嘘だって必要な時もあるんだと、
意地になって口走った言葉を慰める。
4、不実な恋
ずっと走っていると踵が痛くなった。
身長の低さがコンプレックスの菫子は踵の高い靴を履いている。
10cmヒールの靴を履いてちょうど伊織と同じくらいだ。
スニーカーではないので、走るには適さない。
ついにはがくんと膝を折ってしまった。
地面に膝をつくみじめな姿で、何やってるんだろうと虚しくなる。
スカートの埃をはらって立ち上がるととぼとぼと駅に向かい始めた。
飲み会の時の薫の言葉が再び蘇る。
『菫子ちゃんがいた方が彼も楽しいだろうなって』
妹みたいな菫子を弄れて楽しいということだろう。
涼が薫を愛しているのは確かで、間に割って入ろうだなんて思った事もない。
側にいると胸が苦しくなり始めてからは、友達関係でさえ
窮屈で彼に誘われない限り会うこともなくなった。
二人きりで会ったのも思えば久しぶりだ。
彼は何をしに図書館へ来たのだろう。
忘れ物でも探しにきて菫子が残っているのに驚いて声をかけた?
知りたいことはたくさんあるけれど、今更器用に口にできそうもなかった。
想いが気づかれそうな言葉を口走ってしまい、余計顔を合わせづらくなった為だ。
菫子は地下鉄の窓ガラスに映る自分の沈んだ顔に溜息をもらした。
ああなんて惨めな顔。
メイクを落す前に涙で剥がしてしまった菫子は自嘲気味に笑う。
泣きすぎて目蓋もはれてしまい目もうさぎのように真っ赤。
その姿はいつも以上にあどけなく見えた。
ハンドタオルを顔に押しあてて涙を拭う。
洗いざらしの感触が気持ちよくて顔を隠したままの状態で暫くいた。
明かりをつけていない部屋は寂しさを感じるもので、
伊織の部屋に泊まった時は心強かったとしみじみ思う。
だからといって明かりをつける気にもなれないのだが。
食欲も沸かなかったが、何も食べないわけにはいかないので
冷凍ピラフをチンして食べ始めた。
美味しいことは美味しいが、どことなく味気ない。
一人きりを意識してしまうと、余計に孤独を感じるのだ。
このまま会わないままでいられたら楽なのか。
そうじゃない。自分の為にも会わなければいけないんだ。
わざと避けるようなことは止めよう。
菫子の涙は止まっていた。
鏡に向かって笑いかけて、拳を握った。
菫子は教室の外の廊下で伊織を待っていた時、近づいてくる人影に気づいた。
伊織ではない。伊織よりも背が高いし髪も短い。
パンプスの音が響く。
それは段々と近づいてきて止まった。
薫だった。
学部も離れているのにわざわざここまで足を伸ばすなんて、よほどの理由があるのだろう。
菫子に会いに来たのだ。
菫子は心持ち体を硬くするが、
目の前で立ち止まった薫は驚くほど優しい笑顔で見つめてきた。
それが逆に怖かったのだが。
「心配しなくても取って食べたりしないわよ」
くすくすと大人びた顔で笑う薫。
きつい香水の匂いが纏わりついていた。
以前は香水なんてつけてなかったはず。
心境の変化でもあったのかもしれない。
「……薫さん」
「ごめんなさいね、菫子ちゃん。辛く当たっちゃって。
よく考えたら涼があなたみたいな子を相手にするわけないものね」
涼のことなら何でも知っているかの物言いに董子は口を噤む。
「涼が、言ってたわ。菫子は本当の妹みたいな存在だから
ほっとけないだけで恋愛感情なんて感じたこともないって」
勝ち誇った笑みを向けられて菫子は俯く。
「そうよね菫子ちゃんは可愛いすぎるし涼に合うわけないわね」
薫の言葉は何かを含んで聞こえた。
「あなたと彼が並んでるの見た人はまるで兄妹みたいだって
言ってたし。私もそれ聞いて納得したわ」
