3



水面に映るのは自分の姿。
 どこか途方に暮れた表情が、まるで人のようだと思う。
 馬鹿なと自嘲して髪をかき上げる。
 あれから、幾年が過ぎただろうか。
 瞬きするほどの時間にしか感じられなくても、人の世ではそうでもないのだろう。
 幼子が少女に変わるくらいには時が流れた。
 想像の中のお前は、いつも笑顔で、私を振り回し鮮烈な光をくれるのだ。
 心が惑い掻き乱されるなんて思いもよらなかった。
 漆黒の髪に鮮やかな髪飾りが彩っている。
硬質なあの髪は手くしでもすっと通ることを知っている。
 そろそろ嫁にいく年頃になっているが嫁にはいっておらず、
 家の手伝いをしながら暮らしているようだ。
 少し寂し気な瞳。大人びた笑顔に時の流れを感じる。
 あの頃のように、駆け出したりはしない。
はしたないと心得ている。
 成長した様子に少し切なくなる。
 家族で助けあいながら、慎ましく暮らしていた。
 閉鎖的で静かな村だったが少しずつ他とも交流を持つようになり、賑やかになった。
 村人の目も皆いきいきとしている。
 平和に暮らす民に喜びを感じれど、心は虚ろなのはどうしてか。
 人々がつつがなく生きることは、至上の幸福のはずだ。
 水面にさざなみがたつ。  水鏡に手を伸ばしても向こう側の景色にはたどり着けない。
 何者かの気配を鋭く察知し、背中から問いかけた。
 人間なら気配を感じとれないほどの微弱な気配だが、感じることができた。
 人にあらざる身故に。
「泉水」
 振り返りもせずに名をよんだ。
相手も特に対峙を望んでいるわけではないのだ。
「鴎葵、何を考えている」
 頭をふっても相手は立ち去る様子はない。
「心ここにあらずといった感じではないか。貴様ともあろうものが、
 まさか人に情を移すとはな。誰より誇り高く美しい、鴎葵殿が」
 一方的に話し続ける眷属に、身じろぎもせず佇んでいた。
 苦々しい思いを胸中抱いてはいたが。
 ただし感情が外に漏れていないかどうかは定かではない。
 風もないのに白銀の髪が揺らいでいたからだ。
 対して相手は気にそる素振りなどなく、どこか楽しそうだ。
 気が遠くなるほど長い付き合いなので、相手の性格など知り尽くしている。
 神という特殊な存在でなければ同じ空気を吸うことすら嫌悪しただろう。
 相手もきっと同じだ。
 ゆっくりと刻む時の中で、退屈に厭いているから話しかけたのだ。
 特に相手に好悪の感情があるわけではなかった。 
 人のように感情を乗せて言葉を発することをしない。
 淡々と事実だけを述べるから性質が悪いともいえる。
 心ではなく頭で行動するのが神というものだ。
 常に冷静沈着であるのが普通。心を燃え立たせたりはしない。
 人のように、些細なことで一喜一憂などしない。
 それが、おかしいと思い始めている私自身が、異端なのだと気がついた。
 足音も立てずに隣に立った泉水は、胸の辺りで腕を組んでいる。
 悠然と構えている姿が、憎らしい。
 彼のように神の領域を守っていられれば、憂いを感じていなかったのではないか。
「下界の方が好いているのは認めるのだろう」
「人は短い生に縛られるから自由なのだと思う。神よりよほど面白い」
 横を見やれば、一寸の乱れもなく整った造作があった。
 くつくつと喉を鳴らし泉水が、遠慮のない口を開く。
「神の貴様がそれを言うか」
 ちら、と泉水を振り返る。
 口の端を上げているのは、面白がっているのだとわかる。
「……最初は退屈しのぎのつもりだった」
 独りごちるようにぽつりと漏らした。
「決して短い時ではない時間を下界に身を置いて私は欲を抱いたのだ」
 あるひとつの出逢いが全部を塗り替えて、特別に愛する心を知ってしまった。
