叶わない恋
 たとえそうだったとしても。
 私は彼を好きになってよかったと強く感じていた。


 何故この人がいるのだろう。
 公共の場所で、誰もが利用するのでいても不思議はないが、
 最近出くわす頻度が高い。
 きょとんと相手の顔を見ていると気づいたのか、大きく手を振ってきた。
 董子は、大げさな反応に、吹き出すのを抑えられない。
 いつでも緊張感を和らげてくれる。
 もちろん、これはほめ言葉だけれど。
 心中、いささかビターな呟きをしながら、彼ー草壁涼ーに近づいていった。
 ベンチに座る彼が、本なんて読んでいるのに気づき、珍しいわと思ったりした。
 無邪気に、董子の座る空間を作り、にかっと笑う。
(いくらなんでもそんなに側に座れないわよ) 
 膝さえくっつく距離を指し示す涼に、普段どおりの笑みを返して、人一人分の 
 スペースを空けて、腰を下ろした董子に、涼も別段気にしていないようだ。
「本なんて珍しいのね。明日は嵐が来そうだわ」
「うわあ、毒吐きやな。しかも天性のものだからすごいよなあ、董子は」
「ありがとうー」
 伸ばして喋りにっこり笑う。
 気の置けない関係を壊したくはない。
「こないだ買うたんやけどめっちゃおもろかって、もう読み直しも3度目や」
 暑くも寒くもない今の気候は読書には最適だろう。
 図書館で読むより、はかどるかもと、董子は思った。
「よほど面白いのね」
「ああ。董子も読む? 貸したるで」
「……え?」
 思いもよらぬことだった董子は呆けた声を出した。
「いいの?」
「ええよ」
「うん、じゃあお願いします」
「よっしゃ」
 どんな内容なのかは定かではないけれど、新書の小説らしい。
 借りようと決めたのは、その本の内容が気になるからだった。
 どんな本を読むのだろう。
 どんなことが好きなのだろう。
 些細なことだけれど好きな人のことを
 知りたいと思うのは許されるはずだ。
 少しでも近づけるような。
 淡い気分を味わいたいのだ。
 董子は知らず頬を染めていた。
 ぽんと膝に乗せられた重さに、嬉しくなった。
「ありがとう、涼ちゃん」
「ゆっくり読んだらええからなー」
 がしがしと頭をかき混ぜられる。
 子供扱いされているんじゃないかしら。
 歯がゆくて仕方ないけれど、
 今はこんなに近くにいるのだからそれでもいいわと
 董子は嫌な気分にはならなかった。
 本を借りただけでこんなに心から浮き足立つ気分になるなんて、  恋のパワーは偉大なんだ。
「待ち合わせなんでしょう」
 ふわふわした心地を一瞬で吹き飛ばし、董子は現実に帰るための言葉を放った。
 涼が中庭のベンチにいるのは本当は偶然なのではない。
 きっと、本能の部分で彼を求めて、微かな期待を込めて
 ここに足が向いてしまっているのだと董子は、思い至った。
 何でいるのかだなんて、馬鹿みたいね。
「あ、ああ」
「大分早く来ちゃったから時間潰してたのよね」
「よう分かるな」
「だって知ってるもの」
 董子はなぞめいた微笑を浮かべた。
 ーあなたを見ているからー
 風が流れる。落ち葉が散り始めていた。
 かえでの黄色が目にまぶしくて痛い。
「毎日やもんな。董子も気づくわ」
 屈託なく笑った瞳は、何も知らないのだ。
 胸を切なく焦がしている董子の気持ちなんて。
「そうよ。分かりやすいんだもん」
 こんな分かりやすい場所で、堂々と待ち合わせている。
 決してこそこそしたりせずいつもオープンな二人。
 涼たちカップルが羨ましくて、とても憧れていた。
 今のままで十分だ。友達である関係を失いたくない。
「季節を感じられるからここがええんや」
「分かるよ」
 少しでも同じ時間を共有したいけれど、あまり長く居座ると
 ぬくもりが残ってしまう気がして、董子は焦燥に煽られた。
 たわいもない冗談や、くだらない馬鹿話をしていると、
 この空間だけ切り取られた別空間だなんて錯覚を起こす。
