ベルベットの青い箱。
 外側もこんなに綺麗だからさぞ素晴らしいものが入っているのだろう。
 肩に腕が回ってきて、強く抱きこまれる。
 たくましい身体に、そっと頬を寄せて彼を見上げた。
「忘れていたか? 」
 ベルベットの箱が開かれる。
 いつの間にか部屋の照明が灯されていて、まばゆい光を弾いた。
「いいえ」
 しばらく見とれていた。
 彼が、しっかりと私の指に指輪をはめていく。
 ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちて視界が見えない。
「結婚指輪(マリッジリング)改め、婚約指輪(エンゲージリング)だ」 
「嬉しい……」
「これでお前は俺から逃げられない。魔除けとしていつもつけておけよ」 
 強気の言葉に、呆然となった。すぐに笑いがこみ上げてくる。
「私は前からあなたから逃げられなかったわよ」
 くすくすと笑む私の頬を長い指が摘む。
「本来は、婚約指輪に法的拘束力はないんだが……
 結婚までの日々を互いに分かちあいながら、
寄り添い過ごしていこうってことかな。
自己流の解釈だが」
「それ、いいわね」
「他の男に、すでに相手がいることを主張できる意味では効果的だ。
 何があっても外すなよ」
「え……でも、仕事中は無理かも」
「ああ……それなら」
 彼は一度私の指から指輪を抜き取り、銀の鎖(シルバーチェーン)を通した。
 よく見たら穴が開いていたのだ。
 頭を掲げると改めて、指輪を身につける。
 指ではなく、今度は胸元できらりと輝いた。
「絶対外したりしないわ。
 でも、一度も言ったことないのに、よくサイズ分かったわね……」
 結婚指輪をくれると言った時にも指輪の
サイズ知っているのかなと思ったのだけど。
「普段から手をつないで、指に触っているだろう。
 俺のサイズと比べてどれだけ差し引けばいいか、考えただけだ」
 照れ隠しなのかぶっきらぼうの彼に、キスをしたくなって頬に腕を伸ばす。
 軽くかすめて離すと照れが後から襲う。
「まだ続きがある」
 ベッドサイドテーブルに、置いていた
四角い包装を渡してくれる彼にきょとんとする。
 白衣姿を見せてもらったし、指輪をもらったのに、
他にもなにかあったっけ? 胸はいっぱいだ。
脳裏を疑問符を浮かべていた私は、
次の瞬間薄く開いた唇の中に何かが放り込まれたのに気づく。
 舌を動かして味を確かめる。
 口の中で、溶けて広がる甘さは甘すぎず苦くもなく絶妙だった。
「よく見てから味わいたかったな」
 不満を漏らすと彼は、
「呆けている内に放り込んでやろうかと」
 にやりと笑った。
「チョコも、ありがとうっ」
「指じゃなくても、お前がそれをつけていること自体が魔除けだ。
 仕事が終わったら指輪として指にはめろよ」
「はい」
 勢い良く抱きついたら、彼が動揺したのか焦ったように身を離した。
「魔性の天然だな……。早く捕まえておいてよかった」
 苦笑いされて、むう、と頬をふくらませる。
「だ、だってくっつきたかったんだもの」
「そうだな。素直でいい。今の沙矢は最高に魅力的だ」
「よかった」
 頭を撫でられた。
 着せかけられた半端の状態のパジャマのボタンを止めて立ち上がろうとした。
「っ……」
 ふらり、とその場に崩れ落ちてしまう。
 気だるくて甘ったるいしびれが、全身を支配している。
 眠りたくても、気力でどうにか起きなければいけない。
「ほら」
 腕を差し伸べられて捕まる。
「うん」
「一緒に行こう」
 支えられて、部屋を出る。
 洗面所に行くと歯ブラシに歯磨き粉を伸ばし、口に含んだ。
 二人で並んで歯を磨く姿が鏡に映っている。
 磨き終わり口をゆすいでタオルで拭う。
「チョコレートってまだ残ってる? 」
 私の問いに彼が、くすくすと笑い、頭をなでてくれた。
「ああ。冷蔵庫に入れておくから、また仕事から帰った時にでも食べろ」
「う、うん」
 頬を赤らめる私は、青との身長差を改めて意識してみた。
 じいっと見上げてみる。
 モデル……いや、ホストみたいでもあるし。
 とにかく恐ろしい人だ。
 外見に反し、内面は、ものすごく不器用で、可愛らしい一面もある。 
 もう、こんな人に捕まって逃げられるわけないじゃない。
ふわあ。あくびが、出てしまう。
 目元も潤んで、真っ赤になっていた。
 立ったまま、ぐらぐら揺れ始めてしまい、慌てて自分の頬を打とうとした。
 彼が見事にその手を掴み、腰を支えてくれたのだけど。
「お姫様は、お休みの時間だな。さあ、寝室に戻ろうか」
「っ……甘い声ばっかり出すんだから! 青って絶対……」
 言いかけた言葉を飲み込む。
 魅惑的な声と姿で翻弄する彼を形容するとっておきの
 言葉があったが、恐怖に背筋を震わせた私はぴたりと口をつぐんだ。
 頭上から降り注ぐ微笑みは甘いだけじゃなく、私を凍りつかせる。
「続きが言えるものなら言ってみろ。
 明日は寝坊した挙句に、寝ぼけたまま車で強制連行だぞ。
 メイクは車の中で、することになるから落ち着かないよな」
「ひいっ。冗談です! おやすみなさいっ」
 先に寝室へと戻ろうとしたら、パジャマの裾が掴まれた。
「婚約者(フィアンセ)を置いていくな。一緒だろ」
「はーい」
 ぎゅっ、と繋がれた手に癒やされる。
 彼は、強気な言葉とは裏腹に優しく、指先を絡めていた。
 寝室に戻ると、カーテンの隙間から月の光が漏れていた。
 歯磨きに15分もかかってると壁の時計をみてため息をついた。 
(時間がたつのも忘れるってこの事ね)
 寄り添い合うように、眠りについた。
 翌朝、しっかりと6時間眠って手早くシャワーを浴びた。
 朝食は、少し適当になってしまったがしょうがない。
 コーヒーを飲みながら、パンを片手に掴んでいる彼を
 初めて目撃し、思わずカフェオレを吹き出しかけた。
「ぶっ」
「さーや? 」
「高校生の青が思い浮かんじゃったの。馬鹿にしているわけじゃないのよ」
 彼は無言で、私に視線を送った。
 墓穴を掘ったのだろうか。ぶる、と頭(かぶり)を振る。
 今着ているワイシャツとネクタイに白衣をまとい仕事をしているんだ。
 早く見たいな。
 ご実家の病院に勤務するようになったら、顔を見られるかしら。
彼が、満面の笑みを浮かべて、自分の頬をちょいちょいと指差す。
私は首を傾げて、じっと見つめ返した。
「えっ……? 」
 身を乗り出した彼が私の唇を舌で拭う。
 ぺろりと舐められた。いたって真顔だ。
 言葉もなく見つめていると、さっさと彼は席を立ち、洗面所に向かっていった。
ジャムがついてたなら、言ってよー!
