日を追うごとに、新しい部長の株はうなぎのぼり。
 正統派の男前ということもあり、女子社員の人気も抜群で、
 既婚なのにファンクラブが出来るほどだ。
 私は勿論影で、熱狂する人たちを眺めているだけだ。
 櫻井部長も、誠実な態度を崩さない。当たり前といえば当たり前だ。
「ああいう人に限って裏の顔があるのよね」
「陽香……よくないわよ」
「前のがあれだったから、勘繰っちゃうのよね」
 私は、返答に困った。
 あの人は、地位も名誉も失ってしまった。
 一時の欲望で、すべてを失う空しさ。
 青は愚かすぎて、見苦しいと吐き捨てていた。
「思い出させてごめんね」
頭を振る。陽香が比べる対象にしてしまうのは無理もない。
 もし、あんなことがなければ、今も部長はあの人だったろう。
「プリントアウトされた紙が回ってきたんだけど」
「ああ、部長の歓迎会ね。強制ではないけど、似たようなものか。
 後々考えれば顔出しておいたほうがいいものね」
「そうよね……予定は金曜日の夜か。明日じゃない! 」
 会社の付き合いだって、青もあるだろう。
 咎められるようなことでもない。
 玄関へと向かいながら、携帯を開く。
 歩きながらでも打てるから、携帯は楽だ。
「どうしたの? 彼、今日は遅いんでしょう? 」 
「ちゃんと今から帰ることをメールしておかなきゃいけないの」
「心配で仕方ないのね。無理もないけど」
「うん。バス停まで、一緒に帰ってくれるの嬉しい」
「私だって一人じゃないの嬉しいもの」
 ぎゅっ、と手を握り合ってみる。
 彼の手の感触とは違い、柔らかくて女性らしい。
 色のつかないネイルを短く整えた爪に塗っている。
 派手ではない程度に、ちゃんとおしゃれして、女を忘れていない。
「ちょ、沙矢、どうしてそんなに見てくるのよ?
私はいいけど。だめよ、青さま以外にやったら」
「やらないわ。もう、今朝も青に色目使うなとか言われたばかり」
「うわあ……」
大好きな親友は、私より歩幅が大きいので半ば引きずられるように歩く。
 うん、私が早く歩けるように特訓してくれているんだわ。
 週に二、三回は必ず一緒に帰るようになって、
 親友との時間がささやかながら、増えた。
 青と帰れないのは残念だけど、
 帰宅して暫く後にに会える。
 その間にご飯を作りながら今日の反省をする。
 帰宅して顔を会わせた瞬間の青を想像する。
「あのね、うちにも遊びに来てね。陽香なら青も大歓迎だから」
「ん。遊びに行けるうちに行きたいわ」
「え……? 」
「沙矢は、将来青さまのご実家……藤城家で暮らすんだものね」
「……時期は分かんないけどそうなると思う」
「なんで、しゅんとするのよ。嬉しくないの」
「嬉しいけど……色々考えちゃうの」
「何が起きても、青さまは沙矢の絶対的な味方でしょう。
 あ、もちろん、私も忘れないでね」
最初の言葉なんて、そうでなければ許さないと強い意思を感じた。
「当たり前だわ」
 バス停が見えてくる。
 幸い他にも乗車する人がいるようで、時計を確認しながら待っている。
 賑やかさに、心強さを感じた。
「陽香、また明日ね」
「バイバイ」
 手を振り足早に歩いていく親友の姿を見送って、
 定刻どおりに到着したバスに乗り込んだ。

「それにしても、丸くなったわよね、王子は」
「誰が王子だ」
 からかい混じりに揶揄する同僚に辟易する。
 憮然としてしまうのは、相手が沙矢ではないからだ。
 俺は、沙矢一人の王子にはなるが、みんなの王子では決してない。
「前ならすました顔してスルーだったのに、反応返してくれるんだものね」
 この同僚はいつぞやに誘われた相手だ。 
 二度と付き合わない類の女。
