残り香



 夜明けの光が、カーテンの隙間から差し込んできていたが、
 ベッドの中では未だ濃密な空気が漂っていて、咽そうだった。
 彼は、スラックスのポケットの中を弄って、シガレットケースを取り出した。
 かさりと音がした。煙草に火をつけようとしたが止めたのだ。
 この部屋には灰皿を置いていないのだ。
 青のために置いておこうとも思ったが、今の状況ではそうするのを躊躇う気持ちがあった。
 くっ、と笑ってジャケットの皺を伸ばす。
 よく知らないが上質なのは分かる。高級ブランドのスーツだろう。
 煙草の香りは染みついていない。
「目覚めるまで側にいてだって?
どうせ、お前に開けてもらわなきゃ帰れないだろ」
 皮肉っぽく言われて、ぱっ、と顔を赤らめる。
 考えてなかった。ただ、側にいて欲しくて言っただけだ。
 顎をつかまれ、上向かせられる。
 間近で見上げる青の綺麗な眼差しに、ぞくとした。
 見つめると、相手の視界にも入ることを意識せずに彼を見ていた。
 暫らくの沈黙の後、息を吐き出す音がして、びくんとする。
「まだ早いからゆっくり起きろよ」
「ご飯、食べていかない? 」
 ふと、口に出してみたら、青は冷えた笑みを浮かべた。
「いいよ……また連絡する」
 背中を向けられて、小さく声を発した。
「気をつけて」
 青は、寸分の隙もなく身繕いし、帰っていった。
 ぽつん、と下着だけを纏った姿でシーツに包まった。
 だらしなく寝転がる。宙を見つめて瞳を閉じた。
 ふわり、漂う彼の香りを、めいっぱい吸い込む。
 体中に浸透させるように。
 残されたパフュームは、煙草と彼自身から香るもの。
 夜の余韻を残す肌に、散った赤い華。
 シーツをかき抱いて、体を丸める。
 けだるい体を起こして、彼を思い浮かべる。
 沙矢の中で、彼は既に永遠の人になっていた。
 たとえ、この先誰と恋をしても、忘れ去ることはできないだろう。
 藤城青。
 甘い罠を仕掛けて見事に私を捕まえた人。
 先ほどまでのことを思い出し、再び瞳を閉じた。
  

 12月の頭に入り、年末で皆忙しなくしていた。
 会社の昼休み、デスクから立ち上がろうとした時、
 携帯の電源を入れると、母からのメールが入っていた。
 慌ててトイレまで走って、電話をかける。
 いきなり話しかけたら相手も勢いつけて話してきた。
「どうしたのお母さん? 」
「どうしたのじゃないわよ。元気にしてるの? 」
 突然かかってきた母親からの電話に、どきっとした。
 何も咎められることはしていない。
 あまり連絡をしていなかったのが、親不孝だったかもしれないと  今更ながら、思い至った。
素直に応える。
「元気よ……最近連絡入れてなくてごめん」
「元気にしているならいいけど。寒くなってきたから
 風邪ひかないように気をつけるのよ。
 そういえば主治医は決めてるの」
「うん」
 新たに婦人科に通っていることは言っていないが、
 わざわざ話すべき必要はないだろう。
 元々、周期が不安定な方なのは母親にも話している。
「お母さん……、心配しないでね。
 仕事もがんばってるし、何も困ったことはないから」
 言い募る様子を不審に思われなければいい。
 ただ、言っておきたかった。
「信用してるわよ、あなたのことは。
 昔から、何でも独りで決めて来たものね。
 時々無鉄砲にも見えてはらはらしたけど」
 誰より沙矢を理解し受け入れてくれている人だからこそ、
 口に苦いことも心に痛いこともたくさん言ってくれる。
「何かあったら言うのよ。もちろん、なくてもね」
「はい」
 優しい言葉に頷く。
「お母さんも、体に気をつけて」
 沙矢の言葉に母は小さく笑ったようだった。
「……たまには顔見せてね」
 何も返事ができずにそのまま通話を終了した。
 帰りたくないわけじゃなくて、帰れない。
 肉親の前で、弱い自分をさらけ出して泣いてしまうのが目に見えていた。
 携帯画面を閉じる前にアドレス帳を開く。
 青(セイ)と登録された番号とメールアドレス。
