kissの事情  



 かたかたとキーボードを打つ。
 今日も何事もなく一日を送っている。
 4月で、入社三年目。まだまだこれからといったところだ。
青が、プレゼントしてくれた腕時計は手首にしっくり馴染んでいる。
 ちょっと目立つかもしれないなと思うけれど、
 嵌めていると安心するのだ。
 パソコンの画面右下で、メールのアイコンが光っている。
クリックしたら春日学と表示されていた。
「っ……何なのよ」
 思わずとげがある声が出てしまう。顔も険しくなっているに違いない。
 きっと仕事の用事よ。
 社員に与えられたアドレスは私的に使うものじゃないもの。
 上の立場の人間が、それをわかっていないはずもない。
 駅で出くわしてから、警戒心が強くなっていた。
 プライベートではなく仕事中よと、自分の態度を反省して、メールを開いた。
『君の彼のことで話があるんだ。昼休みに食事しながらでも』
 目が点になる。
 反省した自分は一体何だったのか。
(何で青の話を……)
 メールに記された場所は、普段決して訪れない場所。
 春ならともかく冬にわざわざあそこは選ばない。
 屋上にあるテラス席と書かれていて、いぶかしむばかりだ。
 その時、運悪くお昼休みを知らせるベルが鳴った。
『友達も一緒でいいですか』
 驚くべき速さで届いた返信はノーで、友達には関係ない話だからということだった。
 どうしよう……。
 お弁当片手ににじり寄ってきた陽香に、すぐ戻ると伝えてエレベーターに向かった。
 心配そうな彼女へ愛想笑いをして誤魔化した。
 屋上のドアを開けると、冷たい風が吹き抜けた。
 思わず肩を抱いた私に、部長が手招きする。
 隣には見知らぬ女性がいた。二人きりではなかったことに安堵する。
「ごめんね、こんなところへ呼び出して」
「いえ……」
「そんなに固くならなくても、いいじゃないか」
 駅での出来事は、部長への不信感を募らせていた。
 うう、二度と名前では呼ばない。役職名で十分だ。
 ぺこりと目礼する女性はどこか部長に似ていなくもない。
 スーツ姿がびしっと決まった大人の女性だ。
「初めまして、春日佐緒里と申します」
「……初めまして、水無月沙矢です」
「知っているわ、そんなこと」
 顔はにこやかに微笑みながら、言葉は尖っていた。
「佐緒里……、初対面だよ。それに水無月さんは僕のお気に入りなんだから」
 身の毛もよだつとはこのことだ。
「兄さんも、守備範囲広いんだかロリコンなんだか分かんないわねえ」
 クスと笑う彼女は、どうやら部長の妹だ。
 この場から早く去りたくて私は、意を決して口を開いた。
「お話があるとのことですが」
 並んだ兄と妹は同じ目をしていた。
 テーブルの上には、豪奢な食事が広げられている。
 食堂で食べられるような庶民的なものではなく、どこかのお店に注文した物だと一目で分かった。
 薦められるが、無難に断る。喉を通るはずもない。
「藤城さんと付き合っているんですって」
「はい」
「あなた、自分が彼に相応しいとでも思っているのかしら」
「は……」
 続けざまに言い放たれた内容に唖然とする。
 他人にそんなこと言われたくはない。
 彼のことを知っているのかもしれないけど。
「いや、逆に沙矢さんは彼にはもったいないと思うけどね」
 下の名前で呼ばれたことも耳から通り抜けていた。
 唇を噛んで堪える。少し顔が赤くなっているかもしれない。
 バレッタでまとめた髪をした女性は、私よりいくつか年上に見えた。
(青と同じくらいなのかな。もっとも彼は実年齢より若々しいのだけれど)
 アイシャドウのきつい女性にキッ、と睨み据えられ、びくっとする。
 これ以上何も言わないで。
「藤城総合病院の御曹司に、あなたなんて似合わないのよ! 」
 テーブルにグラスを叩きつけたために水が飛び散った。
 部長が差し出してくるハンカチを押しのけて、席を立つ。
 走った。
 青本人の口から聞きたかった。
 きっとその内教えてくれるだろうと、何も聞かないままでいたのに。
 彼がただ者ではないことは、今までの振る舞いから察することもできたはずだ。
 幸か不幸か、高校を卒業して上京し、狭い世界で生きてきたから何も知らなかった。
 世界が広がったのは青と出逢ってからだ。
 感情が揺れている今、メールも電話も仕事が終わるまではやめておく事にした。
 自分の席で、お弁当を無造作に口に運ぶ。
 甘い卵焼きさえ苦く感じた。

