第1章



 馬車は、坂を上り、街道を進む。
 市街地にある王城へ真っ直ぐに。
 正式に嫁ぐのはまだ先だが、今日より王宮に入り
 王家のしきたりを学び、王妃になるべく教育を受けるのだ。
 自分が貴族の令嬢だった為に、王城で開かれた舞踏会に招かれて、
 王に一目で見初められて……。
 それから、とんとん拍子に結婚が決まった。
 父や母の喜びようは、異様な程で。
 ジャックとの別れから一月。あれから彼とは一度も会ってはいない。
 今生の別れというのには急すぎて覚悟する時間も無かったけれど。
 所詮、娘の意思も何も存在しない。
 ねじ伏せてしまえばいいだけなのだ。
 馬車の窓から見える外の景色を眺めながら、セラは唇を噛んだ。
 うっすらと血が滲んだのに気づいて慌てる。
 自分の行動が無意味で滑稽な物だと分かっていても、
 行き場のない虚しさが胸の中で渦を巻いている。
(…………ジャック、あなた以外の人の物になるのは
 死ぬのと同じことだわ。心が死んでしまう)
 馬車は絶望への道をひた走る。
「セラ様、お疲れではありませんか?」
 街道を抜けた先にある王城までは屋敷からさほど遠い距離ではなかった。
 この近さがより切なくさせる。トリコロール家とも離れていない。
「いいえ。景色を見ていましたの。王家に嫁いだら見ることもできないでしょうから」
 隣に座る王家から差し向けられた従者にセラは完璧な微笑で、応じる。
「王様は本当に女性の見るお目が高いですわ」
 王の選んだ方なら間違いはないだろうと。
「王様の目が狂っていたなんて言われないように頑張るつもりです」
 セラは見透かされない演技を心がけることにした。
 自分を偽ることなどできやしないのだから、仮面を被ろう。
 素顔を知るのはジャック唯一人。
 引き裂かれた愛する人しか彼女の真実を知ることはない。
 景色が滲んだ。
 振り払うようにセラは窓の向こうの景色を睨みすえる。
 皮肉なことにそんな気高さが自分をますます美しく見せていることを彼女は知らない。
 従者はセラの憂いを帯びた横顔に目を奪われていた。


 カラカラカラ。  豪奢な真紅の絨毯が敷かれた道に一台の馬車が止まる。
 従者が馬車の扉を開けて先に降りると目の前にいる存在に、
 一瞬、驚愕し、頭を垂れたあと、後ろに下がった。
「会いたかった、あなたに」
 すっと差し出される手にセラはその白い掌を重ねて馬車から降りた。
 王自ら出迎えるとはよほどだ。異例中の異例。
 普通ならあり得ない事である。
「私もお目にかかれて嬉しいです」
 セラは毅然と微笑む。
 使用人と兵士が並び、頭をたれて道を開ける。
 セラは王に手を引かれて歩く。
 後戻りなど最早できない。
 王城という名の美しい牢獄へと導かれてゆく。
 王と未来の王妃が中へ入るのを見届けた後、従者がセラの荷物を持ち 城へと入っていった。


「お疲れではないか?」
 未だセラの手を離さないまま王が尋ねる。視線を少し下にやりながら。
 王家に嫁ぐのは王に仕えるのと同じことだ。
 フッとセラの表情には笑みが浮かんでいた。
 外側から見ても不審がられないだろう自然な笑み。
「いえ、馬車も快適でしたし。丁寧なお迎えを頂いて恐縮しております」
「未来の王妃に礼を尽くすのは当然ではあるまいか」
 周りには使用人が控えている為、王はあくまで形式的に答える。
 本音は別のところにあるのだろうが。
「立派な王妃になれるよう精一杯努力します」
「頼もしいことを言う」

 王の間まで辿り着くと、若き王はすっとセラの手を取りその甲に口づけた。
 満足そうな笑みを浮かべて。
 セラは冷めた心で淡々と流れるようにこの状況を見つめている。
「侍女に部屋へ案内させよう。今日はゆっくりしたまえ」
 会釈をして、セラは頷く。
 早く一人にさせて。
 白くなるほどぎゅっと掌を握り締めていた。
「今日からあなたの身の回りのお世話させて頂きますベルと申します。」
 自分と同じくらいの年恰好の侍女が会釈をし礼を取る。
「よろしくお願いね」
 侍女の手を握って微笑む。