 とても大切なものだった。失くすのは怖い。
 いつだって、迷いながら彼に連絡を取っていた。
 着信履歴からだと早いのにアドレス長を開いてしまったのは何故だろう。
「っ……えっ? 」
突然、電話が震えて、着信を知らせてきた。
 ディスプレイの表示を確かめて、息をつく。
「もしもし……」
「今、外に出てるんだ。一緒にランチでも食べないか? 」
電話の向こう側からは、車の走る音など
雑音が聞こえ、  会社内にいないのがわかった。
 心が弾んだままに言葉が飛び出してくる。
「食べるわ! でも時間大丈夫なの? 」
 青の会社は距離的に近い場所ではない。
「大丈夫だ。昼の休憩は自由だって言ったろ
 ……午後からまた忙しいがな」
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「急いで会社出るわ」
「すぐに行く」
 通話を切ったら、嬉しさがこみ上げてきた。
 平日の昼間にランチだなんて、初めてではないか。
 何だか普通にデートみたいで、浮き足立った。
 鏡には隠しきれない笑みを浮かべた自分がいて、現金だなと思った。
 会社の外に出て建物から離れた場所まで歩いていく。
 青の車はそこで待っていた。
実は電話もここから掛けたのではないかと疑問さえ浮かぶ。
 クラクションは鳴らさずに、運転席の窓が小さく開く。
「乗れよ」
 こくん、と首肯して開けてくれた助手席へと乗り込む。
 今日は、鍵だけで自分で扉を開けたので、変な気分だ。
 いつも甘やかされていたから。
 3つほどカーブを曲がって、たどり着いたイタリアンレストランへと入っていく。
「……ぼ、ボナペテイって召し上がれ? 」
「そうだ。よく知っているな」
 褒められて、頬を染める。偶然テレビか何かで知ったのだ。
 単語を知っているだけでイタリア語を話せるわけじゃない。
得意げに言ってしまい、途端に恥ずかしさがこみ上げてきた。
 店の入り口の前で立ち止まった沙矢の手を大きな手が握る。
 固い骨ばった指先は、ほんの少し強張っていた。
「入らないのか。電話では嬉しそうだったけど」
 青の声に不安を感じ取り、驚いた。
「ごめんなさい。ぼうっとして」
「いいよ」
 強く手を引かれ、半ばつんのめるように後ろからついていく。
 窓際の席に座った。
 おしぼりで手を拭くと、運ばれてきた水に口をつける。
 半分ほど空にしてしまうと、向かい側からの視線を感じ、慌てた。
「喉が渇いてたの」
「別にいいが」
 テーブルの上に置かれたメニューと睨めっこしていると、長い腕がそれを奪い取った。 「決められないなら俺のお勧めでいいだろ」
「……はい」
 申し訳なくなり尻すぼみに返事をした。
 長いメニュー名に頭がくらくらしたのだ。
 こういう場所は、あまり来ないし。
 大抵、彼が注文してくれるのに任せていた。
 青が頼んだメニューは、意外に早く運ばれてきて、
 彼に断り、先に口をつけた。
「美味しいか? 」
 急いで租借して、大きく頷く。
 青は瞳を細めていた。小さく、よかったと聞こえた。
 青のメニューも運ばれてきて、驚く勢いで彼はそれを平らげた。
 決して品を失わず、優雅な仕草にもかかわらず
見事な速さだったので  目を瞠って釘づけになった。
「お前はもっとゆっくり食べたかったのに悪いな」
「いいの……あなたと来れたんだもの」
 浮かべた笑みに、青が憮然と口を開く。
 怒られることしただろうかと沙矢は、俯いた。
「嫌じゃないならいいんだよ。そんなに喜ばれると調子狂うだろ」
「自分の気持ちに嘘をつけないんだもの」
 青は、黙ってグラスを傾けた。
「また今度ゆっくり来よう」
「本当? 」
「ああ」
 今なら言えると思って唇を開く。
「明日ね……よかったら、夜に会えない? 」
「……分かった。迎えに行くよ。いつもの場所でいいな? 」
 続けざまに言われ、思考が上手く回らないが、
 了承を得られたのだと、それは信じていいのだと笑った。
