滑らかなシーツが指に触れた。
 天蓋の紐は引かない。
 今宵は夫でありこの国の最高権力者である人が、訪れるのだ。
 もし、拒むのなら、天蓋の紐を引いてしまえばいいのだが、
 今日まで、一度たりとも彼を、遠ざけたことはない。
 抱かれているようで、抱いている。自分よりも年上の男性を。
 居場所を見つけて、安らぐことができたのは、その温かさゆえ。
 容貌だけで、妃に望んだならば心を開くことはなかったのだろう。
 気まぐれで引き裂かれていたのなら、こんな王室からは逃げ出していた。
後のことなど考えもせず。
(王の妻に相応しいと見込んでくれていたなんて)
 知ることができてどれほど喜ばしかったか。


 私室のバルコニーのテーブルで、庭を眺めていた。
 部屋の扉をノックし、メイドが応対するとこちらまで歩を進めてくる。
 信頼のおける相手と、家族しかこのバルコニーには呼ばない。
「王妃様、お呼びでしょうか」
「忙しいところごめんなさいね」
 微笑んで、椅子を薦める。
 家老は、丁寧に会釈して、真向いの椅子に座った。
 メイドが、お茶を注いで下がるのを見届けて唇を開いた。
「あなたとお茶をするのも久しぶりね」
「そうですね」
 嫁いでから20年近くの付き合いになる彼は、
 前国王の時代から王家に仕えている古参の臣下のうちの一人だ。
 こちらが、ティーカップを口につけた後、ギブソンも同じように口に運ぶ。
「セラ様は、私のことをお嫌いなのだろうなと思っておりました」
「あら、何故? 」
 きょとんとした。普段の彼とは明らかに違う。
 王妃を目の前に明らかに緊張しているようだ。
「王にお力添えして、強引に貴方様を王室にお連れしたから」
 くすくす。唇を手に添えて忍び笑う。
「確かに一時期は、不快ではあった。
 私の意志など関係ない世界なのだと嘆いたわ。
 でも、今更だわ。嫌いな人とお気に入りのバルコニーで
 お茶がしたいなんて考えなくてよ? 」
「セラ様はお強い。その強さで色々なものを乗り越えて来られたからこそ、
 今も輝かんばかりの美貌でいらっしゃるのでしょうね」
「嬉しいわね」
 ギブソンは目を伏せて、吐息をついた。言葉を待っているのだろう。
「あの舞踏会の夜、王より国のことを考えれば、
 安易に后を決めることに意見したのではない? 」
 苦笑いした相手は、カップのお茶を一気に飲み干した。
「申しましたが、ギウス様の情熱に負けましたよ」
「顔を気に入っただけで、大事な王妃の椅子に座る者を決めていいのかしらと
 ずっと思っていたのよ。私もそれだけだったら、嫌だもの。
 他のお嬢様たちと違って特に王妃になりたかったわけでもないし」
 皮肉をこめてみた。恨んではいないが、これくらい許されるだろう。
「そんなことを気にしていらしたのですか」
「おかしいかしら」
「いえ……」
 ギブソンは口をつぐんだ。
 他愛もないことだと思っているとしたら、失礼を通り越して無礼だ。
「顔で選んだのではないですよ。第一印象は顔から入るものですから
 仕方がないとして、ギウス様はちゃんと中身も見抜いていらっしゃいましたよ」
 とくん。まさか、この歳になって、僅かな動揺で心臓が跳ねる音を聞くとは。
「お后様選びには、周りが焦りを覚えるほどに、慎重でおられたのです。
 随分な遠回りをされたが、あなたを見つけられた。
 あの方の目は確かだったということでしょう」
「そう思うの? 本当に? 」
「勿論……特に王はあなたに感謝されているでしょう。
 きっと、肌身で感じていらっしゃるのではないですか? 」
 直球の物言いに二の句が継げない。彼は、本当に王を理解しているようだ。
 さすがに長年仕えてきただけのことはある。
 ほう、と知らず吐息が漏れていた。笑みが顔中に広がる。
「そんな風に、いつも笑っていらして下さい。
 お優しく見えますから」
「あら、私意地悪い后だった? 」
「柔らかな表情の方がお似合いと申し上げたのですよ」
 ギブソンは、瞳を細めていた。白い手袋をはめた手でカップを傾ける。
 気づけば、白髪も随分目立ってきていた。
「ありがとう……。お話できてうれしかったわ」
 握手のために差し出した手に、彼の手が重ねられる。
「こちらこそ。セラ様」
 父親ほど年齢の離れた腹心の臣下に、軽くうなづいた。
 お互いに立ち上がる。
 会釈をして去っていく彼に手を挙げて見送った。



