凍える指


 静謐な雰囲気漂う教会で、祈りをささげていた。
 とても小さくてささやかな。
 天まで届かずともこの心を突きぬけて解き放つことができる。
 手の中には握り締めた指輪。そろり、指先で撫でてみる。
 目にまぶしい輝きを放つ豪華なリングは、戒めでしかなかった。
 指の奥の方まで嵌めている為、食い込んで中々外すこともできない。
 ワンサイズ小さな指輪を贈られたためだ。
 それを今も気づきもせず、尊大に権力を振りかざしているあの人は、  夫という名の支配者だった。
食い込んで抜けにくいのもあるが、一人になる機会以外で外すことはできなかった。
 妻だと人に知らしめるものだからだ。
 初めから対等な関係ではなかった。決して。
 夫からの逃避で、イアンと恋に堕ちたのではない。
 彼が義務感から親切にしているわけではないと知ったからだ。
 気づいた時にはとっくに愛していた。眼鏡をかけた姿も外した素顔もすべて。
 少しずつ距離が親密になっていくにつれて、降り積もった孤独が溶けていった。
 秘密の恋は何にも代えがたい幸せをもたらしたのだ。
 ゆっくりと瞼を押し開く。ステンドグラスが光を反射して眩しかった。
 衣擦れを響かせて歩き出す。馬車では最愛の男性が、待っているはずだ。


「そろそろ迎えに行こうと思ったところでした」
 馬車から下りて、室内までエスコートしてくれるイアンはそう言って苦笑した。
 責めているのではない。心配していたのだろう。
「……私もあなたを一人にさせていたわね」
「あなたを見つめられなくて、せつなかった」
「上手いことを」
 真顔で言うから性質が悪い。こちらの心の動揺など知りもしないで。
 目が合った瞬間、手が握られる。指をそっとさすってくれているのがわかった。
 赤く腫れた薬指に気づいた時から、こうして癒しを施してくれるようになった。
 吐息が手の甲に触れる。
 姿勢が低くなったと思ったら、唇を指がかすめた。
 ちゅ、と吸われて身を震わせる。瞳を閉じて、その感覚に堪えた。
 指を癒すのを口実に、行動は過激になる。
 背中にしがみつけば驚くほど熱かった。
 この瞬間が永遠であればいいと願う日が訪れるなんて思いもしなかったのに、
イアンと過ごす度に願ってしまう。
大層我が儘になってしまった。欲張ればなくした時の痛みも深いのに。
「イアン……っ」
名は彼の唇に吸い込まれる。
吐息で交わすキスが、甘い余韻を残しては通り過ぎる。
名残惜しげに離れた唇は、白い糸で二人の間をつないでいた。
肩で荒く息をしながら、唇を乱暴に拭う様に鼓動が鳴った。
あからさまに誘っている。
理性を脱いで獣に変わるイアンは、凄まじい色香を漂わせていた。
邪魔くさそうに眼鏡を外し、お仕着せのポケットにしまう。
 裸眼の彼は神秘的な蒼の瞳で、射抜くのだ。
 息を飲んだのはどちらだっただろう。
「……いけない。あなたの存在に我を忘れてしまう所でした」
 一瞬で、イアンは、落着きを取り戻し、普段の彼に戻った。
 乱れた襟元を押さえてかろうじて頷いたら、額に唇が降りてきた。
「お楽しみは、ほんの少しのお預けです」
 かあっ、と頬が熱くなった。
口端を緩く吊り上げて笑う様ささえ、好きなのだ。
 惚れた弱みというのは恐ろしい。

