花夜
―…ずっと一緒に、いたかった
「兄さん、どうしたの?」
突然立ち止まった兄に、弟のアルフォンスが声をかける。
「―…あ、いや…」
金の髪が、暮れかかった日を浴びて鮮やかに光る。
エドは狭い路地の方へ向けていた視線をふい、と戻して、弟に向き直った。
「花が…」
兄が見ていた方向にアルも視線を動かす。
「花?」
そこには何も見つけることができなくて、兄と同じ場所まで戻ってみる。
「花なんか、ないじゃない」
あるのは、路地の向こうの、枯れかけた木だけ。
「…そう、か…」
どこか呆然とした響きを持つ声に、兄の顔を覗き込む。
表情はないけれど心配そうな雰囲気の弟に、苦笑いながら心配無用、と言ってみせた。
「疲れてたんだな、きっと」
寝ずの調査が続いていた。
やっと一段落したので、今日はゆっくり寝られるはずだ。
「行こう」
まだ心配そうにする弟を促して歩き出す。
気のせいだ。
気の、せい。
…一輪の、白い、小さな花を、見た気がした…。
『イシュバールに行くことになった』
『え…?』
『いつ帰ってくるかは、わからない』
『そんな…っ』
『俺は軍人だ。軍の命令には、逆らえない』
『そんな、ずっと一緒にいるって…っ』
『俺のことは、忘れてくれ』
『ゼノ!』
『お前は、幸せになれよ』
『ゼノ!』
『俺の、分まで………』
『ゼノ!!!』
―…ずっと一緒に、いたかった…
「!!!」
夜中に、目を覚ました。
心臓が痛いほど早く打っている。呼吸が乱れて、うまく息を吸えない。
「エド、どうした…?」
深い男の声が聞こえた。
隣に眠っていたはずの、ロイ・マスタング。
「…っ」
声を聞いた途端、視界が曇った。
「エド?」
優しい声に、わけも分からず涙が零れてその広い胸にしがみついた。
「怖い夢でも、みたのか…?」
わからない。
わけもなく感情が溢れ出す。
「ロイ…っ」
悲しい。
寂しい。
「ロイっ」
涙が止まらない。
「行かないで…っ」
無意識に言葉が流れ出る。
「行かないでっ」
必死に胸に縋り付くと、力強い腕がエドの躰を抱き締める。
「行かないよ」
行かない。ずっと、側にいる。
優しい手が、髪を撫でる。
繰り返されると、あれほどうるさかった心臓の音が、静まっていく。
「どこにも、行かない」
「ロイ…」
だから安心して、眠りなさい。
「ろ…い…」
最後に聞いた声は、愛しい男の声。
「俺が?」
「そう。覚えていないかい?」
コーヒーを片手に首を傾げる。
「一体どんな夢を見ていたのかと思って」
と、言われても、夢の内容も、夜中にうなされて目をさましたことも、記憶にはない。
「行かないで、って、君は泣いていたんだよ」
行かないで。
行かないで。
「…分からない。…だけど、なんか…」
「?」
「すごく、悲しかった…」
この気持ちはそう、あの、白い花に似ている。
それは、大切な人との、守れなかった約束。
それから、繰り返しその夢を見ている。
躰は疲れ切っていて眠りの波はすぐくるのに、警告のようにその夢は毎夜エドに何かを語りかける。
昼寝をしていても。ロイの隣で眠っても。
「最近、ちゃんと寝ていないだろう」
さすがに見咎められてロイに注意された。
「俺だって、寝たいんだよ。だけど、あの夢が…」
「夢?」
「大好きな人が、遠くへいってしまう夢」
最初のうちは記憶に留められなかったそれも、何度も見るうち、形となって残るようになってきた。
「大好きなって…私か?」
「違うよ」
ガンっとショックを受けた上司に、苦笑いをみせる。
「違うんだけど…そうなような気もするし…」
「私以外に、大切な人が?」
いじけた顔で、大の大人が迫ってくる。
「そうじゃなくて…なんか…俺じゃない誰かが…」
キスしようとする顔を手で押しのけて、エドは考え込んだ。
「何か、手がかりはないのか?」
「手がかり?」
「そんな夢を見るようになった、きっかけだよ」
このままじゃ、君の躰が持たないだろう?
