ラストダンス
白いカーテンを開ける。
思わず目がくらんで、すぐに閉じた。
部屋中を熊のようにうろうろと歩きまわり、ソファに座った。
ガラステーブルの上に外した指輪を置いた。
あの時、床の上で泣いていた彼女を見た時終わりを悟った。
膝を抱える。二人掛けのソファは一人で座るととても広く感じられた。
このソファに座ってくつろいでいる二人の幻が、浮かんでは消える。
何もかも間違いだったなんて思わない。
鮮やか過ぎる最後の夜の、記憶。
何もかも残酷なくらい綺麗だった。
軽い音がした。
頬にひりつく痛みを感じ打たれたのだと気づく。
君に映る俺はどんな顔をしているのだろう。
ひどく情けない顔をしているはずだ。
頬を打った彼女の方が傷ついていると思うとやり切れない。
その行為をさせたのは、自分の至らなさ加減が原因だ。
こんなことさせたくはなかった。
彼女の瞳には涙が光っていた。
「……私の頬も打ったらいいじゃない。
あなたのそれは優しさじゃなくてずるいだけよ」
頬を打たれたことよりも痛みを覚えた。
(俺は君を傷つけることで自分が傷つくのが怖いんだ)
もう一度、振り上げた手を掴んで動きを止めさせた。
抱き寄せると腕の中でもがく。
文句が出る前に唇を塞いだ。
「……っ」
火傷するくらい熱いキスを繰り返す内に、大人しくなった。
こちらに身を預けて吐息をつく。
怖がらせたくなくて、くるむ様に抱きしめた。
「……俺が卑怯だってことは分かってるさ。
それでも今は、君を離したくない」
嗚咽が聞こえてきた。
胸を叩く拳に力はこもっていなかった。
最後の意地とも呼べるものだろう。
「座ろう……」
向かい合うと、憂う瞳でこちらを見つめてきた。
テーブルの上には料理の入っていない皿、空になったグラス、薔薇を飾った花瓶、合い鍵が置かれていた。
料理は調理器具の中に残されている。
食前酒のせいで、感情が高ぶっているのかもしれない。
合鍵は、長い間使った証拠に色が錆びていた。
そっと手を伸ばして、テーブルの上で指を絡める。
震える指先は、この先への展開への躊躇いと、期待。
彼女の嵌めた指輪を撫でながら、ため息をつく。
エンゲージに成りそこなったプラチナリング。
互いの指に嵌めたそれは、未だ色あせない輝きを放っている。
(誓いは、いつ零れおちたのだろう)
視線が絡んで、彼女は眼を見開いた。
何度も指先で触れあう。溶けそうなほど熱くて痺れた。
肘が当たって、花瓶が倒れる。
水がこぼれ、テーブルクロスに染みを作った。
水に濡れた薔薇から目が離せない。
赤い薔薇が変色して退廃的な雰囲気を醸し出している。
互いの胸の内は同じだ。
「要……」
「……莉沙」
声を詰まらせて名を呼んだ。
戸惑いに瞳を揺らして、手を放そうとした彼女の腕をつかむ。
少し強引に腕に閉じ込める。椅子が倒れたことは気に留めなかった。
「好きだ……」
指を繋ぎ合わせて、訴えかける。
泣きそうな表情の彼女が、首に腕を絡ませてくる。
「……そんなこと言われたら辛いだけよ」
身長の差があるために踵を少し立てて、しがみつく。
この体の震えは何故だろうと互いに思う。
愛しくて、それ故に終わってしまう二人の時間が悲しくて仕方がない。
これ以上は望めないとお互いに分かっていた。
悲しい記憶を胸に宿らせないように
優しい思い出だけを残したい。
腕の中で、静かに泣く彼女を抱きしめた。
何もできない自分を憎んでくれればいいと。
「私だってこんなに好きなのに」
導かれた指先。
鼓動の音を確かめるように頬を寄せる。
高鳴る響きに、これは幻なのではないかと錯覚した。
信じられないくらい彼女が求めているのを感じられたし、
こちらも同様だった。
熱い体の火照りをどうやって静めればいいか
知っているから、行動に移そうとしている。
目指す先にある広いベッド。
絆を繋いで、絆を深めて、いつしか縺れた糸を解けなくなった。
もつれ合うように沈んだベッドで、キスを交わす。
シーツに散る髪が乱れている。
瞳に揺らぐ炎を消す為に、手を取り合った。
(このまま時が止まればいいのに)
キスを交わし、影を重ねるたびに漏れる吐息の甘さに痺れていた。
抱き返す腕のしなやかさ、
唇を寄せた時に身をよじる体。
何もかも愛した人のもの。
極上のキスと抱擁には、未練が残るけれど。
二度と手に入らないものだから。
ベッドの中で丸くなった彼女を起さないように、部屋を出る。
シャワーから戻った時、違和感に気づいた。
静まり返った部屋。
消えかかった匂い。
シーツが膨らんでいるように見えた。
いささか乱暴なことをしていると自覚しながらシーツを捲る。
彼女の姿はなかった。
温もりだけが、くすぶる様に残ったまま。
『愛しているわ』
テーブルの上に置かれた手紙に一言残されていた。
その上に置かれていた合鍵を握りしめて口づける。
(君を失う痛みを想像したことはなかった)
これから先は、触れあうことも抱き合うこともできない。
例え、自分が喪失の痛みにもがき苦しもうと
彼女が笑顔で生きるのならそれでいいと頬笑みを浮かべる。
グラスを持ってその向こう側を見つめる。
明るい朝陽が、グラス越しに眩しかった。
「……さようなら」
ヒールの音を響かせて歩く。
嵌めたままだった指輪を投げ捨てた。
別れなんて所詮滑稽なものだと思っていた。
(そうでもなかったな……)
別れの夜を演出したのは、
ヴィンテージもののワインと豪華な食事。
一輪の薔薇は、ふらりと立ち寄った花屋で私が買ったもの。
それも、床に無残に落ちてしまったのだけど。
涙がひとつ、頬を流れた。
(分かりあえているつもりでも、分かち合えていなかった)
求めすぎていた。醜く罵り、激情をぶつけて。
傷ついているのは私よりも向こうで、慰めてもらえる立場じゃないのに彼は本当に優しかった。
憎めば忘れられなくなるだろうけど、
憎むことなんてできそうもなかった。
愛したままで思い出にしよう……昨日はその為に過ごしたのだから。
彼と交わした言葉も温もりもすべてこの体が記憶している。
別の人に恋をしても、決して剥ぎ落とせない残滓。
あんなに優しいキスを知らない。
あんなに甘い抱擁は知らない。
永遠を夢見たことはないけれど、
終わりが来るとは思いもしなかったのだ。