  馬車が動き出す。車輪が土埃をあげる様が見えるようだ。
 厚いカーテンがひかれた車内で、手を膝の上で握り合わせてやり過ごしていた。
気が逸っているのが馬車の動きからわかる。早く私を求めたいから。
 笑みが浮かんだ。可愛い男だと思った。
 まったく掴みどころがないのだから。
 やがて、街を駆け抜けて市街地で馬車が止まる。
 ひっそりと立つ建物。
 郊外にあると聞いていたアダムス家の所有地の一つだろう。
 白い壁、茶色いドア。意外に可愛らしい造りだ。
 手を引かれて中に入る。
「スチュアート様から管理を任されています。
 正確には使わないので自由にしろということで、勝手に整えました」
 イアンはそつなく仕事をこなし、加えて己の分をわきまえているから、夫に気にいられている。
 使用人を仕切り、アダムス家の財産管理も完璧にこなしているのだ
 影での黒い噂も、絶妙なやり方でもみ消しているらしく、信頼は絶大だ。
 特別な扱いを受けて当然なのかもしれない。
 生活に必要な家具も配置され、暮らすこともできそうだ。
 屋敷とは比べるべくもないのだが、狭いとは感じない。
 二人で過ごすには適度な広さで心地よいのではないだろうか。
「私の知らないところでいつの間に」
「……驚かせたかったのですよ」
 腕にさりげなく寄り添えば、そっと体を傾けてくる。
「……もう何も言えないわ」
 イアンは自信で溢れていて、虜にされたのも無理はなかった。
 彼は必ず私を納得させるから、いつも小さく唸ってしまうのだ。
「早くベッドの中で、素顔のあなたに会わせてほしい」
 一段と早く胸が高鳴りだした。
 見上げると真顔のイアンと視線がぶつかった。
 赤くなった頬を悟られまいと慌てて、頬を背けた。
「可愛らしい反応だ。本当にどれだけ……」
 俺を夢中にさせるんだ。
 囁くように空気に溶けた言葉を聞き取ったのは、偶然だった。
「さあ」
 腰を抱かれて、奥へと誘導される。
 既に、甘い殺し文句で、蕩けていて、ぼうっとついていくしかなかった。
 もう、いくつも夜を超えて、分かり合っているという錯覚を
 現実のものにしたかった。獣のようだけれど、
 私達は繋がることで、愛をより実感したいのだ。
 違う出会い方だったら、また別だったのだろうか。
 肉体を超えた愛を貫いた?
 いや、ありえない。愛しているからこそ、
 月日を重ねれば、イアンと体まで結ばれたいと願っていだろう。
 穏やかな幸せを胸に抱きながら。
 仮定をしても虚しいだけだ。別の出会いがあったとは思えない。
 
 案内されたのは浴室だった。
「お茶を飲む時間も与えてくれないの」
 口を尖らせて不満を漏らすも、余裕のある笑みが返ってくるのだ。
「今日、出かけた時からあなたの時間は私のものですよ」
「……口の減らない人ね」
「そういう俺が好きでしょう?」
 自信たっぷりに言われて、否やもない。
「ええ……とっても好き」
 首に腕を回して抱きつく。さりげなく回された腕が背中を抱いた。
 漏れる息も重なる唇に奪われる。
 濡れた感触が、気持ちを高ぶらせていく。
 熱い。髪止めが外れて落ちる。
頭ごと押さえられてキスはより濃厚になっていく。
 ふわふわと手のひらで髪を撫でられて、少女のようにときめいた。
 キスに夢中になっていても、気づかぬはずはない。
 イアンの愛撫は、巧みだ。
「ジュリア様」
「……っ」
 名前を呼ばないで。耳に浸透する甘い声が脳内までしびれさせる。
「お茶飲みたかったですか?」
「……馬鹿。聞かなくても分かってるでしょう」
 答えの合間にキスを返して、強く抱きしめ合う。
「素直だな。思わずはしゃいでしまいそうですよ」
「どんな風に?」
「これからお教えしますよ……じっくりとね」
 言葉で墜ちて、彼のすべてに墜ちる。
 まっさかさまに速度を緩めないままに。
 確かな光も見えた。
 愛し愛される喜びで、体中が泣くのだ。
 体の奥深い所で熱くはじける。
 そして、何も見えなくなった。


