「私と優は、身も心も結ばれていたのよ」
 伊織は親友カップルに嘘をついたつもりはなかった。
 心情的には結ばれていたけれど、身体ごとひとつに溶けたことはないというだけのこと。
 病が重くなり入院する前にそういう雰囲気になったことはあったけれど、
 お互いに自制したのだ。一度だけ結ばれても
 その後飢えてしまう互いが見えていたから。
(見栄をはったわけじゃなくて、気持ち的にはそうだったんだもの。
 憐れんだりする人たちじゃないと分かっているのに、
 ぽろり、と口にしてしまった。
 独りだと思い知ったから。羨ましかった)
 あの子も、彼氏もこんな私を何も知らない。
 ぱたり、彼女は、部屋の扉を閉じる。
 恋人である優が入院していた病院に近いアパート。
 築年数もいつだか知れない古い建物ではあったが、四年近くここにいたと思えば  色々感慨も深い。   
 管理人夫婦はとてもいい人達で、娘のように私のことを案じてくれていた。
 暫く顔を合せなかった時は、わざわざ部屋を訪ねてくれて。
「今まで、ありがとうございました」
 扉にぺこりと頭を下げて、歩いていく。
 卒業式も終えて、引っ越しの荷物も片付けていよいよ新天地へ旅立つ。
 見送りに来ようとした親友とその彼を断り、メールするからと伝えた。
 しんみりとしたお別れは好きじゃない。
 彼女の涙を見ると、ずっと側で見守っていたくなる。
 大人じゃないのに大人の振りをしていた滑稽な自分が、おかしかった。
 高校の時からの付き合いは、彼女と優だけだ。
 2年の月日は、伊織の心の傷を少しずついやしていった。
 勉強、バイト、就職活動と日々を忙しく過ごし、
 季節は駆け足ですぎていった。
 新幹線のホームで、携帯を片手にメールを打つ。
『せっかく見送ってくれるって言ったのにごめんなさい。
 二人の顔を見ると私の弱気の虫が騒いじゃいそうだったの。
 また、いつか帰ってきた時は前と同じように構ってね。
 今まで、ありがとう、菫子、草壁君』
 送信ボタンを押して、ふう、と息をつく。
 三人で会うことも度々で、何故か話をしているだけで
 感謝されるのだが、伊織の方こそあの二人にはどれだけ救われたか知れなかった。
(菫子にいっぱい元気もらったな)
 両手に収まる程度の荷物ではあったが、ずっしりと重い。
 残りの荷物は、運送屋に頼んだ。
 トラックに乗ればよかったかと思うが、新幹線で気ままな旅を満喫したかったのだ。
 座席に着くと、携帯に着信があった。
『伊織……、絶対また会えるよね!
会いたくないって言っても会いにいくからね。
 その時、涼ちゃんとまだ別れてなかったら一緒に行くわ(^_-)』
 ぷっ、と吹き出してしまう。
 やはり、面白い子だ。
 続いて、再びのメール着信。
『永月って、もしかして菫子より扱い辛いタイプだったんじゃ……
 いやいや、こんなこと書くつもりじゃなかったんや。
 アドバイスさせてもらうなら、何でも一人で抱え込みすぎるのはもう卒業せえ。
 俺に言えるのはそんだけや。
 その内、菫子と一緒に会いに行くから、私生活も充実させるんやでー』
「余計なお世話ね……でも、ありがとう」
(優がいなくて、菫子の彼氏でもなかったら異性として意識していたかも)
 親友の彼氏は、いい男だ。
 彼女の見る目は正しかったのだと思う。
 報われない横恋慕どころか、あっちも結局最初から菫子のことが気になっていたなんて。
 遠回りが長かった分の急展開は驚いたが、彼なら任せられると思い、
 幸せを心から祝福した。
部屋に着いたら、まず窓を開けて換気した。
 前暮らしていた所より格段にいい部屋だ。
 これからは人と関わって、生きたいと思った。
 すべてをゼロに戻して、最初からやり直すべきだと。
 知り合いも誰もいない場所で。
 運送会社から電話があり、そろそろ着くということを伝えてきた。
 持ってきた荷物を置いて、ベランダに出る。
 見慣れない景色にもこれから馴染んでいくのだろう。
 ドアを開けて、運送会社の人を出迎える。
置く場所を指示し運んでもらい、案内しがてら手伝った。
