運命の人


 運命なんて安っぽく陳腐な言葉で、表現するのは不快だけれど認めるしかない。
 たとえ何が待ち受けていようとも、関係ないのだ。
 自分たちがどう感じるかが問題で、彼女といて、幸せ以外を感じたことなどないのだから。
 資産家スチュアート=アダムスの家に執事として入ることが決まったのは、19になった年だった。
 学校を卒業して家を継ぐかどうかの決断を迫られていた頃だ。
 報われないそれまでの人生がようやく終わる。
 どうやらそこで働くものは長く続かないらしいというけれど。
 実は幸運とも言い難い話だった。
 主人のスチュアートは、横暴できわめて自己中心的で、いかにも成り上がりの金持ちらしいわがままな男。
 先年、16になったばかりの女性を後妻に迎えた。
 年齢は実に20歳差で傍から見ても親子のようだという。
 その女性と再婚してからというもの彼の事業はますます軌道に乗り
 新しい事業計画も成功続きだった。多少強引でやり方が汚かろうと最後の最後で勝つ。
 自らに益をもたらす妻を手に入れたことだけがスチュアートが人に誇れる点だろう。
 誰もそれ以外彼を決して誉めない。
俺は親子ほども歳が離れた男と結婚した夫人の存在が興味をそそられた。
 何らかの事情が横たわっているのだろう。
 徒歩で向かいながら、これからのことを考え続けていた。


 重い扉が開く。
 メイドの一人ーアンナというらしいーに案内されて奥へ進む。
 通されたのは、主人の私室。
 扉を叩いても、声は返らなかった。
 不審に思ったがアンナは普通に扉を開いた。
 開かれた扉の中に身を滑り込ませる。
 返事がなかったのでこちらも黙って待つことにした。
 やがて、きしんだ音を立てて座椅子がこちらに向いた。
「早かったじゃないか」
 それがスチュアート・アダムスの第一声だった。
 ああ、これがと内心笑いがこみ上げた。
 一代で富を築き成り上がり貴族として名を馳せた男なのかと。
 妻を所有物としている傲慢な男なのだと。
 威圧的ではあるが、服装が整ってなければその辺にどこにでもいる
 凡庸な中年に見える。
 立派な衣服のおかげで何とか地位に相応しい貫禄を感じられる。
 似合いもしないドレスシャツにネクタイ、照明の下できらりと光るネクタイピン。
「その分仕事を覚えられますから」
「熱心なことだな」
ふんと馬鹿にした風に笑ったがどうでもいい。
 乱暴にキセルを叩くと灰が、ぼとりと落ちた。
 たちのぼる紫煙で部屋の空気が淀んでいる。
「早速今日から働いてもらおう。最初だからと甘くはないからそのつもりでな」
 嫌な笑みだ。
「分かりました。よろしくお願いします」
 儀礼的に頭を下げた。
 気に入られるよう上手くやるしかない。
「我が妻を紹介しておこう」
 これで話は終わりかと思いきや、唐突な言葉にぴくりと反応する。気づかれない程度に。
「ジュリア」
 低い声は有無を言わせぬ響きがあった。
 そう間が開かないうちに目の前に現れたのは……。
 金髪を高く結い上げ、濃いめの化粧を施した美しい女性だった。澄んだ目元が印象的な。
 女性ではなく少女だ。 
 何故なら、化粧をしていてもあどけなさは隠しようがなかったからだ。
 化粧などなくても彼女は美しいのだと初対面で感じ取った。
 ひどく大人びた印象だがどこかつくりものめいて見える。
 視線を感じる前に頭を下げる。
 スチュアートにした時より心をこめて。
 その時信じられぬことが起こった。
 夫人が手を差し出している。
 どうすればいいか考えた結果一番この場にふさわしい対応が浮かんだ。
 そろりと屈み膝をつくと小さな手を敬うように触れて口づけた。
 頭を上げた時、彼女ージュリアーは、微笑んでいた。
 まさしく花だと感じた。
その笑顔を目にした瞬間、彼女の僕(しもべ)になった。
 正式にはスチュアートに仕えていても、真の忠誠心はこの美しい人に捧げよう。
 密かに彼女だけに笑みを伝えた。スチュアートにわからないよう。


甘くはないと忠告されたとおり、初っ端から半端ではない量の仕事が与えられた。
 内容は雑務から、スチュアートの仕事の補佐という重要なものまで多岐に渡る。
 こき使われているが、首にされる気配はない。
 さほど時間をかからない内に仕事には慣れた。
