ひらひら
ひらひら
軽やかに。
儚げに。
蝶は。
たった一人の。
男の為だけに。
美しい羽を。
差し出した。
「あぁ、また来たんだね」
青年は微笑み、手を差し伸べる。
「いつもいつも、こんなところに来て、飽きないのかい?」
少女は差し伸べられた手を取り、部屋に入る。
「飽きないわ。貴方とのお話は、とても楽しいもの」
夏らしい白い地色の浴衣。
長い漆黒の髪を浴衣の柄と同じ色、深緑のリボンで緩く束ねる少女はゆっくりと微笑んだ。
「それは良かった。せっかく来て貰っているのに、退屈なんかさせたくないからね」
少女をソファに座らせ、紅茶とチョコレートをテーブルの上に乗せる。
「今日はどんなお話をしてくれるの?」
紅茶は一口飲み、少女は早速話しを強請る。
「そうだね…。今日はある人が昔体験した話にしようか。可笑しいかもしれないけど、本当にあった話。最後まで、聞いてくれるかな?」
穏やかに微笑み、少女を見つめる。
「勿論よ。貴方が創ったお話も素敵だけれど、貴方が知っている本当の昔話はもっと素敵。聞かせて?」
どこか、少女らしくない艶やかな微笑みを浮かべ、少女は話を強請った。
「…10年くらい、昔の話だよ。ある少年が、旅をしていた時の話…」
青年の、昔話が始まった―――
冬が確実に近付いてくる。
そんなことを実感してしまう、肌寒い、その日。
少年と青年の狭間にいる男は森の中の大きな木に辿り着いた。
「全く…、…っ、…運がない…」
大木に背を押し付けてやっと立っている状態だった。
暫くするとその体勢も辛くなり、ずるずると座り込んでしまう。
…ドジ・自意識過剰・判断ミスなどなど。
この状況を作り出した自分を思いつく限りの罵詈雑言で罵る。
このまま、ここで死ぬ。
それは、確信に近い予感。
出血量が多い。
止血が効かない。
…致命傷を負ってしまった。
「ここで、死ぬのか…?」
確かに、手強い相手だった。
肝をやられた。
あの状態でよく、相手に止めを刺せた。
ここまで、逃げて来られた。
しかし。
もう。
限界。
死が。
一歩。
また一歩と。
近付いている。
「…ここで、…死ぬのか…」
そう、観念した時。
目の前に一羽の蝶。
漆黒と深緑の美しい翅を持つ、
艶やかで、清らかな
季節外れの蝶。
ひらひら
ひらひら
頼りなげで。
儚げで。
冷たいこの空気の中では
まるで
死を待つだけの、哀しい存在に思えて。
手を伸ばす。
冷たい風から守るように。
そっと そっと
てのひらで包み込む。
俺のてのひらの中で
大人しく冷たい風から守られる蝶。
ふっ…と
愛しさが込み上げる。
「お前、俺と一緒に、死んでくれるか…?」
この蝶も永くない。
それなら。
一緒に。
…そう思った。
今まで。
死ぬということを何とも思わなかった。
ずっと一人で生きてきたから。
死ぬ時も一人だと知っていたから。
それが、当たり前だと思っていた。
でも。
いざ、一人で死に向かうと。
酷く寂しいことを知った。
誰か傍にいて欲しい。
無意識に願ってしまう。望んでしまう。
でも。
俺は一人だから。
今まで一人で生きてきたから。
そして。
たくさんの人を殺してきたから。
『誰か』
なんて、願えない。望めない。
本当はこの蝶さえ、
美しいから、汚れていないから、
俺には勿体無いはず。
それでも。
この蝶なら。
俺のてのひらの中で守られてくれる、この蝶なら。
一緒にいてくれる。
一緒に死んでくれる。
そんな気がした。
ひらひら
ひらひら
蝶が
てのひらから
離れる。
「はっ…やっぱ、俺みたいのとは、駄目、か…」
苦笑が、浮かぶ。
ココロが寒い。
一度、願って、望んでしまったから
この拒絶は痛みを伴う。
しかし、
「まぁ…良いか…」
最期の最期で、
美しいものを見れたから。
「それで、十分だ…」
目の前が霞む。
傷の痛みが消えた。
このまま
このまま
眠るように…
「起きて」
意識が遠のいて行く。
「起きて」
人の声。
「ねぇ、眠らないで。起きて」
その声はあまりに煩くて。
仕方なく、閉じかけた目を無理やり開く。
深緑の目が見えた。
「……………」
口付けられた。
頬が両手で固定された。
死に逝く者の力では抵抗することも出来ずに。
ただ。
されるがまま。
「目、覚めた?」
唇が離れる。
目の前にいるのは
漆黒の髪と、深緑の目を持つ少女。
「誰、だ?」