 挨拶して、帰っていくと本当に一人になって、ここから始まるんだなと思った。
 部屋に置いたテーブルに、座りお茶を飲むと気が抜けた。
 大した量の荷物ではないが、それでもまだ完全には片づいていない。
 残りは明日にしよう。研修も始まるからそうゆっくりはしていられない。
 テーブルに肘をつく。
 朱色の光が、部屋に射し込み、眩しくて瞼を擦る。
 疲れているのかもしれない。
 伊織は、うとうとし始めた。


「……ううん」
 硬い感触に触れて目を覚ます。テーブルの上で頭ががくっとなった。
 テーブルに突っ伏したまま寝てしまっていた事実に、苦笑する。
 部屋にはシングルベッドがあるのに、座った途端これだから、嫌になると笑う。
 部屋はすっかり闇色に染まっていた。
 立ち上がり、電気のスイッチを入れると部屋が、途端に明るくなる。
 電気も水道も引っ越し当日から使えるようにしておいてよかった。
 ガスは明日ガス屋さんに来てもらうことになっている。
 携帯を見るとメールの着信を知らせている。
 開くと、菫子からだ。
『今日はお疲れ様。ご飯食べた? 何でもいいから食べなくちゃだめよ。
 もう食べたら今日は寝るべし。疲れている時は何もはかどらないもんね』
 くすくす、と笑いが漏れる。伊織が、
『ちょっと寝て楽になったわ。これからコンビニでも行って何か買ってくる。
 菫子は、彼と一緒に食べたのかしら』
 返信を打つと高速で返事が来た。
『伊織って、天然さんだよね。癒されるわー。
 涼ちゃんが今日は作ってくれたのよ。まあそこそこ美味しかった』
 伊織は、菫子に天然と言われたことにちょっとだけショックを受けた。
「天然毒吐きのくせして……」
 つい独り言を漏らしてしまう。
 コンビニで買ってきたサラダとカップスープ、お弁当で夕食をとったが、
 お腹が空いていたので、味気ないこともなくおいしく感じられた。
 自炊しているので滅多に買ってきたもので済ませることはない伊織である。
「う……っ」
 何故だろう。急に涙が込み上げてくる。伊織は顔を覆う。
 ずっと一人で暮らしてきたのに。
 独りでいることに慣れたはずなのに。
 彼との思い出が残る部屋にはいられないから、旅立ったのに。
 感傷的になる自分が、みじめだ。
 思い出さない。そう決めたのに。
 ぱたん、とテーブルに置いた鏡を閉じる。夜の魔に捕らわれぬように。
 カーテンを引いて、座り込む。
 部屋に置かれた段ボールを見て、我に返る。
 泣く余力があるなら片づけをしようと立ち上がった。
 段ボールの中身を取り出して、重ねる。
 一つずつ確かめて置くべき場所に移動する。
 収納が、足りない。ホームセンターに買いに行こう。
 インスタント食品や乾燥の食品もあって、さっきコンビニに行って無駄をしてしまったと反省する。
 ポットがあるから、カップ麺位は作れた。
 アドレス帳は、テーブルの上に置く。
大事なものなので、箱の上の方に入れたのだ。
 几帳面な伊織は、携帯番号とメールアドレスを紙面にも書き留めている。
 実家への電話は後日ということにする。
 心配してくれているだろうから、少し気分を落ち着けてからではないとちゃんと対応できそうもない。 
 シーツや枕を取り出し、ベッドのセッティングを手早く終わらせる。
 菫子なら、ここでぬいぐるみを置くところだろうか。
 伊織は、枕元にポプリを置き、ぽんぽん、と布団の感触を確かめる。
 明日着る服だけ、ハンガーに掛けベッドにもぐった。
 変な時間に寝てしまったため、なかなか眠りは訪れてはくれなくて、寝返りを繰り返す。
 瞬きして、闇の中に目を凝らす。
「羊でも数えてみる? 」
子供じみているとか、迷信だとも思わず
 自分に合っているかどうか試してみるのが伊織だった。
 6年の付き合いになる菫子の影響も多大にある。
 二けたに届く前に、瞼が重くなってきて、眠りに身を任せた。
伊織は歩いていた。
極彩色の景色の中、歩き続けていた。
「え……」
 誰かが、呼ぶ声にどきりとする。
「――り」
 ひどく懐かしくて、狂おしい。
 甘く、胸をかき撫でる優しい声
 だあれ……誰!?