 妄想だ。
 精悍な横顔を食い入るように見つめた。
 笑いながら、話に夢中になっていない私。
 話よりも涼自身に夢中になっていた。
 恋する気持ちをくれた人。
 陽気で正義感が強くて頼もしい、
 見かけだけでなくて全部大きなこの人のことがいとしくて、心は泣きそうだった。
 楽しいから、反対にむなしくて、どうしていいのか分からない。
 涼から借りたばかりの本を開いて顔を隠した。
 話の勢いは止まらなくて、涼は董子の様子にきづかない。
 うつむいて顔をうずめていると髪が背で揺れる。
 うつむいた姿勢だと小柄な董子はますます小さく見えた。
 ぎゅっ。背表紙を掴む手に力を込める。
 指先が震えている。やだ、どうして。
 止まって。お願いだから。
 はっとした時には手のひらを掴まれていた。
 驚いて、思いのほか強く振り払う。
 その拍子に手を滑らせ、本はベンチから地に落ちた。
 乱暴に扱ってしまいいけないと思っても遅い。
 呆然として、手を伸ばす。
 目線を上げれば、涼と目が合った。
 強い眼差しにぎくりとする。
 吸い寄せられるように董子を捉えていた。
(絶対、変に思われた。過剰反応してしまった自分が憎い)
 手をつないだことだって何度もある。
 男女を意識したものではなくごく自然に友達として触れた。
 なのに、何故今更動揺するのか。
 この動揺と胸の高鳴りが、聞こえていたら怖い。
 風の音やら何やらで、決して静かではないのだから聞こえるはずもないけれど。
 董子は、少しずつ冷たくなってきた風が、火照った頬を冷ましてくれることだけを願った。
「突然手を触れられたら驚くじゃない」
「傷つけたんかと思ったんや。
 手が震えてるのは泣いてるんやないかと思って、
 気づいたら握っとった。嫌な思いさせてたらごめんな」
 苦笑する涼に董子はかぶりを振った。
 嫌な思いなんてしているはずない。
 ああ、頭がもやもやしてくる。
 今が続けばいいと願った七夕の日を思い出した。
「ねえ涼ちゃん」
「ん?」
 董子は涼に顔を近づけた。今までにないくらい近い距離で彼の顔を見た。
 座ったままなら、身長差を何となく補えている。
 涼は身じろぎもせず様子を見ている。腹が立つくらい冷静だ。
(平常心を取り戻そうと必死になってる自分が滑稽すぎる)
 目を瞑って、額に触れる。
 一秒経つか経たないかの時間、董子の唇と涼の額が触れ合っていた。
 董子は相手が反応しない内に、さっと離れて、ベンチから距離をとり涼を見た。
 誇らしげにさえ見える笑顔を浮かべて。 
 満足だった。分からない程度に口の端を持ち上げた。
「董子?」
「何でもないわ」
「何でもないんか? 」
 涼は董子の唐突な行動の意味を確かめようとしている。
 よほど虚を突かれたものだったのだろう。
 単なる友だちに向けてのキス。
 ささやかな贈り物に過ぎないのだ。
 相手の反応なんてどうでもよくて、何も思われないほうがよいのだ。
「友情の証よ」
「そりゃ傑作や」
 涼は楽しげに笑っていた。
「嬉しいでしょ」
「返した方がええか」
 とんでもなかった。お返しなんて望まない。
 聞いてくれずにされてたら、これから顔を合わせるのに困った所だった。
 自分がするのと相手にされるのとでは微妙にニュアンスが違う。
「気持ちをありがたくもらっておくわね」
 にっと笑ったら、涼も笑い返した。
 それから、董子はぱたぱたと走ってその場を去った。
 ごめんね。私は嘘つきなの。
 ていのいい口実が欲しかったの。
 友情だと気持ちをすり替えていれば、自分が楽だから。
 嫌いになんてなれない。友達として好きなだけじゃない。
 自分の気持ちさえ見誤らなければいい。
 ずるい女になっているとしても。
 董子は、涙を流すまいと笑顔で校門を潜り抜けた。
 


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