052:体温







ああ、近い、近い!近いっ!


内心で私が悲鳴をあげてることなんて、先生はまったく気がつかない。
だいたいこの塾は狭すぎる。この間見学に行った予備校なんて広い教室に自習室に休憩所までついてたのに。

個別指導の個人塾なんてアットホームそうでいいなぁ、なんて友達からうらやましがられるけど、私はそれどころじゃない。
まず教室は狭いし1対1だから必要以上に緊張するし気は抜けないし。しかも授業1コマが1時間20分。長いなんてもんじゃないと思う。
挙句当たった先生が大学生とは思えないほど落ち着いてて物静かで…それが怖いと思う。
いつも内心悲鳴をあげながらの授業だけど、なまじ実際に成績が上がってるもんだから
他に移りたいなんて言ったところで親が絶対ゆるしてくれないと思う。
今の先生…先生は前の女の先生が就職で辞めちゃってから私の担当になったんだけど、
たしかに私の成績がしっかり改善したのはちょうどそれからなんだよね。
別に怒られるとかキツイこと言われるとかじゃないんだけど、先生無口だから何考えてるか分からないっていうか…。
要するにプレッシャーみたいのを感じるんだ。

(ああもうお願いだから黙ってそんな至近距離でこっちを見ないで…)

普段なら余計なこと考えて止まったりしないように気をつけてるんだけど、
(止まると静かな声で「さん?」って言われてちょっと怖いから)
さすがに今回ばかりは、手が固まってしまってうごかなかった。

だって、まさかの至近距離。手がとどくどころか、下手に動けば額がぶつかるほどの近さで見つめられたら。
頭が混乱してどうにもならなくなるのも、当たり前だと思う。


「……………さん?」
「え…あ、あ…はいっ」


声をかけられてもうまく反応できない。


「疲れてる?」
「え、う、ううんじゃなくていいえ、あの、…」
「…無理しないで、言えばいいのに」


先生が小さくため息をつく。
でもそれさえも、私にとっては大問題で。


(ほんと、近いって!何で今日だけこんなに乗り出してくるの?普段はちゃんと机越しらしい距離があるのに!
 それ以前に、今ぜったい先生の息かかったよ!)


もうなんだか思考がわけの分からないほうに飛びかかってる私を見て、先生は不意に椅子をたった。
至近距離の視線から開放されて、やっと一息つけるようになる。
…それにしてもどうして、今日はこんなに心臓に悪いことが続くんだろう。
同じ時間に授業があったはずの中学生の子は休みだし、そのせいで塾長が戸締りと私のことを先生に託して先に帰っちゃうし。
先生と二人きりで授業ってだけでも緊張がものすごいのに。
そんなときに限って、問題集をやってる私をじっと覗き込んだり、急に顔を近づけて観察するような真似をしたり…。
先生のせいで、いつにもまして苦手な数学の問題がとけない。


「もしもし、さんですか?ベスト個別塾の講師のと申します。夜分にすみません。さんのお母様でいらっしゃいますか?」
「え?」


緊張と呆然状態からようやく抜け出した私が見たのは、入り口近くの電話を取って話してる先生の姿だった。
さすが大学生。敬語とかスムーズに出てくるんだなぁ…じゃなくて。
…今間違いなく私の名前が出たわよね?
それどころか今のが幻聴じゃなければ確実にうちの親に電話してるよね?
これは一体何事?
私の疑問だらけの表情には気付かないで、先生は話を続けた。


「あ、いえ、ちゃんと時間通りに来てもらってます。いえ、まさか。さんはいつも真面目に頑張ってくれてますよ。」
「え…」


どさくさにまぎれてほめられた。
あの無口な先生が、そんなことを言ってくれた(社交辞令だったりして)のに驚いていると、先生はそのまま
さらに予想外な発言を電話に向かって続けた。


「あの、ご相談なんですが本日の授業を少し延長してもいいですか?はい、15分ほど…
 …さんが少し疲れているようなので、休憩を…少し帰りの時間が遅くなってしまいますが…あ、はい。ありがとうございます。
 いえ、では失礼します。」


ちょっと、本人の承諾も得ないで先に親に電話するとかどうなの?
…なんて先生にツッコミを入れる勇気はあいにく持ち合わせていなかった。
だいたい、私が固まってたのは疲れたからじゃなくて先生がやたらと近くにいたからなのに。
そんな余計なことを考えてたから、先生が戻ってきたのに気付くのが遅くなった。


「…さん」
「ひっ」


気付くと、先生は私の椅子の隣に立ってこっちを見下ろしていた。
なんで立ってるの?いつもみたいに向かい側に座ってくれればいいのに!
あわてる私を見た先生の表情が、はじめてみるものに変わる。………笑顔だ。
思わず見上げたその口元からは、ぞくっとするような、いつもと違う声音が響いた。