 決して抱いてはならない思いを、欲してはいけないものを希った。
 神なる存在が人と相容れることはないのだ。
「お前が、誰かを愛することがあるなんて
 非常に複雑だが嬉しくもあるな。
 種族など関係なと言い切れるなら、好きにするといい。
 不可能なことなど我らにはないのだろう?」
 禁忌を超えて、自分の意のままにしろというのか。
 選ぶのは、自分自身。
 つ、と痛みが胸を責め苛んだ。
 いとおしいからこそ踏み切れない。
 こちらへと誘って、共に生きるか、神であることを捨てるか。
 この想いを貫くのならばふたつにひとつしかない。
 簡単に出せる結論ではない。あずみに重荷を背負わせることになる。
 彼女に今までを捨てさせて、共に生きることを強要できるのか。
 迷っている時点で、非常に感情的で、神らしくはない。
 泉水ならば、自らの思うが侭に行動するだろう。
 それが、正しいという絶対的な自信の元に。
 苦笑を浮かべる姿が、水面に映る。
 泉水が、耳元で囁いて、離れた。
「人のように弱いから、貴様は人がよく分かるのだろうな」
 弱いから迷うか……。
 中々胸に刺さるな。
 私はそんな自分が、決して嫌いではないんだろう。
 どれだけ長い時間、人を見つめ続けてきたと思う?
 愚かだけれど学ぶことを知っている人が好きなんだ。
 ふ、と笑う。
 水面に映るのは迷いを振り切った自分の顔だった。
 答えなんて出ていたのだ。 


「鴎葵……」
 名を呟けば胸がしめつけられた。
 この痛みの名を知っている。
 いつごろか気づいてしまった。狂おしい切なさとともに。
 手を伸ばしても届かない距離にいる存在が、恋しい。
 すっかりお転婆を卒業し、娘らしくなった私に両親は目を細めている。
 そして、何も言わなくなった。
 家の中のことも少しずつ覚え、一人で何でもできるようになった。
 何かに夢中になっていれば、心の中を過る大きな影に気づかない振りをしていられた。
 鴎葵に会いたくて、約束が叶う日を待ち侘びて、自分を磨いているのもある。
 兄は、どこか違和感を感じているようで訝しむ視線を時折感じたけれど、そんなことどうでもよかった。
 結婚する年齢でありながら恋人もいない兄。
 家を守るために残っているとのことだったが、彼も人のことを言えないのだ。
 鴎葵を思い続けることを咎められる筋合いはない。
   焦がれる気持ちは日に日に増していくばかり。恋に気づいた日から。
誕生日に母より贈られた紅と紅筆。
 これを見るたび、胸がどくんと高鳴る。
 手鏡を覗くと、まだあどけない少女の姿がある。
 紅を塗ったら、大人に見えるだろうか。
「あずみ」
 母の呼ぶ声に振り返る。戸口から見つめる母は、自分によく似た面差しでこちらを見ていた。
20年後の私はこんな風だろうと簡単に想像がつくくらいに。
「長老があなたを呼んでいます」
「長老が……?」
「何か大事なお話があるのでしょう。なるべく早く支度して向かいなさい」
「はい」
 有無を言わさぬ口調に、どうにか頷く。
 長老は村のすべてを把握し、司る老人だ。
 その人が呼んでいるなんて、よほど大事な話なのだ。
髪を二つに結えて髪飾りをつける。
 鈴が軽やかな音を立てるそれは、今やお守りになっている。
 鴎葵から贈られた宝物。
 両親に挨拶し、家を出た。
家を出て、角の道を曲がろうとしたところに、兄が佇んでいた。
 別に疾しいものは何もないのだが、こちらを凝視する視線が堪えられなくて駆け出そうとした。
「あずみ……長老の所へ行くのだろう」
「はい」 
 話しかけられて、足を竦める。
「お前に大事な話があるから、ここで帰りを待っている」
 頷くにとどめた。
