ひなげし
「意外に根性あるじゃん、先輩」
が、眼鏡の奥に笑顔を浮かべる。
先輩、なんて敬称が申し訳程度についてはいてもが私を自分より「格下」に見ているのは明らかだった。
言葉の端には嘲りがにじんでいるし、笑顔だって人前で見せる楽しそうな笑顔なんかじゃない。
どこかに冷たさがあって、計算高い狡猾さを隠そうとさえしていない。
「先輩は1週間も持たないと思ってたよ。
きっとすぐ寂しさに耐えれなくなってギブアップすると思ってたのになぁ」
「…そこまで軽くないよ、私」
「そっか、良い子なんだね、先輩は。
…それとも、俺に抱かれるのが怖いからだったりして」
「違う」
人気の無い講堂の舞台袖に連れ込まれた私の頬を、が慣れきった手つきでなで上げた。
ぞくりとするような感覚が頬をつたって全身に走って、思わず私は息をのんでしまった。
いけない、惑わされたら。
頭では当然理解しているそんな基本的なことさえ、の誘惑するような手つきの前では危うくかすんでしまいそうになる。
拳をぎゅっと握って、ともすれば快感になってしまいそうなそれを無理やり無かったことにする。
本気の相手になりたいなら、俺の誘惑に耐えてみてよ。
のそんなからかいじみた発言に乗ってしまったのが1週間前。
もともと女の扱いに慣れた感じがしていたから、それなりに遊んできたんだろうという覚悟は出来ていた。
それでもいい、そう思って告げた気持ちは、案外簡単に摘み取られてしまった。
「俺、遊びの相手としてなら今すぐでも先輩のこと抱けるけど、まだ本気にはなれないなぁ」
予想をはるかに超えて露骨な発言に、思わず返す言葉を失ってしまった。
いつもの笑顔をまったく崩さないままで、がすらすらと続く言葉をつむいでいく。
整った容姿が私を見下ろして笑う姿は冷酷で軽薄なのに、思わず見とれてしまうような綺麗さも持ち合わせていた。
「じゃあこうしよう。先輩がひと月俺の誘惑に耐え切れたら、ホントの彼女にしてあげる。
ひと月過ぎる前に流されちゃったら、そこで終わりね。
…ま、俺も本気で堕としにかかるから、先輩が勝てるとは思わないけどさ」
「……」
その日からこうして人気の無い場所に呼び出されて迫られたり、口説かれたりが続いている。
告白するほど好きになった人にそんなことをされて嬉しくないわけはないけれど、それだけに辛さも並じゃない。
何度、このまま流されてしまいたいって思ったことか。
そのたびに体中の理性を総動員して、ぎりぎりの状態で無理やり持ちこたえている。
「ちょっと手加減しすぎたかな?先輩思ったよりなびかないし、そろそろ本気で行こうかなぁ」
のんきにつぶやいたの表情がにやけたと思った次の瞬間、鈍い音がした。
…音のした方を見なくても、何がおきたのかは感触で分かる。
あっさりと手首をつかまれて壁にぬいとめられた状態で私が出来る抵抗なんて、必死で下を向いてと目を合わせないようにすることぐらいだった。
うつむいた私に追い討ちをかけるように、耳元でがささやく。
「もう我慢できない…、今すぐ欲しい」
「だ、だめっ」
「いいだろ?…ほら、こんなにドキドキしてる」
からかいを含んだ低い声に耳をなぞられるたびに、どうしても鼓動が早くなるのをとめられない。
揺らいだらダメだって分かってるのに。
「だって欲しいでしょ?…ほら、こんな風にキスされたり…気持ちよくなりたいでしょ?」
「っ…」
首筋にキスをされて、の吐息が触れるだけで、頭がおかしくなりそうになる。
…こんなに強く迫られたら、いつまで耐えられるか分かったもんじゃない!
ねえ、もう早く気持ちよくなりたい。
これ以上待てない、一度限りでもいいから、委ねたい…
そうやってだらしなく欲しがる自分を無理やり叱りとばして、つかまれた腕に力を込めて抵抗する。
まるで首を絞められたひとが最後の力を振り絞って息をしようとするみたいに。
私は、そんなに、弱い子じゃ、ない。
「やめて、。…私は身体だけ受け入れてもらっても嬉しくないから」
「分かった」
なんとか冷静を装うつもりだった声は、みっともなくかすれていた。
でもはあっさりうなずくと、私の手首を解放してくれる。
「やっぱりすごいや。よくあんなに流されかけた状態から立ち直れるね。
…そういう人、好きだよ。」
「…」
「今日はこの辺にしとくよ。じゃあね、先輩。…また明日」
いっそ潔いくらいにあっさりした引き際。
まだ立ち直りきれない私を置き去りにして、はさっさと出て行ってしまった。
一人きりになった実感がわいてくると、私はもうそれ以上自分を保っていられなくなって、どさっと床に崩れ落ちた。
昂ぶった感情が行き場を失って、両目からこぼれていく。
ひと時きりの関係なんて嫌だ、そう思うから自分を蹴り飛ばしてでも耐えようとしている。
だけど、あんなふうに迫られ続けても耐え切れるかと聞かれたら、そこまで自分が強くないこともよく分かってる。
堕ちてしまうのは、時間の問題だ。
「逃げ出せたら、楽なのにな…」
自嘲めいた笑いが唇からこぼれて、涙とまざって床に落ちる。
こんなに翻弄されて、辛い思いばっかりさせられているのに、気持ちだけがどうしても揺らごうとしない。
流されてしまうことも、あきらめて逃げ出すことも出来るはずなのに。
が好き。
たったそれだけの単純な事実が、私を先の見えない暗い場所に閉じ込めている。
気付いたらまた不幸になっていた。たちが悪い。
イメージ曲はいきも●がかりの「ひなげし」