絶対ココにいたかった



 

 佐和子さんの顔で、春樹が言う。

 「好きとか、嫌いとかさ、そんなのわがままだって思わない?」

 春樹が言うと、一言一言がわけもなく重い気がしてしまって、否定するのが怖い気がして、私はついうなずいてしまった。目の前を高橋さんが通り過ぎていく。ぱたんぱたん、高橋さんの足音だけが妙に非現実的だった。(あそこにはまだ、きちんとした現実の世界が成り立っているんだ)私と春樹と佐和子さんの間にだけ、なにか歪んだ空間が出来上がってしまった。(だけどそれを誰も口に出して否定しようとしないから、私たちはさもただしいと言ったように会話を続ける)

 「俺なんか、自分でちゃんと触れることがきるなら、好き嫌いなんか求めないよ」

 なにもね、悲しそうに笑っていう。私はどうしていいのかわからないまま、ひざの上においてあるハンドバックに全神経を集中させようと試みた。もち手の部分をぎゅっと握る。

 「自分で触れて、冷たいとか熱いとか感じてさ、名前が与えられて、」

 手のひらに爪が食い込んでいく。痛い、痛い。(でもそれをやめるわけにはいかない。私は必死だ)ハンドバックのもち手の部分が、ぎしりと音を立てた気がした。消毒液のにおい。ツンと、鼻をつく、あの注射の前の緊張感と同じにおい。ぱたんぱたん、高橋さんとはべつの、若い看護婦さんが忙しそうに目の前を通り過ぎていく。薬局からのアナウンス。後ろに座っていたご老人が立ち上がって、よろよろと薬局の前まで歩く。事務のお姉さんがあわてて出てきて手を貸した。

 「頭を働かせなくても、自分を受け入れてくれる人がいるって、」

 春樹が望んでいるのはそういう世界なのか。多分、彼は自分に「ハルキ」という名前の体が与えられたら、それで急に貪欲になってしまうのだろう。それくらい、私にだって、わかる、わかる。だって、そういうものだから。世の中なんて、そういうものだから。人間なんて、そういう、もの、だから。それでも彼は、望むのか、こんな世界を。(だけど私は、それを口にすることができない。だって、私は彼にそんなことを言うほどできた人間じゃない)
 だけど実際、春樹には体がないのだ。佐和子さん、という入れ物の中にいる春樹。それが彼の世界だ。ユキさんも、梨香ちゃんも、美月くんも、ほかにも、たくさん。そんな、みんなの世界が、佐和子さんのなかにつまっている。だけど、やっぱり私は春樹が好きで、なんでそんなことになってしまったんだろうと、ぼんやりとした頭で考えるのだ。もしこの気持ちを佐和子さんに打ち明けたら、彼女は何と言うのだろうか。
大体、春樹はそういうけれど、春樹だって十分好き嫌いしていると思う。春樹はユキさんのことを、多分あまり好きではないけれど、梨香ちゃんのことは妹みたいに話してくれる。美月君のことは友達みたいに話している、し。大体、春樹だって「入れ物」がないだけで、人間、にはかわりない(と思う)。(あれ?ちょっとちがうか …?)それに、

 「でも、春樹は佐和子さんが、好き、なんで、しょ」

 かすれた声に自分でも驚いたけれど。だけど、春樹はもっと驚いた顔をした。(ううん、違う。春樹の顔じゃなくて、佐和子さんの顔だ)アーモンド形の目が大きく開かれた。(ぱたんぱたん、ぎしり)(あぁ、あれは、遠い世界の出来事だ)そしてまたあの、悲しそうな笑み。私がいてもたってもいられなくなる、あの、笑み。世界中探したって、こんなに悲しそうに笑う人が他にいるのだろうか。

 「俺にはそんなことをいう資格なんかないのにね」

 いったいどんな感じなのだろう。春樹が佐和子さんを好きになるっていうのは。「恋をしたら毎日が楽しくて仕方ない」みたいなことを、どこかのページの読者欄で読んだけれど、彼に限ってそれはないと思う。私も、佐和子さんも、一覇も。私たちの誰も、恋をしたことで「毎日が楽しくなった」一人じゃないと思う。確かにそんな「恋」はこの世に存在するのかもしれないけど、だけど私たちの誰も、それに当てはまらない。多分、春樹は佐和子さんに恋をして、一覇も佐和子さんに恋をして、佐和子さんが誠先生に恋をして、私が春樹に恋をしても、毎日は全然楽しくならない。苦しい罪悪感だけが、心の奥でうずいている。
どれだけ叫んだって、誰にも気づかれないような、そんな苦しみと痛みだけが毎日毎日積み重なっていく。恋をして、恋をして、そしてまた自分たちが傷ついていくのを、その日の夜、ベッドに入って目を閉じた瞬間に確認するのだ。一人で。暗い中、一人で確認するのだ。その日一日で積み重なった痛みとか、苦しみなんかを。昨日に比べてどれだけメモリが増えたかを。そしてまた、傷つくための明日に向けて、浅い眠りに落ちるのかもしれない。

 「資格なんて、」

 (ぱたんぱたん、ぎしり、アナウンス、ぎしり、ぱたんぱたんぱたん、)

 「そんなもの、資格なんていわない、よ」

 (アナウンス、消毒液のにおい、ぱたんぎしり、ぎしり、ぱたんぱたん、アナウンス)

 呼吸を浅く繰り返して、私はかばんの中に右手を入れた。こつん、と爪先につめたい金属の間隔を覚える。買ったばかりの赤い口紅をかばんの中でもてあそんだ。昨日ネットで知ったばかりなのに、今日の朝、コンビニで一番安いものを買ってきたばかりなのに、多分私は病院を出たらすぐに、これの封を切るのだ、と確信した。思い描く、これだけですめばいい。リストカットを自分でやめるために、切りたい、と思ったら、ペンで手首に線を書けばいいと、しった。気休めかもしれないけれど、落ち着ける、と変わったハンドルネームの知らない誰かが、そういっていた。だけどペンで書く気にはもうとうなれなくて、(それに、家で探しても私が持っているのは黒の油性だけだったから)、今日の朝立ち寄ったコンビニでふと思い出して買ったのだ。赤い口紅。気休めもいいところだ、私は思う。だけどもう、私は本当に途方にくれていたから、藁にもすがる思いだった。大体、一日で二十箇所近く傷ができる、というのはさすがに自分で気味が悪い。
 私には体がある。「ハトウマドカ」それが私の入れ物の名前だけど、春樹のようにはなれないと思う。春樹なら与えられた入れ物を、それは大切に使うのだろう。傷ひとつつけないように、大切に。だけど、確かに彼は「入れ物」は大切にするけど、自分自身はあまり大切にしないと思う。多分、彼はとてもやさしいから、もし「入れ物」ができて、まわりに直接触れることを許されるようになれば、どんどん傷ついていくのだろう。たとえば、それは佐和子さんを好きになることで、私が彼を好きになることで、誠先生の言葉に耳を傾けることで。それと同時に、貪欲に物事を追い始めて、いつか誰かを傷つけたことを知って、彼はまた傷つくのだ。多分。なんとなく、そんな気がする。

 「あれ・・・」

 隣に座っていたと彼が声を上げたような気がした。私はゆっくりと顔を上げて、「どうしたの」と聞く。相手の表情が少し歪んだけど、私はそれがすでにもう、春樹ではないことを悟った。

 「まどかちゃん・・・?」

 次の瞬間、私を呼んだその声は、確かに佐和子さんのものだった。彼女の唇に塗られた、赤い口紅に軽くめまいを覚えた。



 

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