 返事をしたことになるだろう。
つい、駆け出してしまった。
 鴎葵に、大人になったと胸を張って言えないではないか。しょんぼりだ。
 随分走って坂を登った先に、長老の家が見えた。
 古い家だ。うちより古いだろう。一体いつからここにあるのか知らない。
 独特の雰囲気を醸し出していて、足をすくませるが、ゆっくりと歩を進めた。
 庭にある池には鯉が泳いでいて、ぱしゃんと跳ねた。
 水に浮かぶ大輪の蓮の花が、神秘的だ。
 こんこんと戸口を叩く。
「あずみです……参りました」
 緊張で声が震えた。
「お上がりなさい」
 静かな声。幼い日に聞いたあの日の記憶のままだ。
 草履を脱ぐと足音を立てないように、長老の居室を目指す。
 襖の前で膝をつき、
「失礼します」
 そっと押し開け、その場に平伏した。
「頭をお上げ」
 恐る恐る、顔を上げる。
 長老は、威厳に満ちた面で、こちらを見つめていた。
 薄々分かっていても訊ねてしまう。
呼び出されるのは、初めてだったのだ。
「とりあえず、こちらに座りなさい」
 長老は、ご自分の隣の座布団を指示した。
 老婆なのだが、毅然とした立ち振る舞いは年齢を感じさせない。
「単刀直入に言おう。鴎葵様を知っておるな」
「……はい」
「あの方はこの地を守ってくださっている神なのだ」
 どくん。心臓が波打つ。
 薄々気づいていたことだ……。
 神だとはっきり告げられても惹かれる心は止められるはずもない。
 だって、私にとって鴎葵は鴎葵だもの。
「過ぎた加護を求めてはならぬぞ」
「どういう意味ですか」
 失礼な物言いをしていると分かる。
「それは、己の胸に聞いてみればわかろうて」
 ぐっと拳を握りしめる。
「私が、村の掟を破って森へと踏み入ったことで
 罰を受けなければいけないのなら受けます」
「当時は、恐ろしい獣がいると教えても向かっていく果敢な娘だと呆れたものだが。
 今更そんなことはどうでもいい」
 長老は、口元で笑った。
「鴎葵さまをどのように思った?」
「……彼は確かに人とは違う存在のようでしたが、
 人間より人間らしい心を持っていました。
 少なくともあんなに穢れを知らず優しいひとは他に知りません」
 私には見えないものを見ていた鴎葵が眩しくて憧れた。
 同じ景色を見てみたいって思うことはいけないことなのだろうか。
「……本当にそなたは型にはまらぬ娘だ。
 だから神をも惹きつけるのか」
「長老さま……?」
「禁忌に触れることはない。
 村の者が悲しい思いをするのは心が痛む。
 厳しいことを言うたかも知れぬが、分かってほしいのだ」
 胸が詰まる。
「勝手にお慕いしているだけなんです。
 鴎葵さまは私を他の人々と同じように慈しんで下さっているのかもしれません」
 自分で言ってはっとした。
「……そうか」
「無礼な振る舞いをして申し訳ありませんでした」
「……いや。構わん……村の長老とは言え村人の人生を縛る権利はない。
 最後は、己の気持ちで決めればいいのだ。
 一時は家族を悲しませることになろうとも」
 深く頷いた。
「……ありがとうございます」
「いつまでもその素直な心のままでな」
 胸の内の霧がすっきりと晴れていく心地がしていた。
 長老は長く生きている分、深いお考えで行動されていただけだ。
 若輩者に過ぎぬ身で生意気な態度だったことを今更ながら恥ずかしく思う。
 長老の家を出て、家へと帰っていると途中の道で  見慣れた人影に出くわした。
「……時雨兄さま」
 そういえば話があると言っていたのを思い出す。
 時雨兄さまは、約束通り待っていた。
 苦悩が窺える表情に、目を奪われる。
「兄さま、どこか、具合でも悪いの?」
 問いかけても応えてはもらえない。