「…やっと二人きりになった…もう逃がさないよ」
「せ、先生っ…!?」


心臓が危険信号みたいに高鳴る。
椅子ごと後ろに下がろうとしたら、先生の手が伸びてきて私の視界を塞いだ。
何をされるかなんて、怖くて予想もできない。
ぎゅっと目をつぶって、身体をこわばらせて、できる限りの声で悲鳴をあげようとして……私は何かを聞いた。


「く……ははっ………」
「え…?」


よく考えなくても、この場には私と先生しかいなくて私が笑ってないってことは
笑い声は先生のものに違いなかった。
別に邪悪な笑いとかじゃなくて、心底楽しそうに笑ってるみたい。
これは、もしかして…


「あの………まさか、からかいました?」
「うん、冗談。…さすがにそんなことしたら俺犯罪者にされちゃうしね」


浮かんだ疑問を口にすると、あっさりしすぎた肯定の返事が返ってきた。
うそ…先生こんなキャラだったっけ?
呆気にとられるしかない私の目元からようやく手を離した先生の表情は、はじめて見る楽しそうな微笑だった。


「俺は、別に怖い人間じゃないよ。さんはもっとリラックスしていいと思う。
 …緊張してたらすぐ疲れるでしょ?」


先生の意外な優しさに、ビックリする。
私が緊張してること知ってて、落ち着かせるためにあんな荒療治をしてくれたんだ。
確かに一度緊張の糸が切れた今は、今まで苦手だった先生の目の前にいても不思議と落ち着いていられる。
この人は、思ってたよりもずっとすごくて、ずっと優しい人なんだ。
そう思ったら先生の思いやりが素直に嬉しく感じられて、顔が緩んだ。


「ほらさん、怖い先生からの命令だよ。
 目を閉じて、おとなしく先生の隣で休むこと」
「え、隣ですか?」
「うん。言うこと聞かないとさっきの続きで襲うよ?」
「えっ、それは…」
「さあ、隣に座りたい?それとも上に乗られたい?」
「せ、先生っさすがに発言がきわどいです」
「冗談だって。…ほら、おいで。」


さらりと問題発言をする先生の姿に、今までのイメージがあっさり崩れていく。
冗談とはいえさっきの衝撃がまだ残ってる私としては、これ以上心臓に悪いことはされたくないから。
しぶしぶ先生の椅子の横に、私の椅子を持っていってくっつける。

「ここの椅子は背もたれがないのが問題だよね…まあ、俺が支えるけど」
「え?いいですよ机に突っ伏しますから」
「ダメ。先生の命令だよさん?言うこと聞かないと…」
「えー………分かりました」


先生のことを怖く思う気持ちはなくなったけど、どうやら私は先生に逆らえないらしい。
背中に回された腕におそるおそる体重を預けて、さっきと同じように視界をおおう大きな手に目を閉じる。
でも今度は、怖くなんてなかった。


「少しの時間だけど、ゆっくり休んでね、…ちゃん」
「……」


優しく、いつもは呼ばれない名前を呼ばれて。
気がつけば私は、先生のやさしい体温に包まれたことに小さな幸せを感じていたみたいだった。








いつもよりやや長めな気がするこれ。塾に先生と二人っきりってシチュエーションは実体験ですが
実際にはまさかこんなことはありませんでした。先生怖かったし(笑)




おまけ 先生の視点からみたその後数分間




この腕の中で力を抜いている彼女は知らないんだろう。
俺の後ろめたい幸福を。

初めて授業をした日から可愛いと思っていた。
なのに彼女は何を間違えたか俺に恐怖か緊張かそういう類の感情を持っていて。
でも苦手な俺の授業でも一度も休まず、むしろ遅刻もしない律儀なところも好ましくて。
塾長が帰ったのをいいことに、自宅に電話してまで引きとめた。
少しからかえば素直な反応が返ってきて、緊張の解けた笑顔はいつも以上に可愛い。
手放したくないなんてバイトの身には余る我侭な気持ちが浮かんできて、
俺は口実を使って彼女を腕の中に閉じ込めた。
強引なやり方なのに、彼女はなぜか従ってくれた。
そして今彼女は、眠りこそしないものの、俺に目を塞がれて抱きしめられたまま身体の力を抜いている。

教師と生徒の恋なんて冗談だと思っていたのに。


(欲しい…な)


こうして抱きしめられるだけで満足するはずなのに。
その先まで望む貪欲な自分に呆れながら、彼女をもう一度抱えなおした。

これは、たった5分だけ許された後ろめたい幸福。
彼女の疲れと素直さを利用した、邪な抱擁。


(…好きだよ、ちゃん。きっと…言えずに終わるだろうけど)









いやん先生考えすぎ。

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