「待ってる」
 食事を終えて会社の側まで送ってもらい、その日はそれで別れた。
 仕事を終えて帰る頃、ロッカールームで一通のメールに気づききょとんとする。
『明日は一日中、一緒に過ごせるがどうする? 』
 心は既に決まっていたから、急ぎメールの返事を打つ。
『あなたがいいなら一緒にいたい』
 例え日曜日を共にできなくても、土曜日の間中過ごせるなら。
 夏に行った一泊二日の旅行を思い出して、心が騒いだ。


 いつもの場所。彼がたまに利用しているホテルは、
 ビジネスホテルではなく上質の部屋だった。
 広いベッドで眠りたいからと一人でもツインを取るらしい。
 再会の夜もこのホテルで、時を分かち合った。
 たどり着いた部屋で、ソファに座った沙矢を青は無言で見下ろしていた。
 首に巻きつけたマフラーが、床に落ちても、彼の動向が気になった。
「どうしたの? 」
「いや、よく似合っているな」
「あ……これ? 通販で買ったの。可愛くて一目ぼれだったのよ」
 こげ茶色のポンチョ風コート。買えない値段ではなかったし
 コートは一着しか持ってなかったから即決だった。
 会ったときからこの姿だったのだが、鋭い彼が、今頃気づいたのだろうか。
 沙矢は、コートをクローゼットに掛けてきて、青を見上げた。
 彼の方はとっくにジャケットとスラックスの姿だ。
「週末の夜は予約済みって言ってくれたじゃない」
 青は、視線を逸らさず沙矢を捉え続けている。
「土曜日でもいいのかなって」
「ああ。よほどでない限りは」
 す、と歩いてきた青が、沙矢の隣に座った。
 距離がなくなり、心臓が高鳴った。
 大きな手のひらが、沙矢の小さな手を掴んでくる。
 抱きすくめられて、瞳を揺らした。
 想像以上に、青の体は熱かった。
 そっと腕を回したら、さらりとしたスーツの感触に触れた。
「不安にならないですむの」
 残りの言葉は耳元で囁いた。
 抱かれている時間は。
青で満たされて、心までひとつになれているんじゃないかと錯覚する。
 夢を見ることができるから。
 その後の耐え難い寂しさも、乗り越えられる……。
 青は、体を離して、沙矢を正面から見つめ、唇を重ねた。
 余計な言葉は必要ないのだとばかりに、口づけが激しくなる。
 息が乱され、体の力が抜けた頃、抱き上げられて、
 バスルームへと連れて行かれた。
「ん……ふ……っ」
 歯列を吸う舌先。絡め合い、ぽたりと滴が首筋を落ちる。
 前面から降り注ぐシャワー。
壁に凭れ、体ごと青の腕のなかでキスを受ける。
 ブラウスが、シャワーに濡れて肌が透け始めていた。
 力強い腕は沙矢の体を包み込んでいる。
 崩れ落ちそうになったら、青の体にしがみついた。
 切羽詰ったような余裕のないキス。
 青はバスルームに入った途端、壁際に沙矢の体を押しつけシャワーをひねった。
 頭から、飛沫を浴びて、お互い濡れそぼっていた。
 風邪をひいてしまうと、冷静な脳裏で考えていたら、
 乱暴にブラウスのボタンを外された。心が読まれたみたいだった。
 露になったブラジャーの上から、やわやわと揉みしだかれる。
 濃厚なキスを繰り返しながら、肌を愛撫され一気に血が沸騰していく。
 青の体に足を絡めたら、スカートの裾が上がり太ももが見えた。
 服を着ている状態のほうが、よほど淫らで、見つめてくる
 野生的な瞳が、一段と沙矢を煽る。
 彼の一部は既に固く起ち上がっていた。
 沙矢を求めている証の表れで、無性に嬉しくなる。
(私だけしか、知らない。彼のこんな姿は)
 背中で、ブラジャーが外れた。
 直接肌にシャワーがかかる。
 その濡れた体を長い指先が這う。弾き、摘んでは口づけた。
 ちゅ、と吸われて、背中が波打つ。
 喘いでも、シャワーの音にまぎれてかき消してくれる。
 沙矢は、奔放に啼いた。
 吸い上げられ、下から揺さぶられる膨らみ。
 腰が、無意識に揺れていた。
 お湯で濡れたのではない湿り気を下着の奥に感じている。
「……うう……」