 いや、もはや異性ではなく、同性ではないというだけ。
 沙矢以外は全部同じにしか感じられない。
「そうだ、藤城総合病院で子供産もうかしら? 」
「相手もいないくせに」
「あなたが、ご実家の病院で活躍し始める頃には結婚しているわよ」
「……そうか」
 男の影も匂わせない隙のない雰囲気だが、それでも結婚願望はあるらしい。
 早く帰りたいと思うが、休日出勤するよりマシだととらえていた。
 この大学病院で勤務した経験が、実家に帰っても役に立つはずだ。
 七光りだと思われるのを恐れ、他の場所で経験を積むことを選んだ。
 藤城総合病院で、研修医になる選択はせずに。
 まだここにいる期間はあるが、早々に実家に戻らなければならないだろう。
 ねちねちと風当たりが強くなるのも覚悟の上で、
 大学病院で己を磨くことを望んだのだ。
 つかの間の自由は最愛の人と出会う時間をくれた。
彼女には出会えたのは、奇跡としかいいようがない。
「考え事しながら、よく集中できるわね」
「なぜ、分かる? 」
「時々、妙に表情が緩んでいるわ。どうせ彼女のことでも考えてたんでしょ」
「仕事引き受けてやったんだ。暇ならさっさと帰れ」
 追い払う仕草をしてやっても、笑みを消さずに手を振った。
 約束でもあるのだ。未来を空想するくらいには上手くいっている相手と。
 バイブにしていた携帯が、着信を知らせている。
『今から帰るね』
 笑顔の絵文字つきの一言メール。ひどく、安堵がこみあげてきた。
 鏡で見たら、あからさまに頬を緩めている己がいるだろう。
 恋愛がこんなにも力をくれるとは思わなかった。
 帰ったら、優しいあの笑みに会える。エネルギーが身体に満ちてくるのだ。
 羽織っている白衣を見せてやる約束をしていたか。 
 会社で洗わなくても持って帰ればいいか。
 結論付け、仕事に力を入れる。
   沙矢が知らなくてもいいことも知っている。
 あんなに清純な女が俺を好きになってくれたのは奇跡だと思う。

「お帰りなさいっ」
 とてとて、と走ってきた沙矢を抱きとめる。
 腕の中、こちらを見上げてくる顔は素顔で、一番綺麗で無垢な姿だ。
「ただいま」
 腕を回しきつく抱きしめる。
 頭を撫でたら、くすぐったそうに笑う声がした。
「青、疲れてるでしょ。ご飯の前にお風呂入ってきたら」
「俺に選択権はないのか? 」
「うん。お風呂の前にご飯食べないほうがいいんでしょ。
 食べたら、体の為にも暫く時間置いて入ったほうがいいって」
「そうだな」
 くすっと笑う。知り得た情報をどこか、得意げに話す沙矢は可愛かった。
「あ、私、先に頂いちゃった。ご飯は一緒に食べようね」
 ガードが固くないだろうか。そそくさと
 キッチンに消えようとする沙矢を捕まえ、頬に口づけた。
「つれないな。一緒に入らないと駄目だろ」
「一人で入ったほうが疲れ取れるから」
「どうしてそんなことを言う。別に何もしないのに」
「……、明日一緒に入ろ」
 潤んだ眼で見上げられたら、言うことを聞くしかない。
 了承したとばかりに、微笑んだら、嬉しそうな顔で頷いた。
入浴から戻ると、テーブルの上にきちんと座って沙矢が待っていた。
 湯気がたちのぼり、食欲を掻き立てる匂いがする。
 野菜中心だがたんぱく質も豊富に取れるメニューだ。
  「美味そうだな」
「タイミングばっちりでしょ」
「そんなに俺の動向をチェックしてたのか。
 シャワーを浴びる姿を浮かべながら? 」
揶揄すると、首を勢いよくぶんぶんと振った。
「音聞いてたからあがったの分かったんだけど……考えてはないわよ」
 ごにょごにょと尻すぼみになる語尾に、おかしくなる。
