Under study
「久々に熱海にでも行こうか。八月の半ばくらい」
「あら、いいわね」
翠は息子を膝に抱いて、にっこり笑いかけた。
「砌、旅行よ。温泉入ってごちそういっぱい食べられるのよ」
旅行はあまり行けないので楽しみだ。
息子の砌が歩けるようになってからは、三人での旅行になった。
息子と夫と三人、親子水入らずの楽しい旅行。考えるだけで翠の胸は躍った。
八月にもなれば、保育園の友達の家も家族で
過ごすことが多くなるだろうから、遊びにも行かせられないし、
砌も、家の中ばかりでは退屈するに違いない。
行くと決まったら、張り切って準備しなければ。
翠はにんまりと笑みを浮かべた。
クールを装いつつ、彼女は結構はしゃぐタイプだ。
「……いかない」
「ごちそう食べられるのよ? 」
砌はふるふると首を振った後、
「ごちそうってなあに? いつものごはんはごちそうじゃないの? 」
「いつものご飯もごちそうだけど、普段は食べないものが食べれるのよ! 」
「んと、きぶんがのらない」
砌は、投げていたおもちゃを拾って遊び始める。
翠は、ふらふらとよろけた。
舌足らずの幼児の言葉とは思えない。生意気すぎる。
時折妙に賢いかもと思うのだが、さすがにこんなことを言われると落ち込む。
「やっぱり行くのやめましょ……」
陽がくすっと笑いつつ翠を支える。
「幼心に二人きりにさせてくれようとしてるんだよ。大人だねえ」
「そうなのかしら」
翠は顎に手をやり、息子を見やった。
陽に支えられてソファに座った翠は、ぼんやりと座っていた。
陽は、息子を抱き上げて肩車をしている。
「ママと二人で行ってもいいかな? 」
砌はこっくりとうなづいて笑った。
「ありがとう。お土産買ってくるね」
「うん」
「お祖父ちゃん家でお留守番してるんだよ」
頭を撫でると砌は重々しくうなづいた。
「ほらね」
「何であっさりまとめちゃうのよ。しかも私に対してより
愛想よくない? 」
拗ねてみせる翠に陽は、笑った。
「普段一緒に過ごしている分君の方が絆は強いよ。
男同士だからじゃないかな」
「納得」
翠は隣に座った陽に寄りかかった。
ふわり、と香る夫の匂いに安堵をおぼえる。
「二泊三日になっちゃうけど」
「オッケー。さっそく電話ね」
気を取り直すと翠は立ち上がる。
横ではくすくすと笑いながら陽が、彼女を見つめていた。
「……もしもし、お父様? ええ、二泊三日ほど旅行へ行くことになったんだけど。
行き先は熱海。砌のこと預かってもらえるかしら。急にごめんなさい。
藤城の家なら、人が出払うことないし安心かなって。
大丈夫そう? じゃあまた直前に連絡入れるわね。
ありがとう。おやすみなさい」
翠は陽にオッケーサインを送ると彼もほっと一息ついた。
「日中はお父様はいらっしゃらないだろうけど、あそこには子育てのプロもいるし」
「ああ、操子さんか。お義母さまが亡くなってから君も青くんも面倒みてくれたんだよね」
「ええ……すごく信頼できる人よ」
実家に預けることを決めながらもまだ諦めきれない部分もある。
「本当は一緒に行きたいんだけど」
「無理に連れて行ったら後が怖いから」
「この子ももっと大きくなったらこの切ない親心を理解するんでしょうに。
って今笑ったわね? 」
「いや……別に……くっ」
「ひどい。妻の憂いを笑いの種にするなんて」
ざめざめ。泣く振りをする妻に夫は、ぽんぽんと頭をなでて慰める。
「傷ついた妻をどうやったら癒せるかな? 」
意味深にほほ笑みながら。
「……わかってるくせに……ん 」
隙を与えず奪われる口づけ。
甘い吐息を漏らし陥落した翠は、そっと瞳を閉じた。
八月某日の朝、葛井夫妻は、藤城邸を訪ねた。
「よろしくお願いします」
「楽しんでおいで。お土産待ってるよ」
頭を下げた娘と義理の息子に翠の実父である藤城隆はにこやかに見送った。
ちゃっかり、土産の催促を忘れないところが彼らしい。
齢50を過ぎた彼だが、まだまだ若々しく、恋愛は生涯現役を自負している。
無論、彼が愛しているのは亡き愛妻ただ一人だが。
娘が、お手伝いの女性に挨拶しているのを余所に、彼は息子を呼びに向かった。