静かに淡々と喋る姿は彼女の余裕を表していた。
菫子から一度も視線を外さずに時々微笑みかけて。
「……そうよ、薫さん勘違いしてただけなんだから」
自分の言葉で追い込まれていくのに発せずにおれなかった。
「私と草壁くんじゃどう見ても吊り合わないでしょ。周りの人の方がよく分かってたじゃない」
菫子が涼を苗字で呼んだのなんて、初めて会ったあの日以来だ。
薫は目元を細めて手を差し出した。
「これからもよろしくね、柚月菫子さん」
私もこれからは妹みたいに思うことにするわ。
声になっていない言葉が伝わってくる気がした。
「涼……草壁くんとのこと応援してるね」
とっさに言い換えた菫子に薫は口元を歪めた。
「無理しなくてもいいじゃない。前みたいに涼ちゃんって呼べば」
「ただの友達だからけじめつけなくちゃでしょ」
ずきんと胸が痛んだ。自分で自分を追い詰めている。
「義理堅いのね、菫子ちゃんは。ふふ、ありがとうまた三人で会いましょうね」
「うん、ありがと」
菫子は薫が手を振って去って行く姿を呆然と見ていた。
伊織が後ろから声をかけてきていたことにも中々気づかないほど
心ここにあらずの状態だった。
「菫子どうしたの、何かあった?」
4、5回呼ばれてようやく気がついた菫子は
その人物を認識して目の焦点を合せた。
「薫さんが……」
「え、三谷さん来たんだ!?」
伊織が心配そうに董子の方を見ている。
「草壁くんとのこと応援してるって伝えたの」
「菫子……」
伊織は、どつぼにはまっていく菫子に何を言ったらいいか分からなかった。
結局動向を見守るしかないのだろうかと。
菫子の発言がもたらした結果は、皮肉なものだった。
気持ちがばれたりはしていないけれど、余計性質が悪い。
涼は菫子の言葉をそのまま受け取っていた。
自滅への道を辿っているとしか思えない。
いっそ開き直ろうか。
友達のままでも、友達の立場を失うよりはずっといい。
仲のいい二人の姿を見ていれば安心できる。
菫子は携帯で連絡を取って、二人を大学の外で待っていた。
どちらにしろ意識されていないのだから苦しくても関係ない。
腕に嵌めた時計で時間を確認しながら待ち受ける。
行き交う学生達をちらちら確認しながら暫く待っていると涼一人が姿を現した。
近くには薫はいない。
「草壁くん、薫さんは?」
涼は苗字で呼んで薫は名前で呼ぶ菫子に涼は苦笑いを浮かべた。
「なんで、俺は涼ちゃんじゃない?」
「彼氏でもない男友達は名前で呼ばないの」
「何今更。じゃあ薫も三谷さんでええんと違う?」
「いいじゃない、別に」
言われてみればそうだった。
涼の彼女だから名前で呼んでいただけで
そこまで親しいわけではない。
「菫子に草壁くんなんて呼ばれると調子狂う。名前で呼んでほしいんやけどな」
「無理」
「じゃあ俺も柚月って呼ぶわ……」
涼は少し寂し気に笑った。
菫子は自分が彼を名前で呼ぶよりも心が凍りつく心地がした。
わがままだけれど。
「うん、そうして」
上目遣いに菫子は涼を見上げた。
身長差のせいで自然とこの格好になるのだ。
涼は、つい頭に触れそうになった手を引っ込める。
「質問の答え聞いてない」
「薫は用事あるって先帰った」
「えっ、どういうこと? さっきは大丈夫ってメールで言ってたのに」
「よう分からんけど急用なんやて。二人になってしもたけどどっか行くか?」
「……薫さんさんいなくて平気なの?」
「別に平気ってこともないけど、しゃあないんちゃう」
「草壁くんってそんなにいい加減だったんだ」
「相手が柚月やから浮気の心配もないからな」
随分な物言いだ。何故こうも軽く笑いながら言える?