 ベルと名乗った侍女に案内された自分に宛がわれた部屋は、
 生まれ育った屋敷の部屋よりも広く、豪奢な家具、寝具が置かれている。
 はしたないと思いながらも、倒れるように天蓋つきのベッドに横たわった。
 明日からは、王妃になる為に厳しく仕込まれる。
 自信がないわけではない。自分はすぐに王家のしきたりも覚え、
 この王城でやっていく為の術を見につけるだろう。
 ただ、心がからっぽなのだ。
 思い出してはいけない。
 けれど………、できるならもう一度会いたい。
 あの男の物になってしまう前にジャックに会いたい。
 後でどんな罰を受けても構いはしない。
 譲れないプライドがある。
 最後の願い。
 結婚式まであと2ヶ月だ。
(今は上手くやろう)
 叶わぬ夢を現実のものとするために。

 翌日から王家のことや王妃とはどうあるべきかなどを学ぶ日々が始まった。
 多分全部ではない。秘匿の事実だけは綺麗に隠して表向きな国民でも
 知っていることをより詳細に教え込まれている。
 ご丁寧に何度も何度も同じ事を講義して下さる専属の教師とでも言うべき
 者達にある意味頭が下がる想いがした。
 一度聞いたらちゃんと頭に入るのにな。
 後で間違いが起こっては彼らの責任問題になるからだろう。
 厳しくはない。貴族でも身分の高い家の出の娘ということで丁重に扱われているらしい。
 昔から学ぶのは嫌いではなかった。屋敷に訪れる教師達から教わったことを
 すぐに身につけていたし、逆に意見することもあったほどだ。
 教師と対等に言い合うのは、とても楽しかった。
 ここではそれが通用しない。
 黙って話を聞いていれば訝しんだ眼差しを投げかけられることもない。
 知性と教養は適度であればこそ、人に認められる。
 行き過ぎた行動が反感を呼び、父と母にまで迷惑がかかるのはあってはならなことだ。
 知っていることまで教わることは退屈以外の何物でもないが、
 知らない振りを通し、今学んで理解したというのを相手に示さなければならない。
 午前は王家の歴史やその他諸々王妃として身につけておかねばならない知識を学び、
 午後からは礼儀作法を叩き込まれる。
 貴族として生まれ育ち、幼い頃から厳しく躾けられている身であり、
 復習している気分で、教えを受けた。
 同じことを繰り返す単調な2ヶ月が過ぎる。
 その間、王とは毎日のように顔を合わせた。
 二つ年上の若き王は威厳に溢れてはいないが、王の位について数年が
 経っている事もあり玉座にいる姿も自然に見える。
 私を気に入っているからか王は必要以上に優しく細かな気遣いを見せた。
 好きも嫌いも感情が浮かばないだけだ。
 ジャックといれば胸が高鳴り自分のペースを乱されることも普通だったのだが、
 婚儀を翌々日に控えても何の感慨もなかった。
 自分の意志など置き去りにされて王宮にいるのだから当然といえば当然か。
 喜んで結婚に望むとはまさか思ってはいまいが。
「セラ、中庭を歩かないか?」
「ええ、喜んで」
鋭さというのを持ち合わせていない愚鈍な王に感謝して、心を別の場所に飛ばす。
(ジャック、驚くかしら? )
 差し出された手に手を重ねて微笑む。
 王がこちらを見ている。まさしく凝視だ。
「何か私の顔についてますでしょうか?」
「いや、夢のようだと思ってな。あなたが私の目の前にいることがまだ信じられない」
 二月、王宮で過ごす内、王の持つ純粋さに気づいた。
 自分より歳が上にもかかわらず、子供の素直さを持っている。
 その無防備さには時折呆れる。
 私は何も答えず視線を受け流した。
 中庭には、色とりどりの花が咲き乱れ、柔らかな匂いが鼻腔をくすぐる。
 後ろを歩こうとしたら隣に来るように言われ、驚く。
 隣に並ぶことを許されている=王妃に据えることの表れ。
 髪の一房を掬われ口づけられる。
 私は彼を正面から鋭く睨みつけていた。
 俯き加減で見えないのをいいことに。
「陛下、私はあなたに……この国に相応しい王妃になれると思いますか?」
「セラなら必ずなれる」
 予想通りの答え。
 否と言ってくれれば気が軽くなったのに。


