頬の上に厚意のキス



暗く闇に閉ざされた城も彼女にとっては唯一の楽園だった。
 心を通わせる恋人が側にいるそれだけでどんな暗闇にも光が差す。
 金髪の彼女とは相反する色彩の男性。
 月の光を紡いだような銀糸の髪、黒衣を纏った長身痩躯の男性。
 彼の名は、クライヴという。
 怜悧な美貌に凄惨な笑みがよく似合う。
 世間一般的からすれば黒魔術師という存在だ。
 召還術によってこの世界に呼ばれて以来ルシアは彼と共にこの城で暮らしている。
 最初は囚われていただけかもしれない。
 けれど今は互いをなくてはならない存在と認めている。


「ホークス」
 鷹に似た姿の魔物は、クライヴの使い魔だ。
 ルシアは、最近前よりもホークスが心を許してくれている気がしていた。  
   主人には絶対の忠誠を誓っている魔物は他の存在など気にとめないのだが
 ルシアは気に入っているようだ。
 時にはルシアがホークスを肩に乗せていることもある。
 小柄な彼女の肩に大きな魔物が乗っている姿は傍から見れば異様に映るのだが、
 ルシアはまったく気にしていなかった。
 いつものように庭園(クライヴが魔術で作ったものだ)
 でのんびりくつろいでいるルシアは背後に忍び寄る気配に気づくことはない。
 否、空間が歪む気配を察知できるはずもないのだが。
 ふわり。抱きしめられてびくりと背を震わせた。
 長い腕、細く長い指が頬をすべる。
 彼女をすっぽり包み込んでしまう大きな体。
「クライヴ……」
「最近よくホークスと一緒にいるな」
 耳元に伝わる低音にどきりとした。
 意味を掴み損ねたルシアは、見当違いの返答を返した。

「うふふ。心を開いてくれたみたいでうれしいんです」
 他意のない台詞にクライヴは溜息を漏らした。
 ルシアはクライヴを見上げる。
「俺を愛しているか? 」
 ルシアはクライヴの言葉に
「愛してるわ」
 一瞬の躊躇いもなく答えた。強い光を瞳に宿して。
 深く透き通る青の瞳。ルシアは笑みを浮かべている。
 一層強く体を拘束されたルシアは息を吐き出して、
「……あなたの愛を受け取るのは生半可な覚悟じゃ駄目ね」
 至極うれしそうに口にした。
 クライヴは緩く口端を吊り上げている。
「ああ。いっそ恐怖を覚えるほどに愛してやるよ」
「怖いことを平気な顔で言うんだから」
「お前もそれが本望だろう」
 ルシアは、クスと笑いクライヴに抱きついた。
 心の中では怖いだなんて思っていないのだ。
 不器用な愛情で包み込まれていることは何よりの喜びだった。
 ふわり。絡め取られた一筋の髪に口づけ。
 ルシアの腕を取り、髪の一筋さえも独占しようとするクライヴに顔を赤らめる。
彼は痛いくらいのやさしさをくれる。
 どれだけその想いに応えられているのだろう。
 時々胸が沈み込む。
自分は、悩んでも仕方がないことを考えている。
 分かっているのだ。
 分かっているから、なんて自分は馬鹿なんだと思う。
 こんなこと言えない。言えるはずもない。
「どうしたんだ。泣きそうだぞ」
「笑ってますよ」
「どこがだ」
 冷たい指先がルシアの頬に触れる。
 温度差にぞくりと震えた。
「や、見ないで」
 ルシアは少し乱暴にクライヴの体を突っぱねて走った。
 庭園の隅にある自分の部屋の扉に手が触れる瞬間、
 腕を引かれ強く抱きすくめられた。
 泣きそうどころかもう既に涙の粒が、頬を濡らしていた。
「ごめんなさい、クライヴ。今すごく嫌な顔してるわ。
 こんな顔あなたに見せられない」   
 ルシアは、恥ずかしくて情けない気分になっていた。
 自己嫌悪の罠にはまり抜けられない。
 腕も顔も体全体が羞恥に燃え上がっていた。
「俺には見えないから気にするな」
 抱きしめられたルシアにはクライヴの顔は見えない。
 同じくクライヴにもルシアの顔は見えないのだ。
 クライヴは悪くない。
 今は放っておいてほしかった。
 八つ当たりをしてしまうから。
 ルシアは、クライヴの腕の中で小さく頭を振った。
 できることなら、穴に潜りたい!
 否、そもそもここは地下だからこれ以上下へは行けないのだが。
「何も言わなくていいから、離れるな」
 そう返されては何も言えなくなる。
 強引な物言いに安堵する。
 何が何でも引き止めてくれるから、居場所はここなのだと再認識する。
 一人にさせて欲しいけど本当は、一緒にいて欲しいのだ。
 わがままな自分に自嘲するルシアだった。
「……ぎゅっと抱きしめてて下さい」
 言葉に代えて、行動で示されてルシアは胸が熱くなった。
「お前が側にいてくれて俺がどれだけ救われているか知らないだろう」
「クライヴ……」
 見透かしたかのような台詞にルシアの鼓動が跳ねた。
「お前が何を不安に思っているのか知らないが、
 俺はお前をいつも手放したくないくらい大切に思っている。
 それだけでは不足か」
 かあっと顔が朱に染まった。
 ルシアは大きく被りを振った。
「あなたに愛されて私は幸せよ。ただ……」
 まだ言う決意ができずに、ルシアは口ごもった。
 もごもごと言葉を喉の奥に封じようとするルシアに、
 クライヴは意地悪な笑みを浮かべた。
「言うまで許さない」
 耳朶を噛まれてルシアは唇を噛み締めた。
 甘い声が漏れてしまう。
 クライヴの攻めは首筋に移動していく。
 このまま体中の力がゆっくりと抜けるのに、身を任せたくなる。
 そうすればうやむやにできるかもしれないと
 ふしだらな考えも浮かび、ルシアはますます体がほてるのを感じた。
 彼の愛撫ではなく、自らの羞恥によって。
クライヴの服の袖を掴んだ掌が、彼の背中を滑って落ちた。
「……私は貴方に応えられてる? 」
 おそるおそるルシアはクライヴを見上げた。
 表情が動かない。無表情ではないと分かっていてもルシアは胸がきゅんと疼いてしまう。
 片方の手でルシアの背中をそっと撫でながら、顎をしゃくる。
「馬鹿。十分すぎるくらいだ」
 強く抱きしめられて、キスで言葉を封じ込められる。
 弱気な心が、瞬時に溶け消えていく。
 単純すぎて笑える。
 抱擁は甘くて激しくて、ルシアにはもう何かを考える余裕なんてなかった。
 狂おしい瞳でクライヴはルシアを見つめて、再び唇を重ねた。
 すべてを奪おうとしているのだろうか。
 舌を絡めて、縺れ合わせて、唾液を交換して。
 淡く思考が霞む。キスに応えて、必死の想いを伝えるルシアだった。
「ん……っ」
 息を吐き出した時、頭がぼうっとしていた。
視界がぼやけて、はっきりしない。
 うつろなルシアの瞳に映ったのは、夜毎クライヴと愛をかわす寝室の天井。
「弱音なんて言えないくらい滅茶苦茶にしてやるよ」
 クライヴの台詞にルシアの体が熱くなった。
 どくん。どくん。
 響く心臓の音が、耳にうるさい。
 クライヴの頭を抱えて、答えにした。


