「まどかから、聞きました」
「え?」
「あの、統合、とかいうの、の、こと」
「あぁ」
佐和子さんの顔をした春樹さんが、そのことか、と小さく笑った。その笑った顔は、俺が見たことのないもので、佐和子さんの顔がそんな表情をしているのだというだけで、なんだかどきどきしてしまった自分がバカみたいだと思った。(少なくとも、まどかは、そんな風に二人を混合したりしないから)俺が佐和子さんにあげた香水の香りが、鼻をくすぐる。なんだかその事実にめまいがしそうだ。
この人といると、この人たちといると、なんだか自分が住んでいる世界がどこだかわからなくなるような、そんな気がする。今まで絶対そうだと決め付けていたものすべてが、案外あっさり崩れてしまったことに、俺は途方にくれそうになる。でも多分それは、佐和子さんもそうだと思う。彼女がDIDと診断されたとき、妙に納得の言ったような顔をしていたのを思い出した。"そうだったんだ"どうりで私は、うまく生きれなかったわけだね、彼女は俺に向かってそういって笑い、まるで壁を作るみたいに、自分の中の世界以外まるで信じられないといったように、くるりと長い髪をなびかせて背を向けて、「じゃあね」といって、歩いていった。背筋をきちんと伸ばして、細い足を包むジーパンのシルエットと、ヒールの高いミュール、まるでモデルのように前を向いて、歩いていった。あのときの佐和子さんは、とてもきれいだった。世界を否定するように、じゃあね、といった彼女の、それはけじめだったのだろう。そう思う。
「春樹さん、は…本当に、それでいいんですか」
震えてしまったかもしれないその声がなんだか情けない。どうしてこんな思いをしてまで、こんなことを聞いているのか自分でもわからなかった。別にいいじゃないか、佐和子さんが治るなら、それで。なのに、俺は春樹さんがいなくなるという事実がどうしても信じられなかった。どうしても信じられなかった。そんな俺の考えをよそに、佐和子さんの顔をした春樹さんはきれいに笑った。驚くくらい、そういうところがこの人のずるいところだと思う。春樹さんも佐和子さんも、本当は別の人間なのに、だけどその根底は一緒のような気がする。彼と彼女、そしてほかに佐和子さんの中にいる誰か、も、年も性別も、好みのタイプも性格も、利き腕や筆跡すらちがうくせに、同じ風が流れている気がする。なんだか形容できないその風は、俺がほかに知っている誰のものでもなく、彼女たちだけのかぜだと思う。そういう、世界なのだ、多分。介入できない世界。俺なんか、到底かなわない世界、それが彼女たちの世界で、佐和子さんはだからあの時、「じゃあね」といって背を向けた。俺に、世界に。
「いいんだ、俺は、別に」
きれいな笑みの後、彼は静かにそうつぶやいた。そういわれてしまえば、俺はもうどうすることもできなくなってしまう。途方にくれてしまう。俺と春樹さんの座っている、公園のベンチだけがぽっかりと、浮き彫りになったようだ。外の世界から遮断されたみたいに、だけど確かに遠くで車のエンジン音だとか、子供の笑う声が聞こえて、その細い糸が切れるか切れないかの寸前で俺をつなげてくれている。春樹さん、はわからない。多分、俺の考えが正しかったら、佐和子さんも春樹さんも違う世界にいってしまった。
「だって、そうしたら、春樹さんは、」
消えてしまうじゃないですか、その台詞がいえたかどうかわからない。
「そうだね、」
聞こえているのかいないのか、だけど春樹さんはわかったようにそういった。赤い口紅が塗られたその唇が、かすれもしないきれいな声をつむぎだして、俺は下唇をかんだ。
「だけど、そういうのって、仕方ないと思わない?」
「…」
「俺が、勝手に佐和子さんのなかにでてきただけ、だし」
「…」
「彼女はそんなこと、望んでなかったのにね」
「それ、は、」
「“病気のせいだから"?」
「…そう、でしょう」
「そうかもしれないね」
けど、と春樹さんは続けた。けど、
「俺が勝手に現れて、彼女の人生を荒らしたのは事実で、俺はそういうのが耐えられないんだ」
そんなの、
「彼女の時間とか、声とか、トモダチとか、家族とか、夢とか、体温とか、そんなもの、俺には奪う権利がなかったくせに。俺はどういうわけか彼女の前に現れて、何も考えずに、そういうものを奪ったんだって、」
一息、音もない呼吸、佐和子さんの唇が上下する、春樹さん特有の優しい笑顔、長い髪がさらりと音を立てた気がした。
「絶えられない事実で、俺には重過ぎるから、多分俺は彼女のためなんかじゃなくて、自分が逃げるためにそれを選んだんだと思ってる」
そんなの、あんたが勝手に思ってるだけだろう。
いえる勇気もないくせに、俺はそう心の中で繰り返す。俺は卑怯だと思うけど、そういう風に、まどかの気も知らないで、軽々しく口にするのが許せなかった。まどかのことは恋愛感情とは別に、佐和子さんとは別に、大切にしているつもりで、だからあの時、背中を向けていた俺に、彼女が言った台詞に、一瞬凍ったように動けなくなってしまった。多分、まどか自身はそのつもりはなくても、あのときのあの声は、十八年の付き合いの俺ですら、聞いたことがない響きをしていた。
(わたしははるきのことがすきだといっても、きえてしまうんだって)
俺に言ったって仕方ないだろ、だけどあの時は、それ以上何もいえなかった。何をいえばいいのかわからなかったから。そんなまどかを俺は知らなかったから、まるで初めて恋をしたときのように、俺は途方にくれてしまった。(まどかのことを、こんなに愛しいと感じたことは今までない。こんなに愛しくて遠い存在に感じたことはない)
「春樹さんのせいじゃない、」
「…」
「って、俺が、言っても許されないんですか」
見上げてくるその目にはきれいにマスカラが塗られている、アイライン、チークのはいった頬が、透明すぎる肌が、だけどそれはすべて春樹さんを否定している。ゆっくりと、曖昧に持ち上げられた唇が動いた。
「ごめんね、」
一度、彼が小さく笑い、もう一度「ごめんね」といった。彼女の声で、彼女の顔でそういわれるだけで、俺はもう息をするのも苦しくなって、「もういいから」と一度、かすれた声で言うのが精一杯だった。
|