「……っ……イアン……どこ」
 どこにいるの。
 乱れた息で必死で名前を呼ぶ。
 指がさまよって、何かを掴もうとしている。
 私は彼とひとつになったのではなかったの。
 何故こんなにも不安で心が塞いでいるの。
 孤独のはずはない……。
 再び彼に抱かれて、心に温もりを感じている。
 瞼を押し開く。瞳に指で触れると滴が溜まっていた。
「イアン」
 顔を両手で覆って涙を隠した。
「ジュリア……」
 背中で、ふ、と息をついたのは、
「イアン!」
 そっと背中を抱いてくれるのは、彼だ。
 後ろを振り向いて柔らかな金髪と蒼い瞳に、ほっとした。
「ごめんなさい」
 気遣わし気な声に、申し訳なくなる。
 ずっと抱きしめられていたのに、勝手に独りだと思って不安になっていたのだ。
 溢れる涙を見られまいと、正面から抱きついた。
 きつく抱き寄せられて、少し苦しい。
 だが、一緒にいる実感があった。
 狂おしい思いが募る。
 彼が安心させてくれようとしているのがわかった。
「あなたが謝る必要はどこにもありません……、はしゃぎすぎて止まれなかったのは俺ですし」
「え……」
 高い悲鳴をあげたのは、覚えている。
 そこから意識が焼き切れてしまったのだ。
「要するに、感じすぎて恐怖を感じただけですよ。
 ……先にあなたをいかせるのが正しいことだと
 思い上がってジュリアを一人ぼっちで」
 イアンと同じように冷静に頭の中を整理してみる。
 激しくて、熱くて、目眩がして、ただ、抱きついた。
 一人で登りつめてしまったのは決して、彼の責任じゃない。
 いつだって、同じ瞬間にいけるとは限らないのだ。
 同じ瞬間を分かち合えるのが理想だとは思うけれど。
「……よかった。怖かったんだもの」 
「今度は、一緒にね?」
くす、笑う声になぐさめられた。
「また同じことになったら怖い」
「俺を信じて……」
 ぎゅっと手を握られて、胸が熱くなった。
「私もあなたを感じさせてあげられたらいいのに」
「おや、嬉しいことを。
 心配しなくてもその内、俺の方があなたの手の内で踊らされてますよ……予言です」
「……っ……嘘よ。あなたに敵うと思わないもの」
 敏感な個所を同時に攻められて息があがる。
   ……先に惚れられた時点で負けていたのよ。
「……あの男がジュリアを傷つけていた事実は許し難い。
 けれど、あなたに愛を教えられるのが、俺であることにこの上もなく幸せを感じます」
 涙がほろほろとこぼれる。
 優しく包まれた腕の中で甘えることができて、嬉しい。
 そう、私は愛なんて何も知らなかった。
 我儘な独占欲と一方的な欲望をぶつけられることを愛と錯覚するほど、愚かではなかったのだ。
「愛しているわ……一言いいえ言葉では足りないくらい」
 髪が耳の側に沿ってかけられる。
 吐息が、肌に直接吹きこまれ、大きく身を震わせた。
「あなたを深く愛しているのは、俺だけだ。そうでしょう」
 ぞわ。
 ささやかれた言葉に、頭を振って頷いた。
「今度は同じ時に意識を手放したい……俺もあなたと同じがいい」
 甘い声に体は勝手に従っている。
 本能のままに、抱き合う。  直接的な言葉でも、あなたなら、受け入れられるのよ。
 きっと、どんなはしたない行為も。
 肌を弄る手が、感じる場所を探り当てる。
 キスが、激しくなり淫靡な水音をたてる。
 耳に濡れた感触がして、同時にイアンを中に感じた。
 爪を立てて、ひっかく。強く苛まれて快楽におそわれる。
 片手同士はつないだまま、遠くを目指す。
 最後は、ふたり、溶けていった。望むままに。



 熱く痺れる指は、二度と凍えることはないのだろう。
 最愛の男性と、断ち切れない糸でどんな時も繋がっているのだから。
     

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