聖域
手のひらで無造作に触れてその柔らかさと温かさを堪能する。
頭を撫でて頬に触れて、ぽすんと毛並みに頬をうずめて、
「あったかい」
顔がゆるんでしまう。鴎葵は何も言わず、私のしたいようにさせてくれていた。
腕を回して抱きついても大きな体全部には届かない。
ふわり、と尻尾が体に巻きついてくる。
心地よい温度に、うつらうつらし始める。
「あずみ」
甘く名前を呼ぶ声は愛しい人のもの。
彼は獣の姿をしていても人の姿の時も同じ声だ。
「なあに？」
「眠いのか」
「ん……」
彼の声が子守唄のように聞こえる。
ゆらゆらと眠りの淵へと向かう。
ふわふわの毛並みで包みこまれて、眠っていいのだと言ってもらえたみたいだった。
婚姻をかわしてから、いくつもの年月が流れた。
夜が明けて、朝陽を眺めて、散歩をして
毎日変わらない日々が続いていた。
三人になってからも変わらず。
神の眷属になる意味に、気づかされたのは最近。二十歳になる前に成長が止まった。
歳を取らなくなった。
身長はとうの昔に止まっていたので、一四歳の時と同じだ。
老化はなくとも死はいつか訪れる。
その時は、彼と共にあればいい。愛する子は私達より永く生きるだろう。
「愛してるわ、鴎葵」
彼の頬はとても滑らかで触り心地が良いのだ。
人の姿に戻った彼が、髪を梳き、頬をなでてくれた。
壊れ物を扱うように、大事に愛してくれる。
小さな一人娘と、私を抱えて、眠る。
鴎葵は、あずみによく似ていてかわいらしいと、
頬をゆるませるけれど、私は彼に似ている気がしていた。
頬の紋様は、鴎葵の血を継いでいる証拠だし、
何より纏う空気が同じなのだ。
人として生きていては、得られない幸せを手に入れている。
時折、家族のことを思い出して泣きたくなる時は、
崖の上に立って、叫ぶ。父、母、兄のことを。
時雨お兄さまには、酷いことをしたと今になって感じている。
本心を告げるのは、時として酷で、傷つける。
婉曲に伝えるのは骨が折れる。
神の住まう世界は、空気も風景も夢のように美しくて、
初めて連れて来られた時は、驚いた。
いろいろな場所を、案内してもらっては感動したものだ。
暑さも寒さも関係なく
色鮮やかな花々が見事に咲き誇っている。
「鴎葵の腕の中は常春の温かさなの」
「あずみはまた無邪気に殺し文句を言う」
「……あっ」
くす、と笑われて口に出していたことに気づく。
「私こそお前と眠るとよい夢を見られるぞ」
「何か恥ずかしい」
「肌を重ねて一つに溶ければ、もう何も要らないと思っていた。
もっと、側にいたい温もりを重ね合いたいと、より贅沢になっていく。
神も人間と変わらないのだな」
照れて笑う。
飾らない言葉に体中から火が出そうだ。
思いは同じだから、頷いて寄り添うことで応じる。
「小さな姫、今宵はお母さまを貸しておくれ」
生真面目に愛娘に言って、頭をなでる。
何も分からないはずなのに
彼女は、小さく頷く。隣の部屋まで手を繋いで歩いた。
鴎葵と結ばれて、永久の命と子供を授かった。
何物にも代え難い宝物をたくさん彼はくれる。
汚らわしさは何もなくて、清浄な気が伝わってきて
彼と同じものになれたことが喜びだった。
人間同士が、愛する人と肌を重ね合うのと、同じなのかは分からない。
満ちて、満ち足りて、涙ばかり流れる。
髪飾りを外して、見つめ合う。
こちらに、躊躇いも恥も与えないように、とても優しく抱きしめてくれる。
気づけばひとつに溶けていて、初めからくっついていたのではと錯覚して、笑う。
何度想いを届けても、満足しないのではないかと、思い始めていた。
口づけをして、強く抱擁されることを繰り返し、眠りに落ちて夢を見る。
甘く、切ない夢を。
朝が来て、また口づけで目覚めて名残惜しげに離れるのは私の方。
いつまでも離してくれない鴎葵は、まるで子供みたいだと思う。
「ねえ、鴎葵? 」
「何だ」
「泉水さまは、最近どうなさっているのかしら。お元気? 」
「神に体調の変化はない。つつがなく過ごしているだろう」
生真面目な答えはどこか、すねているようでおかしくなる。
「私達を認めてくださっているのよね。あの方のおかげで私もここに住めているわ」
黄金の髪に、緑色の瞳を持つ鴎葵とは別の美しさを持つ神様。
もう一つの姿は、黄金の翼を持つ鳥なのだという。
豪華なお姿をたまにお見かけすると、目の保養になる。
「兄弟みたいな存在なのでしょう」
「ある意味では。人間のように同じ腹から生まれたわけではないからな」
「ご挨拶に行きましょ。あの子も会いたがっているし」
「何故、あれに懐くのか不可思議で仕方がないのだが」
娘は、泉水さまについて歩いたり、舌っ足らずに話しかけては憮然とした態度を返される。
懲りずに繰り返すが、彼も決して幼子を邪険に扱わなかった。
自分が、鴎葵の背に乗りたいとせがんでいたように、
翼に乗せてほしいと言い出さないか、はらはら気をもんでいた。
さすがに、許してくれはしないだろう。二度と接してもらえなくなりそうだ。