 三ヶ月も経つ頃には、スチュアートにも周りの使用人たちにも片腕として目されるようになった。
 ここまで来るのに思ったより苦はなくて拍子抜けしたほどだ。 
気を配らずとも、スチュアートに気に入られるのは簡単だった。
 噂に違わず自己中心的で、わがままな男ではあったが、
 使用人の働きには正当な評価を下す。
 己の分をわきまえてさえいれば、特に問題はなかった。
 ジュリア夫人と親しくなる機会は窺いながら、彼女の姿をそっと視界の中に焼きつける日々。 
 機会はいくらでもあるが、機が熟すのを待って近づくのを狙っている。
 スチュアートは、自分以外の男が妻の側にいても警戒していない。
 使用人だと侮られているのだ。あの高慢な男のことだ。
 妻が相手にするはずもないと鷹をくくっている。
 安心していられるのも、今の内だと内心邪笑した。
そんなある日、庭の噴水の近くを通りがかった時、すすり泣く声が聞こえた。
 足音を立てないように気をつけて、ゆっくり近づいていく。
 ジュリア夫人だ。
 いつもは結っている髪を下ろし、化粧も乱れている。
 顔を覆った隙間から見えた表情は痛ましいものだ。
 頬から涙が零れ落ちる瞬間、堪えきれずにハンカチを差し出した。
「どうぞ、よければお使いください」
 はっと顔を上げた彼女は、頬を朱に染めていた。
 見られたことに対する羞恥だと思われた。
 上着なしで噴水の側にいるなんて、何をしているんだろう。
 完璧を装っている彼女の素の姿は頼りなくて。
「お風邪をひかれては大変です」
 着ていたジャケットを脱いで彼女の肩に羽織らせる。
「ありがとう」
 向けられた表情と掴まれた手のひらに心臓が高鳴った。
 目を逸らして空を見上げる。
 雪が降りそうだと思ったが別にどうでもよかった。
 無防備すぎやしないか。
 案外陥落させるのも容易いのではないかと不埒なことを考える。
 冷たい手。そのやわらかさにまたどきりとした。 
「もしよければお聞かせ願えますか? どうしてあなたはこんな所で
 震えながら泣いていたのですか?」
 問い正す口調にならないように気を使いながら、至極やさしくゆっくりと語りかけた。
 震えていたのは寒さだけではなく、堪えきれない嗚咽のせいだ。
 重ねた手に、力を込める。
「……みっともないところを見せてしまったわね」
「いいえ」
「あなたの目に私はどんな風に映っているのかしら」
 ぼんやりと呟かれた一言。逆に問い返されるとは思わなかった。
 涙の痕が残る顔。瞳は輝きを取り戻しつつあった。
「そうですね。とても気高くて凛としてらっしゃって、
 にじみ出る品があって貴婦人そのものって感じです」
 とりあえずありのままに感じたことを口にした。
 間違いではない。確かに彼女の表側はそんな感じだ。
「あなたは本当にそう思っているの?」
 鋭い眼差しに射抜かれる。
「今日までは思っていました」
「そう」
 それきり彼女は黙りこんだ。
 あえて本音は言わなかったのに言わせたのは彼女だ。
 笑みさえ浮かべてまっすぐ前を見つめている。
 了解を得ずに、膝が触れる距離に腰を下ろした。
「私も正直に申し上げたのですから、
 あなたにも、話していただかないと割に合いませんよ、奥様」
 強気に出ても大丈夫だろうと判断した。
 ここで無礼を働いたからと夫に話したりしないだろう。
 執事と手を握り合ったまま離さずにいるのだから、
 説得力がなさ過ぎるというものだ。
「私の生まれた家は貧しくて、夫と結婚するまで食べるものにも困る日々だったわ。
 私一人しか子供はいなかったけれど……家族三人生活はぎりぎりだった。
 そんな日々にも終わりが来たわ。お金を貸してくれるという人が現れたの。
生活の一切を保障してくれるって話に両親は大喜びだった。
 そちらの愛娘を後妻に頂くことと引き換えにって言ったらしいの。
 父が私のことを話していたし画家に描かせた絵を見せて、
 気に入ったってことだったわ。
 初めて両親の役に立てたって嬉しかった。
 親子ほど歳の離れた男のところに身売り同然でお嫁にいくのにおかしな話だわ」
 くすりと自らの過去を笑う彼女。
 嘲笑さえ美貌を引き立たせるのに気づいていないのだ。
「悪い噂しか聞かなかったっていうのに、お金欲しさに娘を差し出した。