「きっかけ…かぁ…」
瞼に残る、白い花…
「花が…」
「花?」
はっとして、エドは椅子から立ち上がった。
「花だ」
「おい、エド、何処へ!?」
あの場所へ行けば、何か分かるかもしれない。
「エド!?」
白い花をみた、あの場所へ。
枯れた、大きな木があった。
茶色い幹に、所々白く汚れたところがあって、その命が残り短いことを知る。
この枯れかけた木に、一輪だけ花が咲いていた。
「でも…」
おおよそ、花が咲くようには見えない。
寿命か、環境の変化か。この木はもうじき死ぬ。
「おや、誰かな?」
嗄れた声に、エドは振り向いた。
優しい顔立ちをした老婆。
「えっと…」
「この木に、何か用かね」
「何年前だったかな、この木が急に枯れ始めたのは…」
細い目を更に細めて、老婆は枯れ木を見上げた。
「ほれ、そこに小さな家の跡があるだろう」
指さした先にあったのは、朽ち果てた家屋の跡。
ほとんどが瓦礫となってはいたが、黒い煤の間に見えるペンキから、赤い屋根だったことがわかる。
「そこにね、若い恋人同士が住んでいたんだよ」
決して裕福とは言えなかった暮らし。下級の軍人だった男と、病弱だった娘。
まだ夫婦ではなかった。娘の親の猛反対に遭い、しかしその親も男の情熱に負けた。
祝言の日は、決まっていた。
「しかし、二人が結ばれることはなかったよ」
「どうして…」
「イシュバールの殲滅戦さ」
は、と顔を上げる。
七年に及ぶ攻防戦、そして
国家錬金術師を投入しての殲滅戦。民間人にも、軍人にも、多くの犠牲者が出た。
男は軍人だった。徴集され、逆らうことはできなかった。
『イシュバールに行くことになった』
『え…?』
『いつ帰ってくるかは、わからない』
『そんな…っ』
『俺は軍人だ。軍の命令には、逆らえない』
『そんな、ずっと一緒にいるって…っ』
『俺のことは、忘れてくれ』
『ゼノ!』
『お前は、幸せになれよ』
『ゼノ!』
『俺の、分まで………』
『ゼノ!!!』
「それきり、男は帰ってこなかった」
よくある話さ、と老婆は寂しげに笑ってみせた。
「その恋人の話と、この木と、一体何の関係が…?」
「焦るものじゃないよ、お若いの」
老婆は語り続ける。
二人が出逢ったのは、この木の下だった。告白も、プロポーズの言葉も、別れの言葉も、この木の下。
だから娘は待った。この木の下で。
いつか迎えに来てくれる。
また一緒に暮らせる日が来る。
娘は待った。待ちに待った。
「そして死んだよ」
病死だった。もともと体の弱かったその娘は、流行が去ったはずの流行病で亡くなってしまった。
精神的にも弱り、衰弱した体を、病が蝕んだのだ。
「……」
エドは黙ったまま。
確かに、よくある話だ。あの頃は、そうやって引き裂かれる恋人も少なくなかったのだろう。
しかし、それだけで済ませられない感情が、エドの中にある。
「それからだよ。この木が枯れていったのは」
魂を亡くしてしまったように。主を失ったように。
「もうじき、この木も枯れる」
淡々と語りつつも、老婆の声は深い悲しみに満ちている。
「忘れられてしまうのは、悲しいねぇ…」
「ばあさん、その男の名前、もしかしてゼノっていうんじゃないか?」
言うと、老婆の目が驚愕に見開かれた。
「そう、そうだよ。ゼノ・マートス」
私の孫のようなものさ。
嬉しそうに老婆が言った言葉に、エドはくるりと方向転換する。
「?どうしたね」
怪訝な声を背に、エドは元来た道を再び走っていく。
「調べて欲しいんだ。ゼノ・マートスって男のこと!」
「何だね急に、それは一体誰だ?」
ノックもせずに大佐の執務室に押し入ると、開口一番そう叫んだ。