 ルシアがうっすらと眼を開けると、どうやら先に目が覚めたのは
 自分らしいと、意外な状況に目を瞠った。
 横で眠るクライヴの寝顔を暫し見つめた後、この状況が寂しく感じられて彼に声をかけることにした。
「おはようございます」
「あ、ああ」
 明らかに生返事。
 半覚醒状態らしいクライヴにルシアはくすくすと笑った。
 彼はこちらをまじまじと見ている。
 腕を突いて頭を支えた格好で、凝視している。
「いい夜だったよ」
「は……そ、そうですね」
 呟かれた言葉にルシアはあからさまに意識した。
 言葉の意味を考えている内にまた体に熱が舞い戻ってくる気がする。
 その時だった。  スローモーションで大好きな人の顔が近づいてきた。
 頬に触れる唇に、驚いてルシアは固まった。
 大きな瞳は、普段より見開かれている。
「……すべてへの感謝の気持ち」
 あちらの世界へ思考を飛ばして帰ってこないルシアにクライヴは戸惑った。
 手を叩こうか、本気で考える。
 おまじないを解くみたいに。
「ルシア? お前、驚きすぎだ」
 今度はより強く声が響くように耳元で、クライヴは囁いた。
 一瞬、ルシアは戻ってきたが、今度はぱたりと気を失った。
 どきどきが許容範囲を超えたらしい。
「ショック療法しかないな」
 ルシアが逃げられないように彼女の体を拘束する。
 うなじに口づけ、そのまま唇を下降していく。
 すぐに反応し始めたルシアにクライヴはにやりと笑った。
「もう少し焦らして楽しませてくれればいいのに」
「……ひ、卑怯です」  
「お前の反応が大げさなんだよ」
「だって、いきなりほっぺに口づけられるなんて思わなくて。
 しかも素早いから反応できなかったんです」
「ふうん」
「待っててくれればいいのに、次は耳だなんて」
「俺は気が短い。知ってるだろ」
「……っ」
 口をぱくぱく動かすだけのルシアは言い返す言葉を持たなかった。
 手を繋がれて、そこにもキスを落とされる。
 顔を上げたクライヴがルシアを捉えた。
「クライヴ」
「ちゃんと聞いてたか? 」
「はい」
クライヴの想いが込められた言葉を聞き逃すわけがない。
 真摯で、とても熱かった。
「私からも感謝を込めて」
 ルシアもクライヴの頬に口づけを返した。
 その瞬間嬉しそうに笑った彼の顔を、きっと忘れない。
 ルシアも自然と笑みをこぼしていた。


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