否、知っている。気づかないふりをしているだけ。
 時が、悲しみを柔らかな幻に変えてくれるまで、夢を見たくなくて。
 実際、最近は彼のことを夢に見ることもなくなっていたのに。
 呼ぶ声がする方へ歩いていく自分を感じた。
「伊織……」
「ゆ……優っ」
 広げてくれた腕に抱きつく。
 彼は伊織を力強く受け止めてくれた。
 筋肉の硬い感触は病気が悪くなる前の、姿だ。伊織の理想そのものの。
 桜の木の下で抱きしめあった時も、決して頼りなくは思わなかったのだけれども、
 この彼は、もっと男っぽい。
 何故、と思えば勝手に涙があふれてくる。
「……なんで会いに来たのよ」
「伊織に会いたかったから」
「っ……今になって出てくるの」
「いつまでも、止まってちゃいけないって教えたかったからかな」
 残酷な言葉。
 彼の腕は本物。
 それでも言葉はあの日があったことを思い知らせる。
 過ぎた過去なんだと、訴えかけてくる。
 夢だと自覚できたのは、彼があまりにも確かだから。
 幽霊なら、体をすり抜けるだろう。
「泣かないで」
「……無茶言わないでよ」
 鼻をすする。
 伊織の髪を撫でる手の温かさに、ほっとしてしまう。
 やはり、優だ。
 紛れもなく、彼だ。
 背中を抱きしめられて、こんなにも胸が高鳴るなんて。
「思い出しもしなかったのよ……この二年間」
「うーん、はっきり言われるとぐさっとくる」
「応えてないくせに」
「うん」
 ひとしきり笑い合って、その場に座り込んだ。
 何処だかわからない。
柔らかな感触?
 ベッドの上だ。
 肩に回された腕にどきりとする。
「成仏してないんじゃないわよね」
「これは夢の中だよ」
 優は、笑いながら手を握ってくる。硬くて強い手のひら。
 ああ、そうかと納得して手を握り返す。
「伊織が呼んだから来たって言ったら」
「呼んでないわ。思い出しもしなかったって言わなかった? 」
 あっけらかんとした伊織に、優はお腹を抱えて笑った。
「らしくて、駄目。もう勘弁してよ」
 優は、本当はとても陽気な人なのだ。
 懐かしくて彼の表情を見つめて、ふ、と微笑む。
「相変わらず綺麗だね」
 にこっと笑って、言うから反応に困る。
「いや、可愛いかな」
 言い直す優に照れ笑って、こつん、と肩に頬を預ける。
「全部夢だから」
「……ん」
「魔法をかけてあげる」 
 親指が上唇をなぞる。重なる唇。視界が反転する。
「だから、もう今宵で全部をお終いにするんだよ」
 愛しているよ……伊織。
 低い囁きが耳に落ちて、伊織は強く抱きしめられた。


幻でも、彼と過ごした夜は、嘘じゃなかった。
 心残りだったことを叶えられた。
 この秘密だけは、ずっと私が持っていてもいいでしょう。 
 目覚めた朝、唇をゆるく上げて伊織は微笑んだ。
 さよなら……大好き。
 ありがとうと心中呟いて、立ち上がった。
彼じゃない誰かといつか、恋に堕ちる。
 その日まで、自分を精一杯生きよう。



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