「溜まってんならイかせてやろうか」
「ぐほ……帰って早々何言ってるの! 早く座ってよ」
 顔は、熟れたりんごのごとく染まり、分かりやすいなあと思う。
 端を手に持っては離すを繰り返している。
 悠々と、対面の椅子に腰を下ろし、正面から視線を送る。
「何意識してるんだ。心配しなくても抱いてやらないよ」
「余裕たっぷりで青は大人ね」
 拗ねた唇に食らいつきたい。
 恥らいつつも、期待するかの眼差しを
向けてくるから今すぐ屈服してしまいそうだ。
「お前も十分大人じゃないか。とても無邪気で、まっすぐなだけだ」
「……藤城のお家に引っ越しても上手くできるかな」
「ああ。俺のことをよく元気づけてくれるのは沙矢の方なんだから、
 また、しょうもないことで落ちてたらこちらこそ慰めてくれよ? 」
「う、うん」
「今は、とりあえず食べようか」
 二人、同時に手を合わせていただきますと小さく呟いた。
「明日ね、櫻井新部長の歓迎会があるの」
「食事は一人ですませておくよ。何時に迎えに行けばいい? 」
「疲れているだろうし、いいわ。バスで帰る」
「普段からバスで帰らせているのが心苦しい俺の気持ちも察してくれ。
 少なくとも二時間は遅くなるだろ。何時になると思ってるんだ」
 途中から、少し怒気をはらんでしまい、沙矢が息を飲む瞬間を見た。
 怖がらせるつもりはさらさらなかったが、
 分かってほしいとだけ願っていた。
「素直に迎えに来てって言え」
「素直になります、迎えに来て」
 沙矢が、歓迎会の大体の終了時間を告げてくる。
 一人で外食は気が進まないが、
 外で食事を済ませて迎えに行くのがちょうどいい。
「家には戻らないほうが時間の無駄にはならないな。
 会社出たら適当に食事して迎えに行くよ」
「えええ、適当は駄目よ。
 運転中にお腹の虫が鳴いたら大変だもの」
 相変わらず可愛いことを言う。
「いただきます」
 拳を握る沙矢を傍目に手を合わせたら、彼女も後に続いた。
 食事中は咀嚼の合間に喋るから、会話はゆったりとしたものになる。
 慌てずよく噛んで食べる。その為にも時間には余裕を持ちたい。
 幼い頃からの教訓は今の自分に息づいている。
 彼女も、綺麗な所作で食事をする。
 あまり見つめすぎると、うっかりこぼしたり
 箸やスプーンを取り落としたりするから気をつけねばならないのだが。
 いい加減、慣れろ。
 俺はいつだってお前をていたいんだから諦めろよ。
「弱いんだから酒は飲むなよ。ノンアルコールにしておけ」
「だ、大丈夫。カクテルにしとくし」
「迎えに行くから問題はないんだがな。
 飲むなら俺とだけにしろ」
「青とお酒飲むと思い出しちゃうもの」
「いい思い出だけど」
 沙矢はお茶を一気飲みした。動揺を隠しているのか?
「醜態でも痴態でも存分に晒せ。許してやる」
 レタスを取り分けながら、沙矢は、唇を尖らせた。
「変な言葉を間に入れないで……」
食事の間も彼女をからかうことが癖になっていて、
 一人でしていた食事は本当に味気なかったなと遠い目になる。
「あ、昔を懐かしむ目だ」
 いきいきと目を輝かせた沙矢に、フッ、と笑う。
「昔の俺に言ってやりたいんだ。
 こんなにも美味い食事を取ったことないだろってな」
「私も同じ」
沙矢はそう言って最後の一口を頬張った。
 そして、翌日、会社まで送り一時の別れを告げる時、
「今日も頑張ろうね」
「ああ」
 手を振った彼女は、車が少し離れるまでずっと見送っていた。
 ミラー越しに小さくなる姿を確認し、一気に加速した。

 




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