だけど決定的に違うのは、私がそこで立っていられるかどうかだと思う、多分。  

 「おまえ、教室でこんなことすんなよ」
 「私の部屋でも同じこというくせに」
 「…あたりまえ、だ、ろ」
 
 ひとつ私は小さく息を吸う。消毒液のにおい、病院と同じ香り、私がはじめて佐和子さんにあったときと同じにおい、一覇もよく知ってるこのにおい。

 「ねぇ、一覇は私にどうしてほしいわけ」
 「切るなって言ってる」
 「生きる方法もわかんないのに?」
 「なんだよ、それ」
 「わかんないのよ」
 「…」
 「息の仕方とか歩き方とか、物を飲み込む動作だとか、そんなもの全部が、急にわかんなくなる、」
 あぁ、そうか
「おまえ、それ」
たとえていうならそれは多分、
 「あの時と、おんなじ、」
 一覇の声が、震えているのを感じて、だけど私は「大丈夫だから」と笑うことはできなかった。

そうだ、それはたとえて言うなら、あの時とおんなじ、出口がないわけのわからない世界に閉じ込められてしまったみたいだ。

 「誠さんのとこ、行こう、まどか」

 まるであの時のことをそのまま再現したみたいだね、言って笑おうとしたのに、出てくるのはもう、意味のない嗚咽だけだった。私はまた、闇の中に落ち込んでしまって、今度こそどうあがいて戻ってこれないと思った。背中に感じた、思いがけず大きな一覇の手と暖かい体温に、私はすがるような思いで、彼を信じて、この涙をささげようと思う。


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