広い個室の扉を叩くと、一人の少年が姿を現した。
藤城青(とうじょう せい)。砌にとっては10歳違いの叔父である。
14歳の端麗な容姿の少年だ。
反抗期まっしぐらというのは彼に当てはまらない。
普段から、すれにすれているからよというのは年の離れた姉の弁である。
「甥っこくんが来たよ」
「…………」
青は祖父に抱かれている幼児を無表情で見た。
彼にとって小さい子供は、未知の存在であり、謎に満ちていた。
日がな観察してみたいと気まぐれで思うこともあるが、行動に移したことはない。
時間の無駄になることが大嫌いだからだ。
「じゃあよろしく頼むね。
手に余るようなら、操子さんを呼べばいいから」
頷きつつ、そんなことはしないだろうと、隆は思った。
一度引き受けたことを投げ出すのは彼のプライドが許さないからだ。
隆は、うんうんと頷いて、部屋を後にした。
幼児を観察していた青だったが、部屋の中に勝手に走りこんでいく姿にはさすがに舌打ちした。
ため息をついてデスクの椅子に座り、広げたままだった教科書とノートを片づけた。
座り込んで何やらじっと動かなくなった砌に、青は訝しみながら近づく。
にまっと笑って、振り返った幼児が、青の足にしがみついてくる。
「……遊んでほしいのか」
もちろん遊んでやるつもりだったけれど、何故こんなに懐かれているのか
意味不明だなと若き叔父は思いながら、甥に優しく笑いかけた。
傍目には分からないほどのささいな表情の変化である。
とてもではないが笑っているようには見えなかった。
「せいにぃ」
「何だよ」
にこにこっと笑って、膝をつかむ。
「だっこ……」
青は、見上げてくる甥に腕を組んで、威張った。
「甘えるな。俺はお前の年にはとっくに親離れしていたぞ」
親離れとは、違うかも知れないが、少なくとも幼さを利用して、
親や大人に甘える等ということはなかった。
感情で訴えない分周りが気遣ってやらねばいけなかったのだが。
子供らしい子供には免疫がないのだ。
(……やりづらい。何だこの生き物は。
しがみついて離れないのが落ち着かない)
「じゃあ、おんぶでもいいよ」
未だ諦めていない。ふてぶてしさにめまいがする。
優しくしてやろうと思っていた気持ちが、青の中でぐらついた。
「あのな、どっちも変わらないだろうが。
俺は、自分の時間を割いてお前に付き合ってるんだ。
わがまま言うな」
鋭く言い放つと、砌は黙った。
みるみるうちに表情がゆがんでいく。嵐の予感。
気づいた青は、頭を抱える。相手は、幼児と心に言い聞かせながら。
「ったく……すぐ降りろよ」
170センチ弱の身長をかがめて、膝をつく。
ずしりと、重みが背中にのしかかる。
立ち上がって、背中を揺すった。
よじ登ってきたので首に手を回させた。
部屋を一周してもまだ満足しないので、廊下へと出た。
誰も彼も忙しく立ち働いているから、見られはしないだろう。
青の甘い考えは、見事にうち砕かれた。
「ちゃんと、子守をしているじゃないか」
砌の祖父であり、青の父親でもある存在が立ちはだかっている。
なにやら、棒アイスをくわえている。
白衣姿に着替えていた。これから出勤なのだ。
「……見なかったことにしてください」
青は、目をそらし、早足で通り過ぎようとしたが、
隆は許してくれなかった。
(さっさと、仕事行けよ……悠長だな)
「冷蔵庫にあるよ。一階のキッチンね。
いちごに練乳入ってるやつ、青も好きだろう」
「いただきます」
「よく懐いてるねえ。将来が楽しみだよ」
隆は、青の首にしがみついている砌の頭をなでて笑った。
今のはどういう意味か、聡い青でも理解できなかった。
「砌、せい叔父さんが好きか? 」
「だいすき」
「そうかそうか。できれば、四六時中一緒にいさせてやりたいけど
彼は忙しいから、手が空いている人が順番で側にいてくれるよ。我慢できるね」
「ん。ぐらんぱ、わかった。今日一緒に寝てくれる」
「了解した」
隆はおどけて笑い、ぎゅっと、幼子が伸ばしてくる指をつかむ。
砌は屈託なく笑った。
青は、歩く足をさらに速めて進む。
キッチンにたどり着き、冷蔵庫の扉を開け放つと冷風が駆け抜けた。
「すずしいね」