「もしかして、私が鴎葵を大好きになったのと同じ気持ちかなあ」
「お、恐ろしいことを言うな」
鴎葵の取り乱しように、自分の失言を悟ったが、遅かった。
根暗の神様は、自分の世界に入ってしまっている。
「あずみ……、時雨殿は辛かったであろうな」
両手で顔を覆って、はあと重いため息をつく。
「何でそこでお兄さまが出てくるの!? 」
「自覚がないとは、なんとも罪深いおなごなのか」
「邪気のない調子でずけずけ物を言うってことは自覚したんだけど、治らないの」
むかっときたので、わざと足音をたてて、離れる。
すぐに追いかけてきた鴎葵は、低姿勢で謝罪の意志を示した。
「悪かった。天然娘というのを憂慮せねばならなかった」
「鴎葵も、まっすぐ投げ返してくるからおあいこよ」
喧嘩に発展したりはしない。彼が甘すぎるからだ。
「……そうだな」
微笑み合って、娘を起こしに向かった。
「おはよう、霞」
「おはようございます、おかあしゃま、おとうしゃま」
にこっと笑う。目元をこすったので、めっ、と注意する。
「……おめめが痛くなっちゃうのは嫌でしょう」
「ごめんなさい」
娘は、布団の上にちょこんと座って礼儀正しくお辞儀した。
鴎葵は、愛おしそうに霞を見て抱き上げる。
肩に乗せて歩き出す彼の隣りを歩いて、宮殿の外に出た。
眩しい朝陽に目を細める。
大好きなお父様に肩車をされて霞は、はしゃいでいた。
「ご飯を食べたら、泉水の所に遊びに行くぞ」
「わあい! 」
結局、母にも娘にも甘い父親は、後先を考えずに決断した。
私は頼んだくせにそわそわ落ち着かなくなった。
鴎葵とは正反対の性質の神様はとんでもなく怖い。
朝ご飯を食べて、一息つく。
本来なら、神には食事も睡眠も必要ないのだが、
鴎葵は、人であったあずみの為に生活を変化させた。
眠らなくても、疲れを知らない事実は、困惑した。あの初めて結ばれた日。
人との違いに、ついていけないのではないかと不安になったものだ。
結局自分自身も彼と同じく疲労を覚えることがなくなったから杞憂に終わったが、
眠りは、昔と同じで訪れる。一人娘も同じのようで、ほっとする。
考え事をしている内に、鴎葵は、獣の姿に変じていた。
歓喜した霞が、背中に飛び乗って、その後ろから私も乗る。
泉水さまは、神殿の外で佇んでいた。
しらけた眼差しを向けられた気がした。若干、呆れ混じりだ。
「貴様らは、いつも騒々しいな」
鴎葵は遠慮もなく、敷地内を勢いよく駆け抜け一周した後止まった。
風が巻き起こったが、泉水さまは微動だにしていない。
「す、すみません! 」
すたすたと背を向けて、神殿の中へと戻っていくので、焦った。
「泉水、腹でも減ってるのか」
「貴様でもあるまいし。人間ぶった生活は送っていない」
背中を向けたままで、すがすがしく辛辣に言った。
「鴎葵……変なこと聞いて怒らせちゃ駄目よ」
ぼそぼそと耳打ちする。鴎葵は、肩に抱いた娘を地面に下ろす。
「いずみさまー」
ばたばたと走って、泉水さまの目の前で転けた。
べちゃっ、と嫌な音を聞いたと思った。
泣きもせず、一人で立ち上がった霞は、泉水さまの前に立ちはだかる。
「えらいでしょう」
「……まあな」
泉水さまが、霞を褒めている。無表情なので伝わりにくいが。
肩より少し長い金髪が眩しく輝いていた。
大きな背をかがめ、幼子に合わせている。
「泉水さま、最近お優しくなられたみたい」
「そうだな。あの子は何か不思議な力を持っているのだ」
割って入ってはいけない雰囲気なので、私と鴎葵は、離れて見守ることにした。
暫くした後、霞がゆっくりと戻ってきた。
「帰るか? 」
「ええと、いずみさまがおはなをみせにつれていってくれるって。かえりはおくってくれるの」
その場で飛んで跳ねた霞は、また泉水さまの元へ戻った。
二人で仲良く外に出ていく。
「い、泉水さま」
ぶわあ。黄金の翼を羽ばたかせて、彼は飛んでいった。
巨大な鳥の姿になって霞を連れて。
鴎葵は、唖然として腕を組む。
「泉水の謎が増えた……」
鴎葵のつぶやきに吹き出してしまった。
霞は、泉水さまに任せて、二人きりの時間を過ごすことにした。
「貴様らの娘とは思えないな」
「どういう意味だ」
「可愛すぎる」
複雑な褒め言葉に曖昧な笑いを浮かべた。照れているわけでもなく相手は静かな表情だ。
神殿の外まで出迎えると人の姿の泉水さまがいて、すやすやと眠る霞を背中に負ぶっていた。
自然で堂に入った立ち姿だ。
「お前にやるつもりはないからな」
「子供に興味はない」
鴎葵は、明らかにほっとした様子だったが、次の言葉にかっと目を見開いた。
「この先どうなるかは分からないがな」
「おい、それどういう意味だっ」
泉水さまの挑発に鴎葵が壊れていく。
殴りかかっていきそうな勢いだったので慌てて腰にしがみついた。
引き渡された霞は、にんまり笑みを浮かべて眠っていた。
こちらのやり取りなど何も知らず。
これから平穏に日々が送れますように。それだけを願った。