「何年か前にイシュバールで死んだ軍人だよ!この街出身だからすぐ分かるはずだ!」
「それはいいが、まず説明してくれないか。私には何の話だかさっぱり…」
鬼気迫る表情のエドにロイは恐る恐るお伺いを立てる。
しかし、今の状況でそんな余裕はない。
「説明してる時間はないんだ!早く!」
「あ、あぁ…」
「つまりは、どうしたいんだ?」
「そんなん分かんねーよ!」
二人で手分けして書物を漁りつつ、大体の経緯を語り終えると、ロイのウンザリした声が待っていた。
「あぁ、これだ」
溜息と共に書類を突き出すと、エドが素早く奪い去った。
「………」
「遺族がいない、ってどうゆうことだ? あのばあさんは本当のばあさんじゃないのか?」
『孫のようなものさ』
確かに、実の祖母とは言っていなかった。
「妻になるはずだった女性も、届けが行く前に死んでしまったらしいから、この遺物も引き取り手がなかったようだな」
目の前に置かれた写真とゼノとやらが最期に来ていた軍服を交互に見つめる。
どうやら、戦地まで写真を持って行ったようだ。
「あの時期、こうやって死ぬ連中は少なくなかった。君が哀れに思うのも分かるが、だからといって今更どうしようも…」
「んなこた分かってんだよ!」
「………はぁ…」
強情なエドに、知らず溜息が漏れる。
自分の愛しい人は、かなりの強情っ張りだ。
今更こんなことをしても誰も救えないとは思うのだが、一生懸命な彼の姿に『もうやめろ』とも言い出せない状態である。
「…分かった。君が満足するまで付き合おう」
「え?」
きょとん、とした顔を見つめて、軽くウインクしてみせる。
「いつまでも他の男のことに、君の気を取られているわけにもいかないのでね」
これが片づいたら、ちゃんと私の腕の中に戻ってくるのだよ、エド。
自分の存在を誇示するように、掠めるだけのキスを奪う。
「さぁ、早く片づけようか」
まず、何をすればいいんだい?
職権乱用とも言われかねない手段で彼の遺物を持ち出し、彼らが来たのはあの木の下だ。
「ずいぶん寂しい木だな」
初めて見た日から、ずいぶん弱っているように感じる。
もう、幾日もないのかもしれない。
「おや、また来たね」
先程の老婆が杖を片手に近付いてくる。年のせいか、足下がおぼつかない。
「ばあさん、その、死んだ女の人の墓ってどこにある?」
死ぬ前に再会できなかったのなら、せめて土の中でも会わせてやりたい。
「そこだよ」
「え?」
老婆が指し示したところには、枯れかけた木しかない。
「そこが、彼女の墓さ」
死んだ彼女の肉体を、この木の下に埋めた。
墓を作って別の場所に埋めるよりも、この場所にいたほうが幸せだと家族は考えたらしい。
ならば、なぜ彼の遺物を受け取らなかったのか。
「両親は許せなかったんだろうねぇ、娘を幸せにすると言って、できなかった男を…」
エドの心中を見透かしたように、老婆が呟く。
「その男も、無念だったろうな」
苦い顔でロイも呟く。顔も知らないとはいえ、共に闘った同士であることに変わりはない。
「埋めるか」
それで、二人の気が晴れるかは分からない。
自己満足といわれても仕方ない。
でも
「あぁ」
荷物をロイに預ける。
パン、と両の手を合わせて、地面へ手を付いた。
木の根を傷つけないように、慎重に穴を開けていく。
「?」
最初に気付いたのは、ロイだった。
「あのご老人…」
つい先程まですぐ側に立っていた筈の老婆が、姿を消していた。唐突に。気配もなく。
何か、様子がおかしい。
「おい、鋼の…」
声をかけようとして、異変に気付く。
錬成反応の青い光の他に、淡い、白い光が広がってくる。
「何だ…?」
白い、白い光が、影も作らず溢れる。