「沙矢……沙矢! 」
「は……はい!? 」
 顔を上げると、陽香に覗きこまれていた。
 眼前にある親友の顔に、うっと怯む。目力が強烈なんだから。
「就業時間が終わって、大分経つわよ」
「……えっ」
 パソコンの画面を確認する。
 どうやら、終業のベルが鳴った後、机に突っ伏してしまったようだ。
 顔にキーボードのあとがついているかもしれない。
「どうしちゃったわけよ。そんなに疲れてたの? 」
「変なこと想像しないで。私今駄目な時期だもの」
 ニヤニヤされてぶんぶんと頭を振る。
 月に数日の乙女日和には、そんな素振りすら見せない。
 一緒に暮らし始めたからそれとなく教えていた。
 恥ずかしいけど、大事なことだもの。
 乙女日和っていう言い方に彼は、笑うことなく
 分かりやすいなと頭を撫でてくれた。
「案外理性的なんだ」
「すごく気を使ってくれるのよ」
 やたら女性の体調、体に詳しかったのは家業だったからなのか。
 医学部を卒業しているし。
「時間大丈夫なの? 」
 顔面が蒼白になった。
七面相する私に、くすくす笑いが聞こえてきた。
「う、多分一階のロビーにいるんじゃないかな」
 携帯を確認すれば履歴に青の名前がいくつも残っていた。
 うわーごめんなさい。
「そこまで一緒に行きましょ」
 陽香はにっこり笑った。待っててくれたのだ。
 感謝こそすれ、否やがあるはずもない。
「もちろん」 
 ショルダーバックを背負っている陽香にありがとうと告げる。
「どういたしましてー。そのおかげで私も美味しい思いできるし」
「ははは」
 デスクの横に引っ掛けていたバッグを掴み、手早く準備を済ませる。
 歩き出した時、昼間のことが蘇ってきた。 
「陽香、部長の妹さんっ、この会社にいる? 」
「……いるわ。春日佐緒里先輩でしょ」
「知らなかったわ」
「あの人は秘書課で、私たちとはあんまり関わることがないから
 知らないのも無理がないけど、
 春日部長の妹ってことで割りと有名なのよ? 」
「そ、そうなんだ」
 もっと周りを見るべきだと思った。
「兄のコネで入社したとか言われているけど真相は分からないわ」
「部長とその人とお昼一緒だったのよ」
「何でまた」
「呼び出されて」
「私も誘ってくれたらよかったのに……今更だけど
 迷惑かけるから申し訳ないだなんて水臭いわよ」
「はう……ごめん。一人で来いと言われたの」
 正直に言うほうがいいと思った。
 社交辞令ですませる間柄でもない。
 私が変な声を出したせいか、にこにこと笑いながら頬を小指でつねられた。
 陽香も爪をきちんと切りそろえているから当たったりしないが。
 言うことを素直に聞いた私に呆れたかな。
 俯いてたら、地の底から響くような低音が聞こえた。
「沙矢に嫌な思いをさせた罪は重いわよ春日」
 彼女を見たら、ぎゅっと手を繋いでぶんぶんと振り回された。
そんな風に言ってくれる親友が、同じ会社にいてくれて心強い。
 エレベーターに乗り込もうとした時、反対側のエレベーターから
 長身の人物が降りてきたのに目を留める。
「せ、青!? 」
「携帯に連絡しても出ないから心配してたんだぞ」
 顔が赤くなる。しゅんと落ち込んだ。
 さりげなく腰に腕を回し、一方では手も繋いでくる。
 横に誰がいてもお構いなしだ。
 陽香は、ぺこりと頭を下げた。
「合コン以来ですね。あの時はありがとうございました」
 青も目礼し、
「陽香さん、彼女と一緒にいてくださってありがとう。
 沙矢がお世話になりました。本当に手間がかかってすみません」
 手間とか、失礼なことをさらりとのたもうた。
 第三者と接するときの彼をあまり知らないので不思議な気分だ。
「いえいえ。ほら、手がかかるほど可愛いって言うじゃないですか」
「よくご存知だ」
文句言える立場ではないので、ぐっと堪え口をつぐむ。
 二人とも意味深に笑っていた。横目でしっかり私を見ている。
 三人でエレベーターに乗り会社の外まで一緒だった。
「沙矢、送り狼に気をつけるのよ?
 あ、同じ場所に帰るんだから送り狼とは言わないか」
 くすくすと耳元で囁かれて、
「陽香! 」
 思わず叫んだら、彼女はひらひらと手を振って逃げた。
「沙矢をよろしくお願いします」
「当然です」
 親友の前で宣言する青は、真摯だった。
 思わず見とれてしまうくらい素敵に見えた。
(いつもかっこいいのだけど、こういうのって特別な感じだもの)
 陽香は少し離れた場所から会釈してそのまま歩いていく。
 手を振る私に彼女は同じく振り返してくれた。
 歩いていく彼女を見送りつつ車に向かう。
 足が時折もつれているのが気になった。
 疲れているのに私と一緒に居残ってくれたことに深く感謝する。
 後でメールしよう。
 助手席のドアを開けてくれる彼を、上目遣いで見上げる。
「誘ってるのか」
「ば、何言ってるの!? 違うわよ」
「男に、そんな目をしたら不味いんだよ?
思えば最初からだったが」
 顔が真っ赤になり、焦って車内に身を滑り込ませた。
 青が、音楽をかけてくれるのを期待するけど、彼は微笑みながらこちらに顔を向けた。
「何かあったんだろ。さあ遠慮せずに話せ」
 にこにこと邪気なく微笑んでいるようだが、どこか邪悪だ。
 その証拠にさりげなく命令形だもの。
 鋭いんだから、もう。
「藤城総合病院って……? 」
「ああ……」
 青は、腕を伸ばし、私の手を掴んだ。
 指を絡めて、こちらに向き直る。真摯な表情にドキッとした。
「俺の実家は開業医を営んでいて父は藤城総合病院の院長だ。
 そろそろ、お前を連れて行こうと思ってた」
 本人の口から語られると底知れないリアルを伴った。
「知っててもおかしくないのに、お前は知らなかったから  意外で、嬉しかったよ」
 どういう意味だろう。
「俺の持っている物に釣られる女が多かったが、
 お前は俺自身を見てくれた。
 お前はそんな女じゃないって、とっくに気づいていたから、
 早く言えばよかったんだけど、逆に重いって思われるんじゃないかって」
自嘲するように苦笑いする。
 そういう顔にも弱い。
 いつも落ち着いていて、表情がころころ変るわけではないからこそ
 微かに移り変わった表情さえ、私をとらえる。
「何言ってるの。青は青だわ。おうちは関係ない」
「そうだな。今まで黙っていて申し訳ない。  共に暮らす時に言うべきだった」
「ううん……」
 ずきんとした。ぎゅっと手を握り締める。

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