刹那
せめて、今だけでも。
いつもなら、授業が終わって帰る時間なのに。
その日に限って私はまだ、英語の長文と戦っていた。
だって今日が入試前最後の授業だったから。
本当はもっと簡単なセンター入試レベルの問題をやって終わりになるはずだったんだけど、
私が言い出したんだ。
もう少し難しいのをやってみたいって。
先生は前日にあんまり頭を疲れさせないほうがいいって言ってくれたんだけど、私がそれでも頼んだら
塾長が「どうせは受験が終わったら勉強しなくなるんだろうから、今のうちにやっとけ」なんて笑いながら
長文読解のテキストを教材棚から引っ張り出してきてくれたんだ。
1年の頃は落ちこぼれかかったりした英語も数学も、今ではちゃんと大学入試に通用するくらいになったんだ、って
確かめたかった気持ちもある。
…本当は、それだけが理由じゃなかったんだけど。
「その辺りを走りながら、彼は、…病気に苦しむ老人を見つけ」
「違うよ」
(…知ってる)
勉強は、できるようになった。
はじめはちょっと怖かった私の担当の先生が、本当は優しい人だってわかって。
それから、なんとなく先生に認められたいって思うようになって。
授業も真面目に受けるようになったし、塾の宿題も頑張った。
模試の成績も少しずつだけどちゃんと良くなっていったけど、…でもやっぱり、私は馬鹿だと思う。
わざと間違えて、時間を稼ごうとするなんてさ。
「その分詞構文は「〜しながら」じゃなくて理由のほう。もう一回訳してみて?」
「はい…その辺りを走っていたので、彼は病気に苦しむ老人を見つけたのです」
「いいよ。…次」
授業中の冷静な声も、テキストを指さす大きな手も、全部が大切に思える。
今日が最後の授業だなんて思いたくないくらい。
(…分かってるんだよ、ほんとは)
これが恋だってことくらい、…分かってる。
「あ、ちょっと待って」
「はい?」
「時間過ぎてるんだけどどうする?」
今までにも何度かこうやって授業を延長してもらったことがあったから、先生が聞いてくれる。
他の先生なら時間がきたら途中でも終わりにしちゃうのに、先生は優しい。
その優しさに甘えようとする自分に呆れるけど、でも少しでも先生のそばにいたい気持ちも変わらない。
「えっと…もう少しで終わるんで、もうちょっとだけやってもいいですか?」
「分かった。…じゃあ塾長に言ってくるからそこ読んどいて」
「はーい」
先生が塾長に声をかけると、塾長はすぐOKしてくれたみたいだった。
戸締りと電気を先生に頼んで塾長と塾長の生徒さんが帰っていく。
これが最後の二人きりの時間だって思うと、急に切なくなった。
それから先生は携帯を取り出して少し操作して、また戻ってきてくれた。
「…先生?」
席に戻らずに私の隣に立つ先生に疑問を感じて、私はテキストから顔を上げた。
先生はじっと私を見下ろしてる。
「さん」
「はい」
いつもより高い位置にある先生の顔を見る。
先生は少しの間何か考えていたみたいだったけど、すぐに笑顔を見せた。
「…やっと二人きりになった。…もう逃がさないよ」
「先生…?」
いつかと同じ言葉を聞いて、でも私は悲鳴を上げようとは思わなかった。
だって、最後の授業だもん。…冗談でだって、先生からそんな言葉を聞けるなら嬉しいんだから。
先生の手が、私の目を覆う。
最後の最後にまたこんなことをしてもらえるなんて、私はきっと幸せ者なんだと思う。
視界を閉ざされてぼんやり回想に引きずられかかってた私の耳元で、急に低い声が響いた。
「…。」
「えっ…」
名前で、呼ばれた。
あのときみたいなちゃん付けでもなく、呼び捨てで。
それだけで、心臓が痛いほど跳ねる。
このまま時間が止まってくれればいいのに。
「。」
「…はい」
もう一度呼ばれて、私は返事をした。
いつの間にか、先生の反対の手が私の肩に添えられていた。
後ろから抱きしめられたみたいになって、私は久しぶりの緊張を味わった。
「…本当は隠し通すつもりだったのに、いつまでも君が教室に残ってるから…。
抑えられなくなった。」
「え?」
「……本気だった。」
「…え?」
「本気で好きだったんだよ、。ずっと前から。
いけないって分かってても、あきらめ切れなくて…ずっとが欲しかった」
「せん、せい?」
心臓がうるさい。
耳元で聞こえる先生の声はちゃんと届いてるのに、頭がまだついてこない。
本気って?…好きって本当?
確かめようとして首を動かしても、先生の手が私の視界をさえぎったままで表情を見ることなんてできなかった。
ぎゅっと、先生が肩をつかんでいた腕に力を込める。
そして。
「……あ」
唇に、あたたかくて柔らかいものが触れた。
「先生…」
「…ごめん、さん」
私が声を上げると、先生はすっと目隠ししていた手を放してしまった。
声も、いつもの冷静な「先生」らしい声に戻ってる。
「動揺しすぎた。怖い思いさせてごめん」
「先生!」
「…」
「怖くなんかないです!私ずっと先生のこと好きだったんですよ?
なんで私の気持ち聞いてくれないんですか…?」
「…」
泣くつもりなんてなかったのに、涙があふれる。
私だって好きっていいたかったのに、いきなりキスして、それでおしまいにするなんて酷すぎる。
こんなに好きなのに。
「。」
「なんですかっ」
泣き声のまざったみっともない声で返事をしたら、先生の腕が私の身体を抱きしめてくれた。
「…あと少しだけ、俺のものでいて。…先生と生徒じゃなくて、男として俺を見て」
「…………」
「うん。…好きだよ、」
大好きなひとの腕に抱かれて、私はゆっくり目を閉じた。
せめて、今だけは。今だけでも。
幸せな夢から、さめないでいられますように。
私の大好きなひとが、私だけを見てくれますように。
他に誰もいない教室で、私はたくさんの幸せなキスをもらった。
長い……。もしかしたら最長級。
甘くしようとして奮闘。途中で何度か死にそうになりました。