 ぬめりが受け入れがたく、足をもどかしげに動かした。
「どうした? 挿れてほしいのか? 」
 冷静な声音ゆえに悪質に感じた。
 睨んだら、更に面白がる声が降る。
「そんな瞳で見られても、誘われているようにしか思えないな」
 言葉は多くない彼が、行為の最中は悪戯にからかう。
 逃げ出したくなって、もっとしてほしくなって、
 とっくに青の色に染められている沙矢は首を振って悶えるしかできない。
 スカートに腕を伸ばした所で青が、乱暴に下着ごと外した。
 シャワーとは別の熱で全身が火照っている。
 今初めて全てが露になった。
 バスルームの明かりの中で、肌を舐めるような視線を受けている。
 青は、ゆっくりとシャツを脱ぎ放ち、抱きしめてくる。
 その手に握り締めたものを見逃さなかった。
 目を逸らし、体を横に向ける。
 そして、衣擦れの音と何かを破る音を聞いた。
「望むなら、満たしてやるよ」
 ぐっ、と腰を抱え込まれ、背中に腕を回す。
 入り込んできた凄まじい熱が、一気に奥を侵略した。
「っ……ああ」
 喘ぎは口づけで塞がれる。
 突き上げられ、足元から震えが走る。
 全身を濡らして、内部からも水が溢れる。
 頭を押さえつけ、髪を掻き撫でられ、青の肌に爪を立てる。
 一層大きくなった彼自身が、欲を弾けさせる。
 お互いに、うめき声を上げ、宙に浮いた体が後ろの壁に反った。
 意識を閉ざす前、荒い息をついた体を支えられたのに気づいた。


 ベッドの中、シーツに包まりながら厚い胸にもたれる。
 肩に寄せた頬を指先が撫でていた。
 くすぐったくて、身をよじったら、ふくらみをやんわりと揉まれた。
「あっ……っ」
 中指が敏感な頂に触れた。反対側の手は頂を弾いている。
 煽らないで、もうこれ以上。ずり落ちて、体勢が変わる。
 お互いに向かい合う格好になっていた。
「……飽きないよお前」
「褒め言葉でいいのよね」
「もちろんだ」
 少し距離を取る彼に、何故なんだろうと思ったら、
 手を触れさせられ、その熱量に驚いて手を自分から引っ込めた。
「……もう一回したいならそれでもいいけど? 」
 ぶるぶると横に首を振る。
「私が、あなたを満たしてあげることはできないの? 」
 意味は知っていた。
「俺は望まないよ。少なくとも今の状況ではな」
 つ、と頬が熱くなる。背中を向けると後ろから抱きしめられた。
 腰に触れるそれを意識しないように気をつけて口を開く。
「イヴにデートして。一人でいたくないの」
 強請る沙矢に、青は困惑しているのか、一瞬黙った。
「……待っても俺が来そうになかったら帰れよ」
「来てくれるだけでいいから。ずっと待ってる」
 従うばかりが、好かれるわけじゃない。
 意志を通し、自分を伝えることも必要なのだ。
「約束を守れない男を待つことはするなよ」
 イヴのことを言っているわけではなく、沙矢に対する忠告だった。
「嫌……そんなこと言わないで」
 青は、そっと背中を撫でて、髪を梳いた。
 身繕いする音の後、今度は体を反転されて抱擁を受ける。
 閉じ込められたら、いっそこのまま
時間が凍りつけばいいなんて、  栓もないことを思ってしまう。
「イヴか……もう二週間ないんだな」
「そうよ。去年は何をしていたの? 」
「仕事だよ。約束はなかった」
 ゆっくりと離される体。震える唇を指先がなぞる。
 息もつけないキスに奪われた。吐息が絡み合う。
 乱すだけ乱しておいて、青は、
「シャワー、先に浴びるよ」
 素っ気無く告げて、ベッドを降りた。
「……うん」
 熱い頬を誤魔化すために、枕に顔を埋めた。
 朝から共に過ごして、夜の間に別れる。
 久々に一日中彼と共にいられた。
 正確には半日だけれども、貴重な一日で。
沙矢は、自らを抱きしめて、肌に染みついた彼の残り香を堪能する。
 けだるい体をもてあまして、ぼんやり彼が戻ってくるのを待った。
 



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