「え……兄さま!?」
 どこへいくのと問いたくても、必死の形相で掴まれては口をつぐむしかない。
 無口だが、困った時には必ず助けてくれる頼りがいのある兄は、
 8つの年の差のせいでとても大人に感じていた。 
 こんな強引な振る舞いしたことなかったのに、
 何故と疑問に思う。
「……痛い……離して」
 訴えると、もどかしげに手が離れた。
 急に立ちどまった為、兄に背中がぶつかった。
 強く掴まれていた手は、赤くはれ上がっている。
 夕暮れの景色。
 家に近いが、ここからではこちらの様子は見えないだろう。
「あずみ……お前はあの神のことを好きなのか。
 その髪飾りも授かったものだろう」
「……どうして」
 射すくめられて、びくんとした。
 怖い。今度は肩を掴まれた。
「あずみ」
 名前を呼ぶ響きに感じたことがない色があった。
 見上げるほど背が大きい。
 私に恐怖を与える目の前の存在ははたして誰だったろうと思う。
 鴎葵には、爪と牙で威嚇された時も恐怖は感じなかった。
  「そうだよ……鴎葵がくれたの。
 彼はとっても優しくて綺麗なんだよ」
 笑みを浮かべれば、きっとこの重苦しい空気も消し去れる。
 だから、笑った。
「質問に答えていないだろう」
「……神様に惹かれては駄目って言うんでしょ」
 それが、答えになった。
 見開いた兄の眼が、私を動けなくさせる。
「……長老さまは、自分の気持ちを大事にしろって言ってくださったわ」
「叶うとでも思っているのか。
 昔神に恋をして想いを受け入れずに自ら命を絶った娘がいた。
 お前も同じ運命をたどるのか」
「……勝手に決めつけないで。
 私は死んだりしないわ」
「俺じゃ駄目なのか」
 さらり、髪を撫でられる。
 髪飾りが軽やかな音を立てた。
「俺は、お前が14になったら結婚を申し込むつもりでいた」
「知ってるでしょう……兄妹じゃ結婚できないのよ。
 いとこ同士なら珍しくないけど」
 わざと惚けてみせた。
 この先の話を遮りたくて、何となく知っていた事実を
 決定的なものにしてしまいたくなくて、喚き散らしてしまいたかった。
「俺とお前は兄妹じゃない。血のつながりもないんだ」 
「知ってたけど確かめたくなかったの……
 兄さまがご養子だってことを」
「ああ……そうだよ。俺は生まれてすぐ里子に出されて
 あの家にもらわれた。八年後にお前が生まれたんだ」
「小さいころよく遊んでくれたよね。
 兄さまは側にいてくれたから寂しくなかったんだ」
「お前が外の世界に憧れを持ってから、
 どれだけ歯がゆかったか知らないだろう?
 俺の小さなあずみがどこかへ行ってしまったと思ったよ」
 兄の整った容貌が、醜く歪んだ。
 父にも母にも似ていないその顔。
「俺と結婚してくれないか。もう父上にも母上にも了承を得ている」
「……私にとってお兄さまはお兄さまだもの」
 考えたことすらない。
「……もっと早く告げておけばよかった。
 たとえお前を傷つけることになろうが、早く伝えておけば」
「いつだって、同じだったわ」
「いつの間にやらおなごらしくなって……
 そんなに美しくなったのも全て鴎葵のせいなんだな」
 兄は神の名を呼び捨てにした。
 私が森へ行くようになってから、敬意を捨てたのだろう。 
「……あずみ」
 顔が近づいてきて、危機感を感じた。
「私にとって時雨兄さまは大切なお兄さまよ。それはこれからも変わらないわ。
 素敵な人を見つけて幸せになって」
 勢いをつけて走り出した。
 振り返りたくはなかった。
 早く、鴎葵に会いたい。
 泣きそうな心で願う。


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