はしゃぎだした砌をテーブルの椅子に着かせる。
砌が訪れた時のために置いてある幼児用の脚の高い椅子である。
「おまえ、実は使い分けてるだろ」
さっきから疑い始めている。言うことはちゃんと聞く所を見れば、
要領は随分よさそうだ。
疑うべくなくあの二人の子供だった。
取り出したアイスを砌に渡すと嬉しそうに頬張った。
青もアイスをくわえて、舌先で甘さを確かめた。
「せいにぃ、お母さんが、彼女はどんな子かしらって。彼女ってなあに? 」
あの姉……。
青は常に母親代わりだった姉を思って、憂鬱な気分になった。
(ガキに要らないことを抜かしやがって)
ぶんぶん、と横に首を振る砌。
青は苦笑し、甥に向き合った。
「彼女は、付き合っている女の子のことだ。好きな人はわかるか? 」
「すきなひとはいるよ、せんせぇ」
「ませガキ」
彼女は分からずとも、好きな人はいっちょ前にいるとは。
青は、呆れた。
食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に左手で投げる。
しゅっ、と空を切る軽い音がして、見事におさまった。
ぱちぱち、と拍手をされて複雑な気分になる。
「さっさと食べろ。たれてるじゃないか」
青はポケットからハンカチを取り出すと、砌が顎までたらしたアイスを拭いてやった。
テーブルも念入りに拭いておく。
「……アイスってすぐ溶けるね」
結局半分ほど食べて、残りは溶けてしまった。
「お前が食べるのが遅すぎるんだよ」
それでも砌は笑っていた。
「おいしかったから、いいもん」
椅子の下で足をぶらぶらさせて、まっすぐ見つめてくる。
青は、腕にはめていた時計を見た。
「悪いな。これから用があるんだ。
操子さんか、あと誰が屋敷にいるかな……頼んでおくから」
「うん。ありがとう……せいにぃ」
「それから、大きくなるまでにはちゃんと呼べるようになれよ。青兄さんって」
「わかったー! 」
返事だけは立派だった。
青はとりあえずは、甥の成長を信じたが、
将来も青兄と呼ばれ続けることになるとはこの時は知るよしもなかった。
二人は手を繋いで歩く。
青の頭の中はすでに次の予定のことでいっぱいだった。
「……俺が幼児期に振り回したせいで、いじられ続けることになったのかな」
「覚えちゃないでしょ。あんた相当すごかったわよ」
すっかり成長した息子の前で翠は、はしたなく笑い転げる。
「自業自得だったのか……」
幼い日から時折構ってくれた叔父は、若くてかっこよすぎたが性格は難があった。
ニクらしかったが、砌にとって昔も今も憧れの存在なのだと今なら認められる。
「子供は罪がないからね。あんたのお守りの経験もきっと役に立つわよ、あの子の今後に」
砌は反応に困っている。
翠は年月が経つのは早い物だと思った。
年の離れた姉弟で、幼い頃は母親代わりのようなものだった。
13年の時が経ち、砌は高校2年生。あの頃の青よりも年上だ。
中身は、ずっと純だが。
「彼女はどんな子かしら」
宙を見てつぶやく翠に、砌はとぼけた返答をした。
「せい兄の彼女って想像つかないんだけど。母さんとは違うタイプって以外」
額にでこぴんをされ、頭を抱えてうめく息子に、けらけらと笑う母。
「あんたの彼女に決まってるでしょうが」
「しょうがないな……今度、連れてくるよ」
渋々といった態の砌だが、満更でもなさそうだ。その証拠に
照れ笑いを浮かべている。
でれでれとしまりのない顔である。
「明るいに梨と書いてあかりちゃんか」
「なんで知って……ああっ」
テーブルの上に置いてあった封筒を手に取り、翠はにやっと笑った。
息子が、賢明に手を伸ばし、奪い返そうとするので、ひょいと手のひらに落としてやる。
「案外古風ね……住所がないところを見ると手渡しか」
恥ずかしかったのか、砌は小走りでリビングを駆け去っていった。
オーバーリアクションなのが、面白くてついからかってしまう。
「早く子離れした方がいいのよね」
うっかり意地悪な、彼氏のママになってしまわないように。
息子の彼女と仲良くお茶をするようなママでいたい。
ずるずると、湯飲みのほうじ茶を飲み干して翠は笑った。