 気づいていないふりをして背を向ける妻に、くっ、と笑う。
 さらりと、背に落ちる金の髪を手のひらで梳く。
 普段は、結い上げているため下ろしている姿は、どこか少女めいて見えた。
 あの日、心ごと奪い去った美しさは、今も変わらない。
いや、さらに美しくなっていると思う。
 瞳の奥の孤独を、もう消してやることはできたのだろうか。
 頬に触れると、くすぐったそうに笑った。
「……セラ」
 数瞬の躊躇いののち名を唇に寄せた。
 何度呼んでも飽きない響き。いとしいせいだ。
 この歳になっても、抱き続けている想い。
 手を伸ばし、華奢な手を掴む。
 グローブに包まれていない手は傷一つなく、滑らかだ。
 掴み返してくる力は、優しいけれど確かで、内心息をつく。 
 引き寄せずとも、自ら体をこちらに向けた。
 青い瞳が、ランプの仄かな明かりの下で、きらめいている。
 溜息のような深い吐息を漏らした後
「ギウス……」
 ささやかれ、思わず笑んでしまう。
 夫婦の寝室で、二人きりになるときは、呼称ではなく
 彼女だけが呼ぶことを許される名で呼んでほしいという思いを
 察してくれている。昔は、陛下としか呼んでくれなかったものだが。
「そんな顔なさらないで」
 頬に触れてくる指は、思ったより冷たかった。
 婚儀を挙げてから同じ部屋で眠らなかったのは10年ほど前のあの夜一度だけ。
 吐息を混ぜる時も、お互いの寝息を聞いて眠る時も
 ひとしく、この部屋で隣り合って眠った。
 頬に触れる手の上から、手のひらを重ねる。
 ふと視線が交わった。目をそらすことはできない。
 心を暴かれても、見ていたかったのだ。
「ごめんなさい」
「何を謝るという」
 過去を断罪すべき立場なのはこちらの方だ。
 逆らえない立場を盾に、  最高権力者の立場を利用して、娶ったのだ。
「王子を産んで差し上げられなくて」
 思いもよらぬ言葉に、胸がつまった。
「そのようなこと……私が一度でも責めたか?
 あなたに何の落ち度もないであろう。
王の妻として、妃として  政治面においてもよくやってくれておるではないか。
 私が望む以上に」
 抱きしめて、背中をなでる。
 背中が震えているので、やさしく叩いた。
 肩に頬を寄せられ、彼女がひそかに泣いていることを悟った。
 表情を気取られたくないのだろう。
「あなたは、卑怯ですわ。本当にお優しくて、
 憎み切らせてもくれなかったのですから」
 すすり泣く声で言われて、たまらなくなる。
 黙って彼女の言葉を待つ。
 言葉とは裏腹に背中に回ってきた腕に意志を感じた。
「……想い出は美しいままこの胸に留めておけるのだと
 気づいた時、ようやく私は、前を向くことができたの」
 流れ込んでくる声を聞き逃さないよう耳を澄ませる。
「何もかもご存じで、責めも、咎めもしなかったのは、
 自分にも後ろめたいものを感じて資格がないと思っていたから?
私はあの場で、手打ちにあっても仕方がないと覚悟していましたのよ」
 彼女の禁忌を、知らないはずもなかった。
 王の后になる前に、彼の元へ走り最後の時を過ごしたいと
 願った心まで、貶めるつもりなどなかった。
 最初に、触れられなかったことは嫉妬を覚えたけれど、
 その後、彼女を抱きしめる権利を手にしたのは、自分で、ささいなことに思えた。
「あなたを愛しているから、許せるのだよ。傲慢かもしれないがね」
「……傲慢ですわ」
 憎らしい唇を、軽く塞いだらくぐもった呻きが漏れた。
「出逢った日よりもっと深く愛しているよ。
 あなたを妻にできて誇りに思う。
 私にはセラとリシェラがいれば十分だ」
 夫としての正直な気持ちた。ただし、王としては、否を唱えられるのだろう。
「本当に、ひどいわ。もう泣くこともできません」
 笑う声が聞こえて、顔を傾ける、
 セラは、二人の時にだけ少女に戻る。
 普段とは別人のようで、とてもかわいらしかった。
 彼しか知らなかったであろう顔を今では独り占めしている。
 強くて、脆い。
 厳しくあろうとしてもできないのだから、どうしても甘くなってしまうが、
壊れ物のように扱いすぎてはいけない。 自分一人で、いつまでも守り続けたいと願うのみ。
 偽りのない温もりの中で包もう。
 権力で奪ったのならば、己の持てる力すべてで、とこしえに守ろう。
「セラ」
 そっと呼びかけると、察した彼女は瞳を閉じる。
 唇をかわし合う。激しくむさぼって、四肢を絡ませた。
 もつれ合うように。


 過去を想い出にして、生きていくしか術はなかった。
 王妃になるということは自分を捨てると同義で、過去と割り切れば何もかも乗り越えられたのだ。
 その道を選べたことは幸いだった。
 リシェラがいる。王との間に生まれた最愛の一人娘。
 遅まきながら帝王学を学ぶために、学園へ通わせ始めた。目的はそれのみではないが。
 彼女には同じ悲しみを味あわせたくはなかった。
 いずれ、夫になるものが、国王の椅子に座るのか、
 彼女自身が、女王になるのか未来はわからずとも、彼女の想いだけは叶えてやりたい。
 淡い、初恋が永遠ならば……。
 私のやるべきことは、まだあるのだ。
 こちらを抱きしめたまま穏やかな顔で、夫は眠っている。
 強気な優しさは、嫌いではなかった。好ましいといつしか思えるようになった。
 押し付けがましくもない愛情は、与えるだけじゃなく、与えられることも望んだ。
 遠い昔がひどく懐かしい。
 家族としての情以上にこの男性を愛し慈しむ日が来るなど思いもしなかった日々。
   あの人を忘れるためでも代わりにしたのでもない。
 気がつけば、自らの意志で愛していた。
 何の打算もなく。
 居場所をを奪ったのは、ギウスで、新しい場所をくれたのも彼とこの国だった。
 王妃として、妻として。





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