涼は菫子の気持ちなど知るはずもないのだろう。
「私も涼ちゃんなんて男としてみてないし」
「俺も一緒や」
からからと涼は笑った。
菫子もつられて笑うしかなかった。心とは裏腹でも。
「間違い起きん自信は100%あるわ」
「こっちの台詞」
「ということで、どこ行く?」
「……河川敷行きたいな」
「今日、草野球の日やっけ?」
「うん。早く行かなきゃ終っちゃう! 6時半までなの!」
「よっしゃ、じゃついてこい」
菫子はこくんと頷くと後ろを歩いた。
差し出された手を掴もうか躊躇う。
「薫さんとはどっちの手を繋ぐの?」
「んー左手差し出すから薫が右手やな。
俺が右側歩くからやねんけど」
「じゃあ私は右手がいい」
「あかんて」
菫子の言葉に涼は即座に拒絶した。
「どうして」
「女を道路側歩かせられるか、阿呆」
菫子は強い口調に驚く。
「彼女じゃないのに?」
「関係ない。だから文句言わず掴め」
強引な言い方に一瞬たじろぐ。
菫子が振り払おうとした手を涼は有無を言わさず掴んで歩き出した。
胸が苦しくなるから止めてほしいけど、嬉しい。
菫子は複雑な思いを感じていた。
以前は手を繋いで歩くのが大好きだった。
想いを抑えこんでいられた短い季節は。
大学近くの河川敷まで菫子と涼は歩いた。
手を離さないままだったがどこかぎこちなくて、
以前の二人ではないのが菫子の瞳に翳りを映す。
あの頃に戻れたらなんて愚かなことも考えながら階段に腰を下ろす。
会話は大学を出てからここまで一度もなかった。
ようやく離された手にほっと胸をなでおろした。
「菫子」
「違うでしょ、草壁くん」
「無茶言うな、俺は菫子としか呼べん」
菫子は瞳を揺らした。
こっちが境界線を引こうとしても涼はそれを越えて来てしまう。
菫子は無知とは無神経と同義なのだと皮肉じみた笑みを浮かべた。
「ずるい……」
ぽつりと口から滑り出た言葉はあまりにか細くて涼には届かなかった。
「両方ともいい勝負やで」
涼はそう言いながら階段を下りていく。
「9回の表ってうわ、ぎりぎりやったな」
ホワイトボードに書かれた表を指差しながら菫子に報告する。
「ほんとね」
抑揚のない口調で返した菫子に涼は拍子抜けしたようだ。
いつもならもっとテンション高いし時には立ち上がって応援しているのに
今日の菫子は上の空で座り込んでいるからだ。
「おもろないんか?」
「楽しいわよ」
涼は何も言わなかった。
黙って菫子の隣りに腰を下ろすと口を開いた。
「薫とはこんな所来れんけど菫子とは来れるから
嬉しかったんや。趣味が合うって意外に貴重やから」
「……涼ちゃん」
「あ、やっぱその呼び方めっちゃ好きや」
菫子は、はっとして口を押さえる。
無意識で口から出てしまっていた。
涼が動揺を煽る言葉を口にするから悪いのだ。
菫子は膝の上で拳を作った。
「俺ら前みたいに戻れへんの。
何でも気軽に話せたあの頃に戻りたい」
ふいに漏らされた一言に菫子は、思わず涼の方を見つめた。
「私だって戻りたいよ。ぎくしゃくしてるの嫌だもん。
だって涼ちゃん大好きだし。
……勿論、友達としてだよ、勘違いしないでね!」
菫子は必死で言い含める自分が滑稽でたまらない。
「俺も菫子好きやで。恋愛対象としては見られへんけどな」
「じゃあ大丈夫だね。きっと今までの関係に戻れるわ」
「じゃ仲直りの握手しよか」
「喧嘩してたっけ?」
涼は屈託なく笑った。
菫子は差し出された手のひらを掴む。
草野球の試合も終った夕暮れの河原は、静けさが漂っている。
川の流れるささらかな音が流れるのみ。
沈みゆくオレンジ色の夕陽が二人を照らしている。
豪快に握り締められた手の強さを感じて菫子の胸は熱くなっていた。
「そういえば、昨日どうしてあんな時間に図書館に来たの? 昼間二人でいたよね」
見ていたことを自分からばらしてしまった。
「俺らに気づいとったんなら声かけてくれればよかったのに。
もしかして邪魔したら悪いとか気にした?」
「そんな感じかな」
「そっか」
「夜に行ったのは薫が借りた本をテーブルの上に忘れた言うて、
取りにきたんや。そしたら菫子がいて驚いたのなんの」
「気がついたら寝ちゃってたみたい」
「テーブルの上に伏せったりしたら頭いたなるやろ。気ぃつけんと」
涼は菫子のことを本当に気遣ってくれる。
菫子は無性にそれが嫌になることがある。
「……うん、気をつけるね。心配してくれてありがとう」
「帰ろか。 さっき来たばっかやけど」
クックッと笑う涼に促され菫子は立ち上がった。
これからは笑い合える友達同士に戻れるのかな。
ならなくちゃいけないんだ。
自分に言い聞かせるように心で唱えて、涼に笑顔を返した。
3.嫉妬 5.heart beat
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