車で送ってくれる途中、チラ、と彼の横顔を盗み見た。
 真摯な表情の中に自責の念を感じ、いたたまれなくなる。
 些細な表情の変化を少しずつ感じ取れるようになり
 自分の愚かしさを再認識した。
 会社に着いて車を降りる直前、彼に声をかけた。
「今日、帰ったらゆっくり話そうね」
「沙矢……」
 握られた手の力は強く、ハンドルを握っていたからか、熱を帯びていた。
 瞼を伏せて、ふるふると頭を振る。
「昼休憩に迎えに来るよ。昼食を取ろう」
「う、うん。外に出てる」
 名残惜しいながらも、走り去る車に手を振る。
 後ろから歩いてきた陽香が、声をかけてきた。
「おはよう」
「わっ……びっくり。おはよう、陽香」
「なあに。青様を見送ってて私に気づかなかったのね」
「えっと……はい」
「婚約したんでしょ。おめでとう」
 早足で歩きながらの会話は、言葉も早めの速度だ。
「昨日ね。予定が変わって、どたばたしちゃったけど」
「段取りをちゃんと踏むことにしたんだからいいじゃない」
 にっこり笑う陽香に照れる。今になって実感がこみ上げてきた。
 エレベーターに乗ると、部長が後ろから滑りこんできて、
「おはよう、お二人さん」
 至極爽やかに言われた。
「おはようございます、櫻井部長」
 二人して、会釈し、スペースを開ける。
「君たちは早いね。感心、感心」
「遅くても始業の三十分前に来るのは当たり前ですよっ」
 陽香の言葉に、内心で頷き、相槌を打つ。
「この2年間で染み付いてますもの……」
 スーツから、ふわりと香ってきた匂いは煙草に似ていた。
 距離が近いからこそわかる匂いだ。
「課長、香水ですか? 」
「ああ、香水だよ。煙草は吸わないからね」
 煙草の匂いに似た香水のこと、帰ったら彼に聞いてみよう。
 エレベーターを降りる間際、
「婚約おめでとう」
「ありがとうございます」
 通り過ぎる部長に言われて、顔を赤らめた。
 どうやら会話を聞かれていたのかもしれない。
 陽香と二人で自分たちの部署に向かう。
 パソコンを立ち上げて、ため息を漏らすと、
「どうしたのー? 」
 陽香が、唇の動きで言葉を伝えてきた。
 彼女は向こう側のデスクからにまにまと笑みを浮かべていた。
 まだ、始業してないのに、何故わざわざと疑問を抱くも同じように返した。
 割りといたずら好きなのだ。
「後で話すわ」
 今度は手のひらで丸を作って返してきた。
 お互いに通じ合えてホッとする。
 そうして午前の仕事をこなし、伸びをして気合を入れているところだった。
 デスクの上にコーヒーカップが置かれた。
 ちゃんとソーサーには、ポーションタイプの
 ミルクとテーブルシュガーもセットされている。
「冷めない内に飲んでね」
「っ……、部長!? 」
 あわあわ、とカップを持つ手が震える。
「あり、ありがとうございます」
「がんばって」
(ひい。味わうこともできないわっ)
 陽香は平気だったろうか。
 カップに砂糖とミルクを入れる。
 ごくごくと一気飲みして、むせてしまったが、
 ある程度冷めていたので胸が焼けて苦しくなることはなかった。
 部長がしなくていいことを何故しているのだろう。
 お陰でこちらは心臓が半端じゃなく鳴り響いています。
 とんとん、と胸の上を叩きながら、そんなことを思った。
 昼休憩には、ほんの少しだけれど青と会える。
 忙しい合間を縫って、仕事の時にランチを一緒にしたのは、
 三ヶ月前だ。確かイタリアンを食べに行ったんだっけ。
 ゆっくりできなくて、急いで食べなければいけなかったけれど、
 今のような関係ではなかったから、少し息が詰まった。
 口元についていたコーヒーをハンカチで拭い、仕事に戻った。
 休憩のベルが鳴った途端、デスクを整え席を立つ。
 一度振り返ると陽香が、こちらを見て微笑んでいた。
毎日、ランチを共にしているので、珍しい行動に、彼女も訝しんだかもしれない。
 結局、会話をできないまま、昼の休憩になってしまった。
 もう、終業後に謝ろう。言い訳になってしまうけど。
   




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