 王宮の人間全てが眠りに落ちた深夜。
 セラはそっと自室を脱け出した。身支度を整え窓から降りる。
 いないことがばれないよう部屋には鍵をかけて。
(鍵を開けてまで入ろうとする者はいない。王であってもまだ
 婚儀を挙げていない相手の部屋だ。訪れることはない。
 心臓が跳ねるかと思っていたが、意外にもこの心は冷静だ。)
 兵士や使用人達が目を覚ます刻限までに帰らねばならない。
 逸る胸を押さえながら夜道を急いだ。
 万が一のことを考え護身用の短剣も腰に佩いている。
 短剣の扱いはジャックが教えてくれたのだ。
 短剣とはいえ刃物を持っていることが露見するのは不味いだろう。
 これで死のうとも考えたりもしたが、瞬時に改めた。
 後のことを考えれば、一時の逃避だからだ。
 一点の曇りもない澄んだ眼差しで夜空を見上げて、セラは歩く。
 大好きな人のいる場所へ。



 こつん。軽い力で小石を投げる。
 すぐに窓が開いてほっと安堵した。
 不法侵入。しかも明後日には王妃になる存在だ。
 ……今は忘れていよう。何もかも。
「セラ!?」
 窓を開けてこちらを見下ろすジャック。
 ああ、彼だと思うと自然と笑みが零れる。
「驚いた?」
「何やって……いいから中へ入って」
 脱け出した真意を読み取ってくれたのかもしれない。
 はっとした後すぐに平静を取り戻し窓から腕を差し伸べる。
 一階だからできる芸当。
 よく部屋に忍び込んだりしてたな。彼はいつも優しく迎え入れてくれて
 色んな話を聞かせてくれた。相槌を打って一緒に笑って楽しかったな。
 過去を回想する私の目の前には温かい飲み物が差し出される。
 そろそろ夏が来るとはいえ、夜の空気はまだ肌寒く、
目の前に置かれたカップにありがたく口をつける。
「冷静な君とは思えない行動だな」
「大方予想できてたんじゃないの」
 クスッと笑うとジャックも笑った。
 ジャックは腰に佩いた短剣に視線をやると苦笑する。
「まだ持ってたんだ……返してもらっとけば良かったよ」
 無茶を防げた。
 ジャックの言葉の続きが胸に聞こえた。
「無理よ、今も前も返すつもりはないもの。
 あなたと交換してたメッセージボトルは屋敷に置いて来るしかなかったけど」
 過去の恋人との思い出の品など短剣以上に咎められる物だ。
「私がここに来た理由、気づいてるでしょう」
 ジャックを見つめる。
「明後日、もう明日か……婚儀は」
 私を拒絶するつもりはないからこそ部屋に入れたのだ。
 ただ少しの戸惑いが彼を躊躇させている。
 私はジャックを見つめ続けた。
 ふわりと温かさに包み込まれる。
「まさかまた会えるなんて……」
 背に腕を回す。
「会いたかった」
 どちらから漏れた声だろう。
 どっちでもいい。
 闇へと縺れ合いながら、堕ちてゆく。



 漏れる吐息の熱さ。
 繋いだ指の強さ。
 叶うなら望むことが許されるなら
 このままでいたい。

 何度となく互いの名前を呼んだ。
 吐息混じりの声にならない声で。
 他人の肌がこんなに熱いだなんて知らなかった。
 温かいだなんて物ではなくてもっと奥底で感じる熱。
 与え合い奪い合う。


 ジャックでないと
 セラでなければ
 この熱は生まれなかったね。

 短い時は容赦なく過ぎる。
 尊いものを二人の心に刻み込んで。


 夜が明けきらない明け方、セラはジャックの腕を脱け出した。
 涙を彼の頬に落としてしまい、起こさないか少し焦る。
「さよなら」
 例え幾ら時が流れてもあなたを想う心は変わらない。
 他の何が変わろうと、何を失おうとも。
 心を確かに生きていける。
 ジャック、愛してるわ。


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