「傷、治ったでしょう?」
…会話が噛み合わない。
「傷、治ってないの?」
少女の手が、俺の服を捲り上げた。
「おいっ…」
何の躊躇いもない少女の行動。
押し留めようと、体を起こして、気が付いた。
痛みがない。
先程のように、体が麻痺した所為ではない。
手を伸ばし、傷口に触れる。
「嘘だろ…」
傷口が塞がっている。
体のだるさが消えた。
「お前、一体…?」
「治ったでしょう?」
くすくすと艶やかに笑いながら、少女は俺の顔を覗き込んだ。
そして、
「私、蝶よ」
そう、少女は俺に告げた。
「…は…?」
思考回路と言語中枢が見事に停止した。
「誰?って尋ねたでしょう?だから、教えてあげる。私、蝶よ」
少女はまだくすくすと笑っている。
笑いながら、俺の隣に座る。
「蝶…だと?」
信じられない。
信じるわけない。
蝶が人になるなんて。
そんなこと
あるわけ…。
「一緒に死んで欲しいって願ったでしょ?」
…世の中には不思議なこともあるらしい。
あの時の俺のコトバ。
知っているのは蝶だけだ。
今、蝶はいない。
代わりに、少女がいる。
…、…信じることにしよう。
信じるのは、良いが。
「お前、何で裸なんだ?」
素朴な疑問を素直にぶつけてみる。
そう、少女は何も来ていない。
生まれたままの姿を晒している。
「貴方に私の翅をあげたからよ」
いくら、蝶だと言っても、少女の裸は目に毒だ。
それに。
「ここに来い」
足を広げ、その間に少女を招く。
「…どうして?」
不思議そうに首を傾げると漆黒の髪がさらさらと零れ落ちる。
「裸だと、寒いだろうが。何もしないから、大人しくここに来い」
手首を掴むと、その細さに、驚く。
少女は、立ち上がり、
ちょこんと。
俺の前に座った。
「もっと、こっちだ」
少女の両脇に手を入れ、持ち上げ、自分の体へと引き寄せる。
そうして。
血で汚れたコートで後ろから抱き締めてやる。
「少しは暖かいだろ?」
そう言ってやると、
「そうね」
と、そんな答えが返ってくる。
「で、お前の翅が、どうしたって?」
少女の裸に気を取られていて、ちゃんと聞いていなかった。
「私の翅、貴方にあげたの」
「…解かるように、言ってくれ」
少女は人じゃない。
だから
会話は中々、噛み合わない。
「あのね。笑わないで、聞いてくれる?」
この体勢だと、少女の顔を見ることが出来ない。
そのことを、少し残念に思う。
きっと、純粋そのものの表情を浮かべているはず。
「笑わない。命を救ってもらった礼だ。何でも話せ」
そう、少女の言葉を促してやる。
「私ね、雪を見てみたかったの」
雪。
白くて。
冷たくて。
汚れのない。
氷の結晶。
一度で良いから、見てみたい。
そう願っていた。
「無理だろ。普通。蝶って、大体夏の終わりまでしか、生きられないからな」
貴方は呆れたように、そう言うけど。
「見てみたいの。だから、私は、ここにいるの」
花々が咲き誇る、春も。
太陽が全てを焼き尽くしてしまうような、夏も。
果実が子孫のために実を結ぶ、秋も。
私は見てきた。
けれど。
雪だけは。
「本当はね、私はもう、消えているはずなの」
「どういうことだ?」
後ろから声が聞こえてくる。
直接、声が体に響く。
なんか、不思議な感じがする。
「私の季節はね、秋までなの。秋になったら、消えなきゃいけなかったの。でも、私は雪が見たくて…。今まで、消えないでいたの」
誰かに、抱き締められるって、こんなに暖かいのね。
蝶のままでいたら、ずっと知らなかった。
知れなかった。
「消えるってのは、死ぬってことか?」
私を抱き締めてくれる腕に力が入る。
貴方は死ぬことが怖いと思ったから。
だから、私も貴方と同じように怖いと感じていると思って。
慰めてくれている。
守ってくれている。
貴方、優しい人ね。
でもね。
「死ぬとは違うの。本当に、消えるだけ。季節がまた巡ってきたら、甦るの。翅が、私を蘇らせてくれるの」
「そうなのか…って、おい、お前、翅を俺に…」
慌てて、私の顔を覗き込む貴方。
「そうね、私の翅は貴方にあげたわ。だから、私は、もう、甦られない」
貴方の顔を見つめる。
そんなに、哀しそうな顔しないで。
「私ね、今まで消えることを怖いとは思わなかったの」
そっと、貴方の腕に触れる。
「だって、必ず、また、甦ることが出来るから」
冷たい、風。
私は雪を見れるのかしら?
