048:独り言
風邪、ひきますよ。
聞き慣れた声に、は少しだけ肩をすくめた。
駅から自転車で5分ほどの小さな公園は、時間帯も手伝ってか二人のほかには誰も居ない。
ベンチに腰掛けたが一向に動く気配を見せないことに軽くため息をついて、はその隣に断りもなく腰を下ろした。
恋人同士のように密着することはないものの、風上に自分よりも大きな体の人が座っていれば、それだけで十分温かくなる。
それがつまり、が身を挺して夜風からを保護しているという事だと気付いて、流石のもようやくを向き直った。
「…が風邪引くでしょ」
「俺のほうが厚着じゃないですか」
言外に先に帰れとにじませても、はしれっとした表情でそれを退ける。
いつの間にか習得していた強かな受け答えが、が過去数回繰り返された同様のやり取りから学んだことを物語っていた。
早く帰ろうと言えば先に追い返され、上着を貸そうとすれば頑なに辞退される。
だからただ黙って、の気が済むまで風除けでいることを選んだのだ。
は知っている。
本当はが、踏み込まずただそばに居てくれる誰かを求めている事を。
「物好きだよね、も。…こんな夜中に、昔の失恋の痛手引きずってぼんやりしてる未練がましい女のお守りなんかして」
「そうですね、物好きかもしれませんね」
曖昧な同意の言葉が返ってきたことに、がわずかに息を漏らした。
別段、フォローの言葉がほしかったわけではない。
だがこうもあっさり(本人はそのつもりはなかっただろうが)流すような返答がくれば、さすがに少しあてがはずれる。
他の男の話をしたら、多少は嫉妬してくれるかもしれないとでも思っていたのだろうか。
昔の恋を引きずりながら駆け引きめいたことをしようとしている貪欲な自分に気付いたが苦笑した。
「あのさあ、」
「なんですか」
「…これ、独り言だから。返事とかしなくていいからね」
「え?」
宵闇にぽつりと言葉を落としながら、は正面を向いた。
横顔に、のぞきこむの視線を感じる。
一方的な宣言で後輩の口を封じておいて、それでもは迷っているようだった。
まだ消化し切れていない思いを、過去の話として他人に聞かせて良いのかどうか。
の視線を浴びたままの沈黙がどれくらい続いただろうか。
は乾き始めた唇を開いた。
「昔からね、年上ばっかりなんだよ。好きになる人。
頼りがいがあるっていうか…たぶん、甘えたりわがまま言ったりしても許してくれる人が良かったんだと思う。
…その人も、年上だった。誰にでも優しくて、かっこよくて、太陽みたいな人だったよ」
の視線は、動かない。
「あの時の私にとっては、世界で一番素敵な人だった。
こんな人の彼女になれたら、幸せだろうなってずっと思ってた。
…でもね、それだけ。
結局、遠すぎてあきらめちゃった。私じゃあのひとにはつりあわないに決まってる…って。」
「…」
「そしたらね、こないだ、メールが来たんだ。結婚するんだって。」
なんかもう、ショック受けた自分にショック受けちゃってさ。
もう何年も前の話なのに、いまだに引きずってるとか。
そう言って自嘲めいた笑いをつくるを、はただ黙って見ていた。
残ったわずかな距離を一気に縮めて、この華奢な相手をきつく抱きしめてしまいたいという衝動を静かに押さえ込みながら。
「さん」
「…なに」
「終電、そろそろですよ」
代わりにかけたひどく味気のない言葉に、の張り付いたような表情が動いた。
傷を無理やり覆うような笑顔ではなく、ほどけたような苦笑。
は知らない。
いつの間にか終電の時間まで把握されていることを、が少し嬉しく思っていることを。
「馬鹿だね、。」
黙ってれば私、終電逃してあんたの部屋に泊まることになったかもしれないのに。
冗談めかして告げるの言葉に、は肩をすくめた。
身体ならゆだねても構わないとほのめかすを、軽くにらむ。
「…駅までしか送りませんよ」
ありがとう。
立ち上がって自転車の鍵を外しながら色気のない返答を返す後輩の背に、は小さくつぶやいた。
もう少し。
あと少しだけ、気持ちの整理がついたら。
あなたの声にだけ、振り向くようにするから。
音にならない小さなひとりごとは、白い息に変わって空気に消えた。
初年下。少し物分りが良すぎた気もする