 噂を知っていて尚、娘を差し出した両親は、人の道を外れているんだと思うわ。
 ひどい人たちでしょう。でも私は彼等が幸せに暮らしてくれるなら
 それ以上何も望まないわ」
 強い眼差しがあった。睨まれているのかと錯覚した。
「ほんのちょっぴり寂しかっただけよ……、だから泣いていたの」
「自分に言い聞かせて無理をしないでください。
 私にだけは本当のことを話していただけませんか」
 少し図に乗りすぎたか。いや、もう一押しだ。
「たとえ、何があろうとも私はあなたの味方です。
 旦那さまより、あなたを選びます、ジュリア様」
 偽らざぬ本音。
 初対面の時に感じた想いは今も変わっていない。
 日に日に想いは強くなって、悟られていないのが不思議なくらいだ。
 どうにもならないくらいあなたに夢中だと、告げてしまおうか。
「……ありがとう、イアン」
「初めて名前を呼んでくださいましたね。
 そういえばお互いに名前を呼び合ったのも初めての気がします」
「そうだったかしら」
首をかしげている彼女に、
「素顔を拝見したのも初めてです。お化粧した姿も魅力的ですが、
 飾らない方がずっといいですね」
 告げてみた。目の前のちっぽけな少女はあまりにも儚げで。
 化粧しているときよりもそそられる。
 実際は美しいというより、可愛らしい人だったのだと改めて感じた。
 今となってはその印象が強い。
 美しい華を咲かせるだろうことは、疑いようもないけれど。
 どうやら、スチュアートには不可能ということか?
 彼女は、夫を愛しているのだろうかとふと疑問に思った。
 今は踏み込むには時期尚早だ。
「……あの人と同じことを言うのね」
 笑いがこみ上げてきた。
「お化粧で隠しているつもりだったのに、あなたに暴かれちゃったわね。
 まさか泣いているところを見られるなんて思わなかったわ」
「あなたこそ、まさか隠れて泣いていたとでもおっしゃるんですか」
 完全には忍び笑いを押し殺せなかった。くすくすと漏れてしまい、少しむっとさせてしまった。
 ありえないだろう。夜は誰も来ないかもしれないが、
 誰にも見られないとは限らない。
「意地悪ね。まだあの人には知られてないのよ」
「失礼ながら、旦那さまは、よほど鈍いんでしょうか。
 あなたは気づいてほしくて、仕方がなかったのにね」
「……イアン」
「私の前では、ルージュも何も必要ありません。
 素顔のままでいてほしいのです。
 一介の使用人風情が生意気なことを言っていると思われているでしょうね」
「嬉しいわ。けれど、ふたりで会うことなんてできるの?」
「大胆ですね」
「私の前で、って言ったわ。それは二人きりになれることを前提とした言葉でしょう」
「あなたがそこまで言ってくださって助かります。
 こちらも遠慮しなくてすむ。
 毎日は無理ですが、週に何度かは自由に会えるでしょう。
 幸い、お仕事以外でもお忍びで出かけられることもあるので、
 隙を見つけるのは楽です。私の手が不要の時も多々ありますからね」
 あの男は影で何をしているのか分からない。
 馬車を一人で駆って出かけることもある。本来執事も共についていくべき時も。
 妻にも隠していることがあるのだろうけれど、
 特に気にしていないのだろう。
 だからこそ自由に動ける。
「……どこまで本気なの」
「全部ですが信じられませんか」
 いかにもおかしそうに彼女は笑い出した。
 あまりにも声が大きかったのでその口を押さえてしまった。
 人差し指で唇に触れると、熱くてやわらかくて衝動が湧き上がる。
 触れたいが、いきすぎた行動は身の破滅を招く。
 物事には順序がある。慎重にいかねばならない。
 今はこれで、十分だ。
「とこしえの忠誠をあなたに」
 すっと眼鏡を外し、シャツのポケットに入れる。
 自分も素顔を曝すということを表したかった。
 腰をかがめ、手のひらをかかげて口づける。
 落としたキスには別の感情が含まれていることは俺だけが知っていればいい。
 次は、キス程度でとどまれないだろう。自制心はある程度しか持ち合わせていない。
 罪も罰も共に分かち合おう。
 今生にただ一人の、ファム・ファタール。
   

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