「未来が、必ず、約束されているから」
貴方の腕の中は暖かいから。
もう少しだけ。
私はここにいられる。
「でも」
お願い。
どうか。
私の願いを叶えて。
「私は貴方に出逢ってしまった」
私を冷たい風から守ってくれた。
「私は、貴方に出逢って、未練を持ってしまったわ」
一緒に死んでくれと。
蝶でしかない私に願った人。
「翅を、渡してしまった」
死んで欲しくなかった。
「…後悔、してるのか?もし、しているなら…」
『俺を殺せ』
『殺して、与えた翅を取り戻せ』
貴方の言いたいことなんて、簡単に解かる。
「後悔なんて、していないわ」
そう、そんなもの、していない。
だって。
私は。
「約束された未来より、貴方が欲しいから」
怪我をしていた貴方に惹かれた。
血で汚れていたけど
空を見上げる目は綺麗で。
「私、消えたくない。貴方といたい」
私の季節はもう終わりだけど。
私は消えてしまうけど。
せめて
貴方の腕の中で、雪が見たい。
「なぁ、お前の翅は俺が持っているんだろう?」
「そうよ」
貴方の傷を治すため。
甦る力を秘めている翅を、使ったから。
「俺が生きていれば、お前、甦れるんじゃないか?」
「……………」
時が、止まった気がした。あぁ、そうかもしれない。
どうして、気が付かなかったんだろう。
私の翅は消えたわけじゃない。
貴方の中にある。
それなら。
もしかしたら。
「甦って来い」
とても暖かい声。
「待っていてやるから、俺のところに甦って来い」
本当に、そんなことが可能なのかはわからない。
でも、貴方がそうしろと言うなら。
貴方が私を待っていてくれるなら。
「貴方の傍に、甦るわ。絶対に」
だから。
待っていて。
きっと。
見つけるから。
私の翅を持つ貴方を。
「あ…」
ひらひら
ひらひら
空から。
白くて。
冷たくて。
汚れのない。
氷の結晶。
「雪」
見れた。
やっと、見れた。
初めて見る雪はとても綺麗で。
とても冷たくて。
『雪を見たい』
その願いは叶ったけど。
私はもうここにはいられない。
涙が流れた。
雪を見れた嬉しさと。
その美しさへの感動と。
貴方ともういられない哀しさが。
すべて混じった涙。
「あ」
体が透けていく。
「待っててやる」
不安になって、貴方の顔を見つめる。
「俺はここにいる」
優しい笑みを私にくれた。
「だから、お前も、必ず甦って来い」
優しい口付けを、くれた。
ひらひら
ひらひら
雪が舞う。
さらさら
さらさら
彩をなくした
純白の蝶。
さらさら
さらさら
雪とともに、男の腕の中で。
崩れていった。
その
崩れていく様は
とても綺麗で儚くて。
雪の白なのか
蝶の白なのか
わからない程
どちらも清らかで。
「待っててやる」
自分のてのひらの中に残る蝶の粉。
「待っててやる」
蝶の翅を持った男は静かに雪の降る空を見上げた。
「ねぇ、その人はどうなったの?ちゃんと、蝶に会えたの?」
昔話を終えた青年の服を掴み、少女は続きを強請る。
「さぁ、どうだろうね」
少女を抱き寄せ、青年は穏やかに微笑む。
「今でも、蝶のことを、待ってるの?」
顔を上げ、青年の顔を覗き込む。
「…貴方が『貴方』なの?」
「もし、そうだったらどうしようか?」
青年の言葉に少女が頬を膨らませる。
「嫌よ。貴方が『貴方』なら、私は蝶じゃないから、貴方と一緒にいられないもの」
昔話の男が待っているのは自分に翅を与えた蝶のことだけ。
「あぁ、そうだね。僕があの男なら、ずっと蝶を待っていなきゃ駄目だね。僕も嫌だな。君といられないのは」
少女の頭をゆっくりと撫でる。
漆黒の髪はさらさらと少女の肩から零れ落ちる。
「それに、貴方があのお話の男の人なら、私は蝶が羨ましいわ」
「どうして?」
「だって、私は、貴方の顔、見れないもの。蝶だけが、貴方の顔を見て、私が見れないなんて、ずるいわ」
生を受けたその瞬間から、少女は暗闇の中にいる。
この世界にたくさんの彩があることを、少女は知らない。
「蝶は男の顔を見ることが出来たけど、消えてしまった。でも、君は僕の顔を見ることは出来ないけど、ずっと僕の傍にいてくれる。僕としては傍にいてくれる方が嬉しいけどね」
青年は、少女に口付ける。
「ずっと、僕の傍にいて欲しい」
それは。
とても。
とても。
大切な
コトバ。
光を失って、生まれてきた少女は
艶やかに
それは
それは
艶やかに
微笑んで。
「貴方の傍にいるわ。だって、私はその為に」
ここにいるのだから。
ひらひら
ひらひら
漆黒と深緑の美しい翅を持つ蝶は
その美しい翅を
たった一人の男に与え、
雪とともに消えた。
美しい翅を与えられた男は
その翅を体の中で生かし続け、
蝶との再開を待ち続け、
今。
漆黒と
深緑の目で。
翅を失くした蝶を
大切に
大切に
愛で。
全てから守り。
幸せに
幸せに・・・
NOVEL