黒い檻
「あぁ、逃げられないほうに進んでしまいましたねえ」
「こ、来ないでっ」
「残念ですが、あなたを捕まえるのが仕事でしてね」
「やだっ…もう戻らないって決めたの!」
「何故ですか?あんなに、愛されているのに。」
丁寧な口調でじりじりと距離をつめてくる男には、隙みたいなものなんてかけらも見えない。
しかも、さっき指摘されたとおり、焦って逃げるあまり袋小路に追い詰められてしまっているこの状態では、私が助かる確率なんて知れたものだ。
「もうほとんど泣きそうだったんですよ、あの方。あなたがいないと生きていけないとまでおっしゃってました。
だから、早いところ戻ってさしあげないと」
「嫌だって言ってるの!…ねえ、お願いだから帰って。
私はもうあの人とは二度と関わらないって決めたんだから」
「そういう訳にもいきませんよ、彼はそう望んでいないんですから。
さあさん、帰りましょう?あなたを愛する彼が、待ってますよ」
「やだ…」
あなたをあいする、かれ。
その言葉に悪寒が走る。
この男の素性なんて知らないし、知る気も無い。
ただ分かっているのはあいつが雇ったってこと、私がもうあいつを好きじゃないことを知っていてなお、あいつの元に私を連れ戻そうとしていることだ。
もしかしたらあいつの暴力のことも知っているのかもしれない。
目前に迫った丁寧な物腰と場違いなくらい柔和そうな顔立ちにすくんでしまう身体を叱りつける。
なんとかして逃げ切らなきゃ、今までと同じ。
理不尽な手出しに震えながら耐える生活になんか、戻りたくない。
「さあ、戻りましょうさん?」
「いや…かえりたくない…たすけて…」
「…声が震えてますよ」
「やだ…たすけて…だれか…」
連れ戻されたら待っているだろう仕打ちのことを考えただけで、みっともないくらいに震えてしまう。
虚勢を張るほどの気力も無い。
だって今頃あいつは、従順であるはずの、(と本人が思っている、)恋人が逃げ出したことにひどく怒っているはずだから。
逃げ場が無い以上、追っ手のこの男に哀願してでも、逃げなければならなかった。
「ね、ねえおねがい、助けて…なんでもするから、あの人のところにつれてかないで…」
「仕事ですから」
「でも、おねがい…おねがい…たすけて。なんでもするから」
「何でも?…軽々しくそういうことを言うもんじゃないですよ」
「だけど…」
聞き入れてもらえる望みは、薄そうだって分かっていた。
それでももう二度と、殴られて蹴られて懇願して、首を絞められる毎日になんか戻りたくない。
なんとかして言葉を続けようとしていると、男がすっと口元に笑みのようなものを浮かべたのが見えた。
「…あの人の気持ち、分かりますね」
「え…」
「そんな涙に濡れた目で私を見て、誘っているようにしか見えませんよ。
きっと彼もあなたのその怯えた顔が見たくて我慢できなくなってしまうんでしょうね」
とん、と背中が塀に触れたのが分かった。
いきどまり。
ジリジリと狭まる男と私の距離に焦っていたことが、最大の原因だろう。
私が選択を誤ってしまったのは。
「さて…私の仕事は当然あなたに元の場所に戻ってもらうことなんですがね。
なんだか、惜しくなってきてしまいました。
…私のものになるという条件で、見逃してしまおうかな、なんて」
馬鹿げてますかね、と笑顔で問いかけられる。
溺れた人がわらを掴むように、私も必死で手を伸ばしてしまった。
それが私を捕縛するための縄だと、気付けずに。
「馬鹿げて…ない……お願いです、見逃してください…」
「ほう?」
「あなたのものにでも、なんにでもなるから…見逃して…」
「…そんな潤んだ目で頼まれてしまっては、さすがにもう仕事なんてどうでも良くなってしまいますね…
それじゃ、さん。
戻るのはやめて…行きましょうか」
まるでエスコートするように優雅に差し出されたその手に、すがるような気持ちで右手を重ねた。
あいつの粗暴な動きとは似ても似つかないような優しい腕に流されるようにして歩き始めると、恐怖が少しずつ薄れていくのが分かった。
この人がいてくれれば、もう私は怯えないですむ。
この人についてさえ行けば、もう怖いことなんておきない。
その考えが甘すぎたことに気付くのは、直後のことだった。
「たすけてくれて…ありがとう…」
やっと温度の戻ってきた声で告げると、男は笑顔を浮かべた。
さっきまでと何も変わらない、柔和で穏やかそうな笑顔を。
「いいえ、これは取引ですから。
今後あなたが私に身体を差し出してくださる限り、彼の所に無理やり連れ帰ったりはしない、という」
「…そんな」
「おや、何か不満でも?私の条件をのんだのはさんじゃないですか」
「……」
笑顔を崩すそぶりも無く、彼は隣を歩く私にもう一度念を押すようにくりかえした。
相手を拒んだらすぐにでもあいつの所に送り返すことを、にじませるというにはあまりにも露骨な表現で。
「これからよろしくお願いしますね、さん」
少し細められた目の中に映る自分が、二重に捕らわれてしまった浅はかさを呪うように私を見つめ返していた。
またか。最近こんなのばっかりで申し訳ないです。
たまには幸せなお話も書きたい。と思っているはずなのに何故。