―願うことは罪?
 


 彼はいなくなってしまった、らしい。確認するすべはもうない。一昨日の診察のとき、誠先生に「春樹を最近見ないね」とこぼした私を、彼はなんだか痛いものを見るような、悲しい笑を浮かべてみていた。だけど、私が思うに、私は別にどこもかわっていないと思った。変わったのは、佐和子、さん、だけだ。春樹の入れ物だった佐和子さん。佐和子さんだけが変わってしまった。一体、彼女が春樹をどこに連れて行ってしまったのか知らないけど、彼女は相変わらず、きれいな笑みを浮かべて、誠先生を愛している、一覇の片思いの相手だ。

 「夢だったのかな」

 つぶやいた私の台詞は、壁に溶けるように消えていった。椅子に座って、教科書を開いたと思っていた一覇は、いつの間にかこっちを向いていた。いぶかしげな、一覇の視線が痛い。痛いよ、一覇君。一覇は何も言わないでいる。春樹がいなくなってから、佐和子さんの話題も、誠先生の話題も、私の話題も。私の顔を見れば、バカみたいに自分のことばかり話し出すか、もしくは、不特定多数の、この世にいる誰かの話。たとえば、昨日イラクでおきたテロ、英語の追試を受ける人数、若者に人気のある歌手の新曲発売日、テレビで紹介されているケーキ屋さん、とか。いつになく饒舌だ。それが私には、痛い。いたい。

 「夢かもしれない」
 「…」
 「うん、やっぱりそうだね、夢だ、夢」
 「…」
 「…」

 無意味に流れるこの沈黙を、だけどこの幼馴染が壊さないことを私は知っている。

 「…一覇は何も言わないんだ」  

 彼の眉間にしわがよる。口元が歪んだのがわかった。だけどやっぱり、それ以上のアクションを、一覇は起こさない。術を知らないだけなのか、それとも知っていてなお、起こすつもりがないのか、そんなことは私は知らない。だけど、一覇が途方にくれているという事実だけが、その沈黙の空気をたどって私に伝わってくるものだから、なんだか悪いことをしているみたいな、そんな気分になってしまった。

 「ごめんね」
 「…んで、」
 「うん」
 「なんであやまんだよ、」

 搾り出したような一覇の声は、なんだかとても苦しそうだった。(なんであやまってんだろ、)ただ、申し訳なかった、多分、それは一覇に向けられたというよりもむしろ、多分他の誰かに向けたものだった。春樹に、佐和子さんに?それで、春樹に謝ったとして、だけど今、彼がどこにいるのかわからない。死んでしまったと、そういってもらえれば、多分ここまで途方にくれてはいないのだ。音も立てずに、まるで泡のように消えてしまったものだから、私はどうしようもない未消化の心を抱えたままでいる。どこにいるというんだろうか、彼、は。彼の、あの思考はどこに消えてしまったというんだろうか。彼の、骨も灰も残像も、本当に、まるで彼が存在していたという証拠がどこにもないものだから、あれは夢だったとしか思えなかった。

(そうだ、たしかにあれは夢だった)
(だけど私は覚えている)
(夢だなんていってごめん)
(おぼえてる、多分彼のあの切なくて優しい笑みは、世界をしびれさせるだけの効果があった)

 それにしても、美月君が消えてしまって、春樹が消えてしまって、ユキさんが消えてしまって、まったく、それは理不尽な話だ。(ただしくはきえてしまったんじゃないよ、と誠先生は言うだろうけど)(それは多分、佐和子さんも同じだ)おそらく、佐和子さんの記憶のかけら、しぐさのかけらに、もしあのときの空の色とか、空気のにおいだとか、やさしい笑みだとか、いとおしそうに触れる指先だとか、そういうものがあったとしても、それはもう、彼ら自身のものではないのだ、ろう。すでに失われたそれはもう、多分、私の目の前に現れることはないのだ。とても、理不尽な話だった。彼らが、彼らの思考が、ひとつになって、だけどそれが確認できないというのは、なんだかとても理不尽な話だ。

 「ねぇ、春樹はそれで幸せになれると思う?」
 「さぁ」
 「佐和子さんは幸せなの、」
 「俺が知るかよ」
 「でも一覇は佐和子さんがすきなのに」
 「すきとかきらいとか、そんなの俺の話で、佐和子さんの話じゃない」
 「そんなもん?」
 「そんなもん」

 そう、私のその言葉もまた、壁に溶けていった。消えてしまった。

 多分、佐和子さんは幸せなのだ。世界と切り離されていた自分が、少しずつ、少しずつ溶け込んでいく、その恐怖と快感が、幸せなのだろう。そうやって、世界に飲み込まれていって、それが多分、幸せなのだ。(その気持ちは痛いくらいに、よくわかる)だけど、それを私が認めてしまったら、春樹の居場所はどこにもなくなってしまう気がする。

 「春樹はね、佐和子さんの幸せのためなら、消えてもいいって言ってたの」
 「…へ、え」
 「いつも自分を否定してたよ」
 「しってた」
 「それで本当に消えちゃったんだよ」
 「うん、」
 「うん、」
 「…」
 「それで佐和子さんが幸せじゃないなんて、そんなの、とても理不尽な話じゃない?」
 「…」
 「…」
 「幸せだろ、多分」

 一覇のその声は、多分、とついた割りに、とても確信めいていた。それは私が思っていたとおりで、だから余計に胸が痛いと思う。彼は多分、ずっと自分を責めながら彼女の中に存在していたのだろう。泡のように、だから彼女は死んでいってしまったに違いがなかった。それはもう、変えようのない事実だった。春樹は佐和子さんのことを愛していたから、彼女の幸せのためなら自己犠牲は苦にならなかったのだ。(ただそのリスクはとても大きかった、想像していたものよりもはるかに)(死んだほうがまだましだ、私ならそう思う)(だけど彼は死ねる体すら持ち合わせていなかった、残念なことに)

 「春樹のいた世界は平和だったよ」
 「何だよ、それ」
 「少なくとも、誰かが殺されることはなかったよ」
 「…」
 「いつも誰かの幸せを考えながら、春樹の世界は回ってたのよ」

 あぁ、ほとんどかすれそうな声で、私はそういった。一覇が一度、眉をしかめた。それは同情だとか、哀れみだとか、そんなものと同じ類だったのかもしれない。春樹も優しいけれど、多分、一覇も同じくらいやさしい。

 「佐和子さん、幸せだって、春樹はそれを確認する術も知らないのにね」

 多分、それは彼特有のやさしさだった。一方的に自己犠牲をくりかえして、それで佐和子さんを守っていた、それは彼特有のやさしさで、彼特有の祈りにも似た願いだった。

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