木の根本に膝をつくエドが、光に飲み込まれた。
「エド!」
必死に手を伸ばすが、何か不思議な圧力に押しつぶされているように、躰が動かない。
「エド!」
ついにロイの躰まで飲み込んで、光は更に増幅していく。
頭の中まで白い光で覆われて、ロイは気を失った。
花が、咲いている。
小さくて、白い花。
「ずっと一緒に、いたかった…」
霞む視界の先に、散り始めた花びらが舞っている。
もう、長くない。
自分の躰のことは自分で分かる。
足下から力が抜けて、地面に倒れ込んだ。
不思議と、痛くない。
こんな時でも、あの花は変わらず綺麗で切ない。
地面の花弁を掴もうとしたが、もう腕が上がらない。
死ぬ、のだろう。
遠い所へ行ってしまった彼は、どうしただろう。
私を残して、今どうしているのだろう。
遠く離れた戦場で、どんな思いをしているのか。
会いたい。
一目、会いたい。
でも、霞む視界が更に滲んで、もう白しか映らない。
「ゼノ…」
愛しい人の名前を、そっと呟く。
せめてこの白に溶けてしまえたら、心だけであなたを待っていられる…?
死にたくない。
死にたくない。
彼が帰ったときに、私が死んでいたら、彼は悲しむ。
私が彼を置いていってしまう。
あんな冷たい別れの言葉を残して、でも彼はとても寂しがりやだから…
私は知ってる。
あなたはいつも私の幸せだけを望んで…
死にたくないの。
多くを望んだわけじゃない。
ただ一握りの幸せを…
ほんの少しの幸せを、あなたと二人で、分け合いたかった。
ただ
「ずっと、いっしょに…」
もう、もう何も見えない…
「ただいま」
あなたの、声がする。
ちょっと固い感じのする、優しい声。
「ゼノ…」
夢じゃ、ない?
帰って、来たのね。
私達、また逢えたのね…。
私、ずっと待っていたのよ。
ふわりと、彼が私を抱き締める。
「リア…」
耳元で、私の名を呼ぶ…。
あぁ、本当に、あなたは帰ってきた…。
「ここで、祝言をあげよう…」
君と出逢った、この木の下で。
「ロマンチックな教会じゃないけど…」
「いいえ…いいえ、この木の下で…」
私達を見守ってきた、この木の下で…。
「結婚しよう、リア」
もう、独りにさせないから…
花が、咲いている。
白い、白い花が、狂ったように咲き乱れている。
「エド…大丈夫か…?」
深い声。
大好きな、大好きな人の声。
「ロイ…」
涙が、零れた。
気を失っていたらしい。
倒れた躰を、ロイが抱き締めてくれていた。
「エド…」
「ちゃんと…逢えた…」
幸せそうな二人が、残像のように心の奥に残っている。
「…ちゃんと、逢えたよな…」
涙が次々と溢れてくる。
「逢えたさ…」
先程まで朽ちかけていた木が、満開の花を咲かせている。
二人を祝うように、死の前に咲き誇っていた。
『ありがとうよ、お若いの』
頭に直接響くような、嗄れた声。
「あのばあさん…」
そんな非現実的なこと、信じる訳じゃないけど…。
『ありがとう』
慈愛に満ちたその声に、不覚にもまた涙が零れた。
次の日、もう一度そこを訪れると、花は嘘のように消え、木は枯れ果てていた。
まるで、もう未練はないと、そう言っているように…。
あの時、どうして、枯れた木があそこまで花を咲かせたのか、理由は分からない。
リアの心と木の心が同調して、エドの錬成の力と併合したのかもしれない。
どの解釈も、推察の域を出ないが。
『忘れられてしまうのは、悲しいねぇ…』
「忘れねーよ」
「ん?」
何事か呟いたエドに、ロイが首を傾げる。
「…なんでもない」
忘れない。
忘れないから。
あの時見た、見事に咲き誇ったこの木の姿を、一生忘れることはないだろう。
―…